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2007年5月

200751 誤算

 

今回は、私が中学生のときの話。私事ですし、おそらく自慢話が「てんこもり」となるハズですので、関心の無い方はサヨナラ。

 

私は中学生の頃、学校中で有名な存在でした。

1学年が300名以上もいた時代ですが、同学年だけでなく、全校生徒がみな知る有名人だったのです。校長先生といい勝負だったと思います。

その理由の第一は、数学と英語の成績が突出していたこと。英語については、ビートルズの歌詞をほとんど全部丸暗記していました。

理由の第二は、サッカー部のキャプテンだったこと。サッカー部は強く、大会で好成績を納めるほどでした。

理由の第三は、クラス委員が構成するクラス委員会の議長や、運動部のキャプテンが構成する運動部長会の議長だったり。

理由の第四は、学生運動とは違いますが、自分で問題だと感じたことを、一人でガリ版印刷の新聞を作り、校門でばら撒いたり、先生たちと戦ったりしていたから。

理由の第五は、ちょこっと不良っぽかったから。

理由の第六は、女子に大人気だったから。スミマセンね、自慢ばっかりで。

 

こんな私が、中学時代、計画していたことは、中学生最後の3年生の後期に、生徒会長になることでした。

実は3年生前期は、私はやるつもりがなかったので、サッカー部の友人を生徒会長に立候補させ、私は応援に回り、「キングメーカー」あるいは「黒幕」みたいな存在を楽しんだものです。

 

3年生の秋、いよいよ私が立候補しました。

私自身も、周囲の友人も、誰もが勝つと信じて疑わなかった選挙で、なんと、落選したのです。このことは、私の人生で最大の「誤算」でした。

 

対立候補は、イケメンでしたが地味な存在でした。小学校の頃は文武両道で人気者。家柄もよく、敵がいないタイプでしたが、中学校に入ると、全校1000名の中に埋もれてしまうような地味な存在でした。だからこそ、私は選挙に負けるなどとは夢にも思っていなかった。

ところが私が見落としていた点が1つありました。彼の妹が2年下の1年生におり、この子が「超かわいこちゃん」。温厚な性格もあって、1年生の男女から絶大な人気を博していたようです。1年生の票がほとんど彼に流れ、一方、私の不良っぽい部分が災いして、2年3年でもよい子たちの票が彼に回る。僅差ではありましたが、私は選挙に敗れたのです。同時に、「日本国を共和政にし、初代大統領になる」という計画も、トイレに流してしまいました。

 

このときの経験が、私の辞書から「誤算」という言葉を削除させました。

 

「誤算」は、先んじて、勝手な「皮算用」をするから起きることなのです。

「仮説を立てて検証する」こととは違います。そんなに科学的な行動パターンではなく、勝手に期待して、勝手に裏切られることを「誤算」と呼ぶのです。

 

例えば、「アイツをマネージャーに登用したのは誤算だった」とか。

 

ベストシナリオとワーストシナリオを同時に描き、どちらにどの程度近い方角で進んでいるのかを観察し、分析する。この行動パターンには「誤算」という表現は合いません。

 

 

 

200752 二元論

 

神学論争、哲学論争をやるつもりは毛頭ありません。

ただ、最初に「二元論」という言葉を説明しておくと、善と悪など、二つの対立する要素は、二つの別な神の存在がその根底にあるという考え方です。善悪の他に、秩序と混沌など正反対の2つの概念に対しても同様に考えます。

 

例えば、キリスト教で言えば、神であり神の子であり聖霊であるキリストは善を司るわけですから、悪をハンドリングする別な神の存在が必要になります。これが悪魔です。

 

一方、たくさんの神様が登場するギリシャ神話をのぞいてみると、別な考えに基づいていることがよくわかります。

全知全能の神ゼウスは、しょっちゅう悪いことをやっています。特に、人間の女性に近づく・迫る・口説くときは、白鳥に化けたりして相手を油断させておいてから、一気に襲ったりします。ハッキリ言って犯罪です。古代ギリシャ・ローマの考え方として、二元論を採用していなかったことがよくわかります。

 

二元論は、一般人民、特に「パーな人民」をコントロールするのに適しています。

「善」の象徴と、「悪」の象徴の二本立てを用意し、勧善懲悪タイプの統治あるいは行政あるいはマネジメントを実施すればよいのです。

 

中世の欧州を例に取れば、教会あるいは聖職者が示す「善」に従わない場合、「魔女狩り」みたいなものを演出し、極論としての「悪」がどういったものであって、その運命がどうなるかを、恐怖政治によって示す。これで全員が従います。こうして教会は、絶大な権力を手中にするのです。

 

中世の欧州が、悪い意味での二元論から解放されるのは、ルネッサンスを待たねばなりません。

ルネッサンスの精神は、物事をあるがままに「見よう」「知ろう」「表現しよう」といったノリで展開されます。人体の解剖までして、骨格や筋肉を正しく表現しようとした、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが典型例ですね。

キリスト教との関連で言えば、磔にされたキリストを描いた絵画で、キリストを全裸で描いたルネッサンス時代の名画が、その後、教会の圧力で腰布が上書きされたりします。

 

「善」が一方にあり、「悪」が他方にある。

悪に惑わされることなく、善に向かって進めというのは1つの教えではあるでしょう。しかしながら、一人の人間の中、一つの組織の中には善悪が混在・併存しているのではないでしょうか。「善の声を聞け」ということと、「しかし事実としては善悪が混在している」ということは、私は矛盾していないものと考えます。

 

私たちの組織が未成熟であり、また、私たちの大半が「パーな人民」である場合、二元論的なマネジメントが功を奏します。

つまり、「マネすべき理想的な行動様式」と「絶対にマネしてはならない最悪の行動様式」の二つを示し、それ以上は議論の余地ナシといった演出をすることで、二元論的なマネジメントが実現できます。相手がパーだと、この方法は最速です。

 

私事ですが、私は小学生にサッカーを教えていますが、特に低学年にある技術を教える際、2つの極端な方法を自分で示しています。「1番のやり方をやりまーす」と言って、ワザとヘボいやりかたを示し、「2番のやり方をやりまーす」で理想的なやり方を示します。今では、最初に「トラップのやり方、1番と2番、どっちがカッコイイか?」と聞くだけで、子供たちは「2番!」と言ってから、私の模範演技を見るようになっています。

しかし、高学年に説明するときは、「なぜ、2番のやり方がよいのか」を説明し、「もっとよいやり方ができる人いる?」と聞いています。

 

「二元論」という考え方自体に問題があるのではありません。

この考え方を使ってマネジメントを行うと、マネージャーの側が「楽」なのです。あまり深く考えなくてもできるのです。「もっとよいやり方はないか?」などと聞いて、部下が自分より賢い方法を言い出したりするリスクを回避できるのです。

 

「絶対的な善」は、宗教の中でしか存在しえないのではないでしょうか。

私たちの仕事のやり方に「絶対的に正しいやり方」は存在しません。「絶対的に正しいやり方」の存在を前提にするゆえに、その正反対が「絶対的に悪いやり方」とみなされ、二元論的なマネジメントを誘発するのです。

 

私たちの事業規模が大きくなり、シェアが高まり、社会的な存在が大きくなるにつれ、私は、リピート率は上がり、終了率は下がり、従業員がパーである確率が下がっていくと考えています。

人間が「賢い」とか「パーだ」というのは、静的なものではありません。動的に変わっていくものです。思考停止、すなわち、考えることを停止させるような二元論的なマネジメントの適用範囲は、私たちの成長にともない、次第にせばまっていくハズではないでしょうか。

 

 

 

200757日 I don’t think so

 

「私は、そうは考えない」=「私には違う考えがある、意見が異なる」

という意味の文です。

欧米人と会話していると、しょっちゅう出てくるフレーズです。

 

日本人同士で、会議であっても、おしゃべりであっても、「それ、違うんじゃない?」とか「ボクは違う意見だな」などという発言があることがあります。

しかし、欧米人同士の会話で「I don’t think so」と出た後と、日本人同士の会話で「私は違う意見です」が出た後では、「空気が違う」と私は思います。友達どうしの高速回転の会話などは別にして、特に、会社の会議などでは全く異なる空気が、その場を支配します。

 

日本人同士の場合、多くの場合、偉い人が話したことに対して「私は違う意見です」と言うこと自体が、まず、少ないですよね。勇気を持って言う場合でも、最初に賛同しつつ、途中から「1つだけ補足させていただきますが」とか言いながら、補足ではなくて違うことを言ったりするテクニックが使われます。このこと自体は、私は、日本人の美しさを表しているので否定はしませんが、欧米人の感覚だと、「最初に意思表示すべきだ」「それではわかりにくい」ということになると思います。しかし、最初にそう言ってしまうと、会議室の空気が凍ってしまうことを知る有能な人は「1つだけ補足」という出だしを選ぶのです。

 

第二の例。

ある人が意見を展開し、偉い人も「なんとなく、うなずいているカンジがする」ときに、別な人が「私は違う意見です」と言い出すと、その場の空気が一気に緊張感をはらみます。全員がいっせいにその人の表情を読もうとしますが、一部の人は、偉い人の表情を読み取ろうとするでしょう。この空気は一種、独特です。

 

第三の例。

ある人が意見を展開し、偉い人が「なんとなく、バカかコイツという表情をしている」ときに、別な人が「私は違う意見です」と言い出すと、その場の空気は期待を抱いて一瞬、明るくなります。もちろん、しばらくすると「ガッカリ感」が漂うこともありますが。

