嬉しい事や、楽しい夢や、喜ばしい日に思い浮かべる一番があなたであるように。
 悲しい時や、苦しい幻や、おそろしさに苛まれ帰りたくなる処があなたであるように。
 アタシもそう、なりたかった。


 U−6 常世の長鳴き鳥もまだ、眠る。


「へぇー、ほぉー、ふぅーん、はぁー。」
 別段聞いて欲しい話という訳でもなかったがこうも生返事ばかりでは怒鳴り散らしたくもなるというもの。極く一般的な常識に乗っ取りツェンバーはその聞き下手な藪医者の脳天に肘鉄をくれてやる。
「僕の方が診察必要になったらどうすんのさ。」
 骨という骨を震撼させたかのような奇妙な響き方の音色と共に崩れ落ちたシャードは、接触時の衝撃から想像するだけでも半日は寝込んだって文句が出ない攻撃から相も変わらずの神速で復活し、ちょっと鉄拳を食らいましたとでも言わんばかり頭頂部を撫でさすった。
「人の話を聞く礼儀というものを処方してやっただけだ。」
「まったまた〜、いつも人の話聞かないのはツェンバーちゃんの方じゃない。何かっていうと僕やハリカラを引っ張り出して対マニアの楯にしてるじゃん?」
 全くの正論にぐぅ、の音で詰まる困った表情へ鼻先を突きつけ、シャードはより笑みを深めた。
「ま、こぉんな僕でもツェンバーちゃんが頼りにしてくれるっていうなら医者でも楯でもやりますけどねー♪」
 にやにや。上機嫌に目尻を下げる様が優位を物語っている。
 捲くし立てて返してやりたいが、近頃は売り言葉を返す程にやたら高い値で買いつけられる、即ち口論で勝てそうな気がしない現実を理解し出しているツェンバーにしてみれば、ここで屈する恥よりも、更に更に続ける事により倍々ゲームで増えていく辱めの上塗りが毒性高しと判断。眉間に思いっきり皺を寄せて、それでも閉口した。
「それにしても面白いなぁ。目玉もそうだけどね、やっぱり竜の血っていうのはまだまだ研究の至らぬ神秘だなぁと。」
 床に沈めるまでそうしていたようにシャードは再びツェンバーの右腕を取ると、繁々と眺めながら角度を変えてみたり撫で回してみたり機械を取りつけてみたりと、様々に弄繰り回す。その割に手つきは艶めかしくあくまで恭しげに扱うものだから、罵倒するならば対セクハラへの用語になってしまう。
 診療の範囲内で如何にエロスに至れるか、なんてこの男ならやりかねない、やりかねないが医療行為そのものに触れる機会があまり無かったツェンバーにしてみれば、これが適正な診察か否か考えあぐねていた。
「さっき抜いた血の検査結果は直ぐには出ないからねぇ。嗚呼、時間が惜しいや。」
 無駄口を叩く割にてきぱきと、ツェンバーには理解出来ないが何かしらを行ない続けている姿は、新しいゲームに御執心な子供のそれ。
 何ゆえにこの事態に至ったかという説明を、具体的な状況も相手方の名前も出ては来ず、ドカッ、だのベキッ、だの擬音だらけのけったいなものの上、本人も大して身を入れないというマイナス点を考慮しなくとも、聞く態勢にははなから無い。
「ねぇ、ここは一つ、手っ取り早く何が起きたか何が起きてるかを調べる方法を取らないかい?」
 麻痺した右腕を掴むシャードの熱が異様に高まっている事に気がついた次は、鼻息の荒さが目立った。匂い、空気、雰囲気、なんでもいい、そうした類いが色味を変えて、怪しい藪医者から、ツェンバーが大の苦手とするあの類いに移行している。
 今や捕らえているといっても過言ではない、拘束された獲物を目がけて、空いた片手にはメスが握られ、上気した頬まで上がった口角は非常に友好的な笑みを携えている筈なのに薄気味悪いプレッシャーが付き纏う。
「大丈夫だよ、僕って腕がいい事で有名なんだから、解剖した事すらわからなくなっちゃうくらい綺麗に切り刻むからぁ!」
「黙れ変態マッドサイエンティストォォォ!!!!」
 躯の芯が感じた震えに従い、がむしゃらに繰り出し引き抜き振り上げ振り下ろす乱暴な足技は所構わず兎に角何処かにヒットすればいいとしたたかシャードを蹴り続けた。麻痺も拘束もない無事な左腕も振り回しては、肉が肉を引っ叩く音が三度四度五度、幾度と無く生まれ鳴り止まない。
 するり、シャードの躯が暴虐に耐えかね傾ぐに合わせ自らの手が解放されていく事も、皮膚の感覚が遮断されたツェンバーには知る由も無く、シャードが地に伏すまで駄々をこねているかのように暴れる事をやめなかった。
 ぁっ、はぁっ、はっ。
 浅くなった呼吸は一瞬でも失った我を恥じさせたが、同時に取り戻してゆく感性に、それらが塗り潰されていたのは恐怖にだと思い知らされる。

