2007年6月1日 メンドクサイ
「業確設定数を今の2倍にしろ!」と言ったら、「なぜですか?」と聞かれたとします。
その理由を説明するのはメンドクサイですか?
たとえば、あなたは今、この文章を読むことがメンドクサイですか?
もしそうなら、今から、今日から読むことをやめてください。万が一、組織で「これを読むことが義務付けられている、命令されている」というようなことがもしあれば、それもやめてください。
この文章は、「強制されずにどこまで広がるか、どこまで深く浸透するか」を試している側面もあり、今後の打つべき施策を考える材料としているのです。ですからメンドクサイと思ったら読まないでください。
それでは、これを読むことがメンドクサくないと仮定しましょう。
これを読むあなたはメンドクサくない。
それでは、これを書く私は?
メンドクサイです。とっても。あなたが想像する100倍のメンドクサさです。
第一の論点は、「一人の人間にとってメンドクサイとしても、組織に効果があることならば、それは仕事だ」ということです。
給料をもらっている以上、メンドクサイことをするのは当然です。第一の論点については、これ以上説明する必要はないでしょう。
第二の論点は、「メンドクサイだけでなく、組織への効果も薄い」と考えている場合です。
つまりあなたは納得していませんね。納得するまで確認したり議論することもメンドクサイし、その結果として、納得させることもメンドクサイ。
こういう会社は衰退します。
その理由は説明するまでもありませんが、本当に効果がないならば、「組織への効果が薄いこと」をやる会社が伸びるわけはありませんし、あるいは、本当は効果があるならば、「組織への効果を理解できない人」にマネジメントをやらせている会社がダメにならないハズはありません。
第三の論点は、会社に「メンドクサイ症候群=メンドクサイ病が流行していないか」というものです。
もしあなたが、「効果があることはわかっているが、言われたことをやるだけではダメで、自分たちのケースにあてはめれば、あることに配慮しつつやらねば効果が薄いと同時にデメリットも出てしまう。しかし、そんな工夫をする余裕はない=メンドクサイので、とりあえず言われたことは最低限やるようにして、効果もデメリットも最小限でよい。こういったことをみんなに説明するのもメンドクサイので、とりあえず「やれ」ということだけを言おう」と考えていれば、メンドクサイ病にやられています。
この病気は流行します。
5月16日「悪貨が良貨を駆逐する」ように、「メンドクサイことをやらなくても叱られないなら、やるのはバカらしい」という理屈がとおることになります。
この病気の流行を抑えるには、本部あるいは上層部など、「メンドクサイことをやらせる立場」にある人・組織が、「メンドクサイと思わずに、全体に一律のことを指令するだけでなく、状況ごとに施策の意味や方法論を説明する」ことが第一に重要です。
第二に、「メンドクサイことをやらない人・組織を糾弾するだけでなく、メンドクサイことを上手に進めて効果をあげている人・組織をほめる」ことです。
第四の論点は、「メンドクサイこと=バカらしいこと」と考えていないか、というものです。
私にとって、この文章を毎日書くのは、この上なくメンドクサイことです。しかし、たとえどんなに腹立たしいリアクションを受けたとしても、バカらしいと感じたことは一度もありません。それどころか、楽しいと感じています。
プロ野球選手のイチローが毎日、素振りなどの基本練習をしているとき、メンドクサイと感じる以上に楽しいと感じているのではないか、というのが私の推測です。想像ですが、一振り一振りに、何かを発見しよう、どこか工夫はできないかと考えながらやっているのではないでしょうか。
メンドクサイことであっても、それに意味があるならば、自分たちにとってその効果を最大限に生かし、デメリットを最小限に抑える方法を考えることは、知恵が最大の特徴である人類にとって、楽しいものであるはずです。
第五の論点は、「メンドクサイ症候群を乗り越えたところは別天地である」というものです。
セブンイレブン・ジャパンのモットーは「基本の徹底と変化への対応」です。基本の徹底のために、今日も、床掃除の大切さ=床はピカピカでなければいけないことを、入ったばかりのアルバイト店員に説明しています。「床をふけ!」ではありません。「床がピカピカでなくなる理由の説明」「汚くないレベルとピカピカレベルの違い」「汚くないレベルを放置すると心理学的にどうなるか」「ピカピカを保つとお客様がどう感じるか、店員はどう変化するか」などなど。
床掃除の徹底にこれほどメンドクサイことを嬉々としてやっている同社は、当社と同じサービス業として、最も収益性が高く、最も尊敬されている企業でもあります。
2007年6月4日 金のなる木
実際に、金がなる木は存在しません。そんなハナシではない。
経営あるいは事業戦略の話です。
米国の著名な経営コンサルティング会社が提示した、「事業ポートフォリオ」の話です。
いくつもの事業を営んでいる場合、花形事業がある一方で、お荷物の事業もある。将来花開く事業がある一方で、もはや過去の事業もある。こういった、事業のライフサイクルあるいはステージを表現しようという試みです。
この考え方は、マーケット・シェアと市場成長率の組み合わせに基づいています。
シェアが高くて、なおかつ市場成長率も高い事業。すなわち、今まさに社会に広がっていきつつある製品やサービスなどでシェアが高いというものですから、今が良いだけでなく将来性もある。こういう事業を「花形事業」と呼びます。
一方、市場成長率が低い=市場は飽和しているかあるいは縮小しつつある上に、シェアが低い事業を「負け犬」と呼びます。
花形事業には人員増強や新たな投資をすべきですし、同時に、負け犬事業からは早めに撤退した方がよさそうですよね。
市場成長率とシェアの両方が高い、あるいは両方が低い場合は、このようにわかりやすいですよね。
問題は、片方が高く、片方が低い場合です。
市場成長率は高いのに、シェアが低い事業。これを「問題児」と呼びます。
今まさに伸びつつある市場なのに、当社のシェアが高くない。こういった場合、答えはカンタンではありません。シェアが高まれば「花形」になれますが、このまま負けつづけて市場が飽和したときには「負け犬」になりさがります。
ここで注意すべきなのは、負けつづけていると言っても、市場成長率が高い間は売上は伸びていくのです。シェアが一定であっても、市場全体が伸びていれば、自分たちもその恩恵にあずかれるというわけです。マヌケな経営者は、その状況を「勝っている」と誤解する可能性があります。
「問題児」事業は、大幅な増員や、多額の投資をして勝負に出て「花形」をめざすか、あるいは、客観的に勝てないとあきらめて、必要最小限の経費投入におさえ、「負け犬」になる前に撤退時期を探るかが、まさに問題なのです。知恵の出しどころでしょう。
最後に、市場成長率は低い、あるいはマイナスだが、シェアの大きい事業。これこそが「金のなる木」なのです。
カンタンに言えば、「過去の栄光」タイプの事業です。かつて、市場全体が成長しているとき、大きなシェアを持って「花形」であったこの事業ですが、市場が飽和し、もはや市場の成長が見込めない、あるいは、市場は縮小へ向かうという局面に、この事業は「金のなる木」すなわち、大きな利益を企業にもたらしてくれるのです。
なぜならば、賢くマネジメントすれば、もはや市場に成長の余地はないわけですから、新たな投資は必要ありません。増員も必要ない。社員たちは業務になれており、効率もよい。また、市場が縮小していく局面では、他の「負け犬」企業たちが先に収入を落としていく、あるいは撤退していくわけで、最後の一番おいしいところを頂戴できるのです。
ですから、投資や増員などバカなことはやめて、大きな利益をかせげばいいということなのです。経営者から見れば、何もしない=投資の決断や組織改正の判断をせず、金が木になるのを黙ってみていればよいというわけです。
私の推測ですが、「とらばーゆ」は、リクルート社にとって、「金のなる木」です。
市場はもはや成長していません。ここでの市場とは、「有料の仕事紹介雑誌」という市場のことです。今や、無料の雑誌、あるいはインターネットの普及が爆発的であり、お金を出して仕事紹介の雑誌を買うという行動パターンがどんどん減少しているのです。
5月24日「気づくのが遅い人」で述べたように、リクルート社はむしろ自分たちで、この変化を起こしているのです。
もし私がリクルート社の経営者なら、「とらばーゆ」については、次のような指示を出します。
「とらばーゆ」自身を宣伝することは、もうやめておけ。宣伝費をかけても市場は伸びないし、シェアも変わらない。あるいは、他の有料雑誌が先に廃刊になるだろうから、放っておいても部数は落ちない。落ちたとすれば、それは市場全体が縮小していることが原因で、宣伝してこの動きを止めることはできない。
第二の指令。「とらばーゆ」の販売部数情報は極秘扱いだ。販売部数は、市場の縮小とともに明らかに減っている。掲載元、あるいは広告主はまだこの傾向に気づいていない可能性が高い。販売部数の減少を、もし、掲載元・広告主が知れば、1ページあたりの掲載料金を下げろと言ってくるハズだ。せっかく「金のなる木」になっているんだから、自ら「実」を減らすバカはいないだろう。販売部数は絶対に秘密だ!
