
0.月にうさぎはいなかった
峰深く霧立ち込める、陰森凄幽を体現した辺境の地。時代を疑うようなこてこてのゴシック建築の城がでんと居を構え、その最西端には高さが互い違いにされた尖塔が三つ並んでは暗がりに浮かび上がり、嘗ては祈りを捧げた日々もあった、遠くに浮かぶ黄金の正円に突き刺さらんばかりに映える。
そうして神秘性を年々欠いてきた月もまた、鋭利な先端が鈍く光を帯びたカーブに人が乗れると信じられた頃より、醜い傷跡とクレーターを哀れむ風習へ移ろいながら、大気の遙か下の世界を見つめ。
尖塔の内一つの窓には室内ランプが煌々照り返し月明かりさえ除外するかのよう、密室での談話は盛り上がる。
「この間のハロウィンには笑っちゃったよぅ〜。祭りなんて楽しめばいいし? 形骸化したものに縋るつもりもないけどぉ、いやぁヴァンパイア仮装のクオリティの低さといったら、フランケンシュタインなのか迷うくらいだったんだから!」
果物の絵の下の席に座る少女は、健康的に実った乳を揺さ振りながらぷんぷん怒りの湯気を生む。だが声色とは裏腹にはちきれんばかりの笑みでもって、目にしたクオリティの低さを如何に表さんと両の手をあっちへふらふら、こっちへひらひらさせた。
それを眺める愛想笑いが退屈を物語っている、ツインテールを手持ち無沙汰弄る聞き相手は、もう一方の空いた手に持つ杖で貧乏揺すりの代わりに当たり構わず突付き回しす。
「大聖堂で、そう、待ってるなんていうものだから、ねぇ? 可愛いパトロンを持て成す為だと仕方が無く行ってきたけど、やっぱり多少居心地が悪い訳よ。部屋中祈りと賛歌に溢れてるのよ?」
「ひいぃぃっ!」
入口側で、プリーツスカートから際どいラインを保つ太腿が瑞々しい肌を惜しげもなく披露する乙女は、自慢げに語っている事を隠している体でごめんごめんと、話し相手の眼鏡&三つ編み少女の肩を叩く。だがすっかり恐れ入ったよう悲鳴に似た金切り声を挙げ蹙まる様子を見て、溢れる笑いを上手に隠せずに丸まった背骨の浮き出た曲線が、腹の筋肉と連動して震えていた。
あっちこっちてんでばらばらに談笑が咲く室内に、小さなハンマーを鋭く打ちつける音が木霊して、その瞬間にぴたりと静謐が訪れる。若々しく桃色の空気が満ち溢れる室内にあって、一番奥の炉端側で髭を豊かに蓄え、かなりの年輪を重ねた事が窺える老人は、あまりに場違いだった。
だが老人は我慢の限界と言わんばかり、煮えくり返ったはらわたから声を振り絞った。
「いい加減その節操の無い擬態をやめんか!! 節度ある会議の場をなんと心得ておる!」
わなわな震える拳に、慌てて部屋中から破裂音、破砕音が響き渡る。霧や泡、砂埃に掻き消えた花園の彩り達は、またたきの間に、平均年齢を五十も百も跳ね上げた。
ハリと光沢が眩しかった肌がすっかり弛みきって鷲鼻だけが異様に目立つ老女、若き頃は獰猛そうな顔つきだったのであろう精悍さは窺える男性、ふっくらとした初老の女性は息苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、三つ編みと眼鏡はそのままに若さだけが失せ、曲がった腰が全体像をコンパクトに見せるお婆さんは今にも息絶えんとしている。
全員がまやかしの美しさを捨て、本来の己そのものである皺くちゃに戻ったのを見届けてから、序でにやや不満そうな空気が満ちている事を察知しながら、始めから老人であった最奥の人物は、結局本来の姿が勢揃いした中でも最年長のようだった。
近頃の若者は、なんて紀元前から語り継がれてきた嘆きを滲ませながら、大儀そうに一息。
「懇談結構、だが無駄口の為に寄り集まったのならば各自散会して貰って構わないが?」
痛烈に批判する冷たい言葉は、愛玩動物をあやすが如く声色の柔らかさに相殺されて、荘厳さだけが正しく伝わる。先の激昂は微塵も現れず、改めたという時点で怒りの矛先も収めたというのであれば、流石に歳相応の大人物といったところか。
「しかし今集会の議題も変わらずであれば、大した話し合いも無いでしょう。」
先までは前髪までしっかり切り揃えられていたおかっぱにそばかすが妙にかわいらしくマッチしていた、今では禿げ上がった頭頂部を持つ壮年の男性がやれやれと言わんばかり手を振った。
「そうそう、血気盛んかただの無知を早期発見し、我々の手を差し伸べてやろうという寛大なお心。」
此方は、誰もが夢見ては途中で挫折するような直毛で床に到着する程の長さを、見事な緑髪として手入れを行き届かせていた長身の美女だった筈が、その面影はまるでない、例えるならば口煩いリスのようキーキー金切り声が耳に障る。
「最早ただの尻拭い集団に化したとは到底言えませんからな。」