 これじゃまるで何かをおそれているようじゃないか。

 自問自答が、不可解だった。自らの胸中で唱えた言葉の意味が、己で生んだ台詞だというのに計りかねていた。相変わらず右の肘から先はすっぽ抜けたかのように何も感じない。
 むっくり、寝起きのような鈍重さで大の字から身を起こしたシャードは、腫れた頬に切れた瞼で顔面に朱の化粧を施しながら、やはりなんでもなかったかのようににへらと笑って、よっこいしょの掛け声で立ち上がり、数秒前と同じように健診を再開した。
「………お前って。マジで何?」
 反射的な情動だからこそ大した抑制の効かない暴力にも、めげるどころかワンコーナーを終えましたとでもいう体の身のこなしに、薄ら寒そうツェンバーが畏怖のような畏敬のような視線を送ると、シャードは元々の線目を深めて、それでも先程のように私欲混じりの邪悪さを全面には出さずに、微笑んだ。
「君の救世主さ。」



「兎に角ね。永続的じゃなくて、一時的なものだっていうのは間違いないかなと。」
 患部への興味は尽きないだろうが本日は肉体がもう流石に限度なのやも知れない、問診から得た彼是をカルテに書き出しながら茶化す事もからかう事も無く端的な結果論だけを告げた。
「詳しい検査結果とやらはまだ先なんだろ?」
「まぁそういう意味では。勘だけのデータでよければ太鼓判が押せる、ってだけ。」
「勘ってデータ呼ばわりするのか……?」
 勘というワードをツェンバーがあからさまに馬鹿にしている態度を感じ取って、机から顔を上げるとシャードはちちちと指を振りながら。
「経験則って大事なデータさ。生物の頭脳が搭載する計算機を侮るならば、今日まで至る人の繁栄も全て嘲笑わなければならない。」
「あ、なんか面倒臭そうな範囲の話っぽいからいい。」
 敏感に、またくどくどと訳の判らない領域の話を再開されるのだろう先と同等のマニア臭を嗅ぎつけ拒絶する様子にシャードは、始めこそくつくつ噛み殺していたが結局堪えきれず声を出して笑った。
「そんなツェンバーちゃんには悪いけど、まぁ自分の症状くらいは聞いてってくれる? なるべく簡潔にするからさ。」
「お前が把握してりゃ充分なんじゃねぇのかよ。専属の医者なんだろ。」
「ほっほぅ、随分な信頼を得られて感謝感激。しかしだ、医者ってのは治す意思のある患者あってこそ成り立つのであって、現状把握する気の無い怠惰な奴を患者とは呼ばなーい。」
 愚かな執事や従者や下僕のようにただ付き従い命令を聞くだけかと思いきや、何かしらのルールは確かにシャードの中で存在しているらしい。そんな発見に気を抜いている間に、かなりざっくばらんな説明が始まる。
「多分液体が、強烈な酸みたいなので皮膚組織を溶解する役目なのね。それでこの目玉っていうのが、」
 ツェンバーはどうせ山のようにあるのだからと拝借した瓶詰めを、治療の参考になるかとサンプルに差し出した。二、三のピンセットを犠牲にしながら耐久性のある素材を発見したシャードにより抓み上げた目玉は、わざわざ瞳孔を探し当てては見つめられ見つめ合わされて、どんな誰の眼球(もの)だったかは知らないが何処となく気の毒さを覚える。
「んー、んー、そうね、ガスとか噴射してると思えばいいよ。元から強力なのに、手薄になった防御に攻め込むっていう戦法を液体とセットになって組んでくる訳だから、より厄介な組み合わせだよね。」
 説明冒頭の通り、ツェンバーが飽きや嫌気に任せて投げ遣りにならないよう、レベルを落とした解説はツッコミどころはあるが、要は何が起きたかを把握すればよいというシャードの見解からすれば妥当なバランスを保っていた。これ以上どちらに傾いても、聞かなくなるか聞いても判らなくなるか。
