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付録V

アメリカ合衆国と大英帝国の政府ファイルから選出した文書


注記:数件の文書(document)は関連するグループを形成する複数件の論文(papaer)からなる。

DOCUMENT NO. 1 ペトログラードのフランシス大使から合衆国国務省への電文、およびロバート・ランシング国務長官からウッドロー・ウィルソン大統領への関連する手紙(1917年3月17日)

DOCUMENT NO. 2 ケレンスキーがドイツ政府に雇われていて、ボルシェビキを支援していることを非難する英国外国事務所(British Foreign Office)文書 (October 1917年10月)

DOCUMENT NO. 3 Kuhn, Loeb & Companyのヤコブ・シッフ、およびケレンスキーとボルシェビキ体制における彼の立場 (1918年11月)

DOCUMENT NO. 4 ニューヨーク連邦準備銀行取締役ウィリアム・ボイス・トンプソンから英国首相デイビッド・ロイド・ジョージへのメモ (1917年12月)

DOCUMENT NO. 5 フェリックス・フランクフルター(Felix Frankfurter)からソビエトのエージェントであるサンテリ・ヌオルテヴァ(Santeri Nuorteva)への手紙 (May 9, 1918年5月9日)

DOCUMENT NO. 6 1920年ニューヨークのソビエト支局の全職員; ニューヨーク州ラスク(Lusk)委員会ファイルからのリスト




p. 191


DOCUMENT NO. 7 ルドウィグ・マルテンスおよびジュリアス・ハマー博士に関する、National City Bankから合衆国財務省への手紙(1919年4月15日)

DOCUMENT NO. 8 ソビエトのエージェントであるウィリアム(ビル)・ボブロフからケネス・ヅラントへの手紙(1920年8月3日)

DOCUMENT NO. 9 J.P.モルガン商会のメンバーおよび英国のプロパガンダの指揮者ノースクリフェ卿に関するメモ(1918年4月13日)

DOCUMENT NO. 10 General Electric Co.に関する国務省メモ(1922年5月29日)


DOCUMENT NO. 1

ペトログラードのフランシス大使からワシントンD.C.の合衆国国務省への1917年3月14日付け電文で、ロシア革命の第一ステージについての報告(861.00/273)


ペトログラード
1917年3月14日付け
15日午前2時30分の記録

国務長官、
ワシントン

1287. 11日以後、電文を遅れなかった。革命家達はペトログラードを完全に掌握し、秩序を維持するために精力的な努力をしていて、それは稀な例外を除いて成功している。3月11日に受け取った9日付けの貴殿からの電文1251以降、新たな電文は届いていない。暫定政府がドウマ(the Douma)の権威の下に組織され、皇帝の散会命令に従うことを拒絶している。ドウマの大統領ロドジアンコ(Rodzianko)は彼自身の署名の入った命令書を発行している。閣僚達は辞職したと報告している。見つけられた大臣達はドウムの前に捕らえられていて、多くのロシア人公務員および他の高級官僚もそうである。ペトログラードに派遣された連隊は、全員ではないにしろ到着後に革命家の仲間になったならば、ほとんど。アメリカ人居住地は安全である。アメリカ市民に負傷者が出たとの情報はない。

フランシス、
アメリカ大使

上記電文を受け取るや否や、国務長官ロバート・ランシングはその内容がウィルソン大統領に伝わるよう計らった。(861.00/273):


p. 192


私信・親展

親愛なる大統領閣下

ペトログラードから届いたばかりの非常に重要な電文と、今朝のNew York WORLDからの切抜きを同封致します。その切抜きには、イタリア内閣における無任所大臣シグノール・シアロイア(Signor Scialoia)の声明文が載っていて、フランシス氏のレポートの見地で意義深いものです。私自身の印象は、連合国はこの問題について知っていて、王室関係者は戦争期間中密かに親ドイツであったので、革命家達にたぶん好意的であるということです。

敬具
ロバート・ランシング

同封物:
大統領
ホワイトハウス


コメント

ランシング-ウィルソン間の手紙における意義深い言葉は、"私自身の印象は、連合国はこの問題について知っていて、王室関係者は・・・であったので、革命家達にたぶん好意的であるということです"である。ニューヨークのWestinghouseおよびCrane Co所属で、ウィルソン大統領のアドバイザーであるチャールズ・R・クレインがこの最初の革命に関与していたと、ドッド大使が非難していたことが思い出されるであろう(第二章)。


DOCUMENT NO. 2

大英帝国外国事務所ファイル FO 371/2999(戦争―ロシア)、1917年10月23日、ファイルno.3743


DOCUMENT

私信・極秘
心配な噂があちこちから我々に届いている。ケレンスキーはドイツに雇われていて、彼および彼の政府はロシアを弱め、解体しようと全力を尽くしていて、それは単独講和以外の他の手段が可能にならないような状況に到達させんがためであるという噂である。そのようなほのめかしに何らかの根拠があって、効果的な行為を控えることによってその政府は意図的にボルシェビキ分子がより強くなることを許していると、貴殿はお考えになるでしょうか?


