第11章 ぎりぎりの生活必需品に対する各人の権利
カナダの戦時生産の実態は、人工的な障害、すなわち金融上の障害を外すことを決心しさえすれば、そうできることを疑いなく証明している。
国の生産能力をそのように大規模に利用したあと、国が全面戦争に突入するまで、数百万のカナダ人家族に見下げはてた窮乏を強いることがまだ許されるのであろうか?
あるいは、その目的に役立つような経済的・社会的システムを我々が最終的に要求するであろうか?
偉大な教皇ピウス11世の書いた下記の文に定義されている条件を実行するシステムを要求するであろうか?
“経済的・社会的な組織が正しく樹立されたならば、その目的が達成され、そのとき、自然および技術革新に基づく富と資源、経済問題に関する社会組織が与え得る物質財が万民・各人に保証される”
(回勅状クァドラジェジモ・アンノ)
教皇は言っている。経済システムは保証しなければならない。約束するだけでは駄目で、店のウィンドーに商品を展示するだけでも駄目である。
誰のための保証なのか? 全ての人のためである。 すべての人って? 教皇は次のように強調している。万民および各自。万民および各自は如何なる例外も許さない。
何を保証するのか? 自然および技術革新に基づく富と資源が保証できる全ての物質財である。北極点の近くの極寒の地では何も保証できない。しかし、カナダではどうだろうか? 通常、生産が消費より速いカナダにおいては、そのような困難は存在しない。
全ての物質財。これは、どれも蔵に保管したままにされないことを意味する。空腹に苦しむ男達、女達、子供達が居るのに、果実を焼却したり、ミルクを捨てたりしないことを意味する。
万民・各自のための全ての物質財。よって、各人は自分の分け前を手にしなければならない。しかし、何の分け前か? 経済的・社会的組織は、万民・各自のためにどのぐらいの量の物質財を保証しなければならないのか? 教皇は次のように述べている。
“これらの物質財は、すべての需要およびまっとうな生計を保証するだけ十分でなければならない。”
万民および各自のために全ての需要とまっとうな生計を与えること。これは正に、揺りかごから墓場まで各国民にぎりぎりの生活必需品に対する社会的な保証を要求する人々によって求められているものである。まっとうな生計は現実的に少なくとも次のものを必要とする。
十分な食料、十分な衣料、十分な住居、十分な健康状態の実現、身体を休め、心を若返らせるための十分な余暇。
そして、この生計がまっとうであるために、自由という人間にとって最も美しい特典が犠牲にされるべきであろうか? まっとうな生計を保証するためのこの最小限の収入のために、我々はお互いに戦場で殺し合わねばならないのか? あるいは、自然および技術革新に基づく富と資源が平和時において家族に到達するために、最初に我々は国によって雇用される人々の割合を増大させなければならないのか? 科学が太陽エネルギーと機械を人間の奉仕に置く限りにおいて、我々は人間を国家社会主義の網の中に投げ込まねばならないのか?
そのような状態に晒された生計は、まっとうであるのを止めるであろう。まっとうな生計は、たとえ、その支配者が国家であろうとも、支配者のものとなる奴隷の生計を意味し得ない。
まっとうな生計とは、何らかの健全に樹立された経済的・社会的組織によるカトリック教会の目標である。
しかし、たとえローマ教皇がこの目標を定義しなかったとしても、単なる常識がそれを我々に指摘しないであろうか?人間が協力する度に、その協力の御蔭で、各協力者が望むもので、個別に対処したらもっと大変な困難なしには得られなかったものを、より容易に手に入れられたのではないだろうか?