第三の指令。「とらばーゆ」の発行部数=印刷部数を変えるな。売れなくなっても、返品が増えても、発行部数は一定数を守れ。無駄が増える、ゴミが増える、あるいは処分にコストが余計にかかるとしても、絶対に発行部数は変えるな。そして、もし、掲載元や広告主から部数を聞かれたら、変わらぬ発行部数を答えろ。販売部数は、駅の売店などからの返本の実態がつかめず、よくわかりませんと答えておけ。掲載元や広告主の多くは、雑誌の世界のシロウトだ。販売部数と発行部数の違いなんて、わかりゃしない。発行部数一本で行け。それも、聞かれたら答える程度で、こちらから言うな。将来、発行部数だって下げる日がくるんだからな。
この3つの指令を守れば、「金のなる木」は、最後の最後に廃刊するまで、多くの利益をもたらしてくれるのです。
2007年6月5日 演技力
ビジネスあるいは人生に必要な演技力とは、ウソをつくことではありません。
その人物像に「なりきる」ことです。さらにレベルを上げるならば、その人物像が実体であると「思わせる」ことです。
それは偽りを演じることではなく、自分の中にある、ある一面を強調して表現することであり、同時に、そうでない一面を目立たないようにすることです。
もちろん、演技の目的は組織にとってプラスとなることです。
たとえば「トラブルに動じない」という演技力について考察してみましょう。
誰だってトラブルにはハッとしたり、ドキッとしたりします。ベテランであれば多少は慣れてくるかも知れませんが、それでも動揺がないわけではありません。自分の中に「動揺している自分」と「原因と対策を考えている自分」が両方同時に存在しているならば、前者の自分をできるだけ目立たないようにして、後者の自分を増幅して表現する場合があります。特に、経験の浅いメンバーたちが多く、みんなが必要以上に動揺しているようなケースでは、自分はできるだけ落ち着き、動揺しても意味が無いことをわかってもらう必要があります。ここで発揮される演技力には大きな価値があるでしょう。
一方、みんながトラブルに「慣れっこ」になってしまって、スタッフさんやお客様企業が受けるご不便に対して鈍感になってしまっている場合があります。こういう場合はむしろ「動揺している自分」を敢えて最大限に増幅して演技することに効果があるでしょう。
別な例ですが、「数字に強い」演技力と、「数字を気にしていない」演技力について考察してみましょう。
組織が徹底してある数字を追いかけるべき状況であれば、上層部ほど、上に行けば行くほど数字に強くなければいけません。数字に強いとは、マクロのトレンドとミクロの現象の両方に深い洞察力を持っていることです。「前年対比でどれぐらいであるか」などに始まり、「しかし単純に前年対比を見ても参考にならない理由」「開始が対前年110%であり、終了も同じく110%の場合に、次にどの数字を見るべきか」など、マクロのトレンドを分析・洞察する力が必要で、演技力としては第一に、「関連すると思われる数字を徹底して調べ上げる姿勢」が重要でしょう。同時に、特定のエリアや組織、対象者、対象企業群に限定して、何が起こっているのかをミクロのスコープで深く掘り下げていくことも必要です。
一方、「ある数字が重要なのではないか」という問題提起を受けたとき、直感的に「その数字を追いかけることによるデメリットが発生する可能性がある」と思ったときには、数字を気にしない演技力が必要になる場合があるのです。
「へぇ、その数字、意味があるかなぁ」とか、とぼけてみます。すると、「これこれこういう理屈で、意味があるハズです。たとえばこの組織を見てください」と来たら、「ふーん、しかし、これだと全体像がわからないねぇ」あるいは「同じようにやっても結果の出ていない組織があるんじゃないの?」などと言って、提案者に対して理論武装を求めるのです。つまり本音では、「その部分のその数字を見ただけでは判断できない」という場合や、「その数字が有効な状況と、そうでない状況がありそうだ」という場合などに、もっと数字や情報を集計・分析する目的で、この演技力が有効となります。
このケースでは、いわゆる「ダメ出し」をする場合もあります。「この観点では考えなかったのか!」とか「別な組織との比較が不十分だ」といったノリで、これも一つの演技としてやることがありますが、「即座の回答」と「提案者の育成」のどちらをこのとき優先すべきかで、演じる役割が違ってくるハズです。
「演技力」と言っても、「いい人のフリ」とか「悪い人のフリ」といった単純な話ではありません。もっと高度で、インテリジェンスを必要とするレベルの話です。
ここからは蛇足ですが、ビートルズが「サージェント・ペッパーズ」と呼ばれるアルバムを発表してから40年が経ちました。
ビートルズは4人組のロック・バンドですが、彼らはこのアルバムを、「あたかもペッパー軍曹が率いる軍の音楽隊が、シロウトっぽく、余興の演奏会をやっている様子」を演技したのです。たいへんな演技力です。
重ねて強調したいことは、演技とはウソをつくことではありません。自分の中にある一面を、ある目的に従って、増幅・強調して表現することなのです。
私事で恐縮ですが、言葉に対する認識能力を失いつつある母に対して、私はいつも笑顔で接するようにしています。先日、「あんた、やわらかい顔してるねぇ」と言われ、自分の演技力を確認しました。
2007年6月6日 英国と日本、気候の違い
ジューン・ブライドは幸福になる。6月の青い空がそれを象徴している。
ん? と思いませんか。6月は梅雨です。
ジューン(June)は6月、ブライド(bride)は花嫁。
6月の花嫁が幸福になる「理由」は、実は、英国と日本では全然違うのです。
英国、特にロンドンあたりの天候はいつも曇り、時折、雨。
青い空を見ることはなかなかできません。よく雨が降りますが、日本のように終日雨とか半日雨といったようなことは少なく、サッと降ってサッと止む。しかし雨が止んだ後、晴れるかというとそうではなく、やっぱり曇り。
ロンドンを歩く紳士たちは天気予報に左右されず?に、いつも「傘ナシ」で、雨に降られたらちょっと雨宿りをして凌ぐか、あるいは逆に、いつも「傘アリ」で、降っていないときはステッキがわりに使うか。
こんな天気だから、ロンドンはいつも霧のよう。ロンドンの家やアパートメント・ハウスは、百年以上の歴史を持つものがザラにあり、どの建物にも煙突がついている。最近は規制によって煙が減りましたが、寒いロンドン、かつてはあちこちの煙突から煙が立ち上っていました。煙(smoke)が霧(fog)と混じって、スモッグ(smog)が出来上がる。
なお、スモッグという言葉自体は、米国ロサンゼルス生まれだそうです。
さて、このロンドンで、一年で最も晴れる日が多いのが6月。
ジューン・ブライドは幸福になる。6月の青い空がそれを象徴している、というワケです。
ところが、日本で、ジューン・ブライドが幸福になる理由は、これとは異なります。だって、6月は梅雨ですからね。
かつて結婚式場では「春のシーズン」と「秋のシーズン」という表現をしていました。つまり、結婚式は春か秋のどちらかが常識だったのです。私は26年前、仕事の都合もあり、2月に結婚しましたが、式場はガラガラでした。その結婚式場で、実は学生時代、皿洗いなどのバイトをやったこともあるのですが、ガラガラの2月以上に「閑古鳥」なのが、夏、そして梅雨。
結婚式場を経営する会社の立場で考えてみると即座にわかりますが、閑散期の6月・7月・8月になんとか売上を立てるには、どうしたらよいか。「ジューン・ブライド」は、まさにこのニーズに合致したのです。
つまり、日本でジューン・ブライドが幸福になる理由は、結婚式場を経営する会社から大変に感謝・祝福されるからなのです。きっと。よかったね。
もう1つのネタは、男性むけ。
ワイシャツは英国では、下着と同じ位置付けです。
ですから、ワイシャツの下には下着をつけないというのが、英国ではフツーです。
このことをたまたま知った男性諸氏の中には、「だから、ワイシャツの下には下着をつけないんだ!」とおっしゃる方がいます。こういう方が、ワイシャツ姿でこのセリフをおっしゃったら、あざ笑ってやってくださいませ。だって、下着姿で人前に出て、なんか言ってるわけですから。
英国紳士は、よほどのことがない限り、人前で上着を脱ぎません。ベストを着けている場合はOKなので、別ですが。
クレリックと呼ばれているシャツがあります。襟の部分とカフスの部分だけが白い布で、その他の部分、「身ごろ」と呼びますが、身ごろがストライプだったり、青だったり。
映画などで、クレリック・シャツにサスペンダーで、いかにもインテリというか金融機関のトレーダーみたいな役どころが出てくる場合がありますが、あれは米国人です。英国人は、人前で上着を脱ぐ文化とはちょっと違うので、「自慢のシャツ姿」みたいなものには違和感がある。
さて、日本のハナシ。何より、日本の気候を考えてみて欲しい。
梅雨とか夏、汗で身体に張り付いたシャツを人前にさらすのはどうなんでしょうか。あるいは、色物のシャツで部分的に濡れて見えるシャツってどうなんでしょうか。
ワイシャツの下に下着をつけることは決しておかしくありません。
ただ、半そでの下着をつけると、袖の部分がワイシャツから透けて見えるので、女性でいうところの「パンティライン」のように、ちょっとダサイ。
タンクトップ型あるいはランニングシャツ型の下着なら全然問題ありません。
タンクトップ型のシャツがたとえ汗で身体に張り付いていたとしても、それのおかげでワイシャツが乾いているものです。
私は、夏場、スーツで外を歩いた後、地下鉄のホームのエアコンの前あるいは下でスーツを脱ぎ、ワイシャツを完全に乾かします。下着が完全に乾くようなことは期待できませんが、これでかなり快適になります。
6月。梅雨。暑さ本番。
日本の気候に合わせた知恵を使って乗り切りたいものです。
2007年6月7日 ステテコ
ステテコ、別名ズボン下。サルマタとは違います。
昨日6日「英国と日本、気候の違い」の続編としてお楽しみください。
私が、昔の会社で新入社員だったとき、お客様企業に紳士服の日本最大手の企業がありました。そこの係長サンから紳士服に関する「3つの教え」を頂戴しました。
その1。「スーツは吊るしを買え」。
カスタムメイドやイージーオーダーではなく、レディメイド、すなわち「吊るし」を買えという教えです。出来上がったスーツを「吊るして」展示しているので、「吊るし」と呼びます。
その理由は、平均的な日本人の体型は、残念ながらスーツに向いていない。つまり、スポーツで鍛え、肩幅が広く、胸板が厚い英国人を対象として作ったものがスーツであり、なで肩で胸板の薄い日本人の体型に合わせたスーツを作ると、スーツのシルエットが損なわれる。30万円も出してオーダーするなら別だが、中途半端な値段のオーダースーツなら、吊るしのスーツの方が良い、ということでした。なお、30万円とは28年前の物価でのことですから、今でいえば50万円ぐらいと考えた方がいいでしょう。つまり、チェスター・バリーなどの最高レベルをのぞけば、「身体にスーツを合わせる」のではなく、「スーツに身体を合わせる」べきだ、という考えです。
新入社員だった私は、オーダースーツなんて別世界の話でしたから「カンケイないや」と感じましたが、その数年後、はじめてスーツをオーダーしたときに、この教えの価値を知りました。それ以降、私は、スーツは吊るしを買っています。今、着ているスーツで一番古いものはもう15年も愛用しています。
教え、その2。「ワイシャツの下には下着を付けろ、特に夏場」。
このことは昨日の文章で書きましたので割愛。
教え、その3。「ステテコをはけ、特に夏場」。
若かった私は「えー!」と思いました。