p. 193


万一、それが贈収賄の問題ならば、楽しい話ではないですが、それがどのように、またどのエージェントを通して為され得たかどうかを成功裡に競うことができるかも知れません。


コメント

ケレンスキーがドイツに雇われていたという情報に言及している。


DOCUMENT NO. 3

4つの部分から成っている。

(a) 1917年4月27日、ペトログラードのフランシス大使からワシントンD.C.への電文で、著名なロシア
のユダヤ人銀行家から著名なニューヨークのユダヤ人銀行家へのメッセージの伝達と、ケレンスキーの自由債券(Kerensky Liberty Loan)への彼らの応募を要求している。(861.51/139)

(b) アメリカのユダヤ人を代表するルイス・マーシャルからの返事(1917年5月10日):彼はアメリカの自由債券(American Liberty Loan)への支援を表明する一方、招待を辞退した。(861.51/143)

(c) Kuhn, Loebのヤコブ・シッフから国務省(ポーク氏)への手紙で、ボルシェビキに敵対して("なぜならば、ボルシェビキ政府はロシアの人々を代表していない")の連合国支援を求める、ロシアのユダヤ人銀行家カメンカからのメッセージを取り継いでいる。

(d) ヤコブ・シッフが取り継いだ、カメンカからの電文


DOCUMENTS

(a) 国務長官
  ワシントン
  1229、27番

次の述べることを、ヤコブ・シッフ、ブランディーズ(Brandies[原文のまま])判事、ゴッテイル教授、オスカー・ストラウス(Oscar Strauss[原文のまま])、ワイズ先生(Rabbi Wise)、ルイス・マーシャル、およびモルゲンソウ(Morgenthau)に申し渡してください。

『我々ロシアのユダヤ人は、ロシアの解放は我々の解放も意味すると常に信じていた。国に深く献身して、我々は暗黙の信頼を暫定政府に置いた。ロシアの無制限の経済力、その計り知れない天然資源、および我々が獲得した解放によって、我々は国の発展に参画できるであろうということを、我々は知っている。我々連合軍と合衆国の支援のお蔭で、戦争の勝利での終結は近いと我々は固く信じている。


p. 194


暫定政府は新しい自由公債(public loan of freedom)を発行しているが、戦争と平和のために必須のその債券を支援することは我々の国家的義務と我々は感じている。ロシアは公的債権の不動の力を持っていて、11件の必要な金融負担を容易に担うであろうと我々は確信している。我々は融資を支援するためのロシアのユダヤ人の特別な委員会を作ったが、その委員会は金融および産業貿易の仲間や指導的な公務員の代表者から成っている。

我々はあなたにこの文書で知らせて、海を越えた我々の同胞にロシアの自由 ―人道であり世界の文明化でもある― を支援することを要望する。我々はあなたにそこで特別な委員会を作ることを示唆する。また、自由債権の成功を支援するためにユダヤ人の委員会に対して実施する手筈について知らせてください。 ボリス・カメンカ委員長、アレクサンダー・グンズブルグ男爵、ヘンリー・シロスベルグ』

フランシス

*  *  *  *  *

(b) 親愛なる長官殿:

あなたが最近我々に連絡したペトログラードのグンズベルグ男爵、モルゲンタウ氏、シロスベルグ氏の電文の要求に応じて、あなたが御親切に、ロシアの自由債権への応募を求めることが得策であることに関して、モルゲンタウ氏、ストラウス氏、および私自身に与えたインタビューの結果を我々の仲間に報告した後、我々はあなたの助言に厳密に従って行動することを結論した。数日前、我々はペトログラードの友人に対して彼らの支援要求への迅速な返答を約束した。それ故、もし御許可頂けるならばであるが、次の電文を転送して頂けると有り難い。

『ボリス・カメンカ
Don Azov銀行、ペトログラード.

我々が相談した我が国の国務省は、いかなる外国債についても公的な応募を保障することに対する如何なる現在の試みも勧められないと考えている。アメリカの戦時国債の成功にすべての努力を集中することが不可欠で、それによって、我が政府は連合国にそうでない場合よりも低い利率で資金を供給することが可能だと考えている。それ故、ロシアの運動を最も効果的に助けるための我々のエネルギーは、アメリカの自由債権への応募を奨励することに必ず向けられなければならない。シッフ、マーシャル、ストラウス、モルゲンタウ、ワイズ、ゴンヘイル』

勿論のことであるが、あなたには、この示唆する内容の電文の言葉遣いを、あなたが適切だと思うように変更する自由がある。また、我々に寄せられた要求に直接我々が返答できないのは、我々の活動を最も効果的にするための切望によるものだということが分かるような変更として頂きたい。



p. 195


転送された電文のコピーをその費用のメモと一緒に私に送って頂けませんか? そうすることで、国務省は迅速に払い戻しを受けられるでしょう。

敬意を込めて
敬具
[署名] ルイス・マーシャル

国務長官
ワシントン D.C.

