まばたき一瞬の空白を、見逃した事後悔させるくらい、命は常に輝いている。
 それなら瞼のタイミングに合わせて、君がやってくればいいのに。君のタイミングに合わせて、この瞳を抉じ開ける。


 T- 21 関係性の、アーキタイプ。


 季節というものをまるで無視する世界の枠組みから外されたその街は、快晴こそが一番拝み難い天気であり、湿り気には事欠かない為旱魃こそ無かったがそれ以外であればなんでもあり、というのが適切だった。
 ひたすらな雨期が続いたかと思えば極寒が襲い、かと思えば翌日には熱風を伴い荒れ狂う猛者達の大舞台を披露してくれもする。それなのに天蓋の雲一つ取り払う事が出来ないのは些か不審でもあるのだが。
 更にその予測は困難を極めると言うから全く以て迷惑なお話なのだが、研究対象として大変興味深いだなんて遠巻く他人より、隔てられた一センチ向こうではほぼ普通と呼んで問題無い気象条件なのにだからこそエファルは呪われた地であると毒吐く他人より、面倒を蒙るのは誰あろうそのエファルの住人である。
 そしてこの日の天候は、相変わらず天霧り熱源の見えない、蒸し風呂だった。

 因ってヤハンはだらしなく伸び切っていたし、こんな日に敢て純黒という防温効果抜群の配色を装ってしまったハリカラは早くも後悔していて、数分後にそれを知るだろう、今日も今日とて欠かさず引っ付くジョイバヤを煙たがりながら、今日も今日とてテッソはエファルバッシングを始める。
「なん、なんだ一体この街はぁ!」
 額、耳の裏、首筋、各関節の接地面等々だらだら汗を垂らしながら、始めてテッソは愛してやまない王宮の、これまた愛してやまない制服に腹が立つ。何枚も着重ねたよう、びっちり身体を覆うそれが、地肌に触れる部分から湿って縒れて衣擦れを起こして、効果音はぐっちゃぐっちゃが正しいものだから、暑苦しさが増幅されてたまらない。
「どちらかと言えば冬みたいな寒さだったでしょうよ昨日まで! え! 何考えてんだ!!」
「お天道様に怒ったってしゃあないじゃんよぅ。」
「うっさい何よりあんたが一番不快指数を上げるんじゃ!!」
 ぴったり胸を合わせ腰を添わせ指はいやらしく何処其処を這う。何度突き放してもへばりついてくる感覚はスライムも顔負けだが、その方がまだ涼しげだとテッソは吐き捨て。
 だがその腕には、もう固い添え木も前時代的なぐるぐる巻きの包帯も無く、寧ろそれまでより俊敏に振られて、敵が近付いてこないようバリケードを張る。
 確かめる為の乱暴さに悲鳴一つ上げない完治、シャードの無敵細胞が組み込まれたのではと疑いたくなりもする完治の早さだが、田舎者テッソが無言で口を開けっ広げ驚く横で今時これくらいの医療技術当然と、恐らく何度もお世話になっている分詳しいのだろうヤハンは偉そうで、
 嗚呼思い出すだに腹が立っては又体温が上がる。
「畜生どいつもこいつも度し難いとしか思い付かない。」
「しどいんだー。なんでテッソはそう、言葉選びが出来ない子なんだ。」
「安心しろ、取り分け選ばないのはあんたに対してだけじゃ!!」
 再三全力で腕から引き剥がしてみれば、今度は指を咥え切なそうに見つめてくるものだから、たまらないったらたまらない。延いてはあんたの前でだけだという特別扱いなのだと両者は気付かずに。
 どうせ一秒後には再び吸着されるのだろうが遮二無二、その先に天国でもあるかのよう”シュリオン”の戸を開けると、前述通りの彼らが彼らを出迎えた。
 そして最近では最早慣れてしまった絵面、医療を受けた者としては認識を改めざるを得ない風評、藪医者と名高いシャードも着席していたが、此方は先日までと大差無い服、へろへろの白衣は色合いこそ涼しげだが長袖だった分寧ろ暑苦しさが増す。
 尤もそれ以前に涼を求め屯する親仁親仁又親仁こそがむんむんと、湿気を充満させてはむさ苦しさを掻き立てているのだが。