 

第四の例。

その場に偉い人がいなくて、みんなが「やや平等」なとき、ある意見が主流になりつつある段階で、誰かが「私は違う意見です」と言い出すと、やはり空気が緊張します。「せっかくみんなが合意しようというのに、何を言い出すんだろう」といった空気だと思います。

 

「偉い人」がいる場の例は、欧米であっても、最高権力者や絶対権力者が同席している場であれば、大きな違いがないものと思います。

しかし、第四の例のような状況では、日本と欧米の文化に、私は違いを感じます。

 

欧米では、「人はみな違う意見を持つ」という前提でもあるかのようであり、誰かが「私は違う意見だ」などといっても、空気が変わりません。

特に、私のような東洋人が「私は違う意見だ」などと言えば、「待ってました」みたいな表情を、笑顔に乗せてこちらを向くのです。

 

私が今回言いたいことは、第一に、当社では「偉い人がいる場」を作ろうという方角の演出が多すぎるということ。第二に、第四の事例のような「平等な場」をもっと作って、自由な議論をしてほしいということ。

 

「偉い人がいる場」の例は、例えば電子メールにもあります。

二つの部門、二人の人間が意見対立している状況で、A部門からB部門に送られる電子メールに、Ccで偉い人を巻き込むケースです。特に、偉い人の賛同が得られると確信しているサイドからのメールにこれが多い。「偉い人も同意見のハズ」という演出ができるからです。

もちろん、決定事項や、明らかに正しい方角が決まっている場合には、この手段は業務を効率的に進める効果があります。しかし、まだまだ議論が煮えていない段階では、「相手を黙らせる効果」ばかりが大きくなってしまうのではないでしょうか。

 

「偉い人がいる場」を持ち出そうと演出する前に、「この手段は卑怯ではないか」と自問してみてください。

また、「偉い人」は、「自分が出ることによって、組織が賢くなるチャンスをつぶしていないか」と自問してみてください。あるいは「自分の存在感が、みんなを萎縮させるような方角に働きすぎていないか」と考えてみてください。

 

「偉い人」と持ち上げすぎる風潮は、往々にして、「本当に偉いと思っているとは限らない」風潮につながります。極論すれば「バカにしている」と見えることすらあります。

 

バカにされないために、「バカなフリをして、敢えてみんなから意見を引き出す偉い人」とは、かなり賢い人だと私は思います。

 

 

 

200759日 Is the proposal SEXY ?

 

「その提案は魅力的ですか?」

セクシー(sexy)という単語を使っていますが、このフレーズは、下品なスラングではありません。

 

例えば、マンハッタンに聳え立つ摩天楼の最上階、豪華な社長室での風景。

社長に対して、部長から「ゴールドマンザックス社から、企業買収の提案が来ました」という報告があり、それを受けた社長=推定年齢55歳、高学歴、高収入、サスペンダーの社長のセリフが、

  Is the proposal sexy ?

ここで、右の眉毛をピクッと上げる。

 

提案が魅力的であるかどうかを米国ビジネスの世界では、セクシーという単語を使って表現することがあります。

「やる気を喚起するか」「やってみようという気持ちにさせるか」「もっと聞きたい、もっと知りたいという気持ちにさせるか」といったニュアンスなのだと想像します。

 

私たちがお客様や社内に提案する際にも、「提案はセクシーであるか」と自問自答していただきたいというのが、今回の主旨です。

 

例えば、社内へ向けての提案事例で考えてみましょう。

「もう、これではやってられない!」と思って、「こうしてください!」と上司に嘆願する行動は、「悲鳴」であって「提案」には程遠い。

まず、冷静になりましょう。

最初に、なぜ、今のやり方をやっているのか、そのやり方を考えた当初のねらいが何であったのかを考えてみるとよいかもしれませんね。こう考えることによって、今のやり方では当初のねらいが実現できなくなってきているのか、あるいは、ねらいは実現できても別な問題が発生しているのか、自分が「やってられない!」と感じる理由が、今のやり方に効果がないからなのか、あるいは、別な問題を発生させているのかがわかります。

 

様々なケースがあると思いますが、例えば、「別な問題を発生させている」事実があり、その問題にみんなが悩んだり、足を引っ張られたりしていて、その結果、当初のねらいを実現する「徹底度合いが劣化」し、「効果も薄れてきている」というケースを想定してみましょう。

 

「別な問題」が何であるか、大きな問題なのか小さな問題なのか、影響範囲が広いのかせまいのか、根っこが深いのか浅いのか、まず、事実を冷静に検証する。「もータイヘンなんです!」のタイヘン度合いを客観的に示すことが必要です。

 

次に、その問題の原因を洞察しましょう。なぜ、その問題が起きているのか。複数の原因をあげてみて、それぞれの影響レベルを想定してみてもいいかもしれません。

 

そうしたら、次に、解決策。「これしかありません!」と思っても、解決策が1つでは、人間はなかなか動かないものなのです。複数の選択肢を用意してください。そしてそれらの長短を比較し、自分で「これしかない!」というのではなく、相手に「うん、これだな」と言わせるのです。

 

最後に、その解決策で問題が解決できるというシナリオと、問題が解決されたかどうかを測定する方法を考えましょう。「クレームが減る」「必着が守れる」「終了予定の把握が早まる」など、効果を定量的に測定できるものがよいと思います。

 

そして、「別な問題が解決される」ことによって、当初のねらいが徹底できるシナリオを用意してください。

これで、提案はこの上なくセクシーになるはずです。

 

 

 

2007510日 45年前の記憶

 

78歳の私の母はアルツハイマー型の認知症であり、脳の働きが日に日に弱まってきています。息子である私のことは「自分の父親である」と思い込んでいるフシがあり、私の名前ばかりでなく、「孫」「娘」「親」といった単語にも反応がなくなってきてしまいました。

そんな母を公園に散歩に連れ出したときの話です。

 

小さな男の子がお父さんと野球をやっていて、オモチャのバットを振り回している姿を見たときです。母の表情が突然こわばり、「あれは危ないんだ!誰かにぶつかったりするから」と言ったのです。

スッと私の血の気が引き、しばらくして涙が浮かんできました。

 

45年ぐらい前、私が5歳ぐらいのときのことでした。

近所の友達と野球をやっていて、私の振ったバットが友達の顔に当たり、たくさん鼻血を出してしまったことがありました。バットはオモチャでしたから、骨折といったような大きな事故にはなりませんでしたが、鼻血の量が多かったのでビックリしたおぼえがあります。

そして、その友達の母親が少し過保護というか、ある意味でちょっと変人だったのかもしれませんが、一人っ子だった友達を猫のようにかわいがっていて、この事故に大騒ぎをしたのです。

私はどうしてよいかわからず、ただ、「泣くことは許されないだろう」と子供ながらに考え、歯を食いしばった表情をしていたと思います。

ただし、バッターボックスに入っている選手が、後ろを気にしてバットを振るわけにもいきませんから、心の中では「ボクは悪くない」と思っていたことをよくおぼえています。

 

しかし、表現は悪いのですが、加害者は私で、被害者は友達。

貧乏だった私の家ですが、奮発して缶詰のセットを買い、それを持って、母と一緒に謝りに行きました。友達のお母さんは憮然とした表情で、また、比較的に金持ちだったせいか、缶詰セットをバカにした目で見てもいました。

私は、「ボクは悪くない」と思い、心の中では決して謝ってはいなかったのですが、それでも、母と一緒に頭を下げました。

 

このことで、私は一言も母に叱られてはいません。そのときも、あの後も、一度たりとも、この事故が話題に上ったことすらありません。

 

私は、5歳のときのこの事故のことを、いまだに忘れることができません。

そして、母もそうだったのです。

アルツハイマーになり、私の名前も、自分の年齢も、自分の配偶者=死んだオヤジのことも何もかも忘れてしまった母ですが、この事故を忘れてはいなかったのです。私は、施設の近くの公園で、そのことを確信しました。

 

責任を取る、ってどういうことなのでしょうか。

 

私は、あの事故の後も、友達とは仲良く遊んでいました。

しかし、おそらく、母は、友達のお母さんに顔向けできないような気持ちで暮らしたのではないでしょうか。近所でありながら。

 

私が起こした事故の責任を取ったのは母です。

 

私は、社会人になって28年もたちましたが、これまでに、部下の失敗などの責任を、本当に取ってきたのかと自問してみました。母のように、いさぎよく責任を取り、それを一生の記憶のように心にしまう。

 

春の日差しの公園で、私は、泣きながら、同時に笑いながら、母を抱きしめました。

 

 

 

2007511日 クレオパトラと二人の男

 

今回の話は、仕事には役立ちません。

ですので、忙しい人はパスしてください。

 

史上最高あるいは史上最強の美女と謳われるクレオパトラ。

単なる美女ではなく、世界史に名を残す美女となった理由が二つあるのです。二人の男の登場により。

 

一人目はユリウス・カエサル。英語ならジュリアス・シーザー。

二人目はマルクス・アントニウス。英語ならマーク・アントニー。

 

カエサルの100年ほど以前に、地中海の覇権を争って、ローマとカルタゴがポエニ戦争を戦いました。勝ったローマは地中海に敵ナシ。地中海を中心とした世界では、残る大国はエジプトだけとなっていました。

ガリア=フランスやベルギーを切り取った後のカエサルは、その世界では超有名人。世界一の権力者と呼んでもよい状況だったと思います。そのカエサルが次にねらったターゲットがエジプトでした。

 

