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第1章 少しの原理・原則


人間は人である

人間は人である。ただの動物ではない。

全ての人々は社会で生きている。人々が完全であるほど、社会生活も完全である。天使の社会は人の社会よりも完全である。3人の神聖な人々はどうかと言うと、彼らは無限に親密な社会に住んでいるが、一つに溶け込んでいるという訳ではない。

また、この神聖な社会は、“彼ら全ては、私の中のあなたと父、そしてあなたの中の私”(ヨハネによる福音書 17:21)というモデルとして人間に提案されている

人間は人なので、人間も社会で生きる。共同は人間性の欲求に反応する。

人間は社会的な存在である

社会生活は二つの理由で人間性に反応する。

1. 何故ならば、人間は神のイメージの中の小宇宙であり、神をイメージとしたモデルから、所有する富にあずかるためにひとりでに与える性癖を受け取るから。

2. 何故ならば、彼は霊的世界におけると同様、現世においても貧困の小宇宙であるから。 人間は貧困から脱出するために他の人間を必要とする。彼は彼の受胎、誕生、成長のために物理的に他の人々を必要とする。彼は理知的にもまた他の人々を必要とする。もし、後天的な教育を与えられなかったならば、無知に生まれた存在はどのような知的レベルに到達するであろうか?

ここでは、彼の霊的な貧困や、教会という社会を持つ必要性について述べない。

我らの研究は現世の問題に限定する。しかしながら、現世は霊的世界に従属することを見失うこと無しにである。現世および霊的世界はこの同じ人間に関わるものであり、この人間の最終目的は全ての中間目的に優先するからである。


公益

どの共同体も目的がある。共同体の目的は、ある公益であり、共同体がどのようなタイプであるかにより異なるが、それは共同体構成員の各自全てにとって必ず好ましいものである。

それが公益と呼ばれるのは、各人全てにとって良いことだからである。共同体によって求められるものは、特定の一人の人間のためや一階層の人々のためではなく、構成員の各自全てのための利益である。

3名が事業に参加する。ペテロは肉体労働、ヨハネは独創力と経験、マタイは金銭資本で貢献する。公益はその事業の成功である。 しかし、この事業の成功は、ペテロの利益のためだけでも、ヨハネの利益のためだけでも、マタイの利益のためだけでもない。もし、3名のうちの1名が事業の利益から除外されるならば、彼は参加しないであろう。

3名の各々が欲しい結果で、かつ3名のうち誰もが一人では得られない結果を得るために、3名は3名の各自全員のために共同体組織を作る。お金そのものはマタイにとって余り重要でないだろう。武器そのものでペテロは得るものがほとんどないであろう。精神そのものはヨハネにとって十分ではないであろう。しかし、3名が資源を結合するとき、事業は成功し、各自はそれから利益を得る。3名全員が等しく利益を得るとは限らないけれども、3名の各々は一人だけの場合よりも多くを得る。

その仲間あるいは仲間の一部のやる気を損なうような共同体は、その結合力を弱める。仲間は分離する傾向にある。大きな社会において、不満の兆候がより明白になるならば、それは間違いなく、より多くの仲間が公益の分け前を得ることから益々遠ざけられるためである。そのような場合、立法者は、もし賢明ならば、構成員の各自全てを公益に関与させるようにする手段を求めて、その手段を採用する。犠牲者に罰を与えることによって不満を阻止しようとする試みは、不満を失くすために全く不適切な方法である。

また、人間の共同体は、人々、自由で理知的な存在から成るので、これらの共同体の公益は知性と自由から間違いなく広がり続けるべきである。そうでなければ、それは最早公益ではない。共同体を構成する自由で理知的な存在である各自全ての、共同体を通しての利益ではない。


目的と手段

人は目的と手段を区別しなければならない。特に、手段を目的に従属させるべきで、目的を手段に従属させてはならない。

目的は狙うところのゴールであり、追うところの目標である。手段は、その目的を達成するために使われる過程、方法、行動である。

私は机を作りたい。私の目的は机の製作である。 私は厚板を手に入れる、私は寸法を測る、私はノコギリで切る、私はカンナをかける、私はぴったり合わせる、私は釘を打つ。非常に多くの動作・行動があり、それらは机を作るために使われる手段である。

