それは有り触れた日常。変わり映えのない在り来たり。それがどれ程いとおしく、かけがえのないとか説く言葉は聞き飽きて。
 帰ってこられた日には、きっと思い返しもしない。二度と戻れなくなって始めて、焦がれる思いに気がつくのだから。


 T-22 空色も、鈍色。


 数刻前まで空間全てを覆い尽くすかのよう、まさに疾風が如く黒風白雨は場を彩っていた。
 名残の泥濘を足下に張り付けて無遠慮に誰もが其々の舞台へ上がるものだから、彼方此方に泥がこびり付いて汚らしい装飾が床に壁に一面に伸び広がる。
 今日の天気も、空いっぱいの曇り。

「さーあいよいよ、大詰めです! 僕の唯一の楽しみが再び奪われるのかと思うと大変心痛がぷ」
 綴られるべき心痛とやらは、随分と不躾な殴り込みで頓挫される。拡声器でコロッセウム全土に響き渡った一部始終に民衆が笑い転げる中、一人だけが哀れなる司会者の側で心配そうに寄り添う。
「ワンチアさん、だいじょぶ!?」
「あー、だいじょぶ、だいじょぶでっす。カルニナの暴行には慣れてる!」
 再び拳骨が飛ぶのは摂理。
「ちょっとぉ、カルニナん酷いったらぁ!」
「こればっかりは貴女の言葉も聞き入れられません。いいですか、私にはこの男を調教する義務があるのです!!」
 少し新しいスタイルに移行した司会兼実況と解説のわやくやに、観衆は何度でもやんややんや。
「んー、で、なんだっけ? あ、そうそう。僕の生き甲斐括弧司会が括弧閉じるストレンジも愈々決勝戦、です!」
 御丁寧に括弧まで呼んでみせる白けっぷり、ワンチアに促がされてなのが果てしなく不服でたまらないといった面持ちで、それでも渋々ツェンバーは四角の武舞台に足を掛け、反対方向からヤハンも同じく、此方は御満悦の様子だったが、逸る気持ちを抑え切れないようさっさか中央まで登った。
「おらおらさっさと来いよ! 俺はきょーこそ、一位の座を手にするうぅっ!」
「はぁん、随分と執着してんね。てーか、憧れてんのか? わり、アタシその気持ちわかんね。」
「っかあぁ! 腹が立つったら!! これが王者の風格ってやつ〜っ?」
 先ずはと言わんばかり口撃合戦から好調で、定番でもあるが好カードでもある対決に裏で賭けている住民達は息も生唾も呑み見守っている。
「ヤハーン! お前に入れたったんだから勝てよぅ!!」
「賞金少なくったって女王様に入れたんだから、今日も御威光見せ付けて下さい!!」
 無責任な歓声に、慣れている筈のツェンバーが舌打ちして、聞き逃さずヤハンは首を長ーく、実際に長ーく伸ばして下から覗き込み。
「はっは、やぁだね気負ってんの?」
競人(けいじん)なんて娯楽に付き合わされるのがうんざりだってんだ。ターフコースを走った覚えはないんだよ。」
「嗚呼そりゃ、おれたちゃ泥まみれ、ダートコースが似合いのそれも駄馬だから。」
 二人して目にした事の無い競馬を話題にしてみても、空々しい間合いに火花さえ飛び散らない。
「エファルの当たり前だろう。そんで、お前がほぼ権限を握っていると言って間違いじゃない。」
「ほほう、という事は始めからお前負ける気なんだな。まぁ? その前提のが楽だしな、なんなら今から八百長申し込んどけよ。」
「馬鹿こくでね。ジツリキでこそなんぼだろう!」
「あっそ、じゃ無理だね。儚いね。御愁傷様だね。」
 歯噛みと地踏鞴に明け暮れるヤハンの後ろで、ハリカラが涼しげな表情ででんと構え、三位と言えど既に順位が確定している為の余裕か風格さえ醸している。ヤハンが異常に執着する一位を、まだ一度も勝ち取れた事の無い優勝を、何度か味わっているが故の差か。
 対するツェンバーの応援と呼ぶべきは”シュリオン”一味だったが、エレナは一人離れワンチアに付きっ切りであったし、ホリッシュは本日も通常営業を恙無く行う為居残っているので、というよりも先日の応対を買われてこそその位置付けが確定したのだが、兎に角イオリナが何人力でも出せるとばかり張り切りっ放し。