*   *   *   *   *

(c) 親愛なるポーク殿:

今朝受け取った電文のコピーを貴方に送ることをお許し下さい。そして、そのコピーは秩序を守るため国務長官または貴方自身が見るべきものだと私は考えます。そのように考慮して、これをお送りするのが適切と考えられます。

この電文の送信者カメンカ氏はロシアの指導者の一人であり、ルボフ(Lvoff)王子政府とケレンスキー政府の両方の金融アドバイザーだと私は知らされています。彼は、ロシアの最も重要な金融機関の一つである、ペトログラードの Banque de Commerce de l'Azov Don の会長でしたけれども、レーニンと彼の"共産党員"の出現によってロシアを去らねばならなかったようです。

この機会に、貴方およびポーク夫人に衷心からの挨拶の言葉を送らせて下さい。貴方が現在再び完璧な体型となり、ポーク夫人と子供達が健康であることを切望するものであることを述べさせて下さい。

敬具
[署名] ヤコブ・H・シッフ

フランク・L・ポーク閣下
国務省顧問
ワシントンD.C.

MM-Encl.

[1918年11月25日付け]

*   *   *   *   *


p. 196


(d) 訳文

自由と権利の完全なる勝利の結果、気高いアメリカ国民に対する私の心からの賞賛を貴方に繰り返す新しい機会を私は得ている。秩序を再構築するにおいてロシアを助けるべく連合軍に関して新しい迅速な前進を取り計らって頂くことを望む。ボルシェビキの荒廃を避けるために、彼らの撤退の正にその瞬間に、ウクライナにおいて敵軍に取って代わることが緊急に必要であることにも貴方の注意を向けて下さい。連合軍の友好的な介入は何処ででも熱狂的に歓迎されるでしょうし、民主的な行為と看做されるでしょう。なぜならば、ボルシェビキ政府はロシア人民を代表していないからです。貴方宛に9月19日に書きました。誠心誠意を込めて。

[署名] カメンカ


コメント

これは、ボルシェビキ革命の後ろにユダヤ人銀行家の陰謀物語を反駁しているので、重要なシリーズである。明らかに、Kuhn,Loebのヤコブ・シッフはケレンスキーの自由公債を支援することに関心がなく、ボルシェビキに逆らっての連合軍の介入を求めるカメンカの希望に国務省の注意を引くという骨折りをしていた。明らかに、シッフとその銀行家仲間カメンカは、J.P.モルガンやジョン・D・ロックフェラーと違って、ロシア皇帝についてもそうであったようにボルシェビキも歓迎していなかった。


DOCUMENT NO. 4

説明

ウィリアム・ボイス・トンプソン(ニューヨーク連邦準備銀行取締役)からロイド・ジョージ(大英帝国首相)へのメモ、1917年12月


DOCUMENT

FIRST

ロシアの情勢は敗北であり、もし連合軍が政策の急進的な逆転に直ちに着手しないならば、ロシアはドイツの無競争の開拓に晒される。

SECOND

近視眼的外交のため、連合軍は、革命以後、有益なことを何も為して来なかったし、彼らの利害にとって相当な不都合を為して来た。



p. 197


THIRD

ペトログラードの連合軍代表者達は、民主主義を得たいというロシア人民の気持ちへの共感が不足している。我々の代表者達は最初、ロシア皇帝体制と公式に結び付いていた。彼らがその環境に染まってしまっているのは当然だ。

FOURTH

一方、同時に、ドイツ人達は、政府を破壊すること、軍隊を台無しにすること、および貿易と産業を破壊することにおいて、彼らを相当助成するプロパガンダを疑いなく行ってきている。もし、これが無競争で続くようならば、連合軍の意図に反して、ドイツによってこの大国が完全に開拓される結果になるかも知れない。

FIFTH

私の意見は、外部および内部の公的なサークルについて注意深く詳細に研究した結果に基づくもので、その研究は、1917年8月7日から11月29日の間、ペトログラードに私が滞在中に行ったものである。

SIXTH

"ロシア駐留の連合軍の状況改善のために何が為され得るか"?

英国およびアメリカの外交官は、精神的に民主主義者であり、民主主義的共感を支持できる者に替えられるべきである。

ペトログラードの本部に強力な非公式の委員会を創設して、表立ってではなく陰において、いわば、政策に関して連合軍の外交官、領事館員、および武官によって承認・承諾されるべき影響を行使すべきである。そのような委員会は、広い自由裁量の権限を委託することが可能なように、人事構成されるべきである。それは恐らく様々なチャンネルにおいて機能するであろう。その性質は仕事が進むにつれて明らかになるであろう。その委員会は、今後起きるであろう全ての新しい事態に対処することを狙ったものである。


