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2010 W杯 日本が勝てない理由



510日に発表された日本代表23名の名簿を見てつくづく思う。勝てない理由の第一はサイド・アタッカーがいないことだ。

 

いや、岡田監督が選んだメンバーに問題があるのではない。この中の数名を入れ替えても良いサイド・アタッカーがいないという事実は変わらない。それどころか、2006年、2002年、1998年の名簿を見ても、サイド・アタッカーはいないのだ。

かつて日本代表に、良いあるいは強いサイド・アタッカーがいたことがあっただろうか。まさかとは思うが1968年メキシコ・オリンピックの杉山隆一選手まで遡る必要があるかもしれない。

 

日本はサイド・アタッカーを生まない、育てない国なのではないか。そうだとすればこの理由は、岡田監督や日本サッカー協会に帰することはできない。あなたと私を含む日本人の価値観や文化の問題なのではないか。

 

最初に、サイド・アタッカーとは何かを考えてみたい。

あなたがセンター・サークル周辺でボールを持ったと仮定してみよう。そこから相手ゴールまで直線的にドリブル突破することができるだろうか。あっという間に相手数名に囲まれボールを失い、逆襲をくらうのがオチではないか。

ところがタッチライン際でボールを持ったとすればどうだろうか。あなたにスピードとスキルと意欲があれば、縦への直線的な突破を試みるのではないか。

実はこの二つの試みには大きな違いが二つある。成功する確率において後者は前者をはるかに上回り、失敗したときのリスクにおいて前者は後者よりはるかに重大なのだ。

タッチライン際における縦への突破は、相手にとって、そこに数名を向けることのリスクが大きいゆえに通常は1対1で守り、抜かれた場合に備えるものだ。したがって攻撃側としては1対1の勝負ができるわけで、中央からの突破に比較すればはるかに成功確率が高い。また、失敗した場合、ボールがタッチラインを割ってスローインになるぐらいならリスクはかなり小さいと言えるし、相手にボールを奪われたとしても、逆襲速攻は同じサイドの前にフィードされることが通常なので、相手にとっての選択肢が少ない分だけ危険には備えやすいと言えるだろう。一方で、中央突破でボールを奪われた場合は、そこから左右あるいは前方のどこを突いてくるかわからない分だけ危険に満ちていると言える。

 

だからこそ、スピードとスキルに自信があり、1対1の勝負に意欲を持つ選手はサイド・アタッカーになろうとする動機を持つ。

オランダのロッベンが今大会の代表的なサイド・アタッカーであるが、ポルトガルのロナルド、アルゼンチンのメッシ、イングランドのルーニーなどにもその傾向が強く見てとれるはずだ。彼らがサイドから前に向かい、すきあらば中に切れ込むといったシーンを恐らく多数見ることができるだろう。

 

日本人の体格や身体能力を考えると、残念ながらスピードにおいて優位にあるとは考えにくい。しかしながら相対的に速くかつスキルを持つ選手が、1対1の勝負に立ち向かうチャンスが豊富なサイドを選ばないとしたらどうだろう。これは国民性あるいはサッカーを知らない国民能力の問題とは言えないか。

 

この背景に日本における10番信仰があると私は考えている。

 

この説明に入る前に、日本サッカーが勝てない第二の理由、ストライカーがいないことをあげておこう。

スピードとスキルと意欲がサイド・アタッカーの必要条件であれば、意欲を勇気に置き換えることでストライカーの必要条件となる。

ストライカーはできればファースト・タッチがシュートでありたいと考える選手だ。華麗なドリブルで抜いてからシュートとか、シャレたパス回しでスキを作ってからシュートなどといったような価値観ではなく、トラップする間さえ惜しみ、できればダイレクトでシュートを打ちたいと考える価値観が望ましい。そしてそのシュートは左右どちらの足であっても構わないし、頭どころか手と腕さえ除けば身体のどこだってよいという価値観だ。

 

スピードとスキルに恵まれた少年あるいは青少年が、サイド・アタッカーやストライカーよりもトップ下あるいは10番を背負いたいと考える文化、価値観をあなたと私を含む日本人で醸成しているのではないか。これが10番信仰だ。