 そこに、シャードの姿は無かった。

 誰よりも勇んで余計な事を口走りつつ逆効果の応援歌を唄っているだろう図が真に似合うそのシャードは、喧騒を離れシクォーテルとエインセル、ジョイバヤにテッソを交えた王宮組に向けて御高説を広げている。
 宙に浮かぶ投影画像に驚く事が無かったのは、いつの時代も消える事の無い時代格差に揉まれたテッソとは違い生まれ育ちの過程で幾度と無く利用しているからだろう、実際国際的な立場に立つ彼が知らない方が無理難題と言うもの。
 一人座席を離れ演説を振舞うシャードが指し示すスライドにも、四人に其々手渡された資料にも、大体同じ事が綴られている。
 タイトルは、『竜人ツェンバー・ジェイに関する経過報告書』、そう大々的に付けられていた。
「先ず、ツェンバーちゃんの変化に於ける違いから。早速仮定からですが、オーリィにほぼ委ねられているとして過言ではない。腕の変化は、オーリィが血液分配を担い、人と竜の率、値が変えられて起こるもの。」
 手元のリモコンを操作してピックアップした欄を、見ながら其々は手元の紙片をめくり頁を合わせる。
「対して翼は、そのように既に在るもの、例えば血中濃度に何某かの作用を及ぼした、のではなく第三の手が登場したと言える。
 生物学上、人は四肢を持ち、鳥はその手を翼にしたもの、そう呼ばれますが、竜は寧ろ六肢だとした方がいいでしょう。だが、ツェンバーちゃんは人の血の方が強い。幾らその身に竜の血が濃くあるとして、それが隔世遺伝的なものだったとして、それまで四肢だった存在がいきなり二つも増やせはしませんし、だとしてもとても順応出来たものじゃない。」
 得心したように頷くシクォーテル、懐疑的なエインセル、静聴しているジョイバヤ、ついていけてないテッソと四者四様の反応を気にせず再び頁移動を行なうシャードは、淡々と、それこそ研究書や論文を読み上げるかのよう抑揚に欠けていて。
「一旦話を変えて、オーリィ化と呼ばれる、あくまで判り易くする為に言い換えれば主人格の交代は、それこそ意識の主たる存在が入れ替わったものの、どちらかといえば腕の変化に近い、しかし又違う支配率の変動と呼べるでしょう。」
 無糖の珈琲を一口含み、閉ざした唇から更に続ける言葉を誰しもが待ってただ、無言。
「因って躯はツェンバーちゃんのものであり、これまでの仮説から竜的影響を濃厚に持っているであろうオーリィへと何もかもが移行した訳ではない。発生している翼も矢張り、依然として別個体の、第三の腕です。」
 飛び出させた小窓を閉じて、元の頁に戻す。だが其々は戻りはせず、投げ掛けられた波紋に煩悶している。
「しかし外付けの翼がオーリィのものかと決め付けるのは早い。ならば完全に両翼であっていい筈だ。敢て不便な片翼の必要性が見えない。」
「あー……例えば已む無くそうしているとは? つまり、オーリィ自体が片翼や、隻腕であったとか。」
 的外れでありませんようにと祈っている小声がゆっくり、テッソから上がるとシャードは勿論笑顔で答えた。
「あるでしょうね。現段階ではオーリィの正確な全容を把握し切れない上、二人がどういった理由で同一化しているのかも不明である為言い切れないけれど、翼に出来ない事情があると。ただ、左腕が本来その役割を持つべきものであったのかも知れない。」
「翼と腕は別次元の変異だと先程仰ったのでは?」
「えぇ。ですから、翼程具象化が許される力を余していないのではと。しかし他の部位には取り立てて起こらない変化が左腕にのみ及ぼされる事からも、此方にだけオーリィとしての形が表せるのかなと。言ったでしょう、まだ仮説の段階です。」
 眼鏡の下から鋭く入るエインセルからの指摘にもしゃあしゃあ対応し、ビジョンを消去すると室内の照明が戻され、怪しい集会染みた空気が一気に緩み、誰もが息を抜いたり伸びをして緊張を和らげようと必死。