そのときのエジプトは権力闘争の真っ最中。クレオパトラと彼女の弟の間で、血肉を争う展開。賢き美女、クレオパトラは、絶大な権力者たるカエサルを利用することを考えます。

エジプトでは、高級な絨毯の中にワイロを入れ、絨毯を丸めて贈るという風習があったそうですが、クレオパトラは、自分自身を絨毯の中に入れて、カエサルのもとに送り届けさせたのです。

絨毯を広げたカエサルはビックリ。絶世の美女が、ほとんど下着姿で出てきたのですから。

 

カエサルはクレオパトラを愛人にします。現在の日本なら大問題ですが、すでにローマにも愛人を多数もっていたカエサルとしては、「無問題(モーマンタイ)」。

こうしてエジプトは、カエサルとクレオパトラのものとなるのです。

 

ところが紀元前44年3月15日、カエサルはローマで暗殺されます。

 

カエサル暗殺を主導した勢力を一掃したのが、マルクス・アントニウス。ハンサムな男でした。

 

さあ、ここで大問題が発生。

カエサルの後継者、すなわち広大なローマを統治する最高権力者は誰になるべきか。

第一の候補。カエサル自身が後継者とするべく指名していた、養子のオクタヴィアヌス。

第二の候補。カエサル暗殺勢力を一掃した、マルクス・アントニウス。

第三の候補。クレオパトラがカエサルの子として生んだカエサリオン。

 

第三候補は、クレオパトラが強力に推しているものの、ローマ市民から見れば問題外。それを察知したクレオパトラは、アントニウスと組むのです。アントニウスを離婚させ、エジプトで結婚したクレオパトラ。やります、よね。

 

アントニウス+クレオパトラの軍と、オクタヴィアヌス軍が戦ったのが紀元前31年、アクティウムの海戦。欧州では小学生でも知っている歴史上のビッグイベント。

敗色濃厚な前者は、まず、クレオパトラを乗せた船がエジプトに敗走します。アントニウスはそれを追うかのように敗走し、これによって、「戦を捨てて女を追った」アントニウスはローマ中の笑い者になります。

 

「クレオパトラが死んだ」と思い込んだアントニウスは自殺を図り、息を引き取る直前に生きているクレオパトラのもとへ運ばれます。彼を見取ったクレオパトラは、「もはやこれまで」と覚悟を決め、毒蛇に自分を噛ませるという手段で自害するのです。

 

クレオパトラを「one of them」として扱い、むしろエジプトを自分のものとするために彼女を利用したとも言えるカエサル。

クレオパトラを「only one」として扱い、ローマ人からはエジプト人として見られ、嘲笑されながらも、彼女への愛を貫いたアントニウス。

 

この芝居、観客のうち男性はカエサルを支持し、女性はアントニウスを支持する傾向が強い、というのは私の推測。

それほどに、男性と女性では考え方というよりも、感じ方が違うのです。

これが、今回の教訓です。

 

ちなみに、英国の文豪ウィリアム・シェークスピアは「ジュリアス・シーザー」と「アントニーとクレオパトラ」の2つの戯曲で、当時の状況を生き生きと再現させています。

 

 

 

2007515日 高野連

 

正式には、財団法人日本高等学校野球連名。

まことに不思議な組織ですが、同時に絶大な権力を握っています。最近の事例では「特待生を認めない=野球をさせない=正確には甲子園には出場させない」という決定をしたことが話題になっていますね。

 

形式的には、大学野球の連名と高野連の二つを下部に置く、学生野球連名の下部組織という位置付けになるとのことですが、この上部組織の「言うことを聞いている」とは到底考えられません。

高等学校の連名があって、その下部組織でもない。

サッカーなら、日本サッカー協会という組織があって、プロも小学生チームもみな、この組織の下部組織であるJリーグや少年サッカー連名のいずれかに所属する仕組みになっていますが、野球には、子供から大人まで含めた何かの協会などがあって、高野連がその下部組織ということもありません。

 

高野連には恐れるものが何もないのです。

そして、日本人が愛する甲子園、高校野球を、表現は悪いけれど牛耳っているのです。

 

学校内で野球部に関係ない問題であっても、何かの問題が発生したとき、甲子園への出場権を実質的に剥奪する権限を持っています。

ある高校の応援団がその地方の民族衣装で応援席に着いたときに、それをやめさせた権限をも持っていました。

ある高校が優勝した際に、地元の商店会が「優勝セール」を実施しようとしたときに、それをやめさせた権限をも持っていました。

ある高校の野球部の生徒が、新聞に意見を載せたときに、それをやめさせた権限をも持っていました。

また、甲子園に出場するほとんどすべての野球部員が丸坊主であることにも、高野連の隠れた実力が作用しています。

 

そして今回、野球特待生には、ある日をもって野球をやらせないという権限を発効したのです。

 

特待生がよいかどうかの問題は確かにありますが、ある日突然、好きな野球を奪われた高校生はどうすればよいのでしょうか。

例えば、来年からは禁止にするから、来年以降、特待生として入学させた者には出場権を渡さないというのなら、まだ、話はわかります。

 

高野連のエライさんたち、おそらく何十年前かの高校球児だと思いますが、彼らは、現在の野球部高校生の立場では、全く考えていないというのが私の感想です。自分たちの価値観を、あらゆるところに押し付けています。

 

それではなぜ、そんなことができるのでしょうか。なぜ、そこまで絶大な権力を持つことができるのでしょうか。

 

その最大の理由は甲子園人気にあります。

高校、高校野球部、その指導者も生徒も、誰も高野連にたてつくことはできません。甲子園出場権あるいは予選出場権を剥奪されたらたまりませんから。つまり関係者は誰も批判できない。

それでは国民の声を反映すべきマスコミはどうかと言えば、夏の甲子園を主催する朝日新聞、春の甲子園を主催する毎日新聞は高野連とケンカできないでしょう。その他の新聞についても、甲子園あるいは県予選に関する記事を書く自由、憲法で担保されている表現の自由すら妨害される怖れがあるだろうと私は見ています。

テレビも同じ。甲子園を放送するNHKも、スポーツニュースを流したい民放も、誰もが甲子園「報道権」を実質的に剥奪されるようなことを怖れているのではないでしょうか。

 

2月15日「邪魔者がいない状況」で書きましたが、怖れる相手、邪魔する相手が全くいなくなった状況は、人間を堕落させます。少なくとも、パーにします。自分あるいは自分たちが神様になったような錯覚をおぼえるからかもしれません。そして、自分たちが既に獲得しているポジション、権利、権益を侵すような存在を排除しようとします。

高校球児はプロ野球選手と、指導を受けるなどの目的で接触してはいけないという、意味がわからない高野連の掟は、高校球児にとっての「神様」であるプロ野球選手の存在は、自分たちにとって邪魔であると考えたのだろう、というのが私の推測です。

 

恐らく高野連のエライさんたちには彼らの理論があり、高校球児はさわやかでなければならず、潔くなければならない。従って、商店会の優勝パレードなど大人の金儲けの道具にされてはいけないし、長髪でカッコイイなどの見た目でモテたりするような球児が出てきてはいけないし、高校野球をプロ野球へのステップとして利用しても・させてもいけないし、素直でなければいけない球児が新聞に意見を述べるなどもってのほかということでしょう。「伝統が大事」という声も聞こえてきそうですが、例えば、伝統を重んじ保守的であると言われる英国、そこで最も伝統あるスポーツであるサッカーについては、サッカーのルール改定には保守的であるものの、英国フットボール協会は、歴史の浅い日本サッカー協会よりもはるかに柔軟です。

 

高野連。何なんでしょうか、ね。まったく。

「あさのあつこ」さんの小説、「バッテリー」でも読んだ方がいいんじゃないかと思います。

 

 

 

2007516日 悪貨は良貨を駆逐し、良評は悪評を駆逐する

 

「悪貨は良貨を駆逐する」とは、「グレシャムの法則」とも呼ばれるもので、次のような意味を持ちます。

例えば、ここに小判があります。一両の小判。この小判は純金を10グラム含有しているとしましょうか。ところが、ときの将軍は財政難を理由に、純金を8グラムしか含有していない新しい小判を発行したとします。幕府は、「同じ一両だ」と言いますが、純金の含有量が違いますから、明らかに古い小判は大切にされ、新しい小判は不人気となります。そうすると、誰もが、支払うとき、良い小判を使わずに、悪い小判で支払おうとしますよね。同じ一両を支払うなら、悪い方を手放そうというわけです。

こうして、良い小判はそれぞれの金庫にしまわれ、悪い小判ばかりが流通するということになります。悪貨を発行したことによって、良貨は姿を消すのです。「悪貨は良貨を駆逐する」という格言は、この現象を言ったものです。

 

江戸時代の小判で例を話しましたが、古今東西、同じような話が多くあり、ギリシャ・ローマ時代から、この種の現象があったようです。

 

良い小判は金庫にしまわれますが、貨幣偽造の犯罪組織がもしあれば、「良い小判8枚、すなわち8両を、9両すなわち悪い小判9枚と取り替えましょう」と越後屋や紀伊国屋に持ちかけることでしょう。越後屋や紀伊国屋も、800両が900両になりますから、これに応じる可能性がある。犯罪組織は、良い小判8枚を熔かして80グラムの純金を得て、これから悪い小判10枚すなわち10両を作ることができますから、9両支払っても利益が出る。

水戸黄門が摘発してくれないと、「おまえも悪いやっちゃのう」「いやいや越後屋の旦那にはかないません」といった展開になり、金庫からも良い小判が駆逐されかねませんね。

 