まず、その理由。スーツはウールである。ウール糸のうち、細いものをスーツに使う。その細い糸をビッシリと織るのがスーツ生地である。セーターとは違うのだ。このスーツ生地は汗には弱い。ヨレヨレになり、シワが戻らない。スーツのズボンを守る、折り目をキチンと残す、このためにはステテコだ。
余談ですが、セーター(sweater)の語源は、汗(sweat)です。
汗をかくスポーツ、テニス、ゴルフ、ボートのときに着るのがセーターです。ちょっと違和感があるでしょ?実は、英国貴族たちの普段着はシルク、絹でした。下着は木綿ですが、洋服はシルクが基本。シルクは風を遠さず、蒸し暑い。そこで、貴族がスポーツをやるときにはセーターの出番となる。サマーセーターみたいなものを想像するといいかもしれませんね。
ちなみに、イングランド代表サッカーチームが今から100年以上前、はじめて行った公式戦、対スコットランド戦、このときのイングランド代表のユニフォームが残っていますが、ウールでできています。まさに、セーターだったのです。
閑話休題。ステテコに話を戻します。
そういうわけで、夏場でもスーツをピシッと着るには、ワイシャツの下にはタンクトップ、ズボンの下にはステテコが基本です。
ステテコには若い男性は強い反感を持つかもしれません。
第一に「ステテコ」っていう名前がイヤですよね。
第二に、もし万が一、ステテコをはいている姿を目撃されたら、と考えると気を失いそうになりますよね。しかし、ここで考えてみてください。「ステテコ姿を目撃される」という状況が、本当にあるのだろうか、と。
ズバリ、滅多にありません。
「やっぱりあるのか!」と心配するむきには、素晴らしいアドバイスを。
もし、「絶対にステテコ姿を目撃されたくない状況」というか「ステテコ姿を目撃されたことによって、この後の展開が不利になるような状況」あるいは「ステテコ姿を目撃されたことによって、この後の展開が展開しなくなっちゃうような状況」の場合、ズボンを脱ぐときに、同時に、一緒に、ステテコを脱いでしまうのです。こういうときに備えて、ステテコはピタッとしたものではなく、ゆったりしたものがオススメです。ピタッとしたものの場合、ズボンと一緒に脱ぐときにトラブります。
なお、余談ですが、英国紳士がベストを脱ぐとき、サスペンダーを見られたくない場合に、サスペンダーのボタンをはずして、ベストと一緒にサスペンダーを脱ぐことがあります。サスペンダーがボタンでなく、金属でパチンと止めるタイプのものはアメリカ野郎の発明によるもので(たぶんだけど)、こういうときに使えないというか、ダサくなる。
さて、これで「ステテコ姿を目撃されるというピンチ」から逃れることができましたが、ビジネスマンたるもの「ピンチをチャンスに変える」発想が欲しいところ。
いま、ステテコとは呼べないようなステテコが出回っています。かといってタイツではありません。あえて言えば、ロングパンツかな。膝下ぐらいまでの長さで、薄い生地、通気性抜群、フィット感よし。ワコールのBROSや、トリンプのsloggy menがオススメ。ちょっと高いけど。色もいい。
そして、こういったロングパンツを使えば、その下のパンツで大胆になれるのです。大胆になりたくない人も、大胆になったほうがいいでしょう。
なぜかといえば、この種のロングパンツの下に、たとえばボクサータイプのトランクスを着用すると、ゴワゴワのシワシワでハナシになりません。面積大き目のブリーフは、下手をすると、おへそのあたりで、ロングパンツからはみ出します。これもダメ。そうなると、面積小さ目のものがいいのです。ここは思い切って、女性たちに負けないぐらいの面積小さ目で勝負に出てもいいでしょう。どんな勝負かは別にして。
以上、夏場はステテコでした。
2007年6月8日 ミクロとマクロ
現実に起きている1つの問題、1つの事例を深く掘り下げ、あたかも虫メガネや顕微鏡で調べていくようなアプローチが、ミクロ、あるいはミクロのスコープです。
一方、市場全体で何が起きているのか、社会は傾向としてどちらに向いているのかなど、より広範囲に現象をとらえ、原因を探るアプローチが、マクロ、あるいはマクロのスコープです。
カメラで言えば、寄っていって、アップで映し出すのがミクロであり、引いて全体を見ようというのがマクロです。
ビジネスでも人生でも、ミクロとマクロの両方の視点で物事を見ていくことが重要です。
ミクロの視点だけでマクロが弱いと、目の前の現象にいつも振り回されているようなことになりかねません。
一方、マクロの視点だけでミクロが弱いと、数字で遊んでいる評論家になってしまうでしょう。
ミクロとマクロの両方の視点を備えた説は、強い説得力を持ちます。
5月21日「魔法のクスリはありません」でご紹介した、地球温暖化を防ぐ効果があるバイオ・エタノールについて、急激なエタノール・シフトがもたらす問題点を説いている米国人レスター・ブラウン博士の説を引用してみたいと思います。
「全世界人口のうち、年収3万ドル以上の8億人がクルマを所有している。一方、年収3千ドル未満の20億人が食糧難に苦しんでいる。畑のトウモロコシから燃料を得るか、食料を得るかは、裕福な8億人と貧困な20億人の争いという構造だ。どちらかが勝つかは明白だろう。農業を営む人が、どちらに高く売れるかを想像してみればよい。実際、コロラド州の○○農場や××農場は、今年、エタノール抽出設備を完成させた」と。
地球規模というこの上ないマクロの視点で、問題の構造をとらえ、同時に、いま、起きている事例をミクロでつきつける。
マクロの構造だけだと、聞く人は「他人事(ひとごと)」のように聞くものなのです。
ミクロの事例だけだと、聞く人は「問題を小さく」とらえてしまうものなのです。
賢い人は、物事を考える際に、常に、ミクロとマクロ両方の視点で考えます。あるいは、ミクロとマクロを行ったり来たりさせるのです。
こういう人の話は、ミクロとマクロの両方のスコープで迫ってくるので、大変に説得力があります。
「終了に伴う積下げが止まらない」という状況で考えてみましょう。
終了数、終了率、終了確認から終了日までの猶予日数(いかに早く終了をつかんだか)、あるいは受注数など、これらの数字はマクロで傾向をつかむ必要があるでしょう。
一方で、それでは何をしたらよいのかのヒントは、ミクロの事例が教えてくれることが多いものなのです。
エタノールの事例で言えば、「エタノール抽出工場を作ることにストップがかけられないか」と、ブラウン博士は説いています。
工場を作ってしまえば、経済原理から、それを使わないワケはありません。収穫されたトウモロコシは次々に工場に運び込まれるでしょう。これによって食糧難に拍車がかかるのです。政府の規制によって、食料・飼料として収穫された穀物からエタノールを抽出する工場の建築に対して、ブレーキがかけられれば、時間を稼げるというのが博士の主張です。そして、その時間で、燃料対食料の奪い合いの構造が地球規模で、どのように推移し、どのような課題を生むかを、経済学的側面、地球物理学的側面、生物学的側面、社会学的側面から検討・推論しようというのです。つまり、マクロの観点です。
ミクロで起きていること、つまり、自分の目の前で起きていることが、組織全体にとって、会社全体にとって、市場全体にとって、どんな意味を持つことなのかを想像する力。ミクロをマクロにまで引っ張り上げる力、これは理性と感性のバランスの取れた、右脳・左脳が両方ともに優れた、ハイブリッド頭脳だけが持つ力です。
一方、マクロの数字・傾向を見て、ミクロで、すなわち現場で何が起きているかを想像する力。マクロからミクロを洞察する力、これは経験から学びつづけた優秀な頭脳だけが持つ力です。
ミクロとマクロ、両方の観点で、自分たちが抱える課題をとらえ直してみてください。
2007年6月11日 トレードオフ
今や日本語になっている英語外来語ですね。英語ではtrade-offと書きます。
せっせと貯めた30万円。さて、これをどうしよう。値上がりを期待して株式を購入するか、あるいは、安全確実な国債を買うか。つまり、ハイリスク・ハイリターンの株式か、あるいは、ローリスク・ローリターンの国債か。
この事例では、収益性と安全性がトレードオフになっています。どちらか一方を取れば、他方を捨てざるを得ない。
もともとトレードオフという英語は、Aを入手するために、しぶしぶBを手放す、あるいはAとBは両立しないので、より重要なAを入手するために、Bを手放すことに妥協する、といった意味です。
次の事例。
帰って寝るまでの自由時間1時間。本を読んで学習するか、ゲームで娯楽を優先するか。時間は有限ですから、学習と娯楽で時間を取り合うトレードオフ。今日だけの1時間の話として考えてもよいし、毎日の話=一生の話としてとらえてもよい。一生の話ととらえるならば、教養ある人物になることと、面白おかしく生きていくことは両立しがたいものであり、トレードオフの関係でしょう。
第三の事例。
いま、モテまくっているあなた。モテていることを存分に楽しむ人生は、一方で、心ある人からの離反を招くでしょう。つまり、モテまくって過ごす青春と、唯一無二の人と結ばれる青春は、両立しがたく、言わばトレードオフの関係にある。
第四の事例。
実家がクリーニング屋を営んでいる。最近、競争が激しく、同じ商店街に何軒ものご同業がひしめく状況だ。このままでは客数が減っていく。価格を下げて客を呼ぶか、このまま現状維持とするか、思案のしどころだとしましょう。価格を下げることによって客数が増える=売上が増える可能性はあるものの、利幅が薄くなり利益が下がる怖れもある。この場合、売上と利益がトレードオフの関係にあります。
このように、両立しがたい二つのもののどちらを優先するかに思い悩む局面は、人生にもビジネスにも「よくある」ものだと思います。
このとき、「どちらも捨てがたい」と悩んでしまって、結局、決断することができずに、結果として「どちらも中途半端、あるいはどちらも得られない」ということになりかねません。
実は日本中の企業のほとんどは、トレードオフの局面で悩むことに時間を浪費してしまって、個性を出せずに、あるいは戦略的な展開をすることができずに、伸び悩んでしまっています。
「捨てる」という決断ができないのです。
あるいは、「両立できるんじゃないかなぁ」と淡い期待を抱きつつ、特に目立った工夫や努力もせずに、「経営としては何もせずに」無駄な時間を費やすのです。
これに比較すれば、急成長を実現した当社SSGは、トレードオフの局面をいくつも経験してきたハズですが、スパッと決断して、捨てるものは捨てながら事業規模を拡大してきました。
つまり、トレードオフの状況で何の決断もできずに前に進めない企業がレベル1とすれば、捨てるものを捨てると決断できる企業がレベル2なのです。
さて、今回の話は、レベル3の企業の話です。
たとえば、スピードと顧客の満足はなかなかに両立しがたいものであり、トレードオフの関係にあると言えるでしょう。
レベル1の企業ならば、「どちらも大切だ」と言いながらも、実はどちらも中途半端で、死なない程度に生き残るか、世の中が変わったら倒産してしまう可能性もある。
レベル2の企業ならば、そのときどちらを優先すべきかを判断し、他方を極限ギリギリまで捨てて、優先すべき方角にまい進するでしょう。壁に当たるまで。
それではレベル3の企業、例えばトヨタならどうするでしょうか。恐らく、スピードと顧客満足の両方を同時に満足する方法を考えるのではないでしょうか。もちろん、それは容易ではありません。しかしながら、それが実現できたとき、またもやライバルたちに水をあける結果になるでしょう。
AとBが両立しがたいとき、AとBの中間のような中途半端なことではなく、全く別な観点から物事を考えたり、1つ上の次元から解決策を考えること。このことを、ドイツ哲学者のヘーゲルという人は、アウフヘーベンaufhebenという言葉で表現しました。
業務効率と顧客サービスはどちらを優先しますか?