「以上で、僕が診療した初期段階の報告は終わりです。」
「初期段階、だって。凄いな、こんなの今まで報告された文書が十倍あっても足りない密度だよ。」
 これまで手に入る事の無かった緻密な情報に驚きを隠せない面子、特に感服し切っているシクォーテルだったが、着席したシャードは微笑のままずばり射抜く。
「オーリィなんて所詮妄言、偏執病(パラノイア)だとでも思っていたんですか?」
「っや、そこまでは、言わないけど。」
 なんとなし、他に比べて冷たく感じた対応、痛烈な批判に途惑いながらのシクォーテルの否定は、どちらかといえば肯定しているも同然のしどろもどろだった。
「折角楽しみなストレンジを放棄してまで開いた会合ですから? それなりの、成果が無くっちゃね。」
「本当に、手腕には驚くばかりです。是非今後も、この調子で報告が聞けるとよいのですが。」
「尽力はしますがね。僕はあくまで、ツェンバーちゃんの味方でありたいなって。」
 これだけプライバシーを漏洩させておきながら白々しいと、誰しもが言いたげな視線を投げ掛けるが、全く以て意に介さない。その態度といったら、より飄々さを増して。
「さぁそれじゃ、用事も済んだ事ですしツェンバーちゃんの勝利のお祝いにでも行ってきますよ。」
「決め付けてるのか? 残っているのはヤハンにハリカラ、まぁ後は忘れたが何れも実力者であるのは確かだ。いつ地位が脅かされようともおかしくはない。」
「それ、本気で思ってます? 女王は、故に女王なんですよ。」
 飛び切り色っぽくはにかんで、シャードが作戦会議を終えた執務室から退出しようとするその後をテッソが徐に追い掛けた。当然釣られてジョイバヤも動くが、最早追い払う事さえ無視して、後片付けを王と付き人というこの中で階級上位の二人に任せる其々の無礼を、しかし気にせず寧ろ率先して行なうシクォーテルは、ただただ、驚嘆に浸っていた。
「はぁ……なんだか、本当にあの子の事を知りはしなかったのだなと、ほとほと、感じ入ったよ。」
「それも、仕方の無い事と言えばそうです。医者ぎらいという名目で検査諸々、彼女は無視してきましたから。病原菌を持ち込まれてはたまらないと説得しても抑え付ける人員の負傷に機材の破損の方が大変だと、やがて諦めた我々では到達出来ずとも、えぇ、致し方無いかと。」
「尤も、理解らない訳でも無いのだよ。あの子が最後に医者に掛かった時は確か
――――嗚呼、そうだ。不信になっても、仕方が無かったな……。」
 回想までが味方して止まらないため息に、エインセルは眼鏡を外し蔓を胸ポケットに収めて、シクォーテルを抱きしめてやると、ようやくそれで陰鬱な「はぁ……」が終わる。
「これから、知っていけばいいじゃないですか。たったひと月もしないで、これだけのあらましを整えられたシャードさんがいるんです、不可能ではきっと、無いでしょう?」
「……そうかなぁ。少なくとも私だけは、延々と触れられないんじゃないかと、思うんだよ時折。そう、頻繁にあの子と始めて逢った頃を、このところ夢で見るものだから
――――


 今より明度を落とした、赤っぽい髪の毛。
 それでもばっさばさで、特徴的なのは変わらずに、小さな小さな女の子が、バケモノの噂が立ち始めた下水道から現れた事に、エファル中が震撼した。
 一体彼女は何者なのか。何がどうなってこんな場所へ現れたのか。
 更に噂を呼んだのが、迷い込んだのではなく寧ろ選んで来たのだと、滞在という最悪の選択を望んだ少女の、肝っ玉と言うより狂いっぷり。
 物珍しく取り囲む観客の外側から遠巻きに視線を送るシクォーテルにしかし気付いたツェンバーは、瞬間、凄まじいまでの、

 あれは、殺気?

