
1.賢者は黙して語らない
濃厚な蜂蜜色。丸い御身に影を纏わせ、傷だらけの痛ましさを目に焼きつける月夜。故に落ちる暗闇は、意味も無く人を不安に陥れては早くおうちへお帰りと急き立てる。
古来よりの流れに漏れず、女性は自ら奏でる足音さえおそろしいと無自覚に早足で帰路を急ぐが、虫の報せは後一歩遅かった。
「んむ……っ?!」
言葉を発する前に塞がれた口は、生温くがさがさとした感触の掌に負けて、驚きと途惑いと恐怖と逃亡を同時に行なおうと混乱を来たした頭ながら防衛本能か身を捩りもがく女性の、動作は横っ腹に突き刺さった鈍痛にて間も無く停止した。
意識を奪った握り拳を解除して、力無く項垂れる頭を支えながらセミロングの髪を柔らかく梳き、顕になった項に、襲撃者は顔をうずめた。
息遣い荒く興奮を抑えきれぬ内にやがて滴ってきたのは、
真っ赤な、血。
始めはひとしずくが生まれ落ち、徐々に軌跡は鮮やかなストライプを画いて、曲線の大地を直走る事に不安を覚えると、また小さな粒となって地面に落下し。
じゅり、ずる、ぴちゅ。本能のまま貪る音が一頻り鳴り響いた後、顔が青を通り越して白く濁り始めた女性の躯は解放され、電柱と塀に支えられるようにして座らせようと、したものの落ち着かせられずに仕方が無く横たわらせると、襲撃者はそのまま場を去った。
煌々と灯る街灯は、明かりを求めて屯する有象無象の輩を焼いているかのよう、ジジジッと唸りながらその背を照らすだけ。
近距離ではあるものの現場から離れたという実感に浸る頃、両足はいつの間にか走り出していた。頬から垂れる汗を拭い、荒い呼吸を整えると、平静を取り戻した証に体温が指の先までじんわりと広がってゆく。
目深に被ったパーカーのフードを外すと、夜気が心地好く額を包む。どう見ても誰かを襲った、ではなくコンビニに肉まんを買いに行った、の体で通常の世界へと溶け込みながら、そのまま少年は自宅のマンションへ、到着する頃には本当にただの買い物帰りであるかのような表情で、玄関の扉を開ける。
窓の向こうから漏れる薄い黄金色が差し込む以外は健全なる暗がりの中、台所の人影に心臓が思わず一拍飛ばして、そして少年は少しだけ悪びれたように、意地悪をした後の謝罪のような、拗ねた顔で笑った。
「……母さん、怒らないでよ。」
素通りする口元に、ぬらつく痕跡。それを拭おうとして、伸びた薄紅が手の甲にも拡がった。
「しょうがないさ、これもヴァンパイアってやつの習性なんだもの。」
面影を残しながらも闇が引き始めた早朝。寒気が滞り霧深い中へ、夜の内にも逃げるように駆け抜けた道を、夜の支配者が去るを待たず出始めた朝陽から、逃げるよう、濃い影へ隠れ隠れ、成行はそっと街中を歩いていく。
門がまだ開いていない事など意にも介さずひょいと乗り越え、当番が鍵を開けに来る暫時は正面玄関で寝こける事に費やし、その当番が鍵束を鳴らす音で仮眠から覚めるとかけられたのは賞賛か呆れの声だった。
「東風君、相変わらず朝早いんだねぇ。寝不足なのかい?」
「朝、バイトしてるんですよ。序でに来た方が楽なんで。」
「勤労学生ってやつか。見上げたもんだ。」
しれっと吐いた嘘を鵜呑みにした労いの言葉に、成行は悪びれる様子も無く爽やかなマスクをより彩るように微笑みを持ち寄り、開放されたガラス戸の向こうへ滑り込んだ。
一区域分だけカーテンを閉め、窓際の己が机に突っ伏し再びの仮眠。一番に出席を果たした甲斐なく成行が今日三度目目覚めた時にはすっかり同窓で溢れ返る教室はいつも通りのざわめきに包まれながら、隣接する廊下で行なわれている会話に興味深い単語を聞きつけ寝惚け眼を持ち上げると、級友が声をかけてくる。
「よぉ、お目覚め? お前何しに学校来てんだよ。」
「授業中寝てるよりマシだろ。」
尤もな指摘に笑い出し挨拶を終えた友を置いて、何気なく立ち話の現場へ近寄ればやはり聞き間違いではなかった。
「えぇ、吸血鬼事件です、先生。」
「まぁね、そんなの俗称だけれどね。遊び半分で首を突っ込むなんて……」