「悪いものでも通用するならば、良いものを使うのはバカらしい」というのが、悪貨が良貨を駆逐する原理です。

「この程度の品質でも、誰からも叱られないし、普通に給料もらえるならば、もっと一生懸命やって品質を上げるのはバカらしい」という展開にもしなれば、組織は腐敗していくことになります。

ですから、一流企業は、「悪貨が許されるような状況」を絶対に許さないのです。

これから夏場を迎えることになりますが、女子の制服がなくなってはじめての夏場、「あんな格好でも許されるならば、キチンとした格好をしているのはバカらしい」という展開にもしなれば、やはり、悪貨が良貨を駆逐する状況と似通っています。

 

さて、「良評は悪評を駆逐する」といった格言は存在しません。

私がいま、作りました。

 

5月9日の部門責任者会議で配られた「パブリシティーブック2006年度」について、岡野会長のお話からヒントを得て、今、発明したばかりの格言です。

 

パブリシティーブックは、1年間に、当社SSGが新聞、雑誌、インターネットなどに掲載された記事220件の中から主なもの140件を選んで、本の形式にしたものです。当社の事業、サービス、戦略、施策などが、様々な角度から紹介されています。

つまり、当社に関する良い評判、「良評」(りょうひょう)とでも言いましょうか。ただし、こんな言葉はないようです。

 

「もし、良い評判・良い評価が十分に出回っていれば、悪い評判・評価が出たときに、それを駆逐することができる」というのが「良評は悪評を駆逐する」の主旨です。この主旨を、部門責任者会議で岡野会長がおっしゃっていました。

 

まさに、そのとおりですね。

例えば、トヨタに何か悪評が立ったとしても、「それは何かの間違いだ」とか「ごく限られた部分についてのことだろう」と、世間は考えるのではないでしょうか。キャノンや松下電器、セブンイレブンなどもそうでしょう。「良評」が十分に出回っていれば、万が一、悪評が立つような状況においても、すべてを失うようなこと、完全に信用を失墜するようなことは起こりません。

一方、そうでない企業の場合は、「組織ぐるみじゃないのか」とか「氷山の一角だろう」などと思われ、一気に信用を失う恐れだってあるかもしれません。

 

会社組織において、「良評」を十分に流通させておくことは、時間がかかるし、地味な努力の継続です。

また、会社組織において、「悪貨」を流通させないマネジメントとは、油断をゆるさず、好き嫌いによるエコヒイキなどと完全に無縁な世界を作らねばなりません。

 

悪貨を許さず良貨を守り、良評によって悪評を無力にする会社組織は、かなり強い組織でしょう。私たちが目指したい姿でもあります。

 

 

 

2007517日 2種類の頭のよさ

 

人を「黙らせる頭のよさ」と、人に「話させる頭のよさ」。

 

「ディベートなら絶対に勝つ」ではありませんが、誰をも黙らせる頭のよさを持っている人がいます。

知識、すなわち、あれも知っている、これも知っているという方角では、この人に構いません。中途半端な知識で立ち向かったら間違いを指摘されそうで怖い。

経験でも同じ。あんなこともこんなことも経験しているこの人には、若く経験が浅い人は「オレはそれよりヒドイ状況を経験したけど、な!」とか「おまえは知らないからそんなことを考えるのだろう」とやられてしまえば、二の句が継げません。

考えの深さについても同様。「そういうスコープで考えればそうなるが、しかし」とか「逆な観点から考えたことがあるか?」といわれたら黙るしかないかもしれません。

 

「黙らせる頭のよさ」を持っている人は、誰から見ても「頭の良い人」であり多くの場合「怖い人」でもあるものと思います。

 

状況が単純なとき、あるいは、組織を徹底して同一方向へ走らせる必要があるとき、この「黙らせる頭のよさ」が有効です。

 

たとえば、まだ未成熟な組織で、市場に参入したばかりの状況であれば、自分たちの特長を出すために、そして特長を追求することで組織の堅さ・強さを作りたいとき、「黙らせる」ことが大きな力を発揮します。

人材派遣ビジネスでいえば、稼働者数が小さく市場に参入したばかりの段階なら、契約終了や約定終了者に多少目をつぶってでも、新規受注と新規登録者をできるだけ多く、迅速に開始させることに効果があります。このとき「終了に構うな!新規を開始させろ!」と、ある意味ではみんなを黙らせて、組織を同一方向へまい進させることに効果があるものと想像します。

 

しかし、たとえば、今の当社全体の事業規模であれば、どうでしょうか。

終了の数も開始の数も半端ではありません。もし、終了を1割でも減らすことができれば、たいへんに大きな成果となります。

しかし終了には様々な理由があり、「黙ってこれをやれ!」と言える施策は、「終了予定をできるだけ早く把握する」ぐらいしかありません。

例えば、実は、何ヶ月も前の人選の段階でミスマッチがあり、この機会に切られてしまうケースが多いのかもしれません。

例えば、実は、このミスマッチによってスタッフさんに継続の意思が弱く、「実は辞めても良い」と派遣先の方に話していたかもしれません。

例えば、実は、新卒正社員の大量採用にともなって、こまごまと多くの派遣会社を切るよりも、大手をスパッと切った方が簡単だと派遣先企業が考えたのかもしれません。

例えば、実は、同業他社が新卒派遣を大量に採用して、安い単価で大手企業に提案していて、そのあおりで当社が切られたのかもしれません。

例えば、実は、当社の対応に嫌気がさしていたスタッフさんたちが、派遣先でグチッていたのを派遣先が知り、「それなら」ということで当社を最初に切ったのかもしれません。

 

終了の理由は様々でしょうし、単一の理由ではなく、いくつかの理由が複合して起きている場合も多いものと想像します。

事業規模が小さかった頃は、様々な理由のもとアチコチで発生する終了に対して、単一のマネジメント施策はありませんから、そもそも事実を把握するヒマがあったら、他のことをやったほうがよかったかもしれません。

 

しかし、今の当社の事業規模であれば、終了数を減らす施策は、積上げはもちろんのこと、利益に大きく貢献するものとなるはずです。

このとき、様々な事実を把握し、何からやっていくか、どこから始めるかで、効果はだいぶ違ってくるでしょう。

 

「様々な事実を把握する」にはどうしますか?

残念ながら、NCPシステムは終了理由を語ってはくれません。

現場の声を聞くしかありません。営業、コーディ、あるいは業務に入る電話も参考になるかもしれません。

このとき「黙らせる頭のよさ」では、事実を把握できません。入手できた一部の情報だけを信じて、間違った判断をしてしまう怖れがあります。

 

「話させる頭のよさ」とはどういうものでしょうか。

知識も経験も、考えの深さも卓越していながら、相手から事実や意見を引き出せる頭のよさ。

先天的にこういったキャラの人がいないわけではありませんが、実は多くの場合、ねらってやっているのです。そんなことは言わずに、感じさせずに。

 

もし自分が「黙らせる」タイプだと思ったら、「話させる」タイプの役者をうまく配置してマネジメントするというのも、別な種類の頭のよさですね。

 

 

 

2007518日 誰のための服装か

 

ピラミッドのあるエジプトは、世界中の観光客にとっての人気スポットです。

このエジプトで、外国人観光客が撃たれる・襲われるという事件が発生しています。ここ最近は少なくなってはいますが、外務省が定義する危険な地域であることには違いありません。

 

サングラス+タンクトップ+ショートパンツ+サンダルといった、欧米や日本の女性観光客が特に、犯人たちを刺激しているとのことです。犯人たちは「侮辱されている」と感じていると聞いたことがあります。

 

アフリカの中では比較的平和なエジプトですが、イスラム教信者が多い。イスラム原理主義の人々から見れば、彼らにとって神聖な場所であるはずの観光スポットを、肌を露出した、ふざけた格好で闊歩する異教徒は許せないのでしょう。

ここ最近、事件が少ないのは、外国人観光客の多寡が獲得外貨の多寡を決めることから、観光地の安全性が国家財政等にとって最重要課題であると考えるエジプト政府が、警察等を強化しているからとも言われています。

 

服装や髪型を注意されると、「誰にも迷惑をかけていない!」と反論する人がいますが、そもそも「服装で迷惑をかける」というのは、相当ヒドイ服装ですから、たしかに迷惑まで行っていないかもしれません。しかし、「配慮していない」「敬意を払っていない」ケースは山ほどありますよね。

「暑いから」という理由でエジプトを半裸で闊歩する人たちは、自分のことしか考えておらず、そこに住む人々、そこで暮らす人々、そこを守る人々には全く敬意を払っていないと言えるでしょう。

 

さて、内勤従業員に、私服が許されました。

しかし一方で、お客様企業を訪問する営業部門はスーツのままです。これは言うまでもないことですが、お客様に対して敬意を払っているゆえのことです。

また、内勤従業員であっても、男性はスーツ、あるいはシャツにタイのスタイルと決められています。

 

この状況にあって、内勤で女性の多い職場において、女性のみなさんが、営業部門に対する敬意、電話の先の相手に対する敬意、男性内勤者に対する敬意を払って、その上で夏場に、いかにさわやかな服装をしてくださるのか、実は私、楽しみにしています。

 

「ドレスコード(dress code)」という言葉があります。

「大統領主催の晩餐会のドレスコードは、もちろん、フォーマルです」というように使います。あるいは高級フレンチなどでは、男性は上着ならびにタイの着用が「ドレスコードにより求められています」というように使います。

 