 それなりの地位を、例えお飾りでも有していれば暗殺紛いの話には事欠かず、殺気どころか嫉妬も欲望も沢山のどろどろも、存分に堪能したけれど。
 あんなにも明確で、あんなにも鋭くて、あんなにもどす黒い、

 殺気は、初めてだった。

 初体験に竦むだけの遑も与えられず、小さなツェンバーはその身を撥ね一足飛びにシクォーテルの元へ、噛み付こうとするものだから必死に、衆人環視が恐れ戦いたり逃げ出したり煽ってみたりごった返す波を作って、エインセルが、庇い立てなければ片腕くらいはもがれていたのやも知れないと、大袈裟なんかじゃない。
 言葉なんて、威圧的な、威嚇しか飛び出していない、まともな言語になっちゃいない。
 それでもその瞳が、力いっぱいに訴えてきた。

 お前を、赦さない。

 決して、のがさず此の手で、
 殺してやると、そう告げていた。

 まだ、とても小さな、あまりに小さな、女の子が。



「准尉がストレンジに興味あるなんて思わなかったなぁ。」
「えぇ、勿論嫌いですよあんな野蛮な宴。連絡係初就任の際も、わざわざ見ないでいたかったから、ずらした時間の調整に手間取ったものです。実はここだけの話、怪物警報から直ぐに収集、とは行かなかった理由がそれなんです。」
「わぁ、職務怠慢v」
「うっさい黙れ愚兄。」
 あっさりすっぱり切り捨てられて涙に暮れるジョイバヤは扨措いて。
「それじゃなんで又、御一緒する気に?」
「もうそろそろ終わるでしょうし。所用がありましてね。」
「ふぅん。逢引きなんだ?」
「……っは、誰がこんな街の住民と」
「そ、そうなのかテッソ!?」
「……エェ実ハソウナンデスヨー。」
 ひとえに兄を脅かす為だけに嘘を吐ける度胸と呼んでいいのやら、度量は身に付けたらしいテッソはお蔭様で更に慌てふためくジョイバヤの姿を堪能出来た。
 辿り着いてみれば既に結果が待っていて、今月の優勝者が誰であったかなんて、誰もの脳裏に判っていた予定。
「なぁんだ、ヤハン君は念願の一位をまだ手に入れられずにいるんだ。」
「遅かったじゃないか。きっとシャードなら絶対見に来るだろうって、ツェンバーが憂鬱入ってたのに。それとも若しかしてそのモチベーションを考慮しての登場?」
「いやいやまさか。どちらかと言えば、念願を果たしたいという男の夢を汲んであげたい派ですよ。愛と友情の両立は実に難しいね。」
 舞台上で四つん這い、判り易く落ち込んでいると見えるヤハンの上には暗雲が渦巻いていて、ツェンバーの方は喜びも誇らしさも纏ってはいなかったがイオリナが巻き付いていた。
「僕はね、ハリカラが一番こわいんじゃないかって、そう思っているよ。」
 意外そうにそのおそれられた男が顔を上げると、いつにも増して湛えた笑みの濃いシャードは饒舌に。
「ツェンバーちゃんなんかただの直情型だし、ヤハンなんかもただ餓鬼のまま成長していないとおそるるに足らず、僕に至っては始めから胡散臭さ満載だから警戒心も自然出てくるだろうけど、一見普通か優しさを装って近付いて来る人間こそ、最もおそれるべきだと。」
「へぇ。そりゃあ、買い被りってもんじゃないの。」
 口調こそ軽妙な両者の、何処となく陰険で腹黒い探り合い。
 だがその査定はある意味では正しいものである。手先とまで呼べるかは不明だが、ハリカラはある程度エインセルに飼い慣らされているようだから。それなりに連絡員として勤勉に励んだかテッソがそう長考するのを知らず、おそれる男に背を向けシャードは神聖なる決闘の場を横断し、イオリナの抱擁が終わった途端代わりとばかりツェンバーに抱きつく。