p. 198


SEVENTH

この新しい連合国委員会のスコープを完璧に定義することは、現状では全く不可能である。私が始めて、今はレイモンド・ロビンスが引き継いでいる仕事に関して一言述べることによって、それが可能とする便利さおよびサービスを多分より良く理解して貰えるであろう。ロビンスはブチャン大佐として有名で評判の良い人物で、仕事は将来間違いなく幾分変更され、新しい状況に対応できるように追加されねばならないであろう。私の仕事は、革命の祖母ブレシュコブスキー(Breshkovsky)夫人によって支援されたロシア"市民教育委員会"を通して主に為されて来た。彼女は、当時の首相ケレンスキー(今ではロンドン在住)の私設秘書デービッド・ソスキス博士、ある時期の農業協同組合議長ニコラス・バシル・チャイコフスキー、およびその他の有力な革命家達 ―公務員および資産家階級の極"右"と、社会主義政党の最も急進的な分子を具象化する極"左"の間のような民主主義の救済分子からなる革命家達― によって支援されていた。この委員会の目的は、ブレシュコブスキー夫人からウィルソン大統領への電文メッセージで述べられているように、次の引用文から推測され得る。"ロシアを秩序ある民主主義国家にするためには広範囲の教育が必要である。我々はこの教育を、駐留地の兵士、工場の作業員、村の農民に授けることを計画している。" この仕事を助ける人々は、大衆は何世紀もの間、保護ではなく抑圧を与えてきた専制政治に虐げられてきたということや、ロシアにおける民主的な政府形態はドイツ軍を打ち負かして、ドイツの専制政治を打倒することによってのみ維持されるということを悟った。大きな政府責任の準備が出来ておらず、教育が行き届いておらず、職業訓練も未熟な自由ロシアが、ドア一枚隔てただけの隣人であるドイツ帝国と長期間共存できると期待され得ただろうか? 明らかに無理だ。民主国家ロシアは、たちどころに世界が知るところの最大の戦利品になってしまうであろう。

委員会は、ロシア軍の各連隊の中に兵士クラブという形で教育センターを設置することを計画した。これらのクラブは出来るだけ迅速に組織され、兵士に演説するための講師が雇われた。講師は現実に教師であり、ロシア兵の90%が読み書き出来ないということを想起すべきである。ボルシェビキ暴動の時、これらの演説者の多くは、現場で素晴らしい感銘を与え、秀でた結果を得た。モスクワ市だけでも250人居た。委員会はこれらの講師を5,000人以上にすることを目論んでいた。我々は、最も簡単な様式の印刷物であるところの"A B C"クラスの多数の新聞を出版し、約100件以上援助していた。これらの新聞は、労働者や農民の家庭の中へ、愛国心、協調、および対等についてのアピールを運んだ。


p. 199


最後のケレンスキー政府が転覆したあと、我々はボルシェビキ文献拡散のために大いに支援した。すなわち、それを工作員を通して配布したり、航空機を使ってドイツ軍に空からまいた。もし、提案することが許されるならば、この同じボルシェビキ文献を西部戦線とイタリア戦線を横断してドイツとオーストリアに送ることが望ましくないかどうかを熟考すべきであろう。

EIGHTH

ペトログラードの少数の連合軍の存在は、11月におけるケレンスキー政府の転覆を防ぐために確かに大いに貢献したであろう。全ての英国およびフランス政府の被雇用者がペトログラードに集中している現在の状況が続くかどうか、また、相当に有力な軍隊として編成されるべき必要性が生じるかどうかを熟考して頂く様に提案したい。ロシア軍に少額の金銭を払うことさえ得策かも知れない。また、ロシアにおいて召集されたボランティアの大集団がいて、彼らの多くは"中心"階級の知識人であり、これらの人々は現場で素晴らしい仕事をしてきた。彼らは適切に支援されるべきだろう。

NINTH

もし、貴方が更なるプログラムを求めるならば、私は今それを与えることが不可能だと言うべきである。聡明で勇敢な働きによって、ドイツがそれ自身への場を占めることをこれから先もまだ防ぎ、そうして連合国の出費でロシアを開拓するのを防ぐであろうと、私は信じている。このサービスが報われ得て、その働きが進行するにつれて明らかになるであろう多くの手段があるであろう。


コメント

このメモに従って、英国の戦時内閣はその政策を熱意に欠ける親ボルシェビキ主義に変えた。トンプソンが彼の工作員を使ってボルシェビキ文献を拡散したことを認めていることに留意のこと。トンプソンがロシアを去った日付(この文書で彼は11月29日と述べている)についての混乱は、フーバー研究所のピルニー論文によって解決されている。旅行計画に何度も変更があり、12月上旬にトンプソンはまだロシアにいた。そのメモは多分、11月末にペトログラードにおいて書かれたものである。


p. 200


DOCUMENT NO. 5

説明

フェリックス・フランクフルター(当時、戦争局長官の特別顧問)から、合衆国のボルシェビキのエージェントサンテリ・ヌオルテバ(アレキサンダー・ニベルグの別名)への1918年5月9日付けの手紙。ニューヨークのルスク委員会ファイルにおいて、文書No.1544としてリストされている。:


DOCUMENT

戦争局
ワシントン
1918年5月9日

親愛なる Nhorteva [原文のまま]殿:

4日の手紙、有難う御座いました。我々の会話が純粋に友情のこもったもので、全面的に非公式な性質のものであることを貴方が理解するであろうと思っていた。また、貴方のシロラ* の手紙を訂正するために貴方がとった迅速なステップに感謝している。貴方が提示した質問における私の関心を減少させるものは何も明るみに出ていないということは全面的に確かである。 完全に反対のこと。私は、貴方が進めている配慮、および説いている観点に非常に興味がある。(I am much interested in** the considerations you are advancing and for the point of view you are urging.) 争われている問題は全世界に対して大きな意味を持つ関心事である。(The issues*** at stake are the interests that mean much for the whole world.) それらに適切に対応するため、我々が手に入れることができる可能性のある全ての知識と知恵が必要である。(To meet them adequately we need all the knowledge and wisdom we can possibly get****.)