「この暑さの中でよくもまぁ変わらぬ衣装でいられますね。」
「うっはそれ、テッソにだけは言われたくなーい。」
「こんな街だ、今がどうだろうが昼にでもマイナス割ろうが予想の範疇に入れておかない方が馬鹿になる。一時凌ぎの軽装など当てにならん。ってどっかの誰かさんなら革服をかっちり着込んでそうなもんだけど。」
 ヤハンの誰かさん予想はまさに適切で、ツェンバーそっくりの渋面から正論を並べ立てるものだから、かっかかっかテッソの熱は収まりそうに無い。
 その口真似をされた張本人は、ここ二日三日程影も形も見当たらなかった。
「そんな事って、あるんですかね?」
 此方も最早当然の体でテッソが腰掛けると、素早く飛んできたホリッシュが二人分新しい飲み水を置いて、予めあった三つのコップにはお代わりを注いだ。相変わらずエレナは遅刻しているようで、どうせなら住み込んでしまえばいいのに、なんて他人の空想。
「ツェンバーが此処に来ないって? まぁ、ある事だよ。そもそも、だって絶対集まらなくちゃいけないなんて理由無いし。安くて美味い飯を求めてオレ達は来るし、ツェンバーの場合は+αイオリナがいるけど、だからって毎日通わなくっちゃいけないとは繋がらないさ。」
「そぉそ。よーするに気紛れってーか、適当なんだよな。それでもまぁ、珍しいっちゃ珍しいんかな。見てみろよ、イオリナ又萎んでるし。倣ってエレナも萎れてるし。」
「え、いるんですか?」
 てっきり習慣から決め付けてしまっていたテッソが改めて厨房を振り返れば成る程、二人の女性が似た者同志、見るも無残に悄気返っている。
「特にエレナなんかは、きっついんじゃねぇの? 和解したと思いきや姿が見えないってんで。」
「その和解とやらなんですけどね。ブレノウェルズさんの新聞にあったんでつい読んでしまったんですが、本当ですかね。」
「取り敢えず今は燃え尽きてる二人が熊も顔負けの猛追を新聞社に仕掛けたって事は、あながち嘘でも無いんだろうね。そもそも、ブルはでっち上げ出来る程頭も良くない。」
 数日前に発刊されたものだから詳細は霞みがかかっていたが、要するに女王と看板娘の不和を謳う大見出しには街中からも驚きの声が多く上がったようで、テッソはその日始めて拝んだエレナファンクラブとやらが、殆どはこの”シュリオン”に毎日のよう集まっている常連の親仁達だったが、それはもう心底心配そうな顔を並べて店をぎゅう詰めにした日には、嗚呼畜生エファルめ滅んでしまえと何度思ったか知れない。
「カルニナさんも一緒になって食って掛かってたらしいし。取り敢えず地域に密着出来なくちゃ新聞なんて慣習付かない事、ブルは判ってるのかなぁ。」
「何々、お前最近カルニナといい仲なんだ?」
「はいはい下世話な口調にならない。イオリナから聞いた話だよ。」
「あ、これってひょっとして姿が見えないツェンバーちゃんがどうしてるのかって話?」
 すっかり逸れまくっているとは言え発端はそうであった筈だとテッソが生返事気味に頷くと、シャードは愛くるしい微笑みを更に強めて気軽に口を滑らせる。
「それなら今頃へたってるんじゃないの? だって長年親しんできた薬を暴走するまで忘れちゃって、でも又服用し始めて、その緩急に悲鳴上げてたり、或いは途切れた一瞬の免疫力低下とかでガタが来ててもおかしかないし。取り敢えず正しく医者に掛からないと休んでみても意味無いと思うけど。」
「お、前、知ってんならさっさと教えとけ……」
 これを息も絶え絶えと言わずどうしろと、枯れたがらがら声が入口から響き渡って、一斉に振り返った衆目に曝される先には目映いばかりのオレンジが閃いている。
「寝ときゃ治るとか放置してみて一週間経っても寧ろ悪化の一途でどうしたもんか人が腹を決めかねてる横でなんだその余裕綽々の態度はぁっ!」
