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第10章 通貨システムの正常化

誰がお金を創造しなければならないか?

“臣民の健全な経済生活のためのお金が不足しているとき、それを創造するのが王の第一の義務である”と言ったのは、フランスの聖ルイ王である。

銀行が廃止されるべきとか、国有化されるべきとかいうことは全く無く、それを推奨されるべきでもない。銀行家は会計と投資の専門家である。銀行家は利子付きで預金を受け取り、投資して、利益のうち彼の正当な分け前を受け取ることは適切である。しかし、お金の創造は統治者のすべき行為であり、銀行の手の中に残されるべきでない。統治権は銀行の手から奪い戻して、国家に戻されなければならない。

帳簿上のお金というものは、現代の有益な発明であり、維持されるべきである。しかし、民間のペンからこれらの数字を負債の形で生じさせるのではなく、お金として役立つ数字は統治者のペンによって人々に奉仕するように運命付けられた形で創造されるべきである。 

したがって、所有権や投資の分野で、覆されることは何も無い。現行のお金を廃止し、他の種類のお金に置き換える必要もない。国の可能性と必要性に従って、現存するお金に対して同じ種類のお金を十分に追加するシステムを、政府が社会のために樹立しさえすれば良い。

この目的のために、政府は通貨団体、すなわち国の信用事務所を設立しなければならない。この事務所の会計士達は、政府によって任命されるけれども、政府からの指図は受けない。彼らは、生産者や消費者に何ら指図することもない。富が自由に生産者によって作られ、消費者によって消費される速度に対して、お金の発行と消滅のメカニズムを整合させることが、彼らの唯一の役割である。幾分、司法制度に似ている。裁判官は政府によって任命されるが、彼らの判決は完全に法律と明らかにされた事実に基づく。その法律と事実は、いずれも彼らが創造したり扇動したものではない。

全ての家庭に慰めをもたらすべく、国に必要とされるものが全て存在するときに、人々は窮乏に悩むのを止めなければならない。国の生産能力、および生産可能で役に立つ商品に対する消費者の需要に適合して、お金が発行されねばならない。

誰が新しいお金を所有するのか?

しかし、この新しいお金はどこでどのように流通させられねばならないか? カナダで流通させるとしたら、この新しいお金は誰に帰属するのか? それはカナダに帰属し、カナダ人のために作られる。国の豊かさの結果なので、このお金はペンの一書きで創造される事務所の会計士に帰属しない。 また、政府に帰属して意のままに処理されても駄目である。なぜなら、それは銀行家の独裁が政治的な独裁に置き換えられることになるからである。

この新しいお金は国の発展する需要に応える。それは労賃でも給料でもなく、社会へのお金の注入であり、その結果、人々は消費者として既に作られたか、あるいは容易に実現できる商品を獲得して良い。というのは、それらの商品は買ってくれるだけの十分な購買力を待っているからである。

この新しいお金が個人や民間の集団にだけ帰属するということを、人は直ぐには想像できない。

全国民に例外なく等分に分配すること以外に、この新しいお金を流通させる公平な方法はない。そのような分配方法だと、お金は国の隅々まで到達するので、お金を効果的にするための最善の方法である。

社会のために働く会計士がお金の欠乏に気付き、210億ドルの発行が必要と理解したと仮定しよう。この発行は、今日、銀行家がしているのと同じく、帳簿上のお金の形、すなわち帳簿への単なる記入で為されるであろう。

3千万人のカナダ人に210億ドルが分配されるので、国民一人当たり700ドルになる。よって、会計士は各国民の口座に700ドルを書き入れるであろう。 これらの個人の口座は、連邦政府に対して責任を負う地方の郵便局によって容易に世話され得るであろう。

これは国民配当になるであろう。各カナダ人は、この目的のために開設された口座に、信用として700ドルの追加を手に入れるであろう。


各人・全員への配当

国においてお金の供給量を増加する必要性が生じたときはいつでも、男であろうと女であろうと何歳であろうとも、各人は新しいお金を必要とさせる新しい進歩の局面に対する分け前を手に入れるであろう。

これは為された仕事に対する支払いではなく、共有資本における取り分としての各個人への配当である。個人資産があるならば、共有所有権もある。すなわち、ある資産が個人に所有されているならば、全員が権利を有する共有財も存在する。

ここに、着ているボロ着以外に何も持っていない男がいる。彼は食べ物もなければ、ポケットにお金もない。そのとき、私は彼に言うことができる。

“あんさん、貧乏みたいやな。そやけど、あんさんも、おいらや総理大臣と同じように非常に沢山の物を所有している資本家なんやで。滝や森は、おいらの物であるのと同様、あんたの物でもあるんやで。それらの御蔭で、あんたは毎年収入を得られるねんで。

“おいら達の共同体の御蔭で、おいら達が孤立して生活している場合と比べて、100倍も生産力がアップするねんで。それを可能にしている社会組織は、おいらの物であると同時にあんたの物でもあるんや。その社会組織は、おいらと同様、あんたの財産でもあるんと違うか。

“科学の御蔭で、ほとんど労働力無しで生産高を倍増できるようになっているけど、その科学は各世代を経ての遺産なんや。そして、その遺産は連続的に増加しているんや。そんでなぁ、あんたもおいらと同様に、この遺産に対する取り分があるんやで。

“あんさんが貧乏なのは、あんたの取り分が盗まれて、どこかに仕舞われているってことなんや。仕事をしたくても、仕事が見付からへんのは、その所為でもあるんや。

“社会信用配当制度というのは、あんたの分け前、少なくともその大部分をあんたに保証してくれるんやで。金融業者の影響力から脱して、それらの搾取者と正当に渡り合えるようなより良い政府が、あんたが安らぐことができるように取り計らってくれるんやで。

“あんたを人類の仲間として認めてくれるのがその配当なんや。その御蔭で、あんたはこの世界の物質財の分け前に対する権利を得て、すくなくとも人間としての最低限の生活が出来るようになるんや。”

しかし、良く組織化された社会において、何故、各構成員が最小限の物質財支給に対する権利を有するという理由について、我々はより詳しく見て行かねばならない。偉大な社会学者と看做されている多過ぎる人々が、この権利をまだ認めていない。



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