敬具
フェリックス・フランクフルター

サンテリ・ヌオルテバ殿

* Yrjo Sirola was a Bolshevik and commissar in Finland.
** Original text, "continually grateful to you for."
*** Original text, "interests."
**** Original text added "these days."


コメント

フランクフルターによるこの手紙は、合衆国在住ボルシェビキのエージェントであるヌオルテバ/ニベルグ宛に書かれたものである。その当時、フランクフルターは戦時局長官の特別顧問として、公式な地位に就いていた。ニベルグがフランクフルターの指示に従って人民委員"シロラ"への手紙を変えることを厭わなかったのは明らかである。 ルスク委員会は、フランクフルターによる変更を含むオリジナルのフランクフルターの草稿を入手したが、ニベルグが受け取った手紙についてはそうではなかった。



p. 201


DOCUMENT NO. 6

1920年におけるソビエト支局(SOVIET BUREAU)

地位  名前 国籍  生まれ  前職
Representative of USSR Ludwig C.A.K. MARTENS German Russia V-P of Weinberg & Posner Engineering (120 Broadway)
Office manager Gregory WEINSTEIN Russian  Russia  Journalist
Secretary   Santeri NUORTEVA Finnish  Russia  Journalist
Assistant secretary Kenneth DURANT U.S. U.S.  (1) U.S. Committee on Public Information
(2) Former aide to Colonel House
Private secre tary to NUORTEVA Dorothy KEEN U.S. U.S. High school
Translator Mary MODELL Russian Russia  School in Russia
File clerk Alexander COLEMAN U.S.  U.S.  High school
Telephone clerk Blanche ABUSHEVITZ Russian  Russia  High school
Office attendant Nestor KUNTZEVICH  Russian  Russia

Military expert  Lt. Col. Boris Tagueeff Roustam BEK  Russian  Russia  Military critic on Daily Express (London)
Commercial Department
Director A. HELLER Russian  U.S.  International Oxy gen Company
Secretary   Ella TUCH Russian   U.S. U.S. firms
Clerk Rose HOLLAND U.S. U.S. Gary School League
Clerk Henrietta MEEROWICH Russian  Russia  Social worker
Clerk Rose BYERS Russian  Russia  School
Statistician Vladimir OLCHOVSKY Russian  Russia  Russian Army
Information Department
Director Evans CLARK U.S. U.S. Princeton University
Clerk Nora G. SMITHMAN U.S. U.S. Ford Peace Expedition
Steno   Etta FOX  U.S.  U.S. War Trade Board

Wilfred R. HUMPHRIES U.K.

American Red Cross
Technical Dept.
Director Arthur ADAMS Russian  U.S.

Educational Dept.
Director William MALISSOFF Russian   U.S. Columbia University
Medical Dept.
Director Leo A. HUEBSCH Russian U.S. Medical doctor
D. H. DUBROWSKY Russian   U.S. Medical doctor
Legal Dept.
Director  Morris HILLQUIT  Lithuanian

— 

Counsel retained:
Charles RECHT
Dudley Field MALONE
George Cordon BATTLE
Dept. of Economics & Statistics
Director   Isaac A. HOURWICH Russian U.S. U.S. Bureau of Census
Eva JOFFE Russian   U.S. National Child
Labor Commission
Steno Elizabeth GOLDSTEIN Russian  U.S.  Student
Editorial Staff of Soviet Russia
Managing editor Jacob w. HARTMANN U.S. U.S. College of City
of New York
Steno Ray TROTSKY Russian   Russia Student
Translator Theodnre BRESLAUER Russian Russia — 
Clerk Vastly IVANOFF Russian Russia — 
Clerk David OLDFIELD Russian Russia — 
Translator J. BLANKSTEIN Russian Russia   

情報源: 
U.S., House, Conditions in Russia (Committee on Foreign Affairs), 66th Cong., 3rd sess. (Washington, D.C., 1921).
See also British list in U.S. State Department Decimal File, 316-22-656, which also has the name of Julius Hammer.



p. 202


DOCUMENT NO. 7

説明

The National City Bank of New York
New York, 1919年4月15日

ジョエル・ラスボーン閣下
財務省副長官
Washington, D.C.

親愛なるラスボーン殿:

今朝、書留郵便でL.マルテンス氏から我々が受け取った2通の文書の写真を、ここに同封して貴方にお渡ししたい。マルテンス氏はロシアの社会主義者連邦ソビエト共和国の合衆国における代理人であると主張していて、ジュリアス・ハマー博士によって財務部の部長代理だと証言されている人物である。


p. 203


これらの文書から、貴方は以下のことが分かるでしょう。合衆国におけるロシア大使らしいボリス・バクメテッフ氏の名前の下、あるいは、ボリス・バクメテッフ氏に従属するロシア政府のために活動するということになっている個人、委員会、または使節団の名前の下、あるいはまた直接に我々に託された、あらゆる且つ全ての資金に対して我々が埋め合わせをされるべき差し迫った必要性がある。.