 思考がぶれているのか纏まりの無い文句と共に鉄槌一発、しかし叩き付けた勢いの割にへばる本体を如実に表し、軽々躱された拳は机を真っ二つに割るどころか罅の一つも入りはしない。
「物事には適切な処理ってもんがあるじゃない。一度リズムが変わったなら、強引に戻せばいいってんじゃなくて、タイミングを合わせる努力してからじゃないと。」
「不可効力で担ぎ込まれた時にそれぐらいしたってバチは当たんなかったんじゃねぇのか?」
「だから、その時には適切な処理をしたんだよ。だけど僕、君の主治医って訳じゃない。」
 腹が立つ。嗚呼腹が立つ。腹が立つ。
 だが四の五の言っていられない。ツェンバーは視線を合わせないまま低音の唸り声で切り出した。
「おい、あの話だけどな。」
「んー? 僕との結婚式のはなぴ」
 一般的にあの話と切り出されて話し手と聞き手が同じ話を連想する確率はあまり高くない。例に従ってシャードも又どの話なのか当たりをつけても確定が出ない。尤も現段階の流れを汲めば誰にでも予測は立ちそうなものだが敢てその前提に立ったつもりで、だったらば下手を打つよりいっそ数打ちゃ当たる戦法、夢を語ってみたがあっけなく豪腕の右で顔面を強打、玉砕されて。
「お前の職務だ。仕方が無いから、受けてやる。」
「おや、珍しいねツェンバーが医者に掛かるなんて。まぁ、今の状態見るからにしんどそうだもんね。」
 甘んじて受けた打撃の威力が半減どころではなく、シャードはしみじみ重症さを感じ入る。それでも口を顎骨に埋め込まれてしまったその本人よりも早く反応を示し、決定に到るまでがどうだったのやら興味津々、ここぞとばかりハリカラは身を乗り出した。
「別に。お膳立てにまんまと乗っかるのは酷く気に食わないがこの倦怠感を払拭する為に 無料(タダ)で健診受けられるんなら得かと思っただけだ。」
「そうかそうか遂に、猛追にほだされて躯を許す気になぷ」
 本領発揮、誤解を受け易いよう慎重に吟味したヤハンの台詞は豪腕左でシャードと同じ運命を辿る。
 女王登場から他の客が期待していた重傷者二名が立ち所に出来上がったところで、ツェンバーの目前には料理も続々出来上がったらしくテーブルが賑やかに彩られる。
 次点で期待していたその事柄を、ヤハンは果たして綺麗さっぱり無くなる前に食事が出来る状態へと戻れるやら怪しい限りだ。例えツェンバーに常程の切れが無かろうと、一齣も待たずに傷を再生させるなんて技量は未だシャードにしかない。
「来た瞬間マスターが目の色輝かせて作り始めて、プロならモチベーションに左右されない仕事を期待したいところだけど、まぁそれがイオリナさんのいいところですから。多分直ぐ突撃かましに来ますよ。」
 注意を促がすホリッシュの言葉が早いかいそいそ、身支度を整え直し生気を取り戻したイオリナとエレナがツェンバーの元へ来る為の準備をしている。
「有識者達も未開の境地である領域に踏み込めるだなんて恭悦至極。」
 流石の職人、凹みも元通りに残滓といえば赤いひりつき程度で復活したシャードは恭しく頭を下げ感謝の意を一応は見せてみる。無論そのわざとらしさに余計にもう一発叩き込まれはしたのだが。
「心して拝見させて頂きますよ。」
 いやらしさこそ無かったがそのにこやかさがより胡散臭さを増しているのだと自覚があるやら、御機嫌な足取りで別の卓を囲む親仁達に報告をしに練り歩いては全く以て、シャード医師はこの街に馴染んでいた。
「その調子で少しはシクさんとも断絶した仲が深まればいいのに。」
「冗談だよな?」
 朝一の逆鱗にはどうやら大穴ハリカラが触れたらしい。シャードとのめおと漫才での恐ろしさなんて子供騙しだったと、こめかみが微震し吊る目はいと恐ろしく、軽く手を振り降参、もうこれ以上触れないとベターな判断で爆発には到らなかった。
