Queen


 災妃フェンリルは、永久の闇の中で目を覚ました。
 空間は、絶望が溶け出した一面の墨の中に、憎悪がぎらつく紫の水晶となって縦横無尽に氷柱を張っている。悲痛が澱む水の張られた地面は足を下ろすと波紋を画くが、何処まで行ってもぶち当たる壁もなく、円は撓まず広がるだけ、ひたすらに彼女が孤独である事を突きつける。
 だからいつも通りけだるそうに、嗚呼、目覚めるのではなかったと、フェンリルは鬱陶しそうに愚痴を零した。

 尤も、いつも通りと呼ぶには覚醒から日が浅く、十六年もの間封じ込められてがちがちに固まった躯は日常生活をようやく思い出し始めているくらいで、そのもっと、昔だって。目覚めは大抵独りで、眠りにつくまでも、大概独りだったのだ。場所が変わった以外に、大差など無い。
 闇の間隙を縫って、暗黒色の蝶が舞い降りる。ひらひらと頼りなげに飛ぶ姿は、己が今はまだ天涯孤独である事実に覚束ない心を反映しているようで、そんな弱者の揺らぎにフェンリルは甘やかな笑い声を零した。
「仲間が欲しいのならば、もっと私に尽くす事ね。」
 時代遅れの濃いルージュが柔らかく弧を画く、その口先にそっと右手を差し出すと、甲にひらり舞い降りた蝶の全身からきらきら、宝石のような輝きが溢れ出す。生命力に満ちた鱗粉は、無論彼女の手先にして同胞である濃紫の蝶から生まれ出ずるべくもなく、奪う事しか出来ない妃に与える為、誰かから奪ってきた煌き。
「ひたすらに、リーフェを持ってきなさい。そうすれば、私の力が高まる。そうなれば、遣い魔を増やせる。それがつまり、あなたが孤独から解放される方法なのよ。」
 かわいらしい音色はまるで愛でているかのような響きがあるのに、指示に従い再び働きに出るべく忙しなげに身を翻す遣い魔の羽の動きを睨めつけている視線はあまりに鋭く、フェンリルは自ら発した言葉の何某かが酷く気に食わないようだった。
「……解放なんてそんなもの、ありはしないわ。有象無象が増えたところで、彼我は決して歩み寄らない。」
 苦々しそうに吐き捨てて、一際大きな紫水晶の幅広い面に視線を遣した。何処かの映像が投影され、誰かが動き回っている。
 軽快にはしゃぐ姿が、フェンリルの住処である常夜にはあまりに場違いで、くるくる目まぐるしく変わる表情の根幹は笑顔が譲らず、明るい赤茶色が跳ね上がる能天気な髪型が、これ以上ないくらいに滑稽だった。
 覗かれている事を知らない少女は、自室ベランダの鉢植えに微笑みを向けていた。それまでのはちきれんばかりのあどけなさとは打って変わって、穏やかな慈愛に満ちる、母性が滲むその仕種。
 だがフェンリルには顔面に唾を吐かれたように感じるらしく、この世で最も醜悪なものを見る時の険しい目つきで射殺した。勿論、少女は気がつきもしない。
「姫乃。哀れなあなたに教えてあげる。白雪姫の実態は、使い捨ての駒だという事を。」
 水辺を滑る全身は心許無くぐらついて、そんな不完全な躯を引き摺ってでも成し遂げなければならない事があると上向く形相は、狂気に歪められた笑み。そんなにも瞳を吊り上げず、そんなにも口角を鋭くしなければ、きっとかわいらしい笑顔になったのだろうに、引き攣る赤い口紅が、とても際立っていた。



 姫乃と呼んだ少女の室内に易々と侵入し、一目見て愛をたっぷりと注いでいるのだと判る満開の花が心地良さそうに風に靡く植木鉢へ、遣い魔と等しき闇の下僕を忍ばせる。あまりにも簡単に行なえてしまう仕込みに、だが高笑いの一つも生まれはしなかった。
 その花を睨み続ければ何れ消滅させる事が出来、それがきっかけで世界の崩壊が始まるとでも言わんばかりに熱心に視線を注いだが、やがて飽いたのかふっと日の高い空を見上げる。
 だがそれは更に不快さを掻き立てたようで、いやなものからやっと目を逸らせたと思ったらまた……、そんな居心地悪さに視線をうろつかせても、見渡す限り生命に溢れた庭園は何をとっても益々フェンリルの神経を逆撫でする。