この問題に関して何らかの助言や教示をして頂けると非常に有り難いです。

敬具
[署名] J. H. カーター
副会長

JHC:M

同封物


コメント

この手紙の重要性は、ハマー家のソビエトとの長期に亘る(1917-1974)付き合いに関連している。



DOCUMENT NO. 8

説明

ソビエトの配達人"ビル"・ボブロッフからハウス大佐の元補佐官ケネス・ヅラントへ宛てた1920年8月3日付けの手紙。合衆国司法省によってボブロッフから押収された。


DOCUMENT

司法省
調査局
15 パーク・ロー, ニューヨーク市, N. Y.,
1920年8月10日

調査局長
合衆国司法省, ワシントン, D.C.

拝啓:本日のRuch氏との電話での会話を確認するため、蒸気船フレデリック8世号に乗船していたB.L.ボブロッフの所持品から押収したオリジナルの文書をこれに同封してお送りします。



p. 204


ケネス・ヅラント氏宛でビルが署名している1920年8月3日付けの手紙、1920年7月1日の"プラウダ"からのトロツキが署名している翻訳文、および電報のコピーが、ペンシルバニア州フィラデルフィア、南19番街228番地のケネス・ヅラント氏宛の青い封筒内に見つけられた。この青い封筒は、同封した白い封筒内で更に封されていた。

ボブロッフ氏の所持品のほとんどは、ロシアの港への様々な品物などの輸送に関する機械類カタログ、仕様書、および手紙から成っていた。ボブロッフ氏はデービス職員および税関によって念入りに尋問されたが、これと同じ物の詳細レポートがワシントンに送られるであろう。

敬具
G. F. ラム(Lamb)
部門管理者


ケネス・ヅラントへの手紙

親愛なるケネス: 最も喜ばしい手紙を有難う。私は孤立させられ、最近の体験によって鋭く強調されてきた感情に閉じ込められているように強く感じていた。支局に対して異なった態度を強いることができないことや、 なんとかして貴方への資金を手に入れることができないことで意気消沈していた。先週したように、電信で貴方に5千ドル送金したのは、すまないという気持ちでの単なるジョークである。最近それについて電報したことであるが、アメリカで金を売るという提案は、間も無く実行可能だと分かることと思う。現在の市場価格では51.44セントであるが、最低45セントで5百万ルーブルを貴方は売ることができるかを尋ねるため、昨日電報した。それは少なくとも222万5千ドルの純益になるであろう。Lが現在必要とするのは、アメリカからバルドー(Vardoe)、マーマンスク(Murmansk)、およびアーケインジェル(Archangel)への石炭輸送費支払いの第一回目として、クリスチアニア(Christiania)のNiels Juul & Co.へ払うための2百万ドルである。最初の船はバルドーに近付いていて、2番目は7月28日頃にニューヨークを出発した。概して云えば、Niels Juul & Co.あるいはむしろクリスチアニアのNorges' Bankは、彼らおよび我々の口座に我々のものである1千百万ドルのルーブル金貨を持っている。そのルーブル金貨は、我々の石炭の注文および必要な船舶のトン税に対する補償として、彼らが彼ら自身でリーバル(Reval)からクリスチアニアに持ち出したものである。しかし、この金の購入に対して彼らが今までに得ることができたレートは非常に安く、一番高いレートでもkg当り575ドルである。アメリカ造幣局または財務省のレートは644.42ドルであるにも関わらずである。多額の取引量であることを考慮するならば、このまま大損することは恥辱であろう。貴方がこれを受けるよりはむしろ売却を達成することができるであろうと思う。同時にそのようにすることで、支局のために百万ドルの1/4またはそれ以上を稼ぐことができると思う。もし、我々がクリスチアニアにおいてその2百万ドルを何らかの方法で払うことが出来ないならば、それは4日前に払われるべきであって非常に短い時間以内であるが、Niels Juul & Co.は我々の金を売る権利を持つでしょう。彼らはその時点での最良の価格を持っているが、上述のように極めて安い。


