瞼を閉じれば暗闇の中直ぐに画ける、君の背中。
襟足の汚い項、頼りない肩甲骨、だらしない猫背。
どれをとっても褒められたパーツなんてないのに、どうしてこんなにも、いとおしいのだろう。そんな想いを乗せた眼差しを何度熱く受け止めようと、気がつきもせず振り返る事も無く、ただその背中は、遠ざかるだけ。
だからせめて、呼び止めるくらいしか出来ない。
ラブ・ドキュメンタリ
「今日もパシられてるのかニブ太郎。」
憎まれ口を叩きながら後頭部に叩きつけた本の角がいけなかったか、今にも零れんばかりはちきれんばかり涙を湛えた目で野生の獣が如く唸り声を上げる、表情は恨みがましい事この上ない。
「お前は加減ってもんを知らんのか!」
「あらいいじゃないあんたニブ太郎なんだから。」
「ったくこれだからエンコー野郎は。」
鈍い音が場に埋まる。挨拶代わりの一発とはまるで違う重みを帯びた一撃に、たまらず少年は膝から崩れ落ち、少女は鼻息荒く睨みつける。
「名誉毀損で訴えるわよ。私の名前は遠子ですー!」
「そんならお前は人様の苗字を弄んでいいってのか! 二歩(一族全員に謝れ!!」
白熱した激論を、戦わせる内容は実にチープ。だがじゃれ合いは徐々に真剣さを帯び、両者の顔は今やとうに斬り合う侍。
「他の人に向かっていう訳ないでしょばっかじゃない!? そんなんもわからないから鈍感鈍亀ニブ太郎ってなもんよ!!」
「だからその綽名を許した覚えはなーい!」
「序でに廊下で騒ぐ事を許した覚えもありませんよ。」
エスカレートしてゆくからかいと辺り一体を満たすがなり声は、遂に終焉の時を迎え。
わざとらしい咳払い一つで己の通り道という空間を確保すると、教員は蔓を片手で支え眼鏡の位置を整えながら、そのレンズ越しの冷たい眼光に二人を捉える。
「確かに今は昼の休み時間。しかし少しは慎みを持って行動なさい。節度あっての自由です。全く」
「「高校生にもなって。」」
「……宜しい。お判りになっているのでしたら、明日こそこの注意を受けないよう努力して頂きたいものです。」
定番の悶着は、定型文であしらわれる事屡、いい加減覚える方が悪びれないのか、覚えられる方がバリエーションに乏しいのか。
少なくとも、喧嘩腰だった少年少女は表面的には収めてみせても、行き交う視線や後ろ手の攻防が互いに罪のなすりつけ合いをして、このままならばきっと明日も同じ調子なのだろうと、進歩の無さを示している。
「あーもー、くだんない事ばっかさせないでよね。」
「どっちが仕掛けてきたんだろーか!?」
自覚していても、夢の途中で覚めても、やめられないから、くだらない事。
「延々パシられてる姿見りゃ嘆きたくもなるでしょうが。」
「お前もわっかんねーな、パシられてる、んじゃ、な・く…………っあー! やっばい馬鹿お前オレ早く行かなくちゃ」
「それ見ろパシリのパッシー。それとも縋りついて彼女やって貰ってるスガリちゃん?」
「るっせー! それも許してねー! 兎に角決着はまた後でな!」
「もういいって、そんなんいちいち。」
だが最早その声は届かず、俊足が見せるのはまた、背中だけ。
「嗚呼遅れてごめんよ愛しのオードリー! 待っててね!」
「……そんな呼び方するから未だにパシリなんじゃない。」
苦笑いは、愛くるしい動物を見ているかのようでもあり、哀れみ施そうとしているようでもあり、目の際も口の端も深く伸ばしたくなるような、邪悪さでもあり。
ニブ スガリは、トオコを振り返りもせず角を曲がって何処かへ消えた。
「で、結局何をそんなに急いで届けたん?」
時は矢の如し速さで過ぎゆくもの、それとも退屈な授業風景を記憶する事さえ脳が拒絶して、自由時間しか活発にしないようセーブしてくれているのやも知れない。
斜陽が投げかける真赤い空間、渡り廊下の窓枠に背を凭せかけながらトオコは、その横でサッシに上半身を預けだらりと両腕を外壁に垂らすスガリの過去の目的を問う。
「んー? ……嗚呼、オードリーがね、」
「いやだからそれやめてあげなよ軽くイジメだよオドリちゃんきっと泣いてるよ。」
「うっせー、オードリーが可愛いって言ってくれてんだ、いいに決まってる!」
「あ、そ。」
「お前はオレの話を聞きたいのか聞きたくないのか?」
「ノロケでなければどうぞどうぞ。」
中断の茶々にむくれながらも、結局は話したいらしい、スガリ少年は長い欠伸をした後、妙に指が長い分大きな掌に顔面をうずめながら、続けた。
「駅前から一本向こうの路地に入ったパン屋のさ、一日百個限定”ベルギーチョコレートソース浜納豆ミント風味野菜あんかけプルコギ”が食べたいっていうからさー。」
「そうだねさしあたって、なんでそんなものをパン屋が売ってるんだっていうか百個も作るんだっていうか食への大冒涜っていうかオドリちゃんそんなに味覚破壊されてたっけ。」
「流行りもんには手を出しとくのがオットメの常識ってもんなんだと。つまり情報不足のお前は元からそうだが益々乙女失格って訳で、なんてったって地方局だけどTVショーが取材に来たってんだから、こわいもの見たさでここ一週間くらい大盛況の入手困難。……しかしなんだ、ぶっちゃけ、不味い。」