終了阻止と開始強化のどちらを優先しますか?
積上と利益のどちらを優先しますか?
目の前の積上と、将来の積上のどちらを優先しますか?
我々は、こういったトレードオフの状況において、これまでかなり明確に判断を下してきました。スピーディに。つまり、即座に判断し、即座に実行できる方法を採用してきたのです。これがレベル2です。
しかし、こういったトレードオフは未来永劫に続くものです。
目の前の状況に対しては即座の判断が重要ですが、一方で、それを続けているだけでは、我々はレベル3に上がることはできません。
売上・利益と環境対策、
よりよい製品と低価格、
早い納車と高い品質、
こういった両立しがたい状況を、1つ上の次元から解決し続けてきた企業の代表がトヨタでしょう。
両立しがたい状況を目の前にして、あなたの志はどのぐらいの高さにありますか。
2007年6月12日 時間と空間
哲学の話ではありません。
企業の能力の話。敢えて名づければ「空間徹底能力」と「時間積上げ能力」。
当社SSGは、強い「空間徹底能力」を持っています。
あることを実行する際、大きな組織に徹底する能力が高い。「これをやる」と決めたら、どの組織・どの層にもそれを徹底することができる。
多くの企業は、「まだら」であり、できる部署とできない部署が混在し、立てた戦略が正しかったかどうかの検証ができない。
組織・市場・層など空間的な広がりを持つ対象に対して、例外を許さずに徹底できる能力、「空間徹底能力」が、当社は高いと確信しています。
一方、「時間積上げ能力」。これは説明がむずかしい。
犬に芸を仕込むとき、できたら即座にご褒美を上げないと、効果が出ない。1回できたら1つのご褒美というサイクルで回さないと、犬の調教はできないでしょう。
子供に勉強やサッカーを教えるとき、頑張ったり、上手にできたりしたら、誉めてあげることが重要です。犬が相手ではありませんから、毎回毎回誉める必要はありませんが、1日に一回かあるいはそれ以上の回数だけ誉めてあげる方がよいと思います。1日の最後にほめてもらえる、認めてもらえることを励みに頑張れるとすれば、子供は、1日分の「時間積上げ能力」があると言えます。
10才のサッカー少年の場合、週末の試合のために頑張って練習できる子供は、1週間の「時間積上げ能力」があります。
一方、「将来、プロ選手になる」ことを夢見て、頑張る子供もいます。本当にプロを目標にして頑張る子供は、英語で言えばdeterminedと形容されるような、決意を持った目を持っています。プロになれる可能性は極めて小さく、そして、なれるかどうかがわかるのは、早くても10年後でしょう。10年間以上、自分の目標に向かって努力を重ねることができる子供は「時間積上げ能力」が極めて高いといえるのではないでしょうか。
それでは、当社のビジネスで考えてみましょう。
開始、終了あるいは受注や業確など、私たちは日々、その計数を追っています。もちろん月間あるいは年間で順位を決めたりしますが、1つ1つの行動がその日の集計値として計算できます。
この行動パターンは、「時間積上げ能力」=1日に応じたものです。
一方、「時間積上げ能力」=1ヶ月を要求する能力があります。
つまり、日々結果がでるわけではなく、1ヶ月を集計して初めて結果がわかるものに対して、どれだけ努力を継続できるか、を考えてみたいと思います。
先ほど述べたように、営業成績も月間で結果を出しますが、しかし、毎日、集計している私たちにとって、営業成績は「時間積上げ能力」=1ヶ月を要するとは言えません。
私たちにとって、「時間積上げ能力」=1ヶ月が初めて要求されたのは、労働時間に関するコンプライアンスと、個人情報を中心とした情報管理において、です。
残業時間も、日々、何時ごろに帰っているかでおおよそつかめるものではありますが、残業時間の目標は月間であり、私たちのルールも月間で何時間以下というように立てています。つまり、思考回路は時間軸1ヶ月単位となっているハズです。
1ヶ月たって集計される残業時間が、自分は何時間か、自分たちは何時間かで、日々の努力を継続できる。私たちは、「時間積上げ能力」=1ヶ月のテーマにおいても実績をあげることができました。
情報管理も同様です。
情報管理に関する事故の報告は都度、行っていますが、問題は月間で何件になるか、ですよね。おぼえている方も多いかと思いますが、月間事故件数は、なかなか減らない時期がありました。ところが、今や、当社の情報管理レベルはかなり高いところにまで到達しています。多くの部署が1ヶ月以上を無事故で過ごしています。ですから、なおさら、組織全体で1ヶ月何件あったのかがポイントであり、「時間積上げ能力」=1ヶ月が問われていることになります。
このように、私たちはここ数年間で、「時間積上げ能力」=1ヶ月のレベルをクリアしてきたと言えると思います。
次のハードルは、「時間積上げ能力」=1年のテーマです。
「スタッフ満足度調査」は、年に1回のテーマ、年に1回の採点です。
日々の努力が1年分を集計してようやく結果がでるわけですから、それまでの次元とは異なるむずかしいテーマです。努力したかどうか、どの程度の努力だったかは、日々の積上げを1年分集計してはじめてわかるものなのです。
「時間積上げ能力」=1年をクリアできたとき、当社SSGは、また、さらなる上のステージに上っていることでしょう。
そして、その次は、「10年後、どのような会社になりたいか」を考え、今日の努力を継続できるような、「時間積上げ能力」=10年に挑戦したいと思います。
2007年6月13日 オシム監督のねらい
サッカー日本代表のオシム監督。
優秀な頭脳と、卓越した経験を持った指導者です。
私もそれなりに、日本サッカーの課題を40年間も考えつづけてきた実績?がありますから、オシム監督の考えていることが、日本人の中ではわりとよく理解できる方だと自負しております。
「日本人はサッカーをまだまだ知らない」「そもそもスポーツを知らない」と、オシム監督が内心で感じているのだろうと、いつも想像しながら、特に記者会見での記者との質疑応答を楽しんで読んでいます。
「あなたは何でそんなことを聞くのですか?」と、オシム監督は、記者に尋ねます。この意図は多くの場合、「だからオマエはわかっちゃいないんだ」あるいは「明日の新聞の見出しに、無理やりに何か使おうと考えているんだろう」といったニュアンスを感じています。
たとえば、記者が、注目選手個人に関するコメントをオシム監督から引き出そうとするとき、この種の空気が漂うのです。
日本人はヒーローやヒロインを作り上げるのが大好きです。飽きたらポイ捨てだけど。
たとえば「ハンカチ王子」を知らない人はあまりいません。これを読んでいる読者のおそらく95%は、誰のことだかわかるでしょう。
一方、甲子園で王子の投球を受けていたキャッチャーのことを思い出せる人は、おそらく5%もいないでしょう。野球では、たしかに投手は特別な存在です。しかしながら、投手だけが野手の100倍あるいは1千倍も注目される必然性は、少なくとも、野球選手や関係者たちは感じていないはずです。
あるいは卓球の愛ちゃん。
愛ちゃん以外にも、若くてかわいらしい卓球選手、いますよね?