このドレスコードには「フォーマル」「セミ・フォーマル」などの他に、「スマート・カジュアル(smart casual)」というレベルが定義されています。別名「ビジネス・カジュアル(business casual)」。

「定義」という表現を使いましたが、実は、この部分の定義はなかなかにむずかしい。

フォーマルなどであれば、「男性は、夕方以降であればタキシード」というようにアイテムが決められていますが、スマート・カジュアルはそう簡単に定義できません。

 

ただし、「smart」という言葉が持つニュアンスが、スマート・カジュアルと呼べるか、あるいは単なるカジュアルと呼ぶべきかを区別しています。

smart」は日本語の「スマート」とニュアンスが異なり、「頭がよい」という意味を持っています。「スタイルがいいけど頭がパー」な人を「smart」とは呼びません。むしろ、スタイル=体型あるいは体型を中心とした見た目はあまり気にしません。「頭がよくてクール」といったような印象のときに、よく使われる表現です。

 

ですから、スマート・カジュアルは、

  「あの格好は、ここで働くためのものではないね」

  「何、考えているんだろう」

と思われてしまうようなものではいけません。

 

 

夏場、スーツを着用しなくともよいということに、ただ甘えるというのではなく、周囲に配慮し、顧客に敬意を表し、スマートな着こなしをして欲しいと思います。

服装は自分のためなのですから。

 

 

 

2007521日 魔法のクスリはありません

 

「この方法を採用すればすべてがうまくいく」「あらゆる問題を解決する」といった魔法はありません。世の中はそんなに単純ではない。

 

地球温暖化を防ぐ施策として、エタノール燃料の活用が注目されています。サトウキビやトウモロコシを原料として、抽出できるエタノール=エチルアルコールがガソリンの代わりをするというものです。ブラジルなどでは、エタノール車が多数走っています。

 

そもそもガソリンは化石燃料である原油から精製されています。

化石燃料とは、地球46億年の歴史の中で、生物の歴史が40億年ぐらいある、その生物の屍骸の堆積から得られる燃料のことです。油の部分が集約されたものが原油であり、炭素を十分に含んだガスが天然ガスです。原油は、植物、動物、微小な生物などの40億年の累積でできているものなのです。

 

40億年が作った原油を、ここ100年あまりでずいぶんと使ってきました。

40億年の地球の営みを、人類という単一生物が、あたかも神にでもなったような振る舞いでボロボロにしているといったカンジですね。

「原油を燃やしてエネルギーを得る」という方法は、「非可逆」といい、「逆方向には回せない」ものです。原油はなくなる一方です。

 

ここに、エタノールが注目される理由がありました。

エタノールは、人間が栽培する植物から得られるのです。人間が、食べるために麦や米を栽培するのと同じように、人間がエネルギーを得るためにサトウキビやトウモロコシを栽培できるのです。

そしてさらに、植物を栽培する=緑を増やすことによって、光合成によって二酸化炭素が酸素に変換され、そもそもの問題意識であった地球温暖化にブレーキをかけることができるのです。

特に、開発が進むことによって環境が破壊され、緑が失われつつあるブラジルや中国などにとっては、原生林を畑に変えればよいわけですから、環境問題に大きく配慮した考えであると言えるでしょう。

ブラジルなどの途上国においては、環境問題、エネルギー問題の解決にとどまらず、畑を作ることで雇用が生み出されるという経済的メリット、エタノール車に関して先進国よりも技術を先行させることができるメリットなど、数多くの長所が認識されています。

 

どう考えても素晴らしい方法であり、様々な問題を解決しながら、新たな問題を何も生まないもの、つまり「魔法のクスリ」のように考えられてきました。

 

ところが大問題があるのです。

サトウキビやトウモロコシは、食材である以上に、実は飼料なのです。ウシ、ブタ、トリなどのエサなのです。

サトウキビやトウモロコシが魔法のクスリ=エタノール精製に利用されれば、飼料として出回る分が減ることは明らかです。まず、飼料の価格が上がります。次に、牛肉、豚肉、鶏肉の価格が上がります。さらに、他の飼料=麦などの穀類の価格が上がり、他のたんぱく源=羊肉や魚肉、大豆などの価格も上がります。

つまり食費が上がるのです。

 

このデメリット、問題が深刻となるのは貧しい国です。

「食べるものを作るのが精一杯」である国や地域は、エタノールのために食料を得ることがより困難になってしまうのです。

 

魔法のクスリは存在しないのです。

「多くの問題を解決し、同時に、新たな問題を何も生まない方法」は、地球や社会、あるいは大きな組織においても、ありえないものなのです。

 

例えば、「業確設定数」。

業確設定数を上げることが開始本数を上げることにつながることは、明白です。ですから、この指標を追求することには何も問題はありません。

しかしながら、当社のような大きな組織が、「業確設定数を上げることに全組織が徹底してまい進する」と、別な問題を生む可能性がでてきます。

 

たとえば、「それさえやればいいんでしょ」という本来の目的を失う行動パターン。大きな組織になれば、必ず、この種の「悪貨」が生まれてきます。

たとえば、受注内容とスタッフ個性を見極め、品質の高い業確を設定してきたオフィスがあったと仮定します。つまり、業確設定数は高くないが、開始本数が大きい。このオフィスの良い部分を殺す可能性があるでしょう。良い人が辞めてしまうことになりかねない。

たとえば、スタッフの立場から見て、自分の希望に合った業確が多数設定されればチャンスが大きくなるものの、希望と異なる受注を勧められる怖れが高まらないか。

たとえば、業確設定数を頻繁に報告させることによって、一日中報告準備と報告に忙殺されるマネージャが出てきたら、どうなんでしょうか。

 

業確設定数が悪いのではありません。

エタノールが悪いわけではないように。

「魔法のクスリ」あるいは「最善の策」と思われた方法が、実は、別な新たな問題を発生させることは、むしろよくあることなのです。それらの問題をできるだけ抑えて、施策の有効な部分を最大限引き出すことが求められているのです。

 

エタノールについて言えば、飼料のために栽培されている既存のトウモロコシ畑がエタノール用になってしまうことから、食材価格上昇とそれによる格差問題が広がるわけですから、たとえば、新たに作成された畑だけをエタノール用にするなどの政府の規制が必要かもしれません。

あるいは、原子力や風力、地熱など、他のエネルギー利用をもっと推進させ、トウモロコシ畑が地球上に広がるまでの時間をかせぐ施策に効果があるかもしれません。

 

魔法のクスリを追いかけていては、人類は賢くなれません。もちろん、会社も賢くなれません。あらゆる問題を考慮し、デメリットを最小限にしながら、メリットを最大限に生かす方法を探すことで、人類も組織も賢くなるのです。

 

 

 

2007522日 自然科学と社会科学

 

物理学、化学、生物学などの自然科学は口語では「理系」とか言われますよね。

一方、経済学、法学、経営学、哲学などの社会科学は「文系」と言われます。

 

自然科学と社会科学の違いを説明するのは難しいのですが、私は、「定義」あるいは「定義する対象」に大きな違いがあるように思います。

 

自然科学では、距離とか速度、加速度、分子、原子、遺伝子、両生類などが定義されています。科学の進歩によって、定義自体が見直されることはありますが、「加速度とは何か」とか「両生類の定義があいまいだ」といったような議論は聞きません。つまり、定義された概念にはほとんど議論の余地はなく、議論の対象は、自然界の法則やその理由、理論なのだろうと思います。

 

一方、社会科学では、キッチリ定義できるものがなかなかありません。たとえば、国家、組織、幸福、満足、被害、理性といった概念を考えてみても、人によって定義が異なる場合がしばしばあります。

 

物理学者アインシュタインの代表作「特殊相対性理論」は、難解ではありますが、距離、時間、速度など、定義されている概念を正しく理解して読み進めば、理系の大学生であれば、この論文を理解することができるハズです。

一方、哲学者カントの代表作「純粋理性批判」は(これも難解ですが)、多くの人が最後まで読み進むことができますが、「理解が浅い」とか「主旨を正しくつかんでいない」ということがままあります。それどころか、発表から100年あまりが経った現在ですら、この論文をいかに理解すべきかを、学者たちが議論している側面すらあります。

 

ビジネスは社会科学、文系です。

市場、顧客、成長性、収益性、戦略、戦術、営業、サービスなどの概念は、定義することはできますが、日本人全員が同一の定義に賛同するとは思えません。あるいは、「営業」という言葉にどんな意味を含むか、どこまでの範囲を含むかは、人や組織によって異なるでしょう。

それでも会計学の対象となるような概念、すなわち会社の決算に関係するような概念は、かなり厳密に定義されます。

例えば、契約の効力発生を意味する「開始」やその逆の「終了」については、議論の余地はないでしょう。一方、当社のような業態、すなわち発注書を事前にもらえない業態において「受注」を定義することは容易ではありません。

 

当社の新営業システムは、受注のように定義が困難な対象についてもできるだけ厳密に定義し、あらゆるイベントを定量化できるように、あるいは定量的マネジメントが可能なように考えられています。大変に優れたマネジメント・システムだと私は考えます。

一般企業の多くが、売上額や利益額など、会計学で定義できる概念だけをマネジメントの対象としていることとは異なります。つまり、一般企業が「売上を増やせ!」としか言わないとすれば、当社ならば「開始を増やすために業確設定数を増やす。そのために本人OK数を増やさねばならず、お仕事紹介数を増やせ!」となるでしょう。「本人OK」とか「お仕事紹介」といった、厳密な定義がむずかしい対象に対してさえ、定義を試み、ビジネスのプロセスを定量化しようとしているのです。