「ツェンバーちゃん久しぶりーーー!!!」
 猪突猛進抱擁のフルコースを行おうとして、はたとイオリナは構えた状態で止まる。息荒く肩の上下が激しい様子を見取って、欲望より安静が大事だとなんとか踏み止まった。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
「あー、じきに大丈夫になるだろうさ。自力で申し込まなくちゃいけないなんて高ビーな奴のせいで一杯食わされた間も否めないが、割に合う働きぐらいしなけりゃ今直ぐ殺す。」
「要領を得ないけど兎に角、死ななきゃ上等よ。」
 悪戯っぽくはにかむエレナは口調程自然体では無く、どちらかといえばぎこちなかったが精一杯自分らしく振舞おうという努力を見て取ってツェンバーは何も言わないまま。
「取り敢えず風邪だったらうつすとまずいからあっち行ってろよ。」
「嗚呼、そりゃ大丈夫。ウイルス性って訳じゃなくて、それに風邪っていうのも症状を一括りに呼んでみてるだけだから。強い薬程、頓挫すると辛いし、そこから又始めると尚辛い。」
「だからわかってんだったらさっさと対処しておけっつってんだろうがこのタコ八が!!」
 言動だけは強気だったが見るからにへろへろなツェンバーの攻撃は、三回も見ていればシャードでなくとも容易く躱せる。
 あれこれ今なら女王やっつける大チャンスじゃね? 不埒な思考は誰しもに巡るが、少なくとも周囲を固めている布陣がとかれるのを待たなければならないし、それで負けたら真面目に末代までの恥。
 しかし早くもこれをリークしたものがいたのかイオリナの耳にはお馴染みワンチアネットワークが鬼の霍乱を伝え始めていた。
『只今女王衰弱キャンペーンが急遽実地されております! 命の惜しくない猛者達は愚かしくも挑戦に、ミーハーな見物客は珍しい世紀の見世物拝見に、急ぎ”シュリオン”へ!』
「ちょっと誰よ、ツェンバーちゃん売った奴!!」
「あっはっは、取り敢えず早急に回復しないといけないみたいだね?」
「だーかーらー、にっちもさっちも最初っからお前が素直に施しときゃよかったって話だっちゅうんだよ!」
「やだよ僕、便利屋じゃ無いもん。」
 いい加減度し難さもクライマックス、メーターを振り切ったツェンバーは力無く机に突っ伏した。歯止めの利かない暴走のおそろしさを身を以て体験したテッソは恐々、気持ち遠巻きにしかし着席したまま見ていたのだが、爆発するだけの余力すら燃焼し尽くした様子で。
「さぁそれじゃ僕は名実共にツェンバーちゃんの主治医になったので二人で愛の巣に引き篭もろうと思いますよ。」
「……ねぇ、これはただの憶測なんだけどさぁ。ツェンバーが倒れた時に毒を盛った、なんて事は?」
「あらやだ、人聞きの悪い。」
 しっかり否定もせず笑みを濃くして、拒絶出来ないのを幸いにぐったりとしたツェンバーを肩に担いでシャードは店を出て行く。
「や、あいつならやりかねねーぞ。さっき自分で言ったじゃないか、免疫力が低下なり体調が狂うなり。一服盛ってなくとも、知ってて放置したなら意思ありだろう。」
 空恐ろしいお医者の計画か、肝も概要も勝手な空想。



「何やら面白い噂が飛び交っているようですよ。」
 その声がとても楽しげだったので、シクォーテルは不思議そうにエインセルを仰いだ。小悪魔的な微笑みを携え一人分の紅茶を置くと、しかしエインセルは面白い話の種を教えてはくれない。
「まだ、証拠不十分ですからねぇ。尤もワンチアネットワークに流れている分、多少信憑性ありなのかしら?」
「私には骨格が見えないから少しも面白さを分かち合えないよ。」
「あら、でも駄目ですよ。俗世間の賑やかしな情報をお伝えする訳には参りません。一国の王ともあろうお方に、通す情報は吟味しなければ。」
