★★★ ディベイト・コーナー ★★★

(担当:つつピー、おいどん)

1月のテーマ 「霊や魂は存在するか」


          [今月のディベイト代表]

 (存在する)  ミリー ・ なみんこ ・ 大ごろ ー ・ TくんJBW  

 (存在しない) たっくん ・ アラタカ ・ おいどん 


みなさんは、どちらに賛成ですか?メール下さい。件名は、「おいどん・ディベイト」として送って下さい。



5年1組 「存在する」 と言う人の意見のまとめ

5年1組 「存在しない」 という人の意見のまとめ

◎心霊写真や霊能力者やお盆には霊が帰ってくるなどいろいろな話があるから。

◎科学はまだ発展途上であり、これから霊を発見するから。

◎人々が霊現象と言っている事は医学的に起こる事や人工的に作ることができるから。

◎実体もないし、人間に感じれないから(科学で証明できない)。  


☆ メールによるご意見 ☆

 霊魂や魂は、生きている人の体内に存在し、その人の心を形作るといわれています。しかし、最近の研究で人間の心(脳)は、ほとんどコンピュータと変わらぬ仕組みであることが分かっています。
 膨大な予算を積み込みながら失敗した第5世代コンピュータの開発では、ろくなものが出来なかったものの、コンピュータが、人間と同じような考え方を(やらせれば)出来ることがわかりました。数学者のミンスキーという人は、人間の体も機械と同じであり、故障すれば部品の取り替え(移植)をする事が出来ると言っています。将来は、脳さえ無傷なら死人を生き返らせる技術も確実に(ただし何百年後)出てくるでしょう。困ったことです。
 それはそれとして、もしそうなれば、死んで霊魂がなくなってしまった人が心を持つわけで、この世に霊や魂が存在しないことが証明されるでしょう。
 霊魂を信じることは自らを救うことであり、多くの宗教がその存在を認めているのも、死ねば消滅してしまうという恐怖から人々が逃れるためです。それは大切なことですから、霊魂を信じることは否定しません。ただ、私自身ないと思うだけです。

善一(M070445@isc.senshu-u.ac.jp)

 

 霊・魂があるかどうかということですが、まず霊・魂がどういうものかがはっきりしていません。人によって捉え方が違います。ある人は幽霊のようなぼーっとしたものだと思ってるかもしれませんし、ある人は霊というものは目に見える形はなく、人の深層心理そのものだと言う人もいるかもしれません。
 感じられないからとか、目に見えないからないというのは結論が早急すぎます。感じられないものでも間接的に存在を証明できるものもあります(気体とか電気とか)。
 外国の方では目に見えない人の力(これが霊と言えるかどうかはわかりませんが)を積極的に研究しており、あるとかないとか言う段階ではなく、どう利用できるかということも研究されている様です(超心理学などの分野で)。
 人によって捉え方は色々でしょうが、「ない」とはっきりしていない以上ないとは言えないと思います。                           

前田 (maeda_ce@ngs2.mhi.co.jp)

 どうしてみんな「わからない」と言えないのでしょうか。しかも、霊や魂という人間的な要素まで、「存在しない」の一言で片付けられる時代になっているのですね。「魂のない人間」という存在について考えた方がよりわかりやすく有益ではないかと思うのですが、まずは「霊や魂の存在」について考えてみましょう。
そもそも「存在する」とは、どういうことでしょう。「私はここに居る」と宣言するだけでは不十分です。デカルトは「私」に関する疑わしいものをことごとく削ぎ落としていって、最後に「私がこうして考えている以上、『考えている私』がここに居る」と考えました。しかし、その考え自体が、他の誰かの夢に過ぎないとしたら?荘子の『胡蝶の夢』にならって言えば、「あなたは私の夢である」かも知れないし、「私はあなたの夢である」のかも知れません。
 「科学的に存在を証明する」ということは、それが自分一人の夢ではないことを示すために、自分の外側に物差しを置いて対象を測って見る行為を指します。他の人達にその物差しで測ってもらい、同じ結果が出ればOKです。ですから、まず、みんなで共通に使える物差しが必要です。
 次に、同じものを繰り返して測ることができなければなりません。測る度に違うものが出ていたのでは、正しい測定は不可能です。たとえば、あなたの体重が45kgだとしたら、誰がどの体重計で測り直しても45kgになるのが正しい結果というものです。 ところが人間の体験というものは、一人ひとり違います。同じモノを見て、同じ経験をするとは限りません。ここに一輪の花があったとして、その花が恋人から贈られたばかりの花であった場合と、その花が別れた人の好みであった場合と、その花をはじめて見る場合、花なんて関心がない場合とでは、それぞれまったく違った反応が見られることでしょう。そしてお互いの反応の違いにびっくりするでしょうが、お互いに話を聞けば納得することでしょう。 「幽霊に逢った」と言う人は、実際に「『幽霊に逢う』という体験」をしているのですから、「そんなものは存在しない」などと否定してはいけません。実際にそこにあった物が何であるにせよ、その人は何かを感じ、感じたものに基いて行動しているのです。ただし、「霊が存在する」と言っておいて何でもかんでも霊のせいにしてしまうような態度はいただけません。人のやることをいちいち霊に責任転嫁したのでは、霊の方でも迷惑でしょう。
  さて、「存在を科学的に証明する」ためには、物差しをあてがう必要があることをお話ししましたね。すべての存在を測定するということは、実際には不可能です。物差しとなる物がなければ、また繰り返しのない一度きりの現象については、測定を繰り返して「存在を科学的に証明する」ことはできません。その場合、科学的には「わからない」と言うしかないのです。アインシュタインはエーテル仮説について「エーテルは絶対に発見されない」という言い方をしています。「存在しない」ではなく「存在する必要はない、あってもなくても変わりはない」ということです。この違い、わかりますか? 霊や魂が存在しないと言う人は、自分が存在しないとは考えていないでしょう。では、「自分」って、何でしょう?「自分」の材料は、全て「自分」の外側から取り入れたものです。身体は食料から、知識は本やTVから、思想は教師や友人たちの言葉から構成されています。身体の構造なんて毎日のように更新されていますから、「他」が混ざらない「自分」だけのものなんて、どこにもあるわけないのです。それでもやっぱり、自分は自分。と感じるのなら、どこかに「自分」の根っこがあるはずですね?そういう「自分」の根源に関わる何かを、昔の人は「霊」「魂」と表現した、あるいは名付けたのではないかと僕は思うのです。そういう要素をなにも感じないというのであれば、「自分」が見えなくなるまでに根っこの部分が薄まってしまっているのではないでしょうか。
 「わからない」ものを「存在しない」ということにして、人生そのものをうすくち仕上げにしてしまうのでは、「何のために生きているのかわからない」人間ができてしまうのではないかと恐れています。 いいかい、歌ひとつ歌うのにも、ソウルフルでなくちゃ聞けないぜ。魂のない人間なんかに、音楽ができるわきゃねえだろう。「自分」の人生なんかどうでもいいって思ってるのなら、そりゃ「霊」「魂」ごときに用はないだろうし、そんな奴は勝手にしてくれ。だが、おれの前で歌ったりしたら、即刻処刑してやるからな。

-- 魔術幻燈 ☆★☆ 流琢弥/萩原學/硯研一郎
http://www.bekkoame.or.jp/~poetlabo/
poetlabo@cap.bekkoame.or.jp

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