見た目の年齢にぴたり合致するような、己の優位を探り合う腹の黒さや算段を垣間見せる会話。それも老人達の愉しみの内か長机に腰かける総勢を、纏め上げる木槌の音が再び振り向かせ、長老は皺くちゃの両手をすり合わせながら、現状に憂うよう咨嗟を洩らす。
「そうじゃ。取り組むべき課題が変わらねば、内容に目新しさが加わる事もない。抜本的な改革を要するのであれば、是非一案お聞かせ願いたいものじゃ。」
ふさふさに蓄えた眉毛を持ち上げ世界を臨む片目に、変わり映え凄まじく華の無い顔触れが萎れて並んだ。
「よいかな? では、これまでの報告に問題は無い。故に、其々持ち場の処理をこれまで通り行なって貰いたい。即ち、幾星霜を経て散り散りとなった我らが血族を早急に保護し、団結を高めなければならん。」
同族の集合、その悲願に想いを馳せる其々の表情には、其々の事情を加味した複雑な色合いが乗っかるが、概ね喜びに変え長老の言葉に祈るよう目を伏せる。
「魔女狩りや異端者の謗りをおそれる時代は去り、なんとなれば人々は畏れを失うが故に我らの事も忘れ去った。身の安全が保証された次は、正しきレゾンデートルを示さなければ魂までも消滅してしまう事になる。だからこそ、」
「「「「「我ら再び、御母の恩寵を預かるべく月下に。」」」」」
声を揃え側らの、血よりも濃い紅を湛えたワイングラスを一同が掲げると、感極まったか長老の眦に湖が生まれる。
「うむ、うむ。なればこそ、己の存在を知らず或いは力の扱い方を知らず、世に間違ったヴァンパイア蔓延るのならばヴァンパイアの手で導いてやらねばならん。今はまだ、人の前に我らの価値を示す頃合ではないのだから。
時に極東地区の――――」
一応の纏まりにて繋がっている事実の再確認を、長老は味わい深げ未だ咀嚼しながら、捻るその頭に浮かぶ名が無い。顰め考えても出て来ないものは出て来ない。
痺れを切らしおずおず挙手した、面子の中ではまだ若く見える中年の男性が額に汗混じり、一体どのような言葉を仰せつかるのやら落ち着きなく怯え、瞳は挙動不審にあちらこちらをうろちょろしている。
「ふむ。貴殿の一件に絡みたいと、例の問題児が言っているのでな。是非加えてやっておくれ。異論は無いな?」
「いや、しかし――――と、言う事は、バックアップだけで宜しいんですか、長老?」
異論大有りだと口を挟めたのならばどれだけよかったろうか、今既に打ち出される早鐘に悶え息一つ苦しそうに、問題を押しつけられんとしている担当者がいやいや確認をすると、極上の毛筆にも似た髭を弄びながら長老は一拍考え、首を縦に振った。
「やる事は勝手にやるだろう。最もそれがやるべき事かやらざるべき事かはあちらに判断が委ねられてしまう。此方としては、事後処理さえ出来れば上々じゃ。」
「その事後処理が、ねぇ……この間も余計な悶着ばかりを造り上げて、嗚呼全く問題製造のプロフェッショナルだろうねぇあいつは。本当に、穢らわしいばかりだ。」
過去その問題児を請け負ったと見られる中老の女性は思い出すのも億劫どころか地獄であるかのよう、全身を震わせて今回その地獄を見るであろう男性を嘲笑う。
もう一度振り下ろされた槌の音に、しんと静まる帳の降りきった深夜、主に問題児の手綱をどう握ってゆくかの集まりに閉会が告げられた。
その途端、つまり自由行動が確約された瞬間、再び室内に満ちるは風船を割りスモークを炊く音音音。
忽ち睫が長く肉体のメリハリがついたうら若き女性陣が跋扈し、たった今嘲笑った中老女性は軽やかに跳ね上がるウェーブが上品なお嬢様風の容姿を己として見せるのだから、一体何を基準に乙女達の写し身を持つのか。
「やれやれ、なんとまぁ嘆かわしい……大事な会議の場ですら、本来の姿に戻る事さえ忘れてしまうなど……」
「それも仕方のない事なのでしょう。今では一大ムーブメントとなってしまいましたから。」
散会となった議場には存在しなかった、解散してからは出て行く人の流れは妨げられていない、にも拘らずいつの間に忍び寄ったのやら暗がりからの言葉に、そしてそれ以上にそれが誰の声であるかを理解して、長老は苦そうに顔を顰め、先の擬態解除を申し出た時よりも不機嫌そうに唸る。
「”雑種”に相談した覚えは無い。」
それっきり、幽霊と見紛うカーテンの膨らみや、あわや大惨事になりかけた交通事故一歩手前に遭遇したかのよう、その場にある災難からのがれんとそそくさ長老は部屋を出て行き、取り残された青年――――ヴァンは困ったように頬を掻き、己が話すべき相手を探す事にした。
「支部長。宴会が終わったというのに憂鬱そうですね。」