 拗ねて口を尖らせる子供っぽい態度を諌める事もせず、エインセルはからかうようにあしらう。
「取り敢えず、現段階を確かめる情報源はその為に呼び寄せたものでは無いのだけれど、序でに聞いてみますから。」
 おとなしく待っていなさいと、それこそ本当に子供扱い。
 引き止める為の餌が、閉じ込める為の鍵が、紅茶だけでは物足りなかったがエインセルが淹れてくれるものが絶品なのも又確かなので、追窮は飲み干してからにしようと、まんま付き人の計略に従って弄ばれる王様は一人部屋にぽつねん取り残されて、芳しい茶葉の色気にただ魅了されていた。

 ソファに深く腰掛け、首を回した途端丁度視界ど真ん中に現れるベッド脇のフォトフレームには、今と全く変わらないシクォーテルと、まだ幼さの残るエインセルと、今では朧げな、女性が三人肩を組んで無邪気に、とまでは行かないが和気藹々と映り込んでいる若き日の。
 あくまで思い込みに過ぎないが、天真爛漫な女性の瞳が苛めるよう射抜いてきて、シクォーテルはそっとカップをソーサーに戻し、麗かな過去へ思い馳せるかのよう、部屋に飾られる額縁に比べれば玩具のように陳腐な写真立てを手にした。
「アルグレーテ……お前は今、何処にいる? 私がエインセルと共にいる事など、知りもしないで……」
 背徳や悔恨より、責めるような。
「懐かしささえ込み上げてくる。嗚呼、正直私にはもう、お前の顔などわからないのかもしれないな……。それは、悲しい事だよ。」
 黒に近い赤茶の髪を棚引かせている映像は鮮明に。だけど表情は、覚束無い。
「今以て何ゆえお前が出て行ったのか見当も付かない私なら、それも致し方の無い事だと、お前は許すのか?」
 罰して欲しげに、許しを乞う。
「それとももう、生きてすらいないのか、私の事など思い出す瞬間も無く別の場所別の誰かと共に過ごしているのか。」
 そうであって、欲しそうでもある。
「わからないんだよ、私には。きっと昔から、お前の事など何一つ
――――わかってなど、いなかったんだ。」
 それまでの世界を何も知らなかったのと、きっと同様に。
 今でも殆ど世界を何も知っていないのと、変わらない事。
 綺麗に整えられたシクォーテルは、今や全貌の掴めないアルグレーテは兎も角少なくとも写真の中より確実に成長しているエインセルに比べて、何も変わってはいない。
 延いては時が経とうとアルグレーテが見つけ易いよう、なんて浅はかな考えがあったのかもしれない。保つだけの美しさも無いと自覚していながら、それでも整形は月に一度の定期健診を今も行なって。
 しかし刻まれない皺は、心も大した成長などしていないと、自己嫌悪するには充分で。
 ぱたり、雫が、一滴、落ちた。



 いつかハリカラがそうされていたように、同じ客室同じ待遇同じ茶葉で持て成され、ブレノウェルズは縮こまっている。シクォーテルの部屋にあるものとは違う写真立ての群れに、アルグレーテが映るものは一つとして無い。そのいつかの日に感傷任せ、隠されてしまったから。
 浅黒い肌の下で筋肉の収縮が著しく、何度も何度も身動ぎしては報告をただ聞いているエインセルの一挙手一投足を全力で見張り。
「成る程? これがツェンバー暴走の顛末ですか。」
「えぇ、丁度ブルんちの目の前で繰り広げられたもんで、ね、ちょっとした騒動になりましたけど。」
「エファルで一大事と言うなら、本当に一大事ね。」
 手に持っているのは発行している新聞の最新号で、既に目を通してはいたのだろうが改めて、ブルの手書きのメモと共に見比べて、より正確に把握しようとエインセルの双眸は忙しなく動いていた。
「簡潔に纏めてしまえば服用し忘れ、被害はテッソ准尉と、ね。止めに入ったヤハン、ハリカラが負傷、全員がシャード医師により治療されたのでまぁ、それ程の大事に至った訳でも無いんですが、ね。」