p. 205


我々はカナダ人の交渉がどのように進んでいるのかまだ知らない。N.の拘束が切迫しているように思われた時、ヌオルテヴァ(Nuorteva)がショーエン(Shoen)への付帯条件をひっくり返したと我々は理解している。 これを書いている時点でヌオルテヴァがどこにいるか分からない。デンマークのEsbjergからイングランドへ彼が強制送還されたあと、バシル・トムソン卿が彼をリーバル(Reval)行きの蒸気船に乗船させたと推定しているが、 彼がそこに到着したという知らせをまだ聞いていない。そして、我々はゴウコブスキー(Goukovski)またはN.自身から、きっと便りがあるであろうと思っている。 ハンフリーズ(Humphries)はEsbjergでヌオルテヴァに会ったが、そのため彼自身、デンマーク警察と面倒なことになっている。彼のすべてのコネクションが綿密に調べられている。彼はパスポートを取り上げられている。彼は2度尋問されている。もし、国外追放を免れたならばラッキーであるように思える。ヌオルテヴァがここから300マイル離れたEsbjergに到着したのは2週間前であったけれども、デンマークのビザを持っていなかったので、デンマークの官憲は彼の上陸を許さず、彼は翌日の8時に出港予定の蒸気船に移された。200クローネの預託金を払って、彼は2〜3時間、海岸を離れるのを許された。コペンハーゲンへ長距離電話をしたかったが、実質的に所持金が無かったので、彼は彼の金時計を25クローネでもう一度質入れし、その後直ぐにハンフリーズと連絡を取った。ハンフリーズは半時間以内に夜汽車に飛び乗り、その夜は床で寝て、7時30分にEsbjergに到着した。ハンフリーズはヌオルテヴァを見つけ、船長の乗船許可を得て20分N.と話したが、その後、下船しなければならず、船は出港した。その後、ハンフリーズは、その事と次第を観察していた私服の二人によって、警察事務所に導かれた。彼は厳しく尋問され、住所を訊かれたあと釈放され、その夜、コペンハーゲン行きの汽車に乗った。彼は、Daily HeraldのEwer、ショーエン(Shoen)、およびNew Bond128番地のKliskhoに電報を送って、彼らにヌオルテヴァの船を出迎えるように要請した。その結果、N.は再び神隠しに遭うことがなかったけれども、何が起こったのかまだ我々には分からない。英国政府は彼をフィンランドに送るという意図を持っていたことを強く否定した。もし彼に何かあったならば、モスクワは報復を臭わせている。暫くしてからH.の取調べが始まった。彼がホテルに滞在中に警察が来て、本部への同行を求められた(しかし、逮捕されたのではない)。そして、彼の裁判は法務大臣預かりになっていると、我々は理解している。最後の結末がどうであろうとも、ハンフリーズは彼に示される合理的な礼儀正しさについて意見を述べ、それはアメリカにおける赤軍の襲撃の残忍さと対比されるであろう。


p. 206


刑事本部において、彼らは彼の出した手紙や電報のいくらかについて知っているのを、彼は知った。

トベンケン(Tobenken)のもの―貴方はリトヴィノフ(Litvinoff)のものについては触れていない―についてのカラシン(Krassin)のインタビューについての貴方の好意的なコメントに私は興味があった。なぜならば、私はトベンケンのための機会を得るためにL.と悪魔のように闘わなければならなかったからである。アーサー・ルール(Arthur Ruhl)もそうしたように、T.を通じてヌオルテヴァからの手紙と一緒に到着し、L.はロシアに行きたいというT.の申し込みを1分間以内に断って、同じ証明書で二人の特派員がロシア入りすることは不可能だという彼の話を聞く時間を取ろうとしなかった。昨年の夏にL.がルールにした約束が主な理由で、彼はルールにビザを与え、ルールはリーバルに去り、そこでL.が電報してモスクワに求めた許可が下りるのを待った。彼の拒絶のためにナーバスになり、ほとんど落胆し切ったトベンケンはここに留まった。私は即断でなされた判断のミスを悟り、それを変更する作業を開始した。長い話であるが手短に言うと、私はL.からゴウコブスキー(Goukovsky)へ宛てた手紙とともに彼をリーバルに連れて行った。暫くして、L.のビザがあったにもかかわらず、モスクワはルールを拒絶した。L.は彼のビザに対する侮辱に対してかんかんに怒って、敬意を払うべきだと主張した。そういうことで、ルールは立ち去る準備をした。突然、その許可を破棄するという通達がモスクワからルールとリトヴィノフに届いたが、ルールが国務省に雇用されているという情報がモスクワに入ったからということであった。これを書いている現時点で、トベンケンもルールもリーバルに居て足止めされている。

私は今朝L.に船が明日出港すること、および配達人Bが使えることを告げ、マルテンスに書き送るべきことがないかを尋ね、彼のために速記することを申し出たが、答えはノーであった。私がマルテンスに我々の最近の電報のコピーを多分送るであろうことについて書くべきことはないと彼は言った。

カメネッフ(Kameneff)はロンドンへの途上、英国の駆逐艦に乗ってここを通り過ぎたが、ここには全く立ち寄らず、クラシン(Krassin)はストックホルムから直行した。連合軍とポーランドの交渉や一般的な情勢について、我々がここで知っている程度、貴方は知っている。イタリア人達とのL.の交渉は、最終的に相互の代表者を確立する結果になった。 我々の代表者ボロブスキー(Vorovsky)は既にイタリアに行っていて、彼らの代表者M.グラヴィナ(Gravina)はロシアへの途上にある。我々はオデッサからイタリアに向けてロシアの小麦を船2隻分送ったところである。

貴方のサークルの中で私が知っている人々に宜しくお伝え下さい。御多幸をお祈りします。

敬具
ビル(Bill)



p. 207


貴方が送った一束の手紙 ―5 Cranbourne Road, Charlton cum Hardy, Manchester― はまだ届いていない。

M.がカナダへの移動を求めたので、Lのモスクワへの推奨は、M.がそこへ任命されるべきということ、および直接彼自身が近付きになるためモスクワに数週間滞在したあと、アメリカへの代理人に任命されるべきだということである。

Lは、支局が余りにも簡単にビザや推薦状を出すことに対して大いに批判的である。M.がB.に与えた手紙を頼みにしてモスクワにおいて手に入れた契約書とともにB.がここに到着したとき、彼は明らかに驚き激怒した。M.からのその後のメッセージがモスクワに届かなかったのは明白である。L.がそれについて何を計画していたのかは、私には分からない。 この問題において、M.が彼の忠告をL.に暗号での電報を送るように、私は示唆したい。L.はここでB.と関係はないであろう。注意を要する状況が生まれているのかも知れない。

L.はラビノフ(Rabinoff)の忠告も例に挙げた。

二通の封筒, Mr. Kenneth Durant, 228 South Nineteenth Street, Philadelphia, Pa., U.S.A.