 

つまり当社は、文系分野であるビジネスに対して、「定義があいまいなゆえに精神論に陥る」という愚を避けるように、「自然科学のように各プロセスを定義し、定量化して分析する」というマネジメント・スタイルをとっているのです。

 

ここまでの文章で、自然科学=良い、社会科学=悪いという印象を受けたかもしれませんが、実は今回の文章は、ちょっと長いものになりますが、ここからが本題なのです。

 

社会科学における定義は、ある意味であいまいです。

しかし、一方で、「定義自体に、ある意味、意思、主張を盛り込むことができる」という特長があります。

哲学者プラトンの「国家」には、「国家とはこうあるべきだ」という主張が込められており、「国家を町や集落などと区別して定義すること」が主眼ではありません。

マキァベリの「君主論」には「君主とはこうあるべきだ」という主張があり、ガルブレイスの「豊かな社会」には「世界はこう変わってきている」という主張があるのです。

 

当社のコーディネート部門には「コールなくして開始なし」というモットーがあります。

当社のマネジメント・システムは、ここでも本領を発揮し、コールを定義し、コール数をカウントしています。電話をかけ、相手につながればコール1本。

自然科学のように、コールというイベントを定義し、それを定量化する。これは優れたマネジメントです。

しかしながら、「コールなくして開始なし」が発する意味を忘れてはいけないのです。

 

例えば、コール1本を先ほどのように定義したとき、「コール数さえ上げていれば仕事をしたことになる」と曲解すると、たとえば、同じ人に何回も電話をかけてコール数をかせいだり、電話しやすいスタッフさんばかりに電話することになりかねません。

 

また、マネジメント・サイドにも考慮が必要です。

例えば、今日、頑張って「本人OK」を5本取ったコーディネーターがいると仮定します。本人OKを取るには、仕事の説明を詳しく話したり、相手の希望を聞き出したりと、1本の電話が長くなることは間違いありません。1本の電話の重みが違うのです。こんな場合でも、1日のコール数のノルマを守ろうとすれば、夕方以降に「無駄電話」でコール本数をかせがないとノルマに届きません。

 

「コールなくして開始なし」が発する意味、目的を理解せず、単にコール数をかせごうとするコーディネーターにも問題はありますし、単にノルマを守らせようとするマネジメントにも問題があります。

 

例えば、プラトンがある主張を持って国家を述べたとき、そこで述べられた形だけを守って国家を作っても意味がありません。

民主主義にせよ、業務改革にせよ、どんな意図を持って発せられたメッセージであるかを理解せずに、形だけ、定義を守るがごとく、形式だけをマネても意味がないのです。

 

当社のマネジメント・スタイルは、自然科学の手法を取り入れ、厳密に定義し、定量化し、分析して戦略を練り直すという特長を持っています。

ここに、社会科学の良さを取り入れ、意味や目的を追求する姿勢を強化すれば、日本でも、いや、世界でもまれな優れた経営であると言えるでしょう。

 

 

 

2007523日 酸素

 

酸素がなければ死んでしまいます。

我々人類だけでなく、生物はみな死滅するでしょう。

と言いたいところですが、実は、生物がみな、酸素を吸って生きているわけではないのです。

 

地球の歴史は46億年。

生物の歴史は40億年。

「光合成」を行う生物が生まれてから27億年。

酸素を吸って生きている生物は、その後から出てきたのです。

 

生物は海から生まれました。

最初の生物は、バクテリアみたいなもの、細胞が1つしかない単細胞生物でした。

当時の地球、地表の部分は、暴風が吹き荒れ、気温の変化が激しい過酷な環境でした。海で生まれた生物は、気温変化が緩和され、暴風の影響が小さい海で進化し、多種多様な生物種に広がっていったのです。

こんな中で、27億年前、光合成を行う生物が生まれました。太陽の光エネルギーを取り込んで自分のエネルギーとするのですが、そのとき、二酸化炭素を吸い込んで、排泄物として酸素を吐き出すのです。

 

実は現在でも植物の多くは光合成を行っています。

太陽光と二酸化炭素で酸素を作る。ですから植物の多い森林の空気はおいしく、また、過剰な二酸化炭素による地球温暖化を止めるために緑を増やそうという動きがあるのです。

 

27億年前、光合成を行う生物が登場する以前、地球に酸素はありませんでした。

酸素は非常に危険な気体です。温度が一定以上に上がり、そこに酸素と燃えるべき対象物があれば、マッチをすらなくとも自然発火してしまうのです。燃える、あるいは、酸化する=酸素を取り込んだ形に化学変化する、というのは激烈な変化と言えるでしょう。鉄がさびるというときの「さびる」は酸化することを意味します。酸素さえなければ、鉄その他の金属はさびないのです。

 

海の中の生物が光合成を行い、酸素を排出する。気体である酸素は海の水より軽いから、当然、海から湧き出してきて、地表を覆う。これによって、地表の空気は酸素を含んだ、言わば危険な空気となったのです。

 

生物はどうして海から出てきたのでしょうか。

生存競争が厳しくなった海、特に、太陽エネルギーをたくさん受けることができる海面スレスレや、海岸近くは、生物の宝庫であると同時に、生存競争が最も厳しいエリアだったものと思います。「ここにいては食われる」あるいは「ここにいては食べるものがない」と考えたある種の生物が、思い切って地上に出てきたものと想像します。

 

しかし、地上には危険な酸素があったのです。

鉄が勝手にさびるように、化学変化を強力に促す酸素。あるいは、自分自身が「燃えるもの」となるかもしれない、酸素の豊富な地表に出て行く。かなりリスキーであったものと思います。

 

ところが、その後の進化の歴史は、酸素を使うタイプの生物が繁栄することを示しています。

 

今日のテーマは、リスクを取るということです。

 

「危険を顧みず」というよりも、危険である酸素をむしろ活用したわけですから、「危険要素をむしろプラスに使って」生きてきた生物が繁栄したのです。

 

あなたは、どんなリスクを取っていますか。

「これまで成功してきたやり方に対して、失敗するかもしれない新しい方法でやってみる」ことは、海から出て、酸素を使って生きていくために、「海面から頭を出してみた」みたいなものかもしれませんね。

 

 

 

2007524日 気づくのが遅い人

 

敏感か鈍感かという問題ではありません。

「過去の栄光」が邪魔して、本人とか当事者が一番最後に、「栄光が過ぎ去ったこと」に気づくと言うハナシです。

 

みなさん、日本で最も発行部数が大きい雑誌、何だかご存知ですか?

週刊マンガ雑誌「少年ジャンプ」です。圧倒的な部数です。

大人としてはちょっと哀しい事実ではありますが、二位以下を大きく引き離しています。また、米国などの外国でも発行部数を伸ばしています。

 

少年ジャンプは後発です。

小学館の少年サンデーと講談社の少年マガジンが、それぞれ昭和30年当時に発売され、「二強」と言われていました。集英社の少年ジャンプは10年後の昭和40年頃だったと思います。

少年ジャンプが発売開始された頃、実は、少年マガジンの「天下」でした。

「巨人の星」「あしたのジョー」「サイボーグ009」「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」などの人気漫画を擁し、圧倒的な発行部数を誇っていました。私自身、小学校の高学年だったせいもあり、よくおぼえています。

 

少年マガジンは「巨匠」と呼ばれるような人気漫画家を多数配していました。

一方、後発の少年ジャンプは、部数が少ない=予算が小さいせいか、「新人漫画家」を発掘して、育てる、あるいは一緒に育つという戦略をとらざるを得なかったものと想像します。

しかし、これが当たったのです。

「男一匹ガキ大将」「ハレンチ学園」に始まり、「ガキデカ」「こちら亀有派出所」「ドクタースランプ」「ドラゴンボール」「ワンピース」「ヒカルの碁」「デスノート」というように続きます。

 

少年マガジンが少年ジャンプに発行部数で抜かれたとき、あるいは、抜かれた後、少なくとも読者の立場から見れば、「気づいていないな」という様子でした。中学生の私にすらわかるようなカンジだったと記憶しています。

少年マガジンは相変わらず「巨匠主義」で、ついに手塚治虫を引っ張り出し「三つ目がとおる」などの連載を開始しますが、高い原稿料=コスト増により、打つ施策がどんどんせばまっていくようでした。つまり、発行部数=収入が減っていく過程で、人気漫画家採用=コスト増で挽回しようとしたのでしょうが、過ぎ去っていく栄光を取り戻すことはできませんでした。

私の印象では、少年マガジンが「気づき」、現実を受け止め、戦略を変えたのは、少なくとも読者層にそうわかるように転換したのは、負け始めてから10年以上経った後だと思います。

 

もう一つの少年マガジンが「とらばーゆ」でしょう。

 

「とらばーゆ」は一次、「化け物」と呼ばれるぐらいの存在、すなわち、発行部数だけでなく、社会への大きな影響力すら持っていたものと思います。

「とらばーゆする」という表現が流行したことをおぼえています。

 

しかし、今は、どうでしょうか。

ためしに、大手町ファーストスクエアビルの地下にあるコンビニ店で、とらばーゆを探してみましたが、みつかりにくい場所にひっそりと二部だけが、あたかも売れ残っているような風情で置いてありました。

とらばーゆは週刊誌であり、水曜日発売とのことです。私がコンビニの雑誌売り場を見たのは金曜日の朝でした。この雑誌の性格を考えれば、「金曜日に買って帰って、週末にじっくり考える」購入パターンが予想されるので、金曜日朝であれば、目立つところに多くの部数があってしかるべきではないでしょうか。