 

そもそもサッカー・チームには様々な個性を持った選手が揃っていることが望ましく、どのポジションや役割が一番であるといった考えはおかしいものだ。しかし日本人は司令塔が一番だと思っている。10番を背負った司令塔が最高の役割だと考えている。

そもそも司令塔という言葉を使う人に聞いてみたいが、司令塔が残りの10名に命令を出しているように見えるのだろうか。

 

余談になるが漫画の「キャプテン翼」はサッカー普及に多大な貢献をしてくれたが、大きなマイナスも残してくれた。主人公の翼クンには欠点がない。このことがあの漫画の最大の欠点だと私は考えている。

 

日本人が好きな実在の10番と言えば、イタリアの二人のファンタジスタ、ロベルト・バッジオとアレッサンドロ・デルピエーロだろう。しかし彼らがヘディングで競り合う場面はなかなか見られなかったはずだ。

司令塔という言葉の語源となったコントロール・タワーあるいはゲーム・メーカーと呼ばれたドイツの二人の天才パサー、オフェラーツとネッツァー。1970年代に活躍したこの二人だが、前者はほとんど左足だけ、後者はほとんど右足だけで仕事をしていた。そして二人を同時にピッチに立たせることができないと言われたぐらい、プライドが高すぎた。

華麗だが勝負弱いという意味でシャンパン・サッカーと悪口を叩かれたフランスを強くした二人のリーダー、カントナとジダン。ジダンが頭突きで退場になったことは有名だが、カントナはヤジを飛ばす観客にブチ切れて殴り飛ばし出場停止を食らった。

 

翼クンはうまいし速いし、競り合いにも強い。上半身の筋肉はスゴイことになっている。片方の足しかうまく使えないなどといった欠点はあるはずもなく、また、誰とでもうまくやっていける最高の性格だ。もちろん短気などといった欠点とも無縁だ。

完全無欠な10番の翼クンが日本人の目標であり、何かしら欠ける要素があれば9番の日向クンや11番の岬クンということになり、もっとダメなら8番以下の番号となる。

 

ペレやマラドーナでさえ、何かの点では同僚の方が優れていたはずだ。サッカーの価値観は一つではなく、評価軸は一次元ではない。

サイド・アタッカーを愛する価値観があれば、ストライカーやサイドバックにも良い選手を生む文化を持つことができるだろう。

 

もうひとつ余談になるが、日本人と身体能力において大差ない韓国だが、日本に比較してはるかに多くの強いストライカーを生んでいる。

このことを韓国人のサッカー愛好者と議論したことがあった。私がこのことをうらやましいと言うと、彼は、韓国では中田英寿や中村俊介のような良いパサーが生まれないと言って、日本がうらやましいと言った。さんざん議論した上での結論は、徴兵制がある国と世界で最も平和な国の違いか、あるいは、キムチと豆腐の違いだということになった。

 

サッカーは文化を反映する。日本サッカーはまだまだ歴史が浅く、サッカー文化と呼べるほどのものがあるかどうかは疑わしい。ただしかし、サイド・アタッカーを愛する価値観を醸成しない限り、私は、日本は海外では勝てないと考えている。

ブラジルやスペインのように全員が格段にうまくてどこからでもチャンスを作れるようになるにはあと百年かかる。イタリアやイングランドのように突出した2,3名が逆襲速攻で得点できるようになるにも同様だ。

イングランドとドイツという強国にはさまれた小国であるオランダは、日本の東海地方に匹敵する人口しかいないこともあり、サイド・アタッカーを育てる工夫を国を挙げてやっているとも言える。青少年のサッカーはフォーメーションを4-3-3の固定とし、背番号がポジションを表すという甲子園野球方式を採用し、サイド・アタッカーの仕事と役割を子供のころから理解させようとしている。もちろん他のポジションも同じだ。

少年サッカーでさえ3バックがいい、いや4バックだなどと大人たちが議論し、しかしエースは常にトップ下という文化、いや、浅はかな考えと言うべきか、これが日本の現状である。

 

日本代表23名の中に、強いサイド・アタッカーが3名入ったとき、私は「勝てる」と言おう。

 

 

以上