
遺跡と化している神殿。否、寧ろ祭壇と呼ぶべきか。
砕けた柱の石ころが彼方此方に横たわって通路を妨害する中、軽い足取りでそれらをよけ最上段の、と言っても地上より二メートル程度上に挿げられた高みではあるが、天蓋無くさっぱりとしたその祭壇に辿り着いてみれば、それまでの道程や汚れた外観から想像されるよりもずっと小奇麗に片付けられていて、質素な供物が点々と置かれていた。
薬草やら獣肉やら、見る限り上等とは呼べそうにも無いが、日持ちしない品物であるにも拘らず腐臭すら漂わない事から今日か昨日の内に供えられたものなのだろう。
全身に大判のシルクを巻き付けて褐色の素顔を隠す細い物腰が、ゆったりと甕一杯に張られた水を覗き込み、切り揃えられた金の前髪が水面に揺らいだ。
「神様?」
素っ頓狂な声が後方で上がり、振り向くとそこには少年が一人だけいた。野生児のような身形、同じく褐色の素肌に、少々薄汚れて見える伸ばし放題の金髪。
怪しい風体で佇むその人を、神様と呼んでみせた口は間抜けに開けっ放し、片一方の目は閉じられたまま目脂か何かで封をされ暫く開いた事も無いよう固まっており、もう片一方は元々円らなのだろう爛々と輝く瞳をより大きく広げて見つめ、抱えていた荷物がどさどさ砂埃が舞う床に転がっていく。
「あ、わ、す、すみませんっ。」
兎や鳥の屍骸を慌てて拾い上げながら掛ける声はどもって、そこにまた一層焦りを感じたのか手付きは覚束ず一旦拾った兎をまた落としてしまった。
様子に小さく笑いを洩らして、一枚布を顔や体に巻きつけ直し歩を進め、隻眼の少年と同様に目をきつく閉じ冷たくなった土色の兎その骸を手に取って差し出すと、少年はおどおどした態度のまま、恭しく頭を垂れて受け取る。
「……あのっ、あなたは神様、……ですか?」
「そう思うかい?」
細身に合った、柔らかく少し高めの声質は中性的で、もう一度訊ねる事さえ恐れ多いとごくり唾を飲む少年に微笑みを返すが、質問には答えないまま。
「でも、お前の行いは知っているよ。毎日欠かさず掃除をし、お祈りも三度こなし、自らが食べるのも儘ならないのに供えものはその都度新しく変える。その精神は何処から来るのか知りたいものだよ、ブルブ。」
日々の行為を、そして己の名前を知っている存在が神以外のなんであろうというのか。
夢見心地、混み上がる感情をどう往なしてよいのやらブルブは神様の前を素通りして取り敢えずとばかり一抱えの肉塊を祭壇に並べ直し、以前の供物を袋に詰めて、テキパキ勤しむ事で消化を試みるが、背を見つめられているというだけで舞い上がりそうなのだから、些か落ち着く事は難しそうだ。
見下ろす限りの荒野に吹き降ろす風は冷たく、粗末な布に穴を開けたような簡素な服に身を包んだだけの躯には堪えるだろうに、慣れか諦めかブルブは意に介さず、北風に嬲られる祭壇の荒れ果てた様子をぐるり見渡してから、神様は口を開いた。
「この有様だ。人知を越える大業は成せないが、せめて幾年も尽くしてくれるお前のささやかな願いくらいは、何か叶えたいと思っているよ。」
驚きのあまりに勢いよく振り返り過ぎて足を縺れさせすっ転びそうになりながらも、ブルブは即座に
「いいえ何も。」
そう、否定を答えた。
「いいえ、いいえ。とんでもありません!」
「どんな些細なものでも構わないが?」
「いいえ、いいえ。」
言い募る神様にも、繰り返し断りを申し出る頭は力いっぱい振り切って引き摺られ、今度は横倒しになりそうになるがそれをなんとか持ち堪え、辺りを見回してブルブはため息を吐いた。