机の製作を狙っているということが目的であり、その目的が私の動作、道具の使用などを決定する。目的は手段を制御する。たとえ、その目的を達成する前に手段が先に物を言うとしても、最初に目的が私の心の中に存在する。目的は手段の前に存在するが、手段が使われることによって、その目的が達成される。

これは初歩的なことのように思われる。しかし、公共事業の運営において、手段を目的と取り違えることがしばしば起こり、その混沌が生じるとき、人は皆驚きあきれる。(編集者注記: これは我々に、教皇ヨハネ・パウロ2世が1979年10月2日、ニューヨークでの国連総会で言ったことを思い出させる。“あなた方、紳士淑女に対して、きっとあなた方には自明の質問をさせて頂く事をお許し願う。しかし、それらの質問は意味のないことではないように思われる。というのは、人間の行動に対する最も頻発する落とし穴は、それらの行動をしている間に、最も明白な真実、最も初歩的な原則を見失う可能性であるからだ。”)

この問題に戻るが、その別の例は雇用である。非常に多くの立法者が労働を生産の目的と看做す。そして、そのことにより、労働力の削減に役立つ機器の全てが破壊や停止に追い込まれる! もし、彼らが労働を生産の手段と考えるならば、求められる生産高を達成するのに必要なだけの総労働力で満足するであろう。

同じように、政府は、地方や国の公益追求を助けるための手段ではないだろうか? したがって、地方の共同体や国を構成する人々に公益のために奉仕すべきではないだろうか? しかし、実際、政府が国民のために存在すると、人は信じているだろうか? そうではなく、国民が政府のために存在していると信じているのであろうか?

システムについても同じことが言えるだろう。システムは人間に仕えるために、発明され確立された。システムに仕えるために人間が創造されたのではない。そして、もし、システムが大多数の人々に有害ならば、大衆がそのシステムに苦しむままにすべきなのだろうか? あるいは、そのシステムが大衆に仕えるようにシステムを変えるべきであろうか?

この本において長い研究の主題となる別の問題:お金が生産と分配を促進するために確立されて以降、生産と分配をお金で制限しなければならないのか? あるいは、お金を生産と分配に関連させなければならないか?

このように、目的を手段と看做したり、手段を目的と看做したり、あるいは目的を手段に従属させるような誤りは、馬鹿げているが、非常に広範囲に見られる誤りであり、それが多大な混沌を引き起こしている。


目的の階層

したがって、目的は、求めるところの目標、ゴールである。しかし、遥かに遠い目的および中間的目的、最終目的および中間目的がある。

私はモントリオールにいる。私の働いている自動車会社は、交易関係を結ぶために私を中国に送る。私は、先ずモントリオールからバンクーバまで列車に乗る。 そこで、香港に向かう大洋横断定期航空線に乗るであろう。そして、香港で、その旅行の残りのために、公共の輸送機関を使用するであろう。

私がモントリオールで列車に乗り込むとき、それはバンクーバに行くためである。バンクーバに行くことは私の旅行の究極の目的ではないが、鉄道による私の旅行の目的である。

したがって、バンクーバに到着することは中間の目的である。私の旅行の究極の目的のために、手配された手段に過ぎない。 しかし、それが遥かに遠い目的のための唯一の手段であるならば、鉄道による旅行に関する限り、それはともかくも目的である。そして、もし、その中間の目的が実行されないならば、中国で交易関係を結ぶという究極の目的は達成されないだろう。

中間の目的は断固とした領域を持っている。私は、香港に連れて行くように鉄道に頼んではならない。同様に、モントリオールからバンクーバまで運ぶように、定期航空線に頼んではならない。

更にまた、私は全ての中間目的を究極の目的の上に、焦点を合わせなければならない。もし、私が列車でケベック市に行くならば、この特別の目的、すなわちケベック市への到着を完璧に実行することができるであろうことは間違いない。しかし、これは私を究極の目的、すなわち中国において交易関係を結ぶことに私を導かないことは間違いない。

あなた方は、これら全ての初歩的な区別の根拠をすぐに理解するであろう。それらは、中国へのビジネス旅行という本ケースでは非常に簡単である。経済の目的の問題となると、人はしばしばそれらに気付かず、混乱に陥る。



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