 若い葉。

 清らかな水。

 遠慮ない陽光。
 
 吹きぬける風。


 どれもこれもが、苛立たしく、腹立たしかった。


 今ここで、ありったけの全力をぶちかまし目に映る全てを捻り潰してやりたい。魅力的なその衝動を抑えるのに苦労したが、それでも刹那の快楽に身を任せ、より大局の悦楽を手放しては勿体無いと自らに言い含め、ようやく落ち着いた頃に、それは聞こえた。
 無垢で、無邪気で、無防備な、泣き声。
 振り返ると、ふわふわのかわいらしい子、人懐こそうな溌剌とした子、二人に比べて背も歳も上であろう生意気盛りそうな子、三人の少年が如何にも怪しげにそわそわしていた。騒ぎを聞きつけ人が来るのではないかときょろきょろ辺りを見回して焦り、そしてフェンリルと、目が合う。
 無知で、無力で、無神経な、子供という存在自体が許し難いとばかり、三人に直前まで向けていた侮蔑の視線を上手い具合に収めてフェンリルは作り笑いで近づくが、兎に角まずい事態だと慌てふためいている子らには、隠しているとはいえフェンリルが纏う禍々しさを感じ取れないらしく、それでよくぞリーフェナイツなどと名乗れたものだと心中で思わず毒づいた。何せフェンリルには、またたきの間に天敵だと理解出来たのだからして。
 姫乃というプリーティアも大した素質もなくろくでもないが、だから仕えるナイツもこの質、なのか、仕えるナイツがこの質だから、なのか。
 自らと敵対する存在であるリーフェナイツと、自らの対極に位置するプリーティアへの造詣ならば本人達より深いという自負が、気がついた瞬間は自信に、その次の瞬間には汚物に感じられ、フェンリルは脳裏によぎった映像を払拭するのに躍起になっていたが、あくまで少年達への笑みは崩さなかった。尤もこの時には、不法侵入がばれるだのなんだのと急ぎ足で逃げている背中しかもう見えてはいない。
 幼い。
 とても幼い。
 あまりにも、幼い。
 未熟で知識も経験も足りない中、始まってしまった戦争に駆り出され、使命感に燃えながらも自らの欲求や好奇心を抑える事が出来ず、周りを巻き込んでみたり、後で怒られるようなやり方しか出来ない、年端も行かない戦士達。
「私はあんな子達、知らない……」 
 あの三人が、フェンリルを知らないのと同様に。そしてそれは、極く当たり前の事実。
 それでも見知らぬ小さな三人に透かして見た、いつか知っていた逞しくしなやかだった三人を馳せて、その正体が感傷だと理解しているからこそ再び振り払うべく、フェンリルは激しく頭を振った。

 知ろうが、知るまいが、気づこうか、気づかなかろうが、そんな事はどちらだっていいのだ。
 肝心なのは、小人達は姫を見つけ出し、傅いているというこの一点。
 見覚えのある青きナイトも、プリーティアの傍にいるというこの一点。
「姫乃……お前がやらされているプリーティアとはどんなものなのか、直ぐに教えてあげるわ……!」
 痛みと歪みと怒りと狂いと。複雑に絡み合う感情を乗せた笑顔は、邪悪の権化に似つかわしい。

 心の何処かで知っているのだろうか。
 フェンリルがフェンリルになるきっかけが生まれた日。
 彼女がいだいていた淡い期待を具現化し、幸せに満ち満ちていた人間が、姫乃の傍にいる事を。
 彼女が叶える事の出来なかった夢を手に入れた筈の人間が今、別の人間と笑い合っている事を。
 フェンリルがフェンリルになったあの教会で、既に二つの運命が絡んでいた事を。
 心の何処かが、知っているのだろうか。



 舞い戻った寝床は、相変わらず水が湛えられ、氷柱が張り巡らされている。冷たく昏い住まいで朝と同じよう、フェンリルは姫乃の部屋を写した鏡を食い入るように見つめる。
 強奪してきた餌を運ぶ甲斐甲斐しいしもべに新たに命じた、真夜中の暗躍。それを楽しむ為待ち構えているのに、その表情は何処か憮然としていた。
 急襲ではなく、暗示。誘惑に似た、警告。
 ひらりひらり、枕元を泳ぐ蝶はフェンリルからの使者らしく邪悪なリーフェをその身に纏い、姫乃の瞑られた瞼の向こうで女達の邂逅が始まる。
 健やかだった寝顔に汗が浮き出し、眉が顰められ、苦しげな呻き声。寝苦しそうに何度も寝返りを打ってはシーツを握って心許無さを解消しようとする無意識。
「ふふ……こんな程度で怯えるなんて、随分とか弱いプリーティア。」
 嗜虐を生み出す優越感は、見下せる存在としてカテゴライズする為の嘲笑を生む。闇のリーフェが夜を穢すショーは、しかし存外あっさりと打ち破られた。

 風、一閃。

 陰湿が蠢いていた室内を吹き渡る風は、涼やかにフェンリルの残り香を追い払い、解き放たれた安息が代わりに溢れてゆく。
 愈々苦虫を噛み潰した顔で、プリーティアとそれを護るナイツという立派な構図を見せつけられたフェンリルは罪無き氷の柱を叩き割った。
 だがその原動力が果たして、そばに”彼”がいる事を知っての嫉妬なのか、”彼”が直ぐに来た事への嫉妬なのか、そのどちらか計りかねているが故なのか。

 きっとそれも、心の何処かは知っているのだろう。
























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++以下言い訳

ぱんぱかぱーん。そろそろ定番になってきたでしょうか? 毎度お馴染み同人誌『P』販促活動に御座います。
尤も最早プリーティアという同じ作品を舞台にしている以外は共通点ないのですが。いやあるな。ビバ災妃なところww

此方はボスキャラであらせられます災妃フェンリルたまの動向を、自分なりに考えてみたイメージの話になります。
というのも実は、災妃というのは名前こそ初めからありましたが御本人様の登場自体は5話の辺りと中盤でして、それまでは影がちらつく程度。
単独行動が出来るまでの力が蓄えられていなかったというのもあるとは思いますが、でもプリーティアの主人公である姫乃に戦いを決意させた始めの戦闘も、災妃がしもべを動かした結果に生まれた訳ですから、動き自体はあるんですよね。
そこのところを、本編の流れに沿ってあくまでも個人的な解釈で一部分抜粋してみました。でも年少組がナイツと気づかず仲良しこよしってのも、それはそれでありかなとか思う自分もいるので、やはり完璧空想に委ねられる部分というのは楽しいと同時にむつかしいですね。
災妃の外見は、既に空間イメージを語る時点で力尽きたのでやめました。生半可であの麗しさを語ってはいけない……