「寧ろ、まだまだ全然、修復出来ていない事が申し訳なくて。以前やって来た旅人さんに色々、道具を頂いたり技術を教えて貰ったりしましたから、復興を少しずつでもと、これでも頑張っているんですけど。」
「嗚呼、それは。」
言葉尻を捕らえられ、今度は神様の方が居た堪れなさそう、慌てる素振りに一層慌てを乗せてブルブが両手を突き出しぶんぶんと振る。
「でもっ、必ず、もっとちゃんと、直してみせますから! 僕なんかじゃ、綺麗には出来ないかも知れないけれど、そうして少しでも良くなったら、誰かが訪れてくれるようになるかも知れなくて、人手が増えたら、何れきちんと、なりますからっ。」
「卑する事は無い。お前は十二分に尽くしてくれている。」
だからこそ、願いを。
強まった口調が妙に押すものだから、困ったように頬を掻くブルブは、ぺたりと祭壇脇の平たく丸い、すべすべした石の上に座ってうんうん唸り始めた。よくよく眺めてみればその石は縦に四つ並び、もう一組あって計八つ、祭壇を前に臨み左右に其々等間隔に設置されていた。椅子か何かなのだろう。
「そうだな、街に行きたいとは思わないか。こんなところで、一人でいなくたっていいんだ。」
「それじゃあ、だって神様が寂しいじゃないですか。」
きょとんと、当たり前の体で述べるものだから。
「そんな事……」
「僕、此処での暮らし結構気に入ってるんですよ。」
本当にそう思っている、そうとしか思っていない真直ぐな視線に何処かを痛がらせて、何か何かと神様は探す。
「善いものでなくとも構わないんだ。例えば、恨みさえお前には無いと?」
向かい合わせに神様も座り込むと、促がしにより困窮した様子でブルブは考えを捻り出そうとするが、虚空に浮かぶのはため息ばかりだった。
「……つまらなくて、大したものも無い身の上話ですが、宜しければ聞いて下さいますか?」
しつこく食い下がられ困惑しながらもやがて開いた口からは、そんな穏やかな昔語り。
間を置いてから、聞き手が静かに頷いたのを見てブルブはゆったり、過去に思いを馳せる。
「僕の家は、とても貧しく、飢饉に喘いでいました。お父さんはいつも疲れた顔をしていて、お母さんはいつも御飯を食べなくて、自分だってお腹が空いているだろうに、僕と、お姉ちゃんにくれたんです。それでも貧窮極まって、どうにもならなくて、僕は此処に捨てられました。」
相槌は特に無かったが、聞き入っているのだと取り一息吐いてからより饒舌に続けた。
「お父さんは、何度も謝って、お母さんは、ずっと泣いていて、お姉ちゃんは、必ず迎えに来るからと言ってくれました。困らないようにって、この服と、勉強出来るようにって、いつもゴミ捨て場から拾ってきては読んでいた本を沢山くれて、それから僕は、此処で一人で暮らしています。」
「では、その家族への恨みを晴らしたい?」
神様が引き取ろうとした言葉はまるで間違いだと言わんばかり、即座に帰ってきた答えは矢張りNOだった。語る間少しも曇らない表情に、対する神様は眉を上げ不思議そうに問う。
「何故? お前は、棄てられたのだろう。悔しくないのか。哀しくないのか。」
「寂しかった、けど。」
涙ぐみ、そっと片目に宛がう手。閉じたままの瞳からは零れる事もままならない、涙。
だだっ広い荒地にただ一人、それもサバイバルのいろはも知らないような子供が、その日暮らす事さえ厳しいであろう中であってもこれだけ丁寧な言葉遣いを披露出来る辺り、その餞別の本を幾度と無く熟読した証だろうに、人恋しい証だろうに。
「みんなが、今も幸せに暮らしているか、それだけが気掛かりです。僕が、こんな要領悪くて、いっつも兎を捕まえる事さえ苦労している僕が、でも生きていられるくらいだからきっと、神様の御加護は届いていると思うのだけれど。そうでしょう?」