つまり、とらばーゆの栄光は過ぎ去ったものと考えるべきでしょう。

 

もう一つの少年マガジンが、とらばーゆ。

 

それでは、とらばーゆ発行元のリクルート社も、かつての講談社のように、「気づくのが遅い人」なのでしょうか。

 

これは違うと私は思います。

むしろ、「とらばーゆはそろそろ落ち目だろう」と誰よりも早く考えたのはリクルート社であり、「そうであれば、他社にチャンスを与えるのではなく、その次の施策を早く打とう」と考え、「それなら、次の施策、ネットやフリーペーパーでも自分たちが先を行き」というか「その動きをむしろ自分たちが作り出し」「自らの手でとらばーゆを手仕舞う=終わりにする」と考えていると、私は想像しています。

 

リクルートは賢い会社です。

 

もしかすると、とらばーゆについては、「気づくのが遅い人」は発行元のリクルート社ではなく、それを使って「過去の栄光」を経験した、私たちのような掲載元かもしれませんね。

そうでないことを祈ります。

 

 

 

2007525日 スポーツと運動

 

「身体を動かす」という共通点があるものの、スポーツと運動には大きな違いがあります。

厳密に言えば、運動というカテゴリーの中の特殊なものがスポーツであり、スポーツは次の3つの条件を満たすものと考えられています。すなわち「ルールが決められている」「競争相手がいる」「勝敗がある」。

ですから、一人で黙々と皇居の周りをランニングしているのは運動ですが、スポーツとは呼びません。

 

健康増進のために、従業員のみなさんには運動を勧めますが、スポーツをやれと言ったのでは、違う次元の話になりますよね。

 

今回の主旨は、「ビジネスはスポーツのようだ」というものであり、「単なる運動じゃありません」ということです。

 

スポーツは、ルールのもと、相手と勝敗を競うものです。

そこには勝利があり、敗北がある。自分が勝ったときには、相手が敗者であり、自分が負けたときには勝者が別に存在する。ここが運動との大きな違いでしょう。

スポーツでなくとも、運動であれば、身体を鍛えることは可能です。

しかし、スポーツでのみ経験できる「勝利」「敗北」「相手の勝利」「相手の敗北」「反則による罰則」「相手の反則により転がり込むチャンス」などが、肉体だけでなく、精神をも鍛えるものだと私は考えています。

 

紳士の国、英国では、数百年も以前から、紳士を育てるには学問だけでは不十分で、スポーツが必須であると考えられてきています。

ボート、クリケット、ホッケー、テニス、ゴルフ、乗馬、そしてサッカーとラグビー。英国で発明されたこれらはすべて、競技として、つまり運動ではなくスポーツとして発展してきたのです。

 

ちょっと脱線しますが、「ラテン語の時間」「数学の時間」「スポーツの時間」というように、英国では教育の一環としてスポーツが位置付けられてきました。

英国発の前述のスポーツのうち、テニスとゴルフとサッカーは、爆発的に世界に普及した結果、他の国では、教育の一環という位置付けとは異なるポジションになったりしていますよね。

テニスでは、自宅にテニスコートを作り、幼少の頃から専属コーチをつけて、テニスだけを追及する大金持ちが欧州諸国に現れ、天才が次々に生まれています。「ウィンブルドン現象」と英国人自身が皮肉って呼ぶ現象があります。英国が生んだテニス、英国伝統のウィンブルドン競技場ならびに競技、しかしそこには英国人プレーヤはおらず、外国人ばかりが活躍している現象。

ゴルフも同様、親子でゴルフだけに熱中してきたタイガー・ウッズに代表される米国人プレーヤーなどに、「スポーツがすべてではない」という位置付けの英国人プレーヤーがなかなか勝てない状況が続いています。

最も顕著なのがサッカーです。

芝生のフィールドどころか、路地裏で一日中サッカーをしている貧しい国々、ブラジルやアルゼンチンがサッカーを全く別なスポーツに仕立て上げたのが、もう100年以上も前。イタリアが自分たちを「カルチョ(=サッカー)の国」と呼ぶことを苦々しく思いながらも、決して英国人は自分たちを「フットボールの国」とは呼びません。

 

閑話休題(かんわきゅうだい)=脱線したハナシを元に戻すときに使います。

 

ビジネスはスポーツのようなものです。運動ではありません。

「自分の仕事は、これをこなすだけ」というのは、「自宅の周りをマイペースでランニングする運動」であって、「やる気のない日は走らない」「疲れたら走らない」「速く走ろうとは思わない」みたいなことになりかねません。

 

会社の事業というスコープで考えてみれば、法令・規制などのルールがあり、競合他社という相手がいて、事業規模や利益規模といった基準で勝敗もある。

しかしながら、自分の仕事というスコープとなると、とたんにスポーツではなく運動になってしまう人や組織は多いものです。

特に、勝敗が定義できないのです。

 

たとえば、契約事務や給与計算を担当している業務部門は、勝敗をどう定義したらよいのでしょうか。

実際には、個々の業務について勝敗を考えることは容易ではありません。

自分たちで、意味のある勝敗を定義しないといけないのです。

 

たとえば、生産性についての目標を設定し、そこに一定期間内に届くかどうかで勝敗を定義する。

たとえば、顧客満足についての指標ならびに目標を設定してみる。

たとえば、人材育成についての基準、指標、目標を設定してみる。

 

会社組織全体が、運動ではなくスポーツをやっているようであれば、それは相当に強い組織であると考えられます。

 

 

 

2007528日 最強の差別化要因

 

市場で競争している企業にとっての、最大・最強の差別化要因は、私の考えですが、教育です。従業員教育。

 

当社の「教育力」を客観的に評価・分析してみたいと思います。

 

私の意見を、結論から述べれば、「新人の早期戦力化に関する教育力は抜群」である一方で、「マネージャ層など、管理職や指導者を育成する教育力に課題がある」となります。

 

今回のテーマは、後者の課題について考えるものです。

 

企業の「教育力」を高めるにはどうしたらよいか。

研修制度や豊富な研修スケジュールと答える方が多いかと想像しますが、私はそれよりも、「自分が成長しようという意欲」だと考えます。

メンバーを教育するのがマネージャだとすれば、それでは、マネージャを教育するのは誰でしょうか。あるいは、その教育者を教育するのは誰でしょうか。結局、企業では教育する人も教育を受ける人も、全員がその企業の構成員なのです。教育する人は、別な観点では教育を受ける人になります。企業の中では、あらゆる人が、教育をする人であり、同時に、教育を受ける人であるのです。

教育効果を最大限に上げるには、教育を受ける人の意欲でしょう。当社の構成員全員が、教育する人であると同時に、教育を受ける人であるならば、全員の意欲が第一のポイントとなります。

 

「成長意欲」という第一のポイントを強化するには、あたかも「教育する一方で、教育を受ける側には見えない」上層部の方の、自分自身にかんする成長意欲だと私は考えます。GMやCTCなど、当社では「出来上がった」ように思われている方たちの、自分自身にかんする成長意欲です。

上層部が「上に行こうとしている」様子が見えれば、全員が引きずられるようにして上に向かうのです。一方、上層部にスゴロクの「上がり」のような様子が見えれば、「上が詰まっている」「このポジションならこの程度でよい」という空気が充満し、成長意欲は生まれません。

 

第一のポイントが「成長意欲」、第二のポイントは「対象の絞込み」です。

「自分がいま教育すべき相手は誰と誰であるか」を明確に絞り込むことです。

冒頭で述べたように、当社は、「新人の早期戦力化に関する教育力」あるいは、「全員を徹底して、あるレベルまで上げる教育力」あるいは「全員に同じことを考えさせる教育力」はすぐれています。しかしながら、教育対象者母集団は大きく様々であり、それぞれが抱える課題は千差万別です。

 

ちなみに、私のこの原稿は、以前に申し上げたことがありますが、5段階評価の5と4と3の人が対象、すなわち、平均以上の知能と向上心を持った人を対象に書いています。

例えば、5月18日「誰のための服装か」に対して、主旨を理解せずに「どーしてアタシたちが内勤男性に敬意を表さなきゃならないわけぇ!」と反発するレベルの人に対しては、この原稿が、あるいは私が教育を担当する必要はないと考えています。

 

たとえば業確設定数やコール数。

「業確設定数さえ上げれば、あとはすべてOK」などといったオフィス・支店は、おそらく1つも存在しないでしょう。

たとえば、行動量最大化がチャンスの最大化=業確設定数の最大化につながっていない組織においては、実績をあげるための「回し方」を身に付けてもらえばよいかもしれません。

しかし、たとえば、本人OKを気軽にたくさんくださるスタッフさんをねらってお仕事紹介を乱発し、結果として、業確設定数は上がったものの業確実施数が上がらないといった事態が発生しているとすれば、教育の内容に問題があったハズです。

このような事態を招いてしまうオフィス、あるいはコーディは多くはないと思いますが、そういう対象者には、そのレベルに合わせた教育が必要なのです。

 

全員に一律に「同じことを同じように伝える」のは、実は教育とは呼びません。

単なる「伝達」であり、テレビやラジオが担っている「放送」と大きな違いはありません。

 

教育のポイントの第三は「ほめる」ことです。

ほめることのメリットは、「ほめられた人のやる気が増す」だけではありません。ほめられない人が「どうしたらほめられるか」を考えるための手助けになるのです。

ですから、単に「よくやった」「いい数字だ」というだけでは、ほめることのメリットを十分に生かしてはいないのです。成績優秀者・優秀組織への表彰やねぎらいはセレモニーとして重要ですが、教育材料として使うためには、「なぜほめられるのか」「どこがほめられているのか」をみんなにわかるように表現することに効果があります。

 

織田信長が田楽狭間で今川義元を討った戦では、敵本陣がどこで何をしているかを発見し、「今がチャンスだ」と報告した者が最大の褒章を与えられたと言われています。「戦における情報の重要性」を、全員に教育する効果のあった措置だと思います。

 

「できない人、できない組織を、一定レベルにまで引き上げる」のは教育の第一の要素ですが、もう一つの要素として、「できる人、想像以上にできる人を生み出す」ことがあります。「どうすれば叱られないか」と考えさせるのは前者であり、「どうすればほめられるか」を考えさせるのは後者です。後者を強化するためには、「ほめる」という事例をたっぷり見せてあげる必要があるのです。ほめられる理由をも含めて。

 

みなさん、社内で自分が知るマネージャや指導者のうち、「理想に近い」と思う人を頭に浮かべてみてください。

次に「もし全員があの人のようであったら」と想像してみてください。ワクワクしませんか?