「そんなつもりじゃありません。新聞部としても、街に住む市民としても、調べるべきだと感じているんです。」
不安そうな顔つきで及び腰なのは、主婦という側面から地域の情報に詳しい英語教師。だが詰め寄り熱心に聞き込んでいる女生徒には見覚えが無い。とはいえ学校とはそれなりに人数を囲う施設なのだから、クラスや学年が違えば珍しい事でも無いだろう。
「夜間に婦女子を狙うという卑劣な連続傷害事件がここひと月頻発しているんですよ。これを調べず何を調べるんですか!」
「そりゃあ、確かに早く犯人には捕まって欲しいけれどね。物騒だし、生徒を危ない目に遭わせるような事は出来ません。」
言い終え立ち去った女教師の、頑として跳ねつけた教育者魂に成行が拍手を送ったところで、じと目で睨めつけられお互いはお互いを認識する。
「否に熱心だね?」
「真剣に取り組んでいるもので。」
それなりに整った顔貌に凄みを乗せ、厭味ったらしい成行を、隠す事無くじろじろ舐め回す少女。
「吸血鬼事件なんて怪しげなものはまぁ、確かに新聞部としては扱いたいだろうね。話題性も、でっちあげのし易さも。」
「あなた失礼ね。それに平凡。はなからそうして見下していれば、世の中楽しいとでも思っているの?」
つんけんした口調に手痛い指摘だったが、成行は顔色一つ変えず新たな問いかけ。
「吸血鬼に、興味があるんだ?」
「それが何か?」
そもそも、先に女教師が言っていたように吸血鬼事件など俗称に過ぎない。故に、切り取った今の言い方では目尻を上げるなりからかっているのかと憤慨こそすれ間髪入れずのこの答えは、中々に肝が据わっていると言えた。
「それじゃあ、まさか実際に吸血鬼がいるとでも思ってる?」
「曖昧な伝聞や昔の文献だけのフィクションだなんて証拠は無いわ。だったら、いるって事でしょう?」
いやに自信たっぷりな笑みだが、中学生にしては吸血鬼に本気で挑もうというのは少々間が抜けているし、かといって妄想世界で生きているような儚さもある種の逞しさも、その少女からは感じられない。
真面目に本気で真剣なのだ。
「へぇ……所詮は架空の存在だよ? 事件の名前だって、警察のあやふやな対応をなじって付けられただけのものさ。」
「それでも、吸血鬼が関わっているなら事だし、でないにしても、やっぱり事件自体は大事かと。」
「名探偵にでもなるつもりならよしなよ。余計に引っ掻き回して、次のターゲットにされるのがオチだよ? それとも、それも狙っているのかな? そしたら特ダネだものね。」
「あなたさっきっから決めつけか問いかけかしか、しないのね。」
ため息と共に見定めが終了したのか、そしてこれ以上の議論の価値は無いと判断したのか立ち去ろうとした少女の肩を引き止め、周囲に目配せをしてから成行は、唇が触れるか触れないかのギリギリ、彼女の耳を吐息で覆い隠し、そっと打ち明けた。
「実はその噂の吸血鬼って、俺の事なんだよ。だから軽はずみに動かれては困るんだ。」
「……そうなの。だったら、今すぐ警察に行きましょう。」
折角の大接近、思春期としては頬の一つも染めて貰いたいところだったが動じる事も臆する事も無く再び即答した少女の瞳は寸分も揺らがないで、ミーハーでない事を伝える。
いつの間にやらがっちり掴まれた片手を引き摺り本気で校外へ行こうというのか飛び出しかねない様子にたじろいで、成行はやや声を大きくしてもう一度耳打ち。
「生きる為の習性、どうしようもない行動なんだ。それに、今の御時世真実だと語ったところで人の手で裁けるとも思えない。」
意外にも、力強く突き進んでいた歩をぴたり止め考え込むよう顎に手をやり、それじゃあ其々の為に何処で手を打っておくべきかと悩み出すものだから、こらえきれず成行は笑った。
「本気にするんだ? いや、勿論俺としては本当の事だけれど。」
馬鹿にした声に睨みが蘇ったので嘘ではないと念を押しながらも、今聞いた話を信じて事件解決を試みてみたり吸血鬼の生態を優先しようとしているのだから、全く正気とは思えない。