逆に問い返され、言葉に詰まった神様は相変わらず何も返してはくれないが、構わないと熱を込めてブルブは家族への想いを示す。
「寒さに凍えたり、お腹が減っていたり、していないかと。若し何か叶えて下さると言うなら、みんなが何かに苦しんでいる時に、助けてあげて欲しいです。」
世界を見られる唯一の片目を閉じ、暗闇の中で満足そう微笑むブルブが雄弁を止めても、神様は不満そうに言葉を繋いで。
「逢いたいとすら、願わないのか?」
「気まずいだけじゃないですか。若し今も貧しかったら、若し今は豊かに暮らせていたら、どちらにしても。」
「だが寂しかったのだろう!? お前の幸福は何処にあるんだ!」
「ですからみんなが、生きていてくれれば。それはつまり、僕が此処にいた事が意味があったのだと、何よりのかけがえの無いものです。」
返すべき言葉も見当たらず、けれど何かは云いたくて、もごもご口籠ったまま、それでも神様はそれ以上の追求をやめた。
「私はお前の、望みを叶えに来たのに。」
己を置き、己にすべき心配を他に馳せる様子に、神様の声はなんだか、泣いているような、少し震えていて、いつの間にか立ち上がっていたブルブはそのまま歩み神様の元へ、その手を取って。
「ありがとうございます。でも、それぐらいしか思い付きません。だって僕とても、今とても、倖せなんです。」
清らかな、微笑だった。
子供らしい、純粋な、それでいて大人びた、美しさを持った。
「だって、神様がわざわざ、来てくれたんです。それも、僕の願いを叶えたいって。こんな嬉しい事はありません。だってそれって、ちゃんと声は届いていて、聞いていて下さったって、それならきっと、僕がいなくてもみんなも、倖せに暮らしているんじゃないかって。」
信じられる。
シルクに包まれた全身から垣間見えるのは、きっちり切り揃えられた金糸と、黒々と光る双眸、握り合う諸手。繋がるそこが熱を帯びて、ただただ力強くお互いを認知し合う。空風が浚う髪の下で、神様の潤んだ瞳、布に隠されそうな目尻が、じわりと濡れていた。
「あっ。」
それには気が付かずに、ブルブは日の高さを見て短く驚嘆の声を上げる。
「ご、ごめんなさい! 思わず夢中になっちゃって、もうお祈りの時間なのに! い、今から急いで支度しますから!」
思わぬ出逢いに一旦は放置していたそれを、迫る時間へ準備を始めなくちゃと、心做しはしゃぐ少年の背を見送りながら、離れた熱源に寂しそう、ぎこちない指先へ視線を落として神様は懐から携帯電話を取り出した。
慣れた手付きで呼び出した番号は、コール二回程ですぐに繋がり、電話口に現れたのは渋い男性の声。
「もしもし?」
確認するかのような緊張の走る一言の後はひたすら、此方からの切り出しを待っているかのよう無音で、耳を欹てている。
「容姿の特徴、今聞いた背景から間違いない。あの子は、私の弟だ。」
告げる神様に、微かな安堵の一息が届く。
「そうか、生きて、いたか。」
「みすぼらしい形(で、ひどく貧相な、痩せっぽちだけど、とても溌剌としている。元気そうに、しているよ。」
「嗚呼、嗚呼。」
涙声でただただ頷き返すだけの人が落ち着くのを待って、沈痛な声で続ける、生存確認。
「願いは無いかって、聞いたんだ。
恨みどころか、煌びやかな服を着るだとか、流行りのアクセサリーを付けるでも、豪奢なプレゼントなど想像だにしないで、孤独を掃いに街へ行く事も、家族の元へ戻る事さえ、何一つ望まないで、
いもしない神を敬っている。なんて、不憫な。」