あるいはゴルフの二人の娘。私には名前が思い出せませんが。
あるいはサッカーなら、中田ヒデや中村シュンスケ、あるいは高原。
たった一人だけに脚光を浴びせ、たった一人だけに注目し、ヒーロー扱い、あるいはヒロイン扱いをする。スポーツはそういうものではない。チームスポーツは全く違う世界である。
マスコミがスポーツを知らず、国民もスポーツを知らない。
あるいは、「日本で最もサッカーを知らない人に照準を合わせた報道をする」つもりなのか、「日本で最もサッカーを知らない記者でも記事が書けることを優先している」のか。
バカじゃん、ですね。
日本サッカーの代表チームは、ここ近年で、ずいぶんとレベルを上げて来ました。
読者のみなさんの中には、モンテネグロやルーマニア、ポーランド、チェコといった欧州諸国、あるいは、コロンビアやボリビア、チリ、ペルーといった南米諸国が相手ならば、日本は同等かそれ以上の実力を持っていると考えている人がいるかもしれません。しかしながら、日本サッカーは、代表チームだけが相対的に戦える実力を備えるようになったものの、国の力としては、前述の欧州・南米諸国には遠く及びません。
東欧や南米の比較的貧しい国々は、強い代表チームを維持するだけの経済的基盤が弱いのです。しかしもし、日本の人口5万人の村の代表チームと、彼らの同種のチームが、全部で1千試合やってみれば、たぶん、990試合は負け試合になると私は思います。
日本はまだまだ、なのです。
当社がまだまだ、なように。
オシム監督は、代表選手を相手に教育しているだけではありません。
日本人指導者をも、教育の対象と考えています。さらに、マスコミ、そして、マスコミを通じて日本人全体を、教育対象と考えているハズです。
そして、日本人指導者に対する教育方法と、マスコミに対する教育方法には、全く異なる手段を使っているのです。
自分の部下が100人もいる人、あるいは1千人もいる立場の人。
オシム監督が、指導者と記者をチャネルとして日本全体を教育対象としているように、組織全体を対象とするためには、様々な知恵や工夫がいるのです。
2007年6月14日 ストレートな質問
先日6月11日、早稲田大学で外国人を相手に、特別講義をしてきました。
広報部門の取り計らいで実現したものです。
早稲田大学・大学院は、日本に進出している欧州企業の幹部候補生を対象に、1年程度の特別コースを設けています。
朝から昼までは日本語習得のための授業、昼から夕方までは、日本の文化や経済などの理論あるいは事例研究が中心で、これは英語で授業が行われる。早稲田大学では当社SSGを事例研究の対象として書籍を出版した経緯もあり、今回、事例研究として紹介するので講演をしてほしいということでした。
日本に進出している欧州系企業ですから、日本人におなじみのブランド会社なども含まれます。女性なら誰もが知っている仏ブランドがあるかと思えば、日本の食品会社に原材料を輸出している日本ではなじみの薄い会社もありました。
国別に見れば、フランス、ドイツ、イタリア、イギリス、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、オーストリア、ポーランド、リトアニア、エストニアで、総勢30名ほど。
私自身にとって久しぶりの英語のスピーチでしたし、相手が欧州人ということもあって、大変、楽しむことができました。
講義のいわゆる「つかみ」のところで、各国の著名なサッカー選手の名前を片っ端から早口で、そしてできるだけその国の発音で言ったところ、大変にウケました。講演の後でドイツ人からドイツ語で話し掛けられて困ったりしました。
さて、講義の内容ですが、最初に日本の文化あるいは日本人の行動様式について述べ、次に、それゆえの「当社の戦略」を紹介し、さらに、それを支える情報システムに言及するといった流れを考えました。
日本の文化紹介のところでは、日本人はあまり物事をストレートに言ったり、尋ねたり、答えたりしない、ということを、男女のデートの局面と、派遣の発注の局面で紹介しました。
それゆえ「速さ」が競争戦略となるというのが、この講義の主題でした。
ちなみに、それを英語で言うと、
Agility
is our competitive strategy.
「速さ(アジリティ)が、我々の競争戦略である」となります。
「速さ」は、スピード(speed)というカンジもしますが、英語でspeedと言うと、陸上100メートル競争の後半で、加速に乗ってグイグイ進むニュアンスがあり、動きや反応が「素早い」ことを言うときにはアジリティ(agility)という言葉を使います。
たとえば派遣の受注の局面を想像してみてください。発注者であるお客様企業のご担当者が、スタッフさんに要求する資格・経験・人柄などについておっしゃるとき、外国人のようにハッキリと要求をつきつけるわけではありませんよね。「人には会ってみないと」という思いが日本人には強く、「この仕事ができればそれでよい」といった外国人スタイルとはちょっと違います。
だからこそ、早く候補者に会っていただくことが重要である。このことは逆から見ても同様で、スタッフさんにお仕事を紹介する際にも、いくら口で説明しても、やっぱり「百聞は一見にしかず」みたいなところがあって、実際に業務確認をしていただいてはじめて意欲が湧いてくるみたいなところがあるでしょう。
日本人はストレートに表現しない傾向が強く、だからこそ私たちの速さが強さになっている。こういったことを英語で説明しました。
私の講義がひととおり終わるまでは静かに聞いてくれていた聴衆でしたが、質問タイムになると、次々に質問が出てきました。
各国の文化や背景が異なるし、英語が達者な人とそうでない人、特有の訛りがある人などが混在していて、質問に答えた30分強で、1週間分ぐらい働いた気がしています。あー、疲れた。
質問の内容も千差万別。「おいらオランダから来たんだけど、おたく、オランダの会社と合弁しているみたいだけど、なんでよ?」みたいな質問や、「エストニアとかに進出する気がありますか?」などなど。
そんな中で、ズバリ、ストレートな疑問をぶつけてきた質問に二つ、遭遇しました。
「事業規模の拡大とともに、速さを実現するのは困難になるはずだ。どうやってそれを実現しているのか?」が1つ目。
日本語で質問されても、少し考えないと答えられない質問ですよね?いや、かなり考えないと答えることはむずかしいでしょう。
二つ目の質問は、「訪問しても、かなりな確率で何事もなく、むしろ歓迎されない場合すらあるということだが、どうやって営業部隊のメンバーのモチベーションを維持しているのか?」というもの。
この質問も、日本語で発せられたとしても、回答は容易ではありません。
私の、今回のこの文章の主旨は、この2つの質問にここで答えるためではありません。
そもそも、私たちSSGは、「事業規模拡大と速さの維持」という両立が困難なテーマと取り組んでいるということ。さらに「最大行動量の追求」というモチベーション維持が困難な課題と戦い続けているということ。
誰だって「どうして、そんなことができるんですか?」と聞きたくなるような、困難な課題を自らに課し、それをクリアすることによって競争相手に勝ってきているのです。
「何もしなければ劣化する」のはいわば、当然です。
普通の企業、普通の人がやろうとすればできないことなのですから。
「昨日と同じことをやっていれば劣化する」のは、当然です。
事業規模が大きくなればなるほど、実現・維持が困難になってきているのですから。
これをやるのがマネジメントなのです。
そして、それができているから、私たちは注目もされ、事例研究に扱っていただいているのです。
蛇足ですが、私のスピーチ、ウケをねらった部分では、もれなくウケました。大したものでしょ。しかしながら、一箇所だけスベったところがありました。
「顧客を訪問しても、何事もないという場合が多い」ことを説明する際に、
Nothing
happens. Nothing changes.
に続けて、ドイツ文学の名作、レマルクの「西部戦線異常なし」をドイツ語で、
Nichts
neues in der West.
というセリフを、顔をドイツ人っぽくしてしゃべったのですが、見事に無反応。
第一次世界大戦を舞台にし、映画にもなった名作でしたが、時代が古すぎたのか、もはやドイツ語は欧州でもマイナーになってしまったのか。。。
2007年6月15日 自信と言えば
日本人に「自信という言葉から連想するものは?」というアンケートを取ってみた、と考えてください。
私の勝手な想像ですが、「自信過剰」あるいは「自信喪失」と答える人が、結構多いのではないかと感じています。
あるいは、「自信過剰な人と、自信のない人の間に位置する人は?」と聞いてみたら、「フツーの人」といった回答が返ってくるような気がします。「自信が(ほどよく)ある人」の存在が無視される可能性がある。
「ほどよい自信」というか、「あったほうがよいレベルの自信」あるいは「持つべき自信の方角や程度」が、言及されることがあまりないような気がします。
脱線しますが、「お金」も日本では同じような扱いですよね。
「金持ち」「金満」か、「金欠」「ビンボー」のどちらかであり、いずれにせよ極端。ほどよい裕福さというものがなかなか表現されない。
閑話休題。ハナシを自信に戻します。
「自信過剰」も「自信喪失」も極端。「自信家」という言葉ですら、ちょっと皮肉が込められていて、「もう少し謙虚にしたらいいのに」といった気持ちが入っている。しかし「自信がある人」「自信を持っている人」の方が、男性でも女性でも魅力的であることは、たぶん、間違いのないところだと考えます。あるいは自信がなければ、何かに挑戦することはできないものとも思います。
また、特に若い方むけの書籍や雑誌などにで時折、「自信を持て!」みたいな文章がありますが、「このバッグさえ持っていれば安心」=自信を持って!みたいな印象だったり、「こことここのツボさえ押さえておけば大丈夫」=自信を持て!みたいな印象を受ける。自信というのはそんなものではありませんよね。あるアイテムを持ってさえいればよいとか、事前にマニュアルを読んでさえおけばよいといったレベルの話ではありません。
神様を信じる習慣が弱い日本人には、自分を信じる習慣も弱いのでしょうか。
「信じる」という、脳あるいは心の働きは、様々な可能性がある中で、自分ならできるという確率が高いと考えること、あるいは、できない確率を自分の中で極小化し、「できないかもしれない」という思いで心が揺れることから逃れること、ではないでしょうか。
たとえば、ワールドカップの決勝戦、直前の両チーム。選手のほとんどみなが自信にあふれているハズです。そうでなければ、そもそもそこまで行けないでしょう。しかしながら、勝者は片方で、もう一方は敗者となる運命です。それでは、50%の選手は自信過剰だったのでしょうか?
違いますよね。
自信過剰というのは、根拠の無い自信や、あるいは行き過ぎた自信によって、結果がむしろ悪くなる、あるいは効果が薄くなるという場合に使うべき表現です。
決勝戦の選手たちは、自信を持ってプレーすることによって、よりよいプレーができるわけで、勝敗という結果は別物です。あるいは、「自分たちは勝てる」という自信があるからこそ、観衆を感動させるプレーが実現できるのです。
あなたは、ほどよい自信を持っていますか?