情報源: U.S. State Department Decimal File, 316-119-458/64.


注釈: 個人の身元

William (Bill) L. BOBROFF ソビエトの運び屋で工作員。ミルウォーキーのBobroff Foreign Trading and Engineering会社を経営。 ミルウォーキー議会に使われている投票システムを発明。
Kenneth DURANT ハウス大佐の補佐官; 本文参照
SHOEN 著名な金融家で共産主義者のヘラーが所有するInternational Oxygen Co.の被雇用者
EWER ソビエトの工作員で、London Daily Heraldのレポーター
KLISHKO スカンジナビア滞在のソビエト工作員
NUORTEVA アレクサンダー・ニベルグとしても知られ、合衆国における初代のソビエト代理人; 本文参照
Sir Basil THOMPSON 英国諜報部のチーフ
"L" リトヴィノフ(LITVINOFF)
"H" マルテンス、リトヴィノフと親交のあったウィルフレッド・ハンフリーズ(Wilfred Humphries)で、ロシアにおける赤十字のメンバー
KRASSIN  貿易労働部門のボルシェビキ人民委員で、ロシアにおけるSiemens-Schukertの元社長


p. 208


コメント

この手紙は、ボブロフ(Bobroff)とヅラント(Durant)との間の緊密な繋がりを暗示している。


DOCUMENT NO. 9

説明

ダヴィソン(モルガンのパートナー)からトーマス・タチャー(モルガン一族と親交のあったウォール街の弁護士)への要求に関するもので、ヅウィト・モロウ(モルガンのパートナー)に渡された、1918年4月13日付けのメモ。


DOCUMENT

バークレイ・ホテル(Berkeley Hotel)、ロンドン
April 13th, 1918年4月13日

ウォルター・H・ページ閣下(Hon. Walter H. Page)
イングランド駐在アメリカ大使
ロンドン

拝啓:

数日前、私はアメリカ赤十字社の戦争協議会会長であるH.P.ダヴィソン氏からの要請を受けた。ロシアの状況に関してノースクリフェ(Northcliffe)卿と協議してから、他の会議のためにパリに進むようにとの要請であった。ノースクリフェ卿が病気のため、私は彼と協議できなかったけれども、私はバークレイ・ホテルに今滞在していているヅウィト・W・モロウ氏と一緒に来ていて、ロンドンへの帰還に関してモロウ氏がノースクリフェ卿に提出しようとしていたロシア状況に関するメモを残しておこうとしている。

貴方および国務省にお知らせするために、そのメモのコピーを同封する。

敬具
[署名] トーマス・D・タチャー



p. 209


コメント

ノースクリフェ卿は、プロパガンダのリーダに任命されたばかりだった。ウィリアム・B・トンプソンがボルシェビキのプロパガンダを支援していたことや、モルガン-ロックフェラー財閥との彼の繋がりという観点で、これは興味深い。


DOCUMENT NO. 10

説明

この文書は、国務省ロシア問題部門のD.C.プール(Poole)から国務長官に宛てた、General Electric社のM.オウディン(Oudin)氏との会話に関するメモである。


DOCUMENT

1922年5月29日

拝啓 長官殿:

General Electric社のオウディン氏が今朝私に、彼の会社はロシアにおけるビジネスの再開に関してクラシンとの会話を始めるべき時が近付いているかも知れないと感じていると知らせて来た。私は彼に次のように言った。この問題において実行されるべき方向性はビジネス判断の問題であるというのが国務省の見解であり、企業が実行可能と考える何らかの根拠に基づいてロシアにおける事業をアメリカの企業が再開することに関して妨害するような介入をするつもりは国務省には全くない。

戦争の前に協議していた経営協定を再開するために、GE社とAllgemeine Elektrizitats Gesellschaftの間で交渉が今進んでいると、彼は言った。締結されるであろう協定はロシアの協力のための準備を含むことになるだろうと、彼は期待している。

敬具
DCP D.C. Poole



p. 210


コメント

これは、重要なアメリカの企業によるロシアとの関係の来るべき再開に関するものなので、重要な文書である。その文書は、国務省ではなく企業がイニシャチブを取っているということ、および自ら敵と公言しているロシアにGE社の技術が移転されることの影響に対して配慮がなされていないということを明らかにしている。このGE協定は、10万人のアメリカ人および数え切れない連合軍の死を導いた主要な技術移転の道路敷設の第一歩であった。


p. 211



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