「どうすべきか、ちゃんと考えなくちゃ。ちょっと色々、教えてくれます?」
「詳しく調査って訳。」
「人様を巻き込んで大騒動になっている点はあなたの不手際。でも確かに、生きていくのに必要だって言うなら頭ごなしに否定も出来ない。」
一過性の遊びなんて色の一切無い様子に興味をいだいて、成行は快諾の証に微笑んで見せた。
「名前、なんて言うの?」
「マナミ。北月愛満。あなたは?」
「東風成行。ひがしかぜ、って書いて、こち。」
今更ながらの自己紹介を終えて、やはりお互い今更と感じたのだろう、不意に笑い合う。
「あっれー、鉄仮面ちゃんが仲良しこよししてるー。」
突拍子無く降り注いだ声は、愛満が成行を連行しようとして立ち止まった踊り場に差し掛かる階段の上から。声の主を知るが早いか愛満の眉間に皺が寄ったのを成行は見た。
「あんた誰。」
不快と、怪訝。
数年来の友達の体であった導入部に対し愛満のそっけない返答に疑問が生じるが、身形だけで人を判断するのが早計にせよ、馴れ馴れしいのが彼のペースだと言われれば成る程とそれだけで納得するような、野生の狼が如く警戒する愛満の目の前まで歩を進める少年は、今時珍しくも無いけれどいやに鮮やかな金髪と、耳朶が伸ばされそうな程の多量なピアス、誰をそんなに捕らえたいのかチェーンが幾重にも連なり装飾している、典型的なチャラ男風味で。
「あ、僕四方田でっす。四方田=ヴァン=螺子。今日成行君とクラスメイトになる帰国子女☆」
人懐こそうな笑みと軽薄そうな素振りと星を飛ばした言葉で二人に近寄り早速成行と肩でも組みそうな勢いのヴァンに、愈々不潔なものを取り扱うかのよう冷酷な視線の愛満から説明が付け加えられる。
「嗚呼、そういえば数日前下見に来た何処ぞの阿呆が女生徒という女生徒を口説き回っては全敗という伝説を打ち立てた、なんて七不思議もあったような。」
「わー、容赦なーい。」
「……ま、二人の仲がよさそうってのは伝わる掛け合いだよ。」
「真っ平御免です!」
語気を強めしっしとヴァンを追い払おうとする愛満の様子に、もう一度成行は噴き出してしまい、癇に障ったのかまたしても睨まれる構図。
全く気にしない無神経なのかそれこそ魅力と感じるSMの世界か、笑顔で受け止める飄々とした体を肯定する辺り、成行がヴァンを気に入ってしまった様子も大変愛満には気に食わないらしい。
「まぁ、兎に角暫くは……密着取材、って形で宜しい?」
「え、何々僕と同棲する気になったんだ?」
「あんたは逝ってヨシ。いいですね、東風さん?」
「取材(は構わないけど。四方田君って、今日紹介される転校生なんだよね?」
つれなくされても寧ろそれこそが醍醐味、と言わんばかり愛満に付き纏っていたヴァンは言葉に顔を上げ、何一つ不満を感じた事が無いかのようにこやかなまま力いっぱい頷いた。
「取り敢えず、もう朝のHR終わってるけど。」
「あーっ、僕の華麗なる登場シーンが!!」
「っは、自業自得ってやつね。」
遽しく教室へと駆け戻る男二人の背中を眺めながら、自身も同じ立場であろうに愛満は余裕たっぷり、悠々と歩き出す。その手のメモ帳に、ヴァンパイア検証との題を書き加えながら。
++以下言い訳
自覚ある不親切なので、名前が始めて出た際のルビや紹介以降はフリガナが出ませんのでどうぞ今の内の名前を覚えてやって下さい。
相変わらず、実在の人間のような名前にすると被っている人から何言われるかおそろしく、かといって太郎や次郎、況して九
決紀(きゅう けつき)とかそういう方向に行くとやっている方がげんなりしてしまうので塩梅が難しいところです。自分騙しの。
そんな事を言いながらヴァンなんてあからさまな名前も御座いますが、ナリユキとマナミが一体どんな意味を備えていくのやら頭の隅にでも留め置いて頂ければ一興。
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