私たちSSGは、実力相応の自信にあふれているでしょうか?
「そんなこと、できるわけがない」は自信喪失の徴候です。
「うるさいことを言うな!」は自信ゆえではありません。自信のある人は、他人からの意見に耳を貸すことができるのです。自信のない人が、指摘されることを恐れてそういうのでしょう。
2007年6月18日 二重構造
今回のハナシの前半は、女性のスカートの話です。
「セクハラ!」とか言われちゃうと困りますが、後半の仕事の話につなげることが目的なので、私としては「苦手な分野だが、やむを得ず」挑戦するつもりです。いや、ホント。
数年前から二重構造のスカートが、やや流行していますね。
内側に、厚い生地でやや短めのスカートがあり、その外側に、極めて薄い生地、透けて見えるほど薄い生地で、長めのスカートがあるという、二重構造。
私は男性として、この二重構造スカートを大変に高く評価しています。
私の目の前を過ぎ去る二重構造スカートの脚が気になる場合、私の目には、外側のスカートが忽然と姿を消すのです。
一方、私の目の前を過ぎ去る二重構造スカートの脚が気にならない場合、私の目には、外側のスカートの生地が厚く感じられ、その中が透けて見えるということがありません。この切り替えが瞬時に、そして自動的に行われます。これは私の目の力というよりも、この二重構造を発明した人の力だと思います。
ここで前半部分の結論を無理やりに出しますが、二重構造というのは、考え抜かれた場合にのみ、効果を発揮するものなのです。
シロウトが中途半端な知恵で考えた二重構造は、「裏帳簿」とか「上司に弱くて部下に強い」とか「表の顔と裏の顔」とか「タテマエと本音」「ダブル・スタンダード」といったように、ろくなものがありません。
賢明な読者なら既にお気づきと思いますが、この文章の前半で二重構造スカートを持ち出した理由は、二重構造を「やれ」というために持ち出したのではなく、「やるな」というために持ち出したのです。つまり前半の存在理由は、「あれほど考え抜かれたものの場合にのみ、二重構造は機能する」ということです。
さて、後半。
二重構造を持たせてならないものの事例として、二時間人選をあげたいと思います。
「二時間で人選を完結させる」というのは、常識で考えて驚異的な速さです。それは同時に、「これを続けることが、極めてむずかしい」ことをも意味します。
人間あるいは組織が弱さを見せれば、つまり、泣きが入れば、「この受注は2時間じゃ無理」と言いたくなりますよね。
ここでたとえば「2時間人選が対象の受注」と「24時間人選としてよい受注」といったように、ある意味での二重構造を許してしまうと、組織は弱くなる方向に走り出します。
もちろん本当に2時間人選が無理なものもあるでしょう。あるいは、お客様企業に対して、同時にスタッフさんに対しても、スピード人選するべきでない受注といったものも中には存在するかもしれません。
しかしながら、「滅多に出るはずがない例外」という位置付けを許すことと、最初から二重構造を用意することとは、全く意味が異なります。
私は営業ではありませんが、当社の仕組みやシステムを外部の方に説明する機会も多く、二時間人選の話をよく使わせてもらっています。間違いなく、これは驚異的な速さなのです。そして、2時間と24時間の違いは、単に時間の長さだけではない大きな差を、お客様企業あるいは競争相手に見せつけることにもなるのです。
二重構造は、敢えてそれを使うというねらいがあり、考え抜かれた作戦がない限り、まず失敗に終わるものだと思ったほうがよいものです。
2007年6月19日 ブランド・イメージ
ブランド・イメージは、短期間に作ることができるものではありません。
また、当事者がイメージを「発信」したつもりになっても、受け取る方がそのとおりに受け取るとは限りません。
いきなり脱線しますが、課題山積の社会保険庁。年金についての相談をうけるためにフリーダイヤルを設置しました。その名も「ねんきんあんしんダイヤル」。
「フザケルナ!」と言いたくなるような名称ですね。全く安心できないという不安と、怒りがこのダイヤルに集中しているハズなのに。せいぜい「年金お問合せダイヤル」か「お叱りはこちらへダイヤル」あたりにすべきでしょう。
つまり、発信者が、自分たちのブランド・イメージとかけ離れた発信を行うと、むしろ受け手からは反感を頂戴するという事例です。
つまり、既に社会の中に醸成されているブランド・イメージから、かけ離れた発信をしてはいけないという教訓がここにあります。
一方、それでは、全く発信をしなくてよいのかと言えば、そういうことではないでしょう。
ブランド・イメージの発信は「宣言」であり、「旗印」であるべきだと私は思います。
みなさんご存知のバーバーリーという英国発のブランドがあります。
昔は、丸善か三越に行かねば買うことができなかった、高級ブランドでした。
男性なら40歳以上、女性なら50歳以上が主なターゲットだったこのブランドは、世界中から信頼されるブランドとして、愛されつづけてきました。
しかしながら、事業として見た場合、バーバリーは成長性を失ったものだったのです。
6月4日「金のなる木」で説明した事業のステージとして、バーバリーは、成熟市場において高いシェアを持つ、金のなる木であったでしょう。
金のなる木は収益性が高いので悪いことではありませんが、企業全体の観点で考えると、金のなる木はあるものの、これからの事業が育っていない。つまり、成長性の観点では大いに問題がある。6月4日の説明も、単に事業のステージを説明しただけではなく、いくつかの事業の組み合わせ=ポートフォリオが重要であるという意味もあったのです。
つまり、企業全体で考えれば、「金のなる木」だけではなく、「花形」は言うまでもなく「問題児」すらあった方がいいのです。
バーバリーは数年前、ブルー・レーベルの投入で、力強い成長を始めました。
「ついでに」っていうカンジで、ブラック・レーベルも始めています。
バーバリーは、成長性を獲得したと同時に、実は、ブランド・イメージも変化させたのです。
もはや「オッサン、オバサンの重たい洋服」だけではなくなりました。
しかし一方で、それまでのバーバリー・ファンが多数、離反したという側面も忘れてはいけません。
バーバリーは、実は、韓国や中国でも人気のあるブランドです。
数年前なら、冬にソウルにいけば、「全員、バーバリーのマフラーか!」と思うような状況でした。しかし、ほとんどすべてがニセモノです。上海や北京でも同様。
主題から脱線してしまいますが、韓国・中国あたりでは、「バーバリー・チェックはニセモノの証」みたいに受け止められてしまったせいか、「ダックス」の人気が高まっています。ちょっとレベルと価格の低いダックスなら、わざわざニセモノを作る業者もなく、「ダックスを着ていれば、それはホンモノ」ということなのでしょう、ね。
閑話休題。
こんどはダンヒル。英国発の最高級ブランドの1つ。
紳士服で成功したバーバリーは婦人服にも進出しました。婦人服で成功したフランスやイタリアのブランドは、紳士服にも進出しています。「○○Homme(オム)」は、婦人服で成功した仏ブランド○○が、紳士(Homme)向けに作っているという意思表示です。
こんな中で、100年間、紳士ものだけに絞った態度を変えないのがダンヒルです。
しかしダンヒルも、昔のバーバリー同様に、「50歳以上の男性」をターゲットにしているような印象を持たれてきました。そもそも値段も高いので、若い男性が奮発して購入できるものは、せいぜいカフスやタイぐらい。服は「オジサマ用」みたいな印象を持たれている。実際、ダンヒルのズボンは、まだちょっとダボいんです。
このダンヒルが、映画俳優のジュード・ローをモデルに起用しています。
ジュード・ローは、映画「ホリディ」でキャメロン・ディアスと共演したカッコイイ男優です。
これまで決して、映画俳優や著名人をモデルに起用してこなかったダンヒルですが、ブランド・イメージを「少し変えよう」としている意図が汲み取れます。「エスタブリッシュされた男性専用」といった印象から「それだけではなくスポーティでカッコイイ男性に似合います」と言いたいのではないかと、私は感じています。
バーバリーのブルー・レーベルのような、それまでのイメージを一新するようなものではありません。それまでのイメージを大事にしながらも、「ちょっと変わったかな」という印象を与えようとしている試み。英語で言えば、バーバリーはRevolution(革命)を断行したのでしょうが、ダンヒルはEvolution(進化あるいは段階的な変革)を進めようとしているように感じます。
さて、当社はどのようなブランド・イメージを持たれているでしょうか。
「オージンジ」のコマーシャルの印象と、私たちの「速さ」から、私は、「時間のない人はこちらへどうぞ」といった印象を持たれているような気がします。「急いでいるなら、こちらが便利」みたいな。
実際にコンタクトを取ってみれば、仕事はたくさんある、あるいは、候補者はたくさんいる。そして、その証拠に、次々に仕事を紹介してもらえるし、次々に候補者を紹介してくれる。こんなイメージを抱かれているような気がします。
私は、このブランド・イメージを大切にしながら、ここにプラス・アルファをしたいと考えています。
すなわち、バーバリーのブルー・レーベルのように、それまでを否定する印象を与えるのではなく、ダンヒルのジュード・ローのように、それまでのイメージを壊さないようにしながら、さらに、新たな付加価値を与えたい。
そして、もちろん、それは、単なるイメージではなく、私たち自信が付加価値を追加すると言う「宣言」であり、追い求める姿を明らかにする「旗印」とせねばならない。
SSGの業務部門である、SSOMは、従来「業務部門」と自らを定義してきましたが、今月、自分たちを「サービス部門」と再定義するよう、意識改革を始めました。まだ、始めたばかりです。あるいは、まだまだ道のりは遠いかもしれません。これを読んでいる方の中には「そりゃ、無理でしょ」と思う人すらいるかもしれません。しかしながら、「宣言」と「旗印」のもとで、着実な一歩を踏み出そうとしています。ジュード・ローはいませんけど、ね。
あ、私事で恐縮ですが、よく「似ている」とか言われます。
(注)笑うところは、もれなく笑うようにしましょう。
2007年6月20日 連携プレー
野球を見ていて私が最も心躍るのは、ダブル・プレー=ゲッツーです。
内野ゴロの場合でも、外野フライの後の本塁タッチアウトでも、野手の敏捷な動きと、優美とさえ言える連携プレーは、見るものを魅了します。
野球をある程度知っている人なら、ワンアウト1塁の状況で二遊間に飛んだ痛烈なゴロが、ヒットになるか、アウトになるか、はたまたゲッツーになるかは、息を呑む数秒間であり、野手が「こう動くはずだ」という予想とともに、フィールドあるいは画面に目がくぎ付けになるものでしょう。