 油断でも生んでいたのだろうか許してしまった屈辱にたまらずツェンバーは翻筋斗打つが、振り切れないしつこさは執念そのもののよう。
「さぁ、戦いが終わったならメンテナンスが必要でしょう? 心して拝見させて頂くよー。先ずはなんと言っても特徴的な髪。晴れやかな柑橘系よりも若干くすんだ、そう、煉瓦のような色合いが趣を感じる。質は曲がる程の癖は無いが単純に真直ぐにもならないという、この微妙な柔らかさがセクシーだ。それから」
「あーキモイキモイキモイ!!」
 うっとり、恍惚に溺れる独擅場をぶち壊したブーイングは、二言三言で見事に怒りを漲らせるシャードへの敬意の表しと取るならば、所謂完全に目がイッている、というやつで。
「なんだい、情緒に欠けまくるねぇ。折角ワインを愛でるかのように褒めて差し上げてるんじゃないか。」
「死 ね っ!」
 一音一音に真心を込めての宣告に、シャードは更に頬を緩ませた。今更ながら、常人とは反応が対極を通り越している。
「あーあーもー、何やってるんだあの人は。仮に本気の愛を捧げてるんだとして、もう少しやり方を考えられないのか?」
 この瞬間ばかりはツェンバーの思いが身に染みて理解ると言いたげにテッソが嘆いてみても、伝わって欲しい当人つまりひたすら愛という名のストレスをぶつける事しか知らないジョイバヤはそんな時に限ってハリカラと談笑を決め込んでいるのだから、空回っている感が否めない。
 経験という名の日数は埋まらない間として歴然と存在し、だからといって埋める事に勤しみたいかと問われれば、染まりたくないの一点張りなのだが。
「全く、同感です。公序良俗だなんて説く気にはさらさらなりませんが、猛烈なアタックが身を結ぶなど殆ど……殆ど在り得ません。」
 意外な賛同者は、小さな背に不似合いの重厚なため息を曝した。新聞から掻い摘んで得た情報に寄ればその猛アタックでエレナに絆されたと言うから、成る程一概には否定し切れないのだろうが、目のやり場に困ると頭を抱えるカルニナの姿は、エファルぎらいの准尉にも一つの連帯感を与える。
 不躾に繁々眺めていると、豆電球が灯る感覚で、彼女とのもっと前から築かれた関係を、わざわざストレンジの会場まで足を運んだ理由を、思い出しテッソは懐を探り出した。手間取らずに取り出した、無味乾燥なメモ帳を、はい、目の前に差し出すとカルニナは、息を呑みそれとテッソの顔を往復して見比べた。
「この間ぶつかった時、確か君が落としていったんだったと思って。違う?」
「いいえその通り、これは私のです。ずっと探していたんですが、そうですか……ところで、この間、というのは?」
 伝説の少女漫画的出会いはどうやらカルニナの胸に深く刻まれる事は無かったらしい。尤も酔いどれの膨らんだ面など覚えられていてもそれはそれで恥なのだが、たかがエファルの住民に過ぎない少女の極く日常的な失礼に腰砕け、怯んだよう顔が引き攣りながらもテッソは無事拾いものを届ける任務を完了した。思えばエファルに来てからろくに仕事らしい仕事をこなしていないテッソにしてみれば、初めての大業と呼べる。
「ところで中、見ました?」
「あ、……そりゃあ、君が誰かとか一瞬見ただけの特徴とかじゃ僕にはまだ、判らなかったので。でもそんな、変な事は書いてなかったじゃないですか。寧ろ少々冗長に思える新聞の内容を適切に簡潔に要領良く纏めてあって、素晴らしい。おかげでよりエファルを知れて、いやそれは嬉しいのやら悲しいのやら、兎に角僕には、役立ちました。」
 完膚無きまでの褒め言葉に、カルニナは不慣れから動揺を引き起こし頬を紅潮させたが、俯いてそっぽ向きながら、小さく、