苦々しい言い切りに、電話口の人はそうではないと語気を強めて、涙の気配は拭った強気で。
「嘗てからは考えられない程、私達は成功を手に入れた。会社を経営し、軌道に乗り、裕福に、そして自由になった。過酷な状況でブルブが生き延びていた事も合わせて、確かに……」
鼻水を啜る、一拍の間。
「確かに、神はいたのだよ。」
夢見る口調が気に食わないと、受話器から離れて舌打ち、もう一度宛がった時には先を見据え腹を括った、揺るがない思いを乗せて。
「将来を、定めました。私は、父さん……貴方の跡を継ぎません。此処で二人で、生きていきます。」
「……ドナドッ! 待て、まだそんな――――」
聞き慣れない娘の敬語に、一人の人間の決別の宣言に、息を飲む音と共に怒号がわんわん、小さな機械を通して冷たい空気を揺らしても、伝えるべきは全て言い捨てたと会話は無慈悲に打ち切られる。
序でとばかり、渾身の力を込めて携帯電話を真っ二つに折り、真新しい兎と鳥の横、祭壇にそっと供えた。
纏うシルクを剥ぎ取って、緩やかながら芯を凍らせる風、寒空にブルブとたがわぬ褐色を曝し、ショートカットの金髪を靡かせ、閃く衣の向こう、祈りの儀式に使用するのであろう道具一式を先と同じく腕一杯に抱えていたブルブは又しても取り落として、呟く。
「女神様だったんだ……」
変容した出で立ちへの感想に苦笑を零して女神はデジャブの如く散らばった彼是を拾い集め、骨の浮き出たブルブの両手に収めた。
「ブルブ。私は決めた。お前に願いが無いのであれば、せめて共に暮らして行かないか? そうすれば、もう寂しくない。」
「え、えっ、それは、これからも時々お姿を現して下さると……っ!?」
「いいや。」
突然の申し出に今日何度目だろうか、生涯の分を使い切る勢いで動揺するブルブの肩を強く抱いて、少女はそっと躯を引き寄せる。背中も、骨が目立つというより肉がこそげ落ちてしまった様子だったが、折れない程度に力を込めて、流れる雫は触れぬよう、そっと床に落として。
「毎日だ。」
たまらず歓声を上げては、はしたないと自制するブルブだったが、久しく与えられなかった人肌のぬくもりに、彼もまた小さな一粒を以て女神の服を濡らす。
お前にとって家族よりも、神が身近に受け取れるなら。
素性なんて明かさない。姉(の名も捨て、お前と共にある。
今度こそ、離れたりしないよう。今度は、寂しさ以上に僖びを分かち合えるように。
幼い姉弟は、ささやかで、瑣末で、荒れた祭壇の前で笑い合い、その真実は本物の神への供物。
一次へ
廻廊へ
++以下言い訳
ちょっと古びて、人の手が入っていないような遺跡か神殿の画像を見てぱっと思い付き。
そういった、現地なら兎も角写真か何かを見てそこまでインスピレーション沸かせられるのは、もう妄想というよりある種の特殊な電波で無いかと割り切ります(笑)。
神様ごっこか、家族ごっこか。それはこれからの行く末次第。
因みに背景画像の理由は、この絵のタイトルがオキザリスだったという、ただそれだけです。終いにはギャグか! モモタロスか!
希望としては廃墟か遺跡だったのですが探せどもぴんと来ず。切ないです。
出さず終いでもいいかなと思いつ折角だからと出してみた名前の由来は此方。つまり初期段階ではノーネーム。本当必要ないと全く出しません。機会がありません。
ブルブ:ブルーブラッド。青い血。異端者。
ドナド:ドナドナ。子牛が連れて行かれる歌。虐げられ離れ離れになる歌。
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