空は紺碧が一切覗かず。
風は澱み腐り濁り滞り蟠り。
地は枯れ果て不足しきり。
世界は、死を迎えようとしていた。
暗黒鈍色 アナテマ
だだっ広いだけの裾野からは、あらゆる命という命が消え失せた。
嘗ては緑が彩っていた山肌は焦げたように茶色が支配して、ひたすらに荒々しく。野も同様に、総てが焼き払われたよう、礫すら転がる事無く、乾いた大地が続くのみ。
その荒れ野に、たった一つだけ、命が在る。
草木はおろか岩陰も隆起さえ一つ無い、地平線と同化する平らな平らな地面に蹲って。
膝を抱え俯く少女は、死の平原へまた一人、命がやって来た事を知るや顔を上げ、険しく固まる目つきのまま、その命を睨んだ。
あどけなさを残す柔らかそうな顔からの鋭い攻撃に、訪問客は足を止めない。
「私は、寂しいんだって。誰かが言っていた。でも、その意味すらわからないの。」
表情とは裏腹にか弱い声が鳴いて。
「頼む、死んでくれ。」
すぐ傍まで来た男は、返す刀の刃を見せるだけ。
固定された睨みはそれ以上強まる事無く、弱まる事も無く。
不吉な願いが、当たり前であるかのように聞き流しては、物憂げなため息が退屈を告げた。
「これで何人目だろう。」
出会い頭に頼み込まれた死。不躾で、無遠慮な、死。
三桁を越えたと落ち込んだ日がもう随分と遠くに思え、その願いは悉く打ち砕かれた。
それはつまり彼女に頼み込んだ者達の命こそが捧げられた勝敗、そしてまた同じ末路をこの命が辿るだけなのかと思えばこそ、少女は瞳を閉じた。
「判るだろう。きっとこれまで誰もが口にした事だろうが、敢て口上を述べさせて貰うならば、君が生きているが為、この世は滅びに向かっているのだ。」
そう、それも、何度も繰り返された言葉。
「みんながそう云うって事は、きっと、その通りなんだろうね。」
確かな証拠がなければ、疲弊した時代にわざわざ生命のいない最先端へ足を運ぶ理由が無い。
だけど。
「私、一度も望んだ事なんて無い。命が、世界が滅べだなんて、そんな事。今も。」
「君の望む望まないではない。生きているという、それだけで。」
それは、少女の所為でもあり、
決して、少女の所為ではない。
「今この世に生きる命は、誰もが。明日への希望を失い、焼きついた昨日から迫る絶望の中で、今日を過ごしている。」
「私一人の、一つの命で救われる世があるなら、従えと。そうでしょう、そうよね。」
だって、それもこれも、何度も言われ尽くした。
「ふざけんなよっ!!」
甲高くは無い、張り上げた声が空間全土に響き渡る。乾いた大地に染み込んで、吹かぬ風を切り裂いて、されど天空の扉は開かれない。
激昂する少女は、別に不可思議な力を発するでも無く、夢のような魔性を見せつけもしない。
ただ、其処に、生きて、いるだけ。
そしてそれだけで、世界は滅ぼうとしている。
まるで蝕む、病原菌。
「私も、絶望に喘いでいる。だけど、希望があるんじゃないかって、生きている。何が違うって云うの!!」
涙は、湛えない。
そんな事に費やせる水分はとうに枯れ果て、進化の過程で削除されていく。
総ては生きる為に、身体は精神までをも従え。
それだけの、時が流れた。
悠久の、世界に。
「いつか、正体を見つけるよ。何故そうなってしまうのか、何ゆえ君が死ななければならないのか、必ず実態を掴み、答えを出してみせる。」
どのような道程で、どれだけの風雨に曝されたのか、襤褸切れと化したローブに身を包んだ男は、きっと彼も喉が渇いているのだろう、水が貴重になった世界では誰もががらがらの声で、擦り切れたように嘆願する。
「だけどそのいつかに、私はいないんでしょう? もう、だって、死ななくちゃ訪れないいつかだもの。」
「二の舞を踏みなんてしない。もう二度と、地獄を写した世にはしない。約束する。」
何処にも根拠なんて無い。
だって事象の理由も判らない。
渾然と横たわる真実は、少女の死が破滅を救う、それだけ。
歴然と知らしめる答えは、少女の生が破滅を導く、それだけ。
たった、それだけ。
「だから今は、死んでくれ。」
なんて自分勝手な願いだろう。
生物そのもののエゴに殺される、命。
光と光が閃いて、命と命がぶつかりあって、刹那の間に生まれた瞬間、殺し合いは生者と死者を創る。
それまでやって来た大勢は、皆この無常の大地で死んだ。
やはり、別段少女が特殊な力を行使した気配も覚えもない。
だが、少女の死を願い訪れる者を排除せんと少女が意識した瞬間、世の姿と同じく等しい死が向かえた。
だからこそ、彼女は世界を滅ぼす者。
しかし、何百人目かの男は、今も痩せた地の上に高らかに立っている。
つまり今、土に身を横たえているのは、誰?