幼女といって差し支えない、小さな女の子は気軽な呼びかけに、陰鬱そのものであった顔を上げ辺りを見回す。その足下には、発泡酒の空き缶が一ダースは転がっていた。
先の会議では子供が成人し少し寂しくなった夫婦二人きりの生活にまだ慣れていないような、そんな年代を彷彿とさせた極東担当者はここぞとばかり、ため息を吐きながら夜空の側にその姿を見つけ。
会場を後に広間で寛ぐ面々と違い、窓際のソファに深く腰かけ今後の身の振り方を悩んでいるところに自分の哀れさをより強調するような、気の抜ける明るさが眩しいと、屋根に片手を窓枠に片足を支えて貰うヴァンに嘆いた。
「あーぁ、転がり込んだ厄介ごとをどうすべきか、拷問方法を自分で考えろと言われたようなものだよ。」
「あっはは。つまりは僕も原因の一端ではあるようですから、なんだか頭が痛いなぁ。」
「そうやって笑い事にしたいものだ。なんだってこう、我が地方にははぐれの暴走が多いのかね? でなければこうも頻繁に、問題児を任されずに済むのだ。」
始まる愚痴に気休めとばかり肩を叩いてやれば、より一層愚図りは深淵に達したようで酔いどれの扱いには長けていないぞとヴァンは冷や汗を流し、ならばいっそ、通りがかったウェイターからワインを一瓶奪い、酔い潰れさせようと計を案ずる。
「さしあたっては、支部長の管轄下に娯楽が多い所為でしょうかね。自覚が無くとも実際で無くとも、そうかも知れない、くらいには芽生えさせる力がフィクションにはありますから。」
談笑する人垣の向こうで幾つも設置されたワイド画面の液晶が各国の情勢を垂れ流す。各々の母国語が混ざり合って音声は騒音にしかならない。
「ヴァンパイアなど、廃れたものだと見下される方がまだマシだ。いるものをいもしないと振舞うにどれだけの労力が割かれるか。」
「まだ時代が合っていないのです。嘗て照準が合ったのが彼此何百年前ですから、もう暫し待たねば再び夜を舞うのは厳しいでしょう。」
「嗚呼、嗚呼。なんだって栄華を極めた時代をさして知らぬ若造に、酷い仕打ちをなされるのやら……」
胸の前で十字を刻む仕草に苦笑いを零しながら、ヴァンも倣って空を切る。
「アーメン、ってやつですか?」
愉快そうに立ち聞きしている周囲が何人か真似事をして、とても彼らがヴァンパイアであるなどと伺えない行動である。
「流行りが過ぎたとは言え気軽に、我らを嘗て滅ぼさんとした敵のマークを刻めるとは、そうさな、これが時代というやつか……」
しまった。酔っ払いの語らいは長引く。
算段の成否を見取り逃げ始めるヴァンの腰をがっちりと掴んで離さない幼女の姿をした飲兵衛は、現状を憂う序でにくどくど思い出話やら御高説やら繰り広げようとしている。
「あの頃はお前、月は今よりずっと近くて、何せ銀が一番強い武器だった時代なんだ。誰もが野蛮でそらもう沢山の仲間が燃やされてはその灰が川を下り、」
「あぁっと、大変お名残惜しいのですが、ほら、僕ったらやらなくっちゃいけないお仕事があるから支部長が悩まされる訳で。」
「嗚呼、嗚呼。そうだろう、お前は一層働かなければならない。お前に罪が無いとしても、その出自でいがまれる以上。それも単なる迫害者や敵対種や混血児で済まされないとあっては、風当たりは強い。」
「心得ています。」
「だがな、ヴァン。例え誰もが目くじらを立てようと、面倒ごととワンセットであろうと、私はお前がそこそこすきだよ。」
「……ありがたき、幸せ。」
泣き上戸にスイッチが切り替わってしまい、逃げ出すにはもう今しか無いとヴァンは半身を夜風の中に投じる。
夜なべして語り明かすに丁度いい抱き枕を失い語り部は心許無さそうしばたきながら、ぬくもりが離れた隙間に入り込む冷気が平常を取り戻させたのか、重苦しくヴァンの背中に語りかける。
「嘗て輝き馳せた我らの主が、見放し影に潜むも一興、されど今再び恩寵齎されたのならば為すべき事は為すべきだ。」
「えぇ、月は今日も順調に我らから離れてゆこうとします。もう百年もかからない内に、衛星と呼べなくなる程に。」
「上手くやれよ。我らに迷惑がかからない程度に。そうとも、我らが母たる月に恥じる事のないように。」
広大な背景、暗闇の微かな点に成り下がった、それでも尚夜の注目を占める月が犇く空、克明に見せつける模様は既に、兎にも蠍にも見えはしない。
++以下言い訳
何故始めがびっちびちの乙女祭りなのかというと、ジャンルを誤認した誰かが釣られないかなというげっふごふん元いしわくちゃの老人が犇いている図を打ち込んでいて心の砂漠地帯が一気に増えてしまのでせめて潤いを一部でも充当したかったのですがこれ間違った計らいですね☆
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