>

第12章 配当とは何か

会社が営業の成果として剰余金を得た場合、その債務を支払うために必要な金額を差し引き、減価償却および弁済のために必要な資金を取っておいたあと、残った剰余金を株主に分配する。たとえば、もし、会社の株式資産が50万ドルで、分配される純利益が3万ドルであるならば、3万ドルは50万ドルの6/100なので、会社は6%の配当金を宣言するであろう。この会社の額面100ドルの株式を10株保有している人は、6ドルの10倍、すなわち60ドルの配当金を得るであろう。20株を保有している人は120ドルの配当金を手にするだろう。もし、純利益が1万ドルだけならば、配当は2%だけになるであろう。そして、もし、必要な全ての支払いを終えたあと純利益が残らなかったならば、無配になるであろう。したがって、配当金は剰余金を前提とする。

株主に配当金を分配することで、株主は会社への関心を失わない。起こるのは全く反対のことである。もし、それらの株主がその会社に雇用されていて、働くことで会社の工場での製品の生産に寄与するならば、彼らは労賃や給料に加えて配当を受け取るからと言って、怠けたりたるんだりするであろうか? そう考えることは愚かであろう。生産品の質向上と量増大により、より多くの配当金が得られることを彼らは知っている。疑いなく、彼らはより勤勉に働くであろう。

誰にその配当に対しての権利があるのか? その企業に資本を投資している株主にその権利がある。もし、それが協同組合会社ならば、労賃や給料を差し引いたあと剰余金があればのことであるが、生産者自身がそれに対する分け前、配当金を受け取る権利がある。なぜならば、生産者が株主だからである。そしてもう一度問うが、配当金はどこから来るのか? それらは剰余金からであり、その額は剰余金の額によって決定される。配当金はある株主から取られ他の株主に与えられるお金ではない。会社は正にその剰余金を分配するので、配当金は会社に対して債務を生じさせない。

これらの初歩的な話は誰にとっても新しいものではない。しかし、これらを思い出しておくことは、“国民配当”あるいは“社会信用配当”について語る際に役に立つかも知れない。たぶんその問題を考えてみようとさえしないその筋の批評家が、“これらの配当は生活保護のようだ。それらは人々を怠け者にするだろう。もう誰も働きたいと思わないだろう。”と言うのを聴くことは珍しいことではない。

勿論、これらの批評は彼ら自身を精神的な例外としている。もし、彼らが毎月500ドルか600ドル程度の配当金を手に入れるならば、日々の糧に対して神に感謝しながら長椅子に横たわるであろうと、彼らは決して信じていなかった。彼らは素晴らしい倫理的視野と発達した知能を持っているからであり、生活水準を上げるために必ず勇んで働こうとするであろう。しかし、彼らの考えでは、彼らが目を向けようとして下さらない徳や知性に欠けた大衆は遥かに無教育であるということである。これらの厳格な人々にとって、大衆は地球に汗と涙を注ぎ、永遠の窮乏の中で生きるべき存在なのだ。

けれども、今日の各人は過去の世代から遺贈された遺産に対する権利を有している。人が死んで相続人に物質財を残したとき、これらの相続人はまっとうな人かあるいは罪人なのかと疑問に思うだろうか? 遺産を有効に使えないだろうという口実のもとで、相続が否定されるだろうか?

生きている全ての人々がそれによって恩恵を享受しなければならない共有遺産という考え方についてここで述べたが、妥当な考えである。



トップページへ戻る