 居辛いのか貧乏揺すりが激しいブルは気付いては止めてでも又無意識に始めて、途切れ途切れなのが逆にエインセルの癇に障っていたのだが、取り敢えず言い終わるまで待とうと口は開かれない。
「翌日は普通にしていましたが、ここのところ姿を現していません。えぇ、”シュリオン”にも。ね。」
「……そう。まぁ、常用している薬が強い程、一端終わってしまってからの再開とは兎角きつい。身体的にもね。ところで貴方のその足の振動も、中々気になりますね。」
「あ、あっと、失礼しました。」
 見咎められてぴたっと止めるが、顔が茹蛸のように湧いたのは単純な羞恥心よりも、別の意味合いを持って。
「いえ。まぁ、それに関しても先程、貴方の部下が即座に情報を流してくれましたから。本当にワンチア・ネットワーク、当方よりも素晴らしい情報網です。」
「お褒めに預かり……なんて、ね。ありゃあ管轄外です。だって、ね、あいつは好き勝手、それこそブルの知らないところで動きたがるんです、ね。」
「親友であり上司の貴方でも把握出来ていない、と?」
 再び咎められているのだと悟れば萎縮したよう竦み上がってしまうブルだったが、掛けていた眼鏡を外し肘掛け椅子から歩んできたエインセルはその肩をそっと、叩いた。
「仕方がありませんわ。エファルは個性豊かな動物園ですから。お気になさらずに。」
「こりゃ、どうも。うん、これからも付き合いは深めますが全容解明はどうかと……あの、」
「?」
 話の腰を折る事に躊躇いがち、それでもブルは目を泳がせつつ脱線を続ける。
「この間、夢を見たとお聞きしました。ハリカラから、ね。どんな夢でした?」
「何故貴方がお気になさるのです?」
 突っ慳貪にも思えたが、当然にも取れる。
 即座の疑問返しに堪らずブルは口籠ったが、えぇいままよ、言わんばかり弾みに任せて。
「たまに、疲れているんじゃないかと。ね、エインセルさんはそう見えるから。そんな時に見る夢って大抵悪夢で、だから、ね。悪い夢は人に話すといいって……」
「お気遣いどうも。でもそんな、大したものじゃないの。大体、見たのでも無いから。」
 話は終わり。拒絶が述べられて、ブルは悪戯を叱られる子供のようにすっかり意気消沈している。
「ハリカラよりは、信頼されてないんだぁ……」
「何か?」
「いいえ、なんも。」
 聞こえていないふりでもなんでもいい、これ幸いとブルは必死に首を振り振り口走った事を後悔しながら、矢も楯もたまらず今は逃げ出す事が第一だと腰を上げそそくさ帰り支度。
「それじゃ、それじゃこれで失礼しますから。」
「えぇ、貴重な情報有難う御座いました。これからも、どうぞ宜しく。」
「勿論、ね、勿論です。……エインセルさんも、王宮に疲れたら是非いつでも、当社へおいで下さい。ね、お客様でも新入社員でも大歓迎ですから、ね!」
 驚いてから、ふんわり、優しくエインセルは笑みを零す。
「多分、後者は在り得ませんけど。充実していますし、何より私は離れられないわ。」
 それが場所なのか、人なのか。
 聞かなくても、理解る気がした。
 少なくとも、理解っているとブルはそれ以上何も言わず執務室を追い出されるように飛び出し、乱暴に扉を閉め、かと思えば悄気返った足取りは、重く。
「嗚呼……このテンパリ癖ももちっと、ねぇ、どうにかならないかなぁ。」
 自己嫌悪と反省が悶々立ち込め、トレードマークの削げた鼻を不躾に指差し笑う王宮人など目の端にも入れずただ、ブルはしょぼくれていた。
「王様は、強敵だよなぁ、うん。でも、せめて、ね。ハリカラよりは信頼されていたいなぁ……」
 丸められ、頼り甲斐の欠片も感じられない、男の背中は斯くも無様に、エファルへの帰り道を通る。



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