「ありがとう、御座います。」
 余程純粋に褒められる機会が無かったのか適正に能力を評価されていなかったのか、そんな風に恥じらいの行動を取られ思わずテッソまで照れ臭そうに視線を泳がせる。
 ストーカー紛いがこの変化に気が付かない筈が無い。数分前は全く繋がらなかった線から何やら甘ったるい空気を感じ取り、一応王の付き人その二としてそれなりの立ち居振る舞いを要求されるであろうジョイバヤはチンピラ宜しくメンチを切ってじろじろカルニナを眺め眺め。
「ちょっとぉ、うちの純情な弟君誑かさないでくれるぅ?」
「お前は何処の小姑か! さもなくば陰険な女学校の先輩風か!」
「やぁん、怒るなよぅ! 俺の総てはテッソを思っての事だってば!」
「だったら先ずその押し付けがましい概念を早急に改革してみせろ!!」
 ぎゃんぎゃんやっかみ合う凄まじさにカルニナがドン引きして後退りしている間、遠目で観覧していたツェンバーはあまりの進歩の無さに嘆息。
「あいつらは、どうにもならないな?」
 ハグ権を奪取する為イオリナの加勢で決着、動かし難い勝敗が如実に反映されている。地に伏すシャードが二度と起き上がる事の無いよう頭を踏み拉きながらツェンバーの齎す感想にあながち他人事では無いとイオリナは微妙な顔付きで、思い出した質問を投げる。
「そういえば、今日はお弁当いいの?」
「んー、あー。……そうだな、今日くらいは、いいさ。」
「そう。っね、ツェンバーちゃん、そのお弁当って……」
「ん?」
 一体なんの為のものなの? 何処で誰と食べるものなの?
 その追窮こそが武舞台を挟んだ向こうで繰り広げられる駄目駄目な喜劇に繋がるようで、独り善がりの我儘なようで、始めたはいいものの続けられない。
「作るのが面倒だったら、別にいいんだけど。」
「ううん! ううん、そういう事じゃないの! ツェンバーちゃんの頼みならなんだっていつだって聞くわ!!」
「それは、ありがたいけど。無理してくれなくて、いいんだ。」
 頓挫したからこそ噴出した深刻なまでの縋り付きを、イオリナが自覚する前にツェンバーが受け流す事で、まだ自己嫌悪に陥らずに済んで。
 既に、どうしようもないくらいの愛情であると、認識されているなんて、イオリナは考えた事があるのだろうか。
 判り易い愛で方にさえさらり対応する軽やかさこそ、誰に対してと変わらない態度にだからこそ、より自分だけを特別に見て欲しそう、身の丈以上の努力を重ねるイオリナの肩を抱き寄せる事で、無言の労い。
 今はワンチアに掛かり切る事で必死にそんなマスターの哀れな姿を振り切ろうとするエレナが、ツェンバーをきらう理由を、誰よりもツェンバー自身がその心深くに宿す。

 こんなに愛されていながらも、見ないふりして愛されていないと云おうとする。
 自分勝手な孤独を創り上げる為に犠牲にされるなんて、一番愛し甲斐の無い対象。

 それでももう、誰かに愛されるのは、誰かを愛するのは、たえられないんだ。

「じゃ、弁当の代わりにさくっと祝杯上げとくか。」
「まっかせて! 今日は一日中お店の事ホリッシュに頼んであるから、あたしツェンバーちゃん専属の料理人よ!」
「え、それってつまりいつも通りって事じゃないの?」
「黙れヤブ。」
 したたか踏み潰しておきながらもう一度入念に振り下ろされた踵が、えぐい音でシャードの後頭部を削る。
 どんより重たく、呑み込む為の雲が、エファルの隅々まで、言い換えればエファルの頭上にだけ、滞る、いつも通りの光景。
 そう、今日も終始、曇り空。



<<  >>