途中のやや気に障る部分にはしっかりと踝に向けて攻撃を加えておいたところで、何処をどう取ったって不味そうにしか思えない組み合わせだが、その断言と、先に会った時より格段に悪い顔色は、既にある程度答えを表している。
「食べたいって頼んだの、オドリちゃんなんでしょ?」
「ま、ほら、その、なんだ。所謂現物を見たらちょっと、ってやつだな。オードリーもその時側にいた友達かな? も、味は気になるからってんで、食べものを粗末にする訳にもいかないし、代表してオレが食った訳だ。」
「まぁ調理時点で既に粗末にしてるっていうか、まだその代物を食べものと呼ぶあんたに感服するけどね。」
精一杯、いやらしくならないよう、必至に刺々を直隠し。それでも若干下がってしまったトーンが、トオコの心のニュアンスを示すには充分だったようで、スガリは突然オーバーリアクション気味に体勢を直すと満面の笑みで請け負った。
「ははん、お前にゃわからないだろうがな、オードリーとオレの間にはふっかぁ〜い愛の絆があるのさ。その為なら授業中抜け出しての買出しだって、馬鹿馬鹿しい食べものへの出費だって、挙句見た目通りのゲテモノを味わう事だって、可能になるのさ!」
「それ世間様じゃ都合のいい奴、じゃないの?」
「恋人同士にしか判らない繋がりってのはあんだよ!」
「そ。……その愛しのオードリーとやら、また他の男と帰るみたいだけど。それも両手に花ときた。」
余裕を装った空元気が瞬時に吹き飛び、トオコが流し見る向こうへ飛び出さんばかり、実際窓から先程以上に上半身を突き出させ、校庭と下校風景を見つめながら冷や汗の流れるスガリの頬には、驚きと怒りが乗っていたけれど、諦めの色も無く今更驚いている時点で、その怒りもまた男にであり、裏切りを働く恋人にではないのだろう。
嗚呼、なんて愚かな生きものなのかしら。
今からよもや追いつこうとする生命体も、それを弄んで気取っている生命体も、その二つを知りながら未だ不毛であり続ける生命体も。
「今日ぐらいは、私にしとけば。」
「……っはぁ?」
莫迦みたい、って云えないの。
やめちゃいな、って云えないよ。
だってそれは、だってそれじゃ。
「冗ー談。だろ?」
「慰めのつもりなんだけどね。どうせ泣いて夜中私の部屋に来るに決まってるのさ。」
「その時は、そん時だ。」
一体何処にそれだけの自信を生み出す泉があるというのだろうか、強き瞳は夕日を湛えて、一路スガリは浮気が親友の彼女の元へ尚向かおうというのだから、見つけ次第その源泉を潰してやりたい。
だけど笑い話に飛ばされてしまったから、もうかける声は掠れてしまって、指先が震えを止めた頃には、伸ばしてもやっぱり、背中だけが見える。
好きな人に好きな人がいる。そんなの巷に有り触れた話。
好きな人に恋人がいる。だけどライバルの杜撰さに諦めきれなくて。
恋人と思い込んでいるだけだよなんて、言っても聞く耳を持たないのは、本当はそうだと自覚しているから、認めたくなくて逃げ回っている、あの、背中。
あんな女よりいい女だと自信ならある。
あんな女より私の方が想っているのは明白な事。
でも、
そんな女でも恋し続けてるあの人の愛に勝るのかといったら、
ほんの少し、
自信が無い。
想い続けて数年、進まない関係なのは、案外あっちもこっちも同じ事で、例えば私にしてみれば、思い出すあの人の画がもう全部、背中になってしまうくらい、長く。
少し切なくて、泣きたいくらい。
鮮明に浮かぶのは、背中だけに、なってしまったから。
これじゃ私、まるで背中に恋してるみたいね。
徒情けが、沢山咲き乱れている。
トオコの側で、他にも知らない、誰かの一方通行がきっと幾つも、生まれては幾つも、死にゆく。
彼女の中でも、少しずつ息を引き取ろうとしていくように。
そしてまた、生まれてゆく。
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++以下言い訳
何故だか歪んだ愛憎だったり叶わないトライアングルだったりそんなものばかり生み出してますが別に深い意図は無いんですよ、深いのは。
ネタとして散らばらせていた当時のイメージとはまた違うんですが、まぁほらそこはあれだ、そんなに恋愛にやる気無い奴ですから←
寧ろあんな女とか言われて取り立てた描写も無い彼女さんがかわいそうでなりませんが、まぁベルギーチョコレートソース以下略なるものを興味本位で頼んでみては毒見させる悪女タイプです。一番悪いのはそれ作ってるシェフですくそなんてパン屋なんだ!
そういう訳で名前一覧表:
長追 遠子(ながお とおこ)=長く追ってるけど遠い恋してる子なんですねわかります。
二歩 尽(にぶ すがり)=鈍くて尽くすんですねわかり……づらいよこの名前。方向性を統一しておこうよ!
高嶺 踊(たかみね おどり)=高嶺の花は風に踊っている偶像。まさかあんな春日的なニックネームが出来てしまうとは思ってませんでしたw
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