容易く、虫の息。
少女の死が、世界を救う。
少女の世界が、安息を壊す。
何処にその方程式が転がっているのか、知りもしないがその真理に辿り着いた、一握の者の中から更にようやっと大地を踏みしめた者。
数少なが散った更地に、散る命、また一つ。
「やだよ……。なんで? なんで、私、死ななくっちゃいけないの。」
生から解放され死へと向かう躯が、心を許す。
何年振りなのだろう。流される涙。最早留め置く必要は無い。
後はもう、死ぬだけなのだから。
「私だって、生きていたい。それだけしか、思ってないのに。」
泣きながら、生を望み。
「なんでそんな、私が死んだらみんなが生きられる世界になるの。だって誰も、知らない事でしょう?」
泣きながら、世を呪い。
「――――っんで、なんで、私が生きてると……世界は駄目になっちゃうんだろうなぁ。」
泣きながら、己を悲観す。
だが、たった一つだけ違う事も自覚していた。
それまで殺意をいだきやって来た者を悉く撃破しては、色濃く憎しみが舞い踊っていた、心。
不思議な程に、静かに、穏やかな。
眼前の、今まさに自分を殺し、その死を看取ろうという、男にだけ。
いだかなかったおどろおどろしい感情が、そんな自分が、少しだけ。
死を望まれるようになってから始めて、いとおしく思える瞬間。
「君のような報われぬ命が無くなるよう、努力するから。安心してお逝き。」
着飾られたのは、憐憫。それでも構わなかった。
これまでの総勢全てが、立ち向かっては相対した互いの殺意という感情。
唯一この男だけが、哀れみを潜ませて、歩み寄りを持ってくれた事。
たった、それだけは、
少女の旅路に光を灯す。
摂理の意味は知らずと、真実であるという核心。
生きる限り世界を滅ぼす存在でしかない少女は、人の使者を殺め続けた歴史の割に存外あっさりと死の使者に平伏す。
もうそこにあるのは、ただの少女の屍。
触れる事無く男は立ち上がり、胸に上る思いは。
「ようやく平和が訪れた! 俺が、悪魔からこの世を救ったのだ!」
悪魔を打ち倒した勇者の昂揚。
「本当に、二度とこんな事が無いよう原因を究明し、悪魔を生まない対策を立てなければな。」
決意は、間違っても、たがえてもいない。
確かに彼女のような存在をもう二度と再び世に出したくないと、その願いは切実。
ただ諭し易いように、言葉を変えただけの。
「どうかそのままくたばってくれよ、悪魔。」
純真な少女を屠った苦悩に苛まれず、
超常の悪魔を屠った喜びに、
ただただ、身を振るわせるだけ。
空は紺碧が一切覗かず。
風は澱み腐り濁り滞り蟠り。
地は枯れ果て不足しきり。
世界は、死を迎えようとしていた。
たった一人の少女が生きていたが為に。
そしてそのたった一人の少女は騙された。
しかし世界は、救われた。
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++以下言い訳
長い話の抜粋をイメージしましたが、まぁ見事に説明不足の独り善がりですよね! でも連載を見通した読みきりって大体こんな感じじゃありませんか?←
モチーフは病原菌との戦い、みたいな。あまり医学に詳しく無いので滅多な事は書けませんが何か以前TVショーで、正義の味方ヅラして行くと患部が拒否したりウイルスが刺激されるから、ちょっと仲間っぽく装って奇襲、みたいな治療があるとかなんとか、すいませんだいぶ以前の話なんであやふやな上全然事実と一致しないやも知れませんが、インフルエンザの予防接種や花粉症抑制の対策にウイルス自体を入れて体を馴染ませる治療もあるくらいだから、きっとそんなんもあるさ!
そっちの同族の戦いというのも実に想像では楽しいんですが(生粋のど変態ですが何か)、取り敢えずうろ覚えの記憶を元に擬人化してみた結果なので、意味不明な部分があって当然と言いますか、そもそも前提自体が意味不明なんでね。という言い訳。なんたって元ネタ事態が曖昧なんだぜ!
作中で何百年、とあるのはもやしもん情報で菌の世代交代が目くるめくだと窺ったので、そんな感じで。統一とはいわないけれど連続してその意識を保ちながら躯を変えて持続する単細胞、というような。因みに一番書きたかったところは本性を上手に隠し少女を騙した男のささやかな豹変ですが何か?
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