これは、どのような事業においても、また社会と称される大きな共同体においても、本当のことである。
また、社会において、あるメンバー達が欲求不満に陥ったり、益々多くの人々が社会生活から得られねばならないはずの利益を得られなくなったら、離散勢力・無政府勢力が直ちに現れる。
それならば、全員に共通の熱望、各自の抱いている熱望に対して、誰が反対し得るのだろうか? 人間にその性質を与えているのは創造主自身ではないか? もし、各人が最小限の食料、および衣類や住居を通しての自然力に対する最小限の保護を求めるならば、その最小限無しでは人は生きられないということが人の性質なのである。
この世に生まれた各人は生きる権利を持っている。新生児が君主の宮殿に生まれようとも、カナダの最貧層の最貧の小屋に生まれようとも、他の誰も戸同じように生きる権利を持っている。それは生活水準の問題ではなく、人が生き続けるためのぎりぎりの必需品の問題である。
生活に対する権利を前にして、したがって生きるためのぎりぎりの必需品を前にして、社会の全ての構成員、人類各々は平等である。
生活に対する権利、生活手段に対する権利は生得権である。必要とされる全ての物が溢れていて、買い手が不在のため商品が廃棄されている国において、その権利は他人の権利を侵害してはいけない権利であり、他人の生活水準を落としてはいけない権利である。したがって、新生児が家族の仲間入りをしても、家族の他の構成員のまっとうな生活が侵害される結果になるべきではない。
それでも、現代の生産と輸送の設備が整っているにも関わらず、我々の現在の社会はその構成員にまっとうな生計を保証しているであろうか? 我が国に生まれた各人にまっとうな生計のために必要な最小限のものを保証する法律が、我々の民法のどこにあるのか?
人々が動物を虐待しないように守る法律ならばある。しかし、一握りの人々が豊富な物品の分配を妨げるのを禁止する条項がない。万民・各自のためのまっとうな生計に対する教皇の目標は、悲しくも無視されている。
たとえ、この世の全ての物質財が私有財産システムの下にあったとしても、持たざる者さえ含んで、各人の生活権、したがってぎりぎりの生活必需品に対する権利は損なわれないであろう。財産はたとえ私有財産であろうとも、達成すべき社会的役割がある。所有権はその所有者に対して公益のためにその所有物を管理する義務を与える。
しかし、共有財産のままである多くの物質財、多くの生産因子もあり、それらについては社会の全構成員が同程度に共同所有者である。
これらの物質財のうち、幾らかのものは目に見える有形物であり、カナダの場合には、太陽の恵みや山々の配置の御蔭で無料で利用できる森や滝である。これらの物質財は誰に所属するのか? それらは本当の共有遺産ではないか? それらの相続権は万民にあるのでは?
それから、より現実的でないとか、より生産的でないとかということではないが、より見え難い物質財もある。それはたとえば何世紀もの間に亘る科学の発達である。応用科学は今日の大量生産における有力な因子になっていると我々は信じてさえいる。従って、科学は私有財産だと誰が主張するだろうか? それは教育のある人々の個人的な努力を無視している訳ではない。しかし、人によって授けられた教育は、その人物に対して社会への義務を課している。 というのは、その教育を得るために、その人物はそれを許した全ての社会組織に恩恵を受けたからである。
そして、社会組織それ自身も、物質財の生産におけるその役割という観点から考えただけでも、非常に重要な因子である。もし、各人が孤立して生活し、彼自身の生計、すなわち各人による全てのものの生産を取り計らわねばならないならば、全員の総生産高は、社会組織の下で可能な分業システムによっての生産高と比べて遥かに少なくなるであろう。したがって、社会組織の存在は社会全体としての生産能力をすこぶる増大させている。この社会組織の存在は私有財産なのだろうか、それとも万民がそれから恩恵を受けるべき共有財であろうか?
生活に対する自然権のためだけではなく、過去の世代の相続人として、非常に多くの共有財の共同所有者として、社会の構成員である人間が、ある程度の量の物質財に対する権利を有している。
しかし、今日、生産メカニズムによって提供される商品に対する請求権はどうやったら有効になるであろうか? 銀行券や買い手から売り手に渡される信用口座を通してでないならば、お金を通してどのようにして?
この方法は、生産品の選択を柔軟にすることと、当事者が処理に巻き込まれるのを防ぐことにおいて有利である。
しかし、生活権を社会のどの構成員からも奪うこと無しにこの方法を機能させるためには、今日の世界においては、全員・各人が生産に対する最小限の請求権、すなわち現金であろうと帳簿上のお金であろうとも最小限のお金を所有する必要がある。
社会信用スクールが国民配当と呼ぶものが、国民の各人・全員に保証される国の生産品に対するこの最小限の請求権である。個人的な仕事に対する報酬である労賃や給料と異なる配当は、相続人の権利、共有資本からの収入に対する国民の権利、生存権を表し、ただ単に生存しているというだけで、良く組織化された社会はその構成員各自に保証しなければならない権利である。