 そうした微妙な舵取りの上手さは、おそらく今に始まった事ではない。短い間ながらこの街の誰よりもツェンバーの猛攻を受けているであろう肉体は過度にタフネスであるともいえるが、所謂受身の上手なタイプで、ダメージを軽減しながらも此方が如何にもよけられた、食らわなかった、と思わない程度の位置にいる。逃亡も可能でありながら、演技も混ぜてわざと少しだけ痛みを負っている。
 そう、態々怒られるようなもの言いで、よけられる怒りを敢えて少しだけ受けて、そして立ち上がりへらへらと恙無く笑う。
 実に馬鹿馬鹿しい話だが、空気を読むのはぶち壊す為、という奇妙奇天烈そして迷惑極まりない、最悪の部類。
「僕ぁ専門じゃないけど、何度か似た系統の症状を診た事はあるよ。エファルからはちょっち遠いところだけどね、こーいうのが盛んな場所があった。」
「今時黒魔術だのなんだのって、取り締まり対象じゃなかったか?」
「んっふふ、土着宗教は簡単には振り払えず、アンダーグラウンドでの活動はいつの時代も絶えないものさ。信仰と崇拝は人の最も深奥に潜み異常に繁殖、根づく。」
 言葉の端々に、シャードの世界観が窺えた。幼い頃よりこのエファルに飛び込んでいたツェンバーにとでは大幅に違って当たり前とはいえ、ここではない見知らぬ土地で過ごして来たであろう何年が蓄積された、話の向こうに連なっているであろう景色は想像の及ばぬ未開の境地、そこから齎されるのはまさにシャードのみが保持する体験談と経験則。
 小さな世界で、狭い世界観で、その中にしか生きない身には、詰まされるような、焦がされるような。
「まぁいい、兎に角アタシはちょっと古風な細工で痛い目に遭ったと。で、それがこのエファルで手に出来そうなのは、」
「ツェンバーちゃんが追ってたヘブライさん付近の人なんか如何にも怪しいですって言わんばかりだよねぇ、こんだけ露骨でいいのかなってくらい。」
 いつぞやの深夜、邪魔された記憶が蘇る。結果的にはというのか最終的にはというのか手伝われていたが、現状のあまりのツーカーぶりに、やはり始めから尾行の目的を知っていて、あわよくば恩を売る為に現れたのは間違いない。その計算通りに、ツェンバーは慣れない追跡に緊張をすり減らす事無く、まるでいつも通りですという身振りで情報をあっさり掴め、なんならシャードを見直してしまったのだから、全く以てこの男は。
「現場を割と荒らしっ放しにして来たのが不安なんだっけ?」
「あ? 嗚呼、なんだお前結局聞いてたのかよ人の話……」
 生返事に次ぐ生返事に業を煮やした鉄槌だったというのに、しっかり耳に情報が残っているのならば、あの肘鉄はなんだったというのか。ただの暴走か、さもなくばまるで、興味を持って貰えていない節への拗ねではないか。
 思い至った許し難い選択肢にツェンバーは身悶えしながら右腕を振ると、野球のバッドかさもなくばゴルフのクラブ宛らのスイングで打ち出された診察台の枕がとても布製とは思えない威力と弾道でもって、カルテを完成させ息を抜きながら上げた顔にクリーンヒットした。
 石を中心に込めた雪玉の如き反則的な威力を持つ枕の、あまりのど真ん中具合に、ツェンバーが一人で勝手に考え勝手に屈辱を感じたにしろ、つい先刻のシャード受身論が早くも放棄されそうになる。
「聞いてても聞いてなくても怒るんじゃんよ!」
 そんな深夜の診療所は、隣で今夜も賑々しく繁盛している呑み屋シュリオンよりは静かに、しかしいつもよりは確実に、騒々しく華やいでいた。



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