一方、サッカーの連携はちょっと違います。
中村シュンスケから高原にいわゆるラスト・パス=さぁシュートしてね、というパスを出し、なんとかシュートまで持っていけた場合でも、その後、高原が笑顔で、「足元ではなく、前のスペースに欲しかったんだ」というジェスチャーをすることがあります。
観客の多くは、「シュートが浮いちゃった」とか「トラップが大きかった」といった印象を持つ場合でも、実は「連携にズレがあった」ことが一番の問題である場合がままあります。
サッカーの場合は、連携にズレがあった場合にはじめて、連携プレーの重要性に気づかされることがあります。
一方、野球の場合は、連携プレーが上手くいった場合に、連携プレーの重要性に気づくことが多いのかもしれません。
さて、私たちのビジネスは、事業規模の拡大とともに、多くの部門が連携プレーを上手にこなす必要があります。
営業とコーディ、本部と各組織、本部と地域本部、営業と業務、営業や業務とテレフォン・センター、あるいは、業務と業務。
ビジネスにおける連携プレーの重要性は、サッカーに似ていて、トラブルが起きたとき、上手くいかなかったときに、むしろ気づく傾向があります。
そんなときに、高原が笑顔とジェスチャーでシュンスケに伝えるように、また、シュンスケも笑顔と無言の「そうだよな」で応えるように、失敗という経験を次のチャンスに生かして欲しいというのが、今回の文章の主題です。
ここまで読んでいただくと、おそらく、多くの方から「そりゃ、そうでしょ」と賛同いただけると思いますが、しかし、実態は必ずしもそうではありません。
多くの場合、まず、シュンスケの立場にある人が、「言い訳モード」に切り替わります。
自分は間違っていなかったことを証明したい。あるいは、ああするより他はなかった理由を述べたい。わかって欲しい。
場合によっては、「前のスペースにボールを出したって、シュートを決められたかどうかは、アヤシイもんだぜ」みたいに、「攻撃モード」になってしまうことさえあるかもしれません。
一方、高原の立場にいる人も、「言い訳モード」になることが多い。
この場合は、シュンスケに対して言い訳するのではなく、監督・コーチや観客に対して。
あの場面、ディフェンダーとキーパーの間にボールを出してくれれば、ワンタッチでシュートできたのに。ボクの考えが正しいでしょ?みたいな。
こちらも場合によっては、シュンスケに対して「攻撃モード」になりかねない。
笑顔とジェスチャーで、意思の疎通ができるのは理想です。
ユースの時代から、何百時間も一緒に練習・試合を重ねてきた、シュンスケと高原だからできることでしょう。
一方、私たちが連携で失敗してしまうケースは、多くの場合、一緒に練習をしたことがないぐらいのコミュニケーション不足に起因することが多いものと考えます。
連携すべきはプレーヤーです。
当社で言えば、マネージャーとメンバーでしょう。
プレーヤー間の連携が機能するかどうかは、やはり、事前の豊富な練習=コミュニケーションだと思います。
監督=GM以上のレベルの人は、プレーヤー間での連携が、優美に機能する仕組み、準備を担当していただきたいと思います。
2007年6月25日 明るい皮肉を
今回の話は精神衛生のためのアドバイスです。
いきなり脱線しますが、「いいこと教えてあげようか」というときの英語は、
Let
me give you a tip, OK?
などと言うことがあります。
英語tipは、ウェイターやドアマンに小銭をあげるtip(日本語ではチップ)という意味の他に、「ちょっとした役に立つアドバイス」といった意味をも持っています。
今回のハナシは、「Let me give you a tip, OK?」の方角です。
あからさまに批判したり、罵倒したりすると、様々な問題が起きるとき、明るく皮肉を言うという方法があります。
ビートルズの「Sexy Sadie」という曲が、その代表例です。
ビートルズが世界中を駆け巡ってリサイタルをやっていた頃、インドにも行きました。インドの奥地の、とある宗教家が「面白い」と進言する人がいて、「ちょっと会ってみようか」ということになりました。ジョンが26歳ぐらいのころ、ジョージは23歳ぐらいだった。
宗教家の名前はマハリシ。謎だらけ、ヒゲだらけのジーサンでした。
オウム真理教の麻原(松本)容疑者(もう、容疑者ではなくて犯罪者だと思いますが)が、やはり、インドの奥地で謎の宗教家からインスパイアされたとか・されないとか言っていたような気がしますが、ビートルズはそのずっと以前に、「マハリシ師」からインスパイアされたようです。とくにジョージが重症に陥りました。
なお、インスパイアinspireは「霊感を与える」といった意味を持ちます。
しかし、ジョンは素早く立ち直り?ました。というか、「ありゃ、インチキだ」と思ったようです。インドの空港から飛び立つ前に、「Sexy Sadie」という曲を作って、マハリシを明るく、かつ、痛烈に皮肉ったのです。
ホワイト・アルバムに収録されている「Sexy Sadie」は、セクシーな女性セディーについて歌っている曲です。「キミは世界中をだましているんだね」といったフレーズが出てきますが、セクシーさゆえに世界中がキミに夢中だが、キミは世界をバカにしているだけ、といった主旨の曲です。
実際に曲を聴いてみると、まさかこれがインド奥地の謎の宗教家と関係があるとは想像できません。
ビートルズはあまりにも有名なため、このエピソード自体もよく知られるところとなりましたが、本来「ごく一部の賢く、センスのある人だけが気づく皮肉」といったものであったのです。
もう一つの事例。
サザン・オールスターズの「ミス・ブランニューデイ」。
軽快なリズムとお茶目な歌詞。「夢に見る姿の良さと美形のブルージーン」という出だしとともに、若く魅力的な女性を「称えた」曲かと誤解しますが、歌詞をよく吟味してみると、というか、吟味までしなくとも、この曲が、若くてキレイでパーな女性を痛烈に皮肉っていることがスグわかります。「みな同じ素振り」とか「しなやかと軽さを履き違えている」というように、かなり、ストレートに批判しているんですけど、楽しそうに歌っているので、なかなか皮肉と気づかない人も多い。
「この曲、アタシのテーマ・ソング!」という若い娘まで出てくる始末で、「やれやれ」だったりします。
明るく皮肉る。
これは結構、精神衛生によい、一種のストレス発散方法です。
理想的な方法としては、皮肉の対象者をも含めた「聴衆全体」や「読者層」に対して、つまり、広く世の中に向かって、明るく皮肉る。しかしながら、約10%の賢くセンスのある人だけが、それが皮肉であることに気づき、本人を含めた大多数は、皮肉であることに気づかない。
英語のことわざ、「Don’t get mad. Get even.」を実践する方法としてはオシャレです。
「怒り狂うな。やり返せばよい」といった主旨なのですが、「殴られたら殴り返す」とか「目には目を、歯には歯を」といったことではなく、例えば、「浮気されたら、怒り狂うよりも、自分も浮気すればよい」みたいなニュアンスで使います。
世界中で大人気だったビートルズですが、実は20歳台の若造でした。絶大な権力と影響力を誇る宗教家を正面切って罵倒すれば、どんな仕返しをされるかわかったものではありません。ここは明るく皮肉るのが一番でしょう。
サザンも大人気でしたが、もし、若い女性陣を敵に回したらタイヘンです。桑田サンは明るく皮肉ることで、教育的な配慮?さえもあの曲に盛り込んだのではないでしょうか。
実は私も、この「明るく皮肉る」方法をよく使います。ストレス発散にはもってこい。
ほとんどの場合、本人あるいは本人たちは気づきません。
なお、たまに失敗することがあります、けどね。
2007年6月26日 エースをねらえ!
「はい、こちらスタッフサービス、厚生係りでございます」
で電話に出るのは、社会保険関連業務を担当している業務三部です。
この業務三部は、当社では唯一と思いますが、変則的な昼休みを取っています。
早番の人でも12時には戻ってくるし、遅番の人が出るのは1時すぎです。つまり、多くの会社が昼休みを取っている12時から1時までの間、全員が着席しており、頻繁にかかってくる電話への対応を最優先にしています。
稼働開始とともに社会保険に加入された方、あるいは変更手続きが必要な方。一方、終了とともに当社の社会保険から抜ける方。
社会保険の「得喪(とくそう)」と言いますが、加入と脱退の時点で手続きが必要で、その際にスタッフさんからお電話を頂戴することが多いのです。
当社の事業規模が大きくなり、同時に、当社の社会的責任が高まってきたこと、そして、派遣労働が社会に認知されてきたことなどを背景に、毎月の社会保険手続きの数が増加しています。数年前の状況とは全く異なります。
手続きをする方はスタッフさんであり、多くの場合、派遣先で就業している状況にあります。ですから、電話したくてもなかなかできずに、昼休みの時間帯に電話が集中するというわけなのです。
実は、業務三部が昼休み特別シフトを始めたのは最近のことであり、それまでは他の部署と同じように、普通の時間帯に昼休みをとっていました。電話が集中するものの、手薄になった体制では電話は取りきれず、多くのスタッフさんたちから「電話がつながらない」という苦情を頂戴していた事実があります。
数年前なら従来のやり方でも大きな不都合はなかったかもしれませんが、先ほど申し上げたように社会も当社も変わった現在では、昼休み特別シフトに着手するほか方法はありませんでした。
余談ですが、お昼に昼食を取れないのはキビシイと思います。
私などは、頭の回転が必要な仕事を午前中に設定することが多く、消費カロリーが高いため、フライングして昼に出ないと、廊下で行き倒れてしまうことがあります。
あるいは、どこの会社も昼休みである12時すぎに、毎日、友人・家族・恋人と連絡を取り合っている人だっているでしょう。
お店がまだ開いていないことの多い11時から昼休みをもらっても嬉しくないとか、人気メニューが売り切れてしまっていることの多い1時すぎに昼休みをもらっても嬉しくないということもあるでしょう。
しかし、こういう短所に目をつぶっても、昼に全員が揃い、電話を取りきるという昼休み特別シフトを導入してくれました。
この決断は、「わたくしたちはサービス部門である」という業務部門の基本方針から生まれました。この決断は、「電話は仕事の邪魔ではなく、電話に出ることが仕事である」という意識改革から生まれました。
そして、実は、この決断はスタートにすぎないのです。
電話をくださったスタッフさんが、手続きや確認など、当初の電話の目的を果たすだけにとどまらず、安心ができ、「かけてよかった」と感じていただければ、大変に大きな効果があるとは思いませんか?