そうなったら、当社は、業績だけでなく、様々な面でよりエキサイティングな組織になっているハズです。

 

私事ですが、私は、週末、ボランティアで小学生にサッカーを教えています。

卒業生の中から、17歳以下の日本代表選手が出ました。

「教育効果は青天井」なのです。

 

 

 

2007530日 P社の上で泳ぐ

 

ストレス・マネジメントあるいはメンタルヘルス・マネジメントの話です。

 

社会で生きていく限り、ストレスがゼロということはありえません。

ストレスに押しつぶされるのではなく、こちらから、ストレスはあるものという前提で考え、それをできるだけコントロールしようという発想を持ちたいと思います。

 

ストレスをコントロールしようと思えば、普通に考えて、

  1)ストレスを発生させる原因となる事柄をできるだけ避ける

  2)原因となる事柄から受けるストレスをできるだけ小さくする

  3)ストレス発散の方法を探す

といった、3つの観点があるように思います。なお、これはシロウトの考えであり、私は、メンタルヘルス・マネジメントの資格などは持っておりません。

 

このうち3)のストレス発散については、人それぞれで様々な方法があるかと思いますが、大手町で働く私のストレス発散法を1つご紹介します。

たまたま、当社の本社の近くに、P社さんの本社が移転してきました。すぐ近くの高層ビルです。この高層ビルの最上階が、実は、会員制スポーツクラブになっているのです。最上階にプールがあり、天井はガラス張り。背泳ぎすると空が見えます。

場所が場所だけに会費は高いのですが、仕事帰りにここで泳ぐと気分が一新されます。特に、下にはP社さんがいるんだな、ずーっと下の方にP社がいるんだな、ずーっと下の方でP社が残業してたり、田植えをしてたりするんだなと思うと、余計にゆったりした気分で泳ぐことができます。

泳いだ後、地下のサントリー直営店で、プレミアム・モルツをブロンズ(銅製)グラスでいただくと最高です。

 

この文章のタイトルから推測すれば、ここで終わりなのですが、今回のテーマは2)の、原因となる事柄から受けるストレスをできるだけ小さくする方法について、です。

 

仕事中に受けるストレスの多くは対人ストレスであると言われています。

つまり、自分の向かいにいるAさんの存在、あるいはその言動が自分にストレスを与えているというケースが多いのではないかと思います。

「苦手意識」は誰にもあるもので、このストレスをゼロにすることはできないものと思いますが、一方で、このストレスをもっと小さくすることはできるでしょう。

 

たとえば、私が採用している方法ですが、「なぜAさんは、あのように言うのだろうか」を考えるのです。それも真剣に。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と、なぜばかりを追いかけるのです。

「なぜ、あのように言うのか」の理由の説明がつけば、不思議と落ち着くものです。

この方法は、たとえ正解にたどりつかなくとも、「なぜ」に対する仮の答えが想像できれば、あるいは仮説が立てば、こちらの精神状態が落ち着いてくるのです。

 

「相手がなぜ、あのように言うのか」を考えるということは、実は、相手の立場に立って考えることにほかなりません。

自分をそこに置いたままで、幽体離脱して、自分と相手を見下ろせる空に昇って、二人を観察してみてください。Aさんがなぜ、あのように言うのか、相手が自分だから言うのか、相手が違っても同じことを言うのか、この状況だから言うのか、この状況とは何なのか、言いながらAさんは何を考えているのか、自分のあのリアクションを受けてAさんのテンションが上がるだろうか・下がるだろうか、などなど。

こうして考えていくと、1秒ごとに自分が落ち着いていく様子がわかります。場合によっては、1秒ごとにAさんが激昂していったとしても、それと反比例するかのように自分は落ち着いていったりするものです。これには訓練がいりますけど、ね。

 

相手のテンションが異常に高いとき、自分が落ち着くのは容易ではありません。

訓練の第一は、「相手の言いたいことが何か」をつかむことであり、その次のステップが「相手はなぜ、そう言うか」を考えることです。

相手の言いたいことが何かをつかめば、ストレスを生むこのイベントが早く完了するでしょう。

相手がなぜそう言うかをつかめば、ここでのストレスが小さくなるだけでなく、今後、この種のイベントが発生することを未然に防ぐことも可能となるでしょう。

 

「給料をもらっている限り、ストレスはある」と考えるべきです。

ストレス発生イベントをできるだけ避ける、受けるストレスをできるだけ小さくする、そしてストレス発散方法を探すという3つのアプローチで、楽しい人生を送ってほしいと思います。

 

ちなみに私は、P社の上で泳いでいるときに、この原稿の発想が生まれることが多いのです。

 

 

 

2007531日 原理主義

 

「イスラム教原理主義」が有名ですが、「原理主義」という言葉とテロリズムは直接的には関係がありません。

イスラム教で言えば、その原典・原理であるコーランのみを信じ、後から出てきた解釈者などの教えや権威を認めないという考えのことをさします。

 

全く違う分野で例を示します。

私は長い間、いわば「ビートルズ原理主義」でした。

小学校高学年でビートルズに心酔した私は、中学生のときにビートルズが解散した後も、ビートルズだけを聴きつづけ、後から出てきた解釈者というか、ビートルズに影響を受けたミュージシャンたちの音楽には見向きもしませんでした。

 

高校生のとき、井上陽水が流行しました。陽水はビートルズの影響、特にジョン・レノンの影響を受けたものと想像しますが、「そうであれば私と同格」と考えた私は、彼の音楽を聴く気持ちにはなれませんでした。

当時、つきあっていた同級生の彼女は井上陽水の大ファンであり、私に陽水の良さをわからせようと頑張りましたが、ビートルズ原理主義の私は聞く耳を持ちません。彼女はビートルズの良さもある程度わかった上で「陽水もよい」ことを私に言いたかったものと想像しますが、原理主義に固まった、かたくなな私を説得することはできませんでした。

これが原因で大学のときに彼女と別れました(多少の誇張アリ)。

 

大学生になると、サザン・オールスターズが流行りだしました。

中心の桑田佳祐はビートルズ、特にジョン・レノンの影響を大きく受けています。ここでも「それなら私と同格」と考えた私は、サザンを聴くことを拒否します。

たまたま大学のときからつきあい始めた次の彼女は、国語の教員になったような人であり、サザンの「乱れた国語」を嫌っていたので、この方角でシンクロした我々はその後、これが原因?で結婚しちゃったのです(かなり誇張アリ)。

 

ビートルズが発したメッセージは、当時の世界に向けたものであり、その音楽は当時の技術を最大限に活用したものでした。もちろん今でもそのまま通用するというか、今なお魅力的なサウンドでありメッセージではありますが、一方で世の中は変わっているのです。

もし、今、ビートルズが生きつづけているならば、また別なメッセージを発しているものと確信します。

 

預言者ムハンマドやキリストが、もし、今、この世界に生きていれば、やはり、根本は同じであっても、違う表現をしていたものと思います。彼らが発したメッセージは、当時の世界の中で、彼ら自身が「言わずにおれない」「語らずにいられない」「行動するほかはない」と感じたものだったでしょう。そうであれば、世の中が変わった今、彼らのメッセージを現在に生きる我々がどう解釈するかに価値があると思います。つまり、原理・原典を尊重するものの、それを現在の状況にいかに生かすかということには大きな意味があると考えます。

 

ビジネスでも同じです。

 

創業者の言ったこと、やったことを、たとえ時代が変わってもそのまま継続する、言わば原理主義で成り立つビジネスは、和菓子の老舗など、ごく一部だと思います。

その組織にあって、どんなに権威のある方が「守れ」と言ったことであっても、時代が、世の中が変わったならば、その意図をくんだ上で、現在の状況に照らし合わせて考え直してみるべきです。

たとえば「5年前に権威ある人が決めたこと」であっても、世の中が変わったのであれば、見直すべきでしょう。

 

世の中は変わっています。

特にここ数年間、企業の行動原理が変わりましたが、それ以上に、個人の行動原理・意識・行動様式などが変わっています。

原理主義をかたくなに守っていては、世の中の変化に取り残されていってしまいます。

 

 

私が井上陽水やサザンを聴くようになったのは、30歳をすぎ、子供ができてからでした。大人になってからです。ビートルズ原理主義から自分を解放するのに20年もかかりました。遅すぎました。

今、私のウォークマンには、ビートルズ、陽水、サザンが詰まっています。