あるいは、頂戴した電話の内容等についての統計分析を行い、「もっとこういう説明をしよう」とか、「営業段階でこの説明をしたほうがよい」とか、「インターネットから手続きを手軽にできるようにすべきだ」といったアイディア、提案が出てくれば、当社は、継続的に競争力を強化できる有効な手段を1つ実現することができるのです。
熱血テニス少女漫画「エースをねらえ!」は、テニスど素人の岡ひろみ(だったっけ)が、渋い中年である宗方コーチ(だったと思う)から理想的な指導を受けて成長していく物語です。
高校生なのに金髪セレブの「お蝶婦人」がいたり、イケメン青年の髪が紫色だったりと、やり放題の漫画ですが、なかなか感動的です。
主人公は、テニスど素人、すなわち一番下からの出発です。
厚生係りの「電話がつながらない」は、苦情件数トップレベルでしたから、言わば同じようなスタートと言えるでしょう。
しかし、岡ひろみがここから急成長、大逆転をしてライバルや先輩たちをゴボウ抜きしていったように、業務三部にも「サービスとは何か」を考えてもらい、他の部署や他社をゴボウ抜きして、サービス部門のトップをめざして欲しいのです。
テニスには詳しくありませんが、「エース」とは、「サービス・エース」や「リターン・エース」という言葉があるように、打ったボールのコースと強さによって、相手が「手も足も出ない」「触れない」ようなボールのことのようです。
不治の病に冒されていた宗方コーチは、飛行機で海外遠征へと飛ぶ岡ひろみに向かって病床から「岡、エースをねらえ!」と言って、(たぶん)死んでしまいます。
朝からこの原稿に知恵とエネルギーを投下した私は、昼にみんながそろって電話を取っている業務三部に向かって、「業三、エースをねらえ!」と言いながら、餓死寸前の状況にあります。
(注)健康と美容のために、笑うところはもれなく笑うように
2007年6月28日 仲間
あなたには、あなたの「志」に共鳴する仲間がいますか?
あなたと「目標」を共有する仲間がいますか?
私は、昔の会社に21年半、SSGにほぼ4年いますが、実はその間の約2年間、当社の「顧問」ということではありましたが、厳密に言えば「独立した自営業」の状態でした。
自営業、フリーランス、ただ一人。
この2年間のあるとき、2003年だったように記憶していますが、1週間、一人で英国ロンドンに行ってきたことがあります。
「情報セキュリティ」に関する国際的シンポジウムに出席することが主な目的でした。自腹だったので格安航空券、安宿でしたが楽しい旅でした。
2003年当時は、「個人情報保護法」が騒がれるだいぶ前でしたので、シンポジウムに日本人の姿はありませんでしたが、国際的には情報セキュリティがかなり注目されてきた時期ということになります。
シンポジウムは、講演や会議だけでなく、商品やサービスの展示ブースが多数あり、世界各社のプレゼンテーションや説明、あるいはショーが開催されていました。
この中で、ある技術製品を展示・説明している会社のコーナーがあって、私はそこでしばらく時間を過ごしました。比較的多くの聴衆が集まるそのブースは、説明者であるその会社の若者たち数名が実に楽しそうでした。
世界では全く無名といってよいその会社の、おそらく初期の立ち上げメンバーたちだと思いますが、男女合計10名ぐらい、表でマイクを持つ人がいれば、裏で大道具担当みたいな人もいる。プレゼンにあわせて歌いださんばかりの大げさな身振りなどがあるのですが、とにかく全員が楽しそうであり、充実している様子がわかりました。
「ああ、仲間っていいな」と思いました。
独立して一人でやっていこうと思っていた私ですが、涙がジワッと湧いてくるような気分になりました。
私自身は、SSGでの「自分の存在意義って何だろう」とよく考えていました。
「自分に何ができるか」「自分にしかできないことがあるか」「他所よりもここが自分を必要としているだろうか」と常々考えていました。
そして、同時に、「一人でできることはほとんどない」と感じてもいました。
「仲間が必要だ」と。しかし「何のための仲間か」「共有するものは何か、考えは何か、目標は何か」と考え続けました。そして同時に、「仲間を作ることができるか」と。
私は、SSGに、今もっている強さに加えて、異なる強さを持たせたいと思っています。
「もっと多面的に強く」「もっと多面的にエキサイティングに」「もっと多面的に面白く」。
異なる種類の強さは、それぞれの組み合わせが「トレード・オフ」の関係(6月11日参照)にあることが多く、一方を追求すると他方がダメになることがある。新たな強さを手にしたとき、かつての強さが失われてしまっては意味が無い。
パッと決めたことが、アッというまに徹底され、他社がマネできない。
これが当社の強さです。
これに加えて、多くのメンバーが意味を理解し、高い志を持っているがゆえに、あちこちでジワジワと改善活動が継続され、常に進化があるという強さ。
この強さをモノにしたい。
いま、私には仲間がいます。
これを読んでくれているあなたも、新たな仲間になるかもしれませんね。
2007年6月29日 相談相手は選べます
昔の結婚式だと、親戚のオジサンあたりのスピーチが用意されていて、おやじギャグで「つかみはOK」みたいな、次のような展開があったものです。
「結婚生活に大切なのは、ポパイである!」で5秒ぐらい間をおいて、
「あ、違った!ほうれん草!」で、聴衆の5%ぐらいが笑い、75%がシラケる。
そんな反応に負けるようなおじさんではもちろんなく、
「報告の「ほう」、連絡の「れん」、相談の「そう」、三つあわせてほうれん草!」
というわけなのだが、私の年代だとこの件、「今日で24回目でーす」というぐらいの古典的マネジメント手法です。
「報告」は英語で言えばreport。
外資系企業で「レポート・ライン」とよく言われますが、日本企業で言えば、「指揮命令系統」みたいなニュアンスだと思ったほうがよい。
「上司に報告することは、それ自体が一つの重要な仕事」という、ある意味で当然の考え方ですが、外資系の方がしっかりしています。日本企業によくあるような「仕事ができる職人だけど、報告がない、あるいは下手」という人に対して、外資系では「仕事ができる」という修飾語を使いません。報告ができない人は、第一歩が既にダメということなのでしょう。
あなたが報告するべき相手は、既に決まっているハズなのです。上司です。
このレポート・ラインを会社の中でしっかり作っておかないと、情報が上に伝わっていかない、従って、的確な意思決定ができず、もちろん全組織で情報共有するなどできるはずがない。
報告は、すべての人にとって仕事の重要な一部であり、その相手は決まっています。
次に「連絡」。英語だとcommunication。
「○月○日、××ビルが停電します」という連絡は、関係者全員にする必要がありますね。
「×月×日、16時から重要な発表があります」という連絡も、上とは異なる対象者だと思いますが、これも全員に伝える必要があります。
連絡は、その内容によって相手が変わってきますが、その内容が決まれば、相手先も自動的に決まってきます。よくあるケースが「連絡もれ」でしょう。つまり、「その件なら、あそこにも連絡すべき」というように、内容によって、連絡先が決まるという法則があるのです。
当社で使っている「通達」も英語ならcommunicationです。
一方、communicationの方法には様々なものがありますので、その内容や相手、さらにねらいなどに応じて、方法や頻度、深さについては工夫することが望ましい。
最後に「相談」。相談を一言で表す英語はありません。
たとえば意見が反するAとBが、妥協点を探す目的で相談する=話し合うときには、単にtalkという動詞を使う。離婚を考える夫婦二人が相談するときもtalkなら、子供の進路を二人で話し合うときもtalk。
専門家から意見を聞きだすことを目的に行うものは名詞consultation、動詞consultを使う。
相談を受けた側が行うのは、guideだったり、adviceだったり。
上司から指示を受けた仕事の内容やねらいが、今ひとつわからないとき、その上司には「相談する」のではなく、「確認する」と言います。
受けた仕事の実現方法として、いくつかの選択肢があって、そのどれにしようか迷っているとき、上司に「相談」して「指導」を受けるべき場合と、先輩や同僚などに「相談」して「意見を聞く」場合がありますよね。
私の考えですが、大きな課題ほど、相談相手を選ぶべきだと思います。
その仕事の実現方法が何種類かあって、どれにすべきか経験者の知恵を借りようとする場合なら、「経験者」であれば相談相手は、言わば誰だっていいのです。
しかし例えば、ある人と結婚しようかどうしようか、転職しようかどうしようかといった人生における大問題にぶつかったとき、相談相手は、自分自身でじっくり選んでから相談した方がよくはないでしょうか。
仕事における課題が大きいとき、深いとき、広いとき、相談相手をじっくり選ぶとよいと思います。
「行動量が足りない、どうしたらよいか」といった課題ならば、相談すべき経験者はたくさんいるものと想像します。一方、「300人の組織を、どう動かせばよいか」という相談相手は別でしょう。
「経験者」が少ないだけでなく、「経験者」が経験したときと今では、状況が大いに異なる可能性もあります。一方、全然異なる分野の経験者のアドバイスが有効である場合もあるかもしれません。
相談相手を選ぶ能力。
これもビジネスマンの重要な能力です。
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