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第13章 遺産と相続人

“科学と産業は国の知的相続遺産である
(21世紀ラルース社図解辞書)

特に、この1世紀半、更に著しくはこの15年間において、農業、産業、貿易、および通信分野での科学の進歩は目覚しいものであった。

人は長い間、簡単な機械を利用しての、自身の筋力や動物の筋力の増幅の仕方を知ってきた。人はまた風や水のような生命と無関係のパワーも利用してきた。しかし、石炭や石油の形で化石化された太陽エネルギーの利用の仕方を学んで以来、単純な金属製ワイヤで落水のエネルギーを何百マイルも離れたところへ分配して以来、化学が実験室から産業に移って以来、様々な改良・進歩は数え切れないぐらいである。生産の問題は解決されている。


気が付いていないのか、それとも強情なのだろうか?

これを理解していない人々、すなわち、人は貧しく、生計を稼ぐためにしっかり耐えねばならないと信じている人々がいる。世代毎に蓄積されてきた遺産や、労力と知性によって克服されている世界について話すと、我々は負債の中に生まれていると反論する人々がいる。富は溢れているが、現在の真相に全く反している、偽りで不合理で誤った金融システムが相続人を債務者に変えている。

彼らの論理は何てことだ! シャンプランおよび勇敢な入植者がキリスト教を植えつけ、カナダの森に農業と文明を持ち込み、彼らの継承者が3世紀の間農業を改良し、町と工業を繁栄させてきたように思われる。この一連の全労働者が20世紀半ばに生きているカナダ人に負債と言う遺産以外に何も残さなかったのか? そして今から25年でこの負債はどれほどより莫大になるのだろうか? 利子さえも払えないほどの負債額になるのだろうか?

勇敢な開拓者が新しい土地の開拓を始める。彼の仕事はカバなどの木々を切り倒して生産的な農場に変えることである。なぜならば、良質の立ち木は、火災で焼けたり、材木商人や製紙会社によって伐採されたりして、長い間無かったからである。この男およびその妻と子供達は30年あるいは40年間懸命に働き、長男に抵当に入った農場を残し、他の子供達には彼らの労働と言う美徳の記憶以外に何も残さない。 我々の森、土地、工場から、“あなたは額に汗して借金を作る”という替え歌が聞こえてくるようだ。

子供が生まれたばかりである。洗礼式は彼をまだ教会の息子にしていないけれども、彼は既に債務者である。連邦、地方自治体、学校、小教区の借金が彼の揺りかごの周りの空気に満ちている。彼は負債の中に生まれ、負債の中で成長するであろう。彼はもしチャンスがあれば蓄積した負債を支払うために働くであろう。その間に、彼は全く反抗することなく、働けるだけの体力を維持するためにパンくずをかじり、最後には負債の中で死ぬであろう。

そして、あなたは遺産について話す。しかし、それがその遺産ではないか!


愚かさが手綱を握るとき

実際に今日の不合理なシステムの下で起こっているのは、国がより多くの流動資産を必要とすればするほど、国の財政において益々負債が増えるということである。労働者が富を創造する一方で、寄生者は財政を操っている。そして、それと反対の全ての美しい演説にも関わらず、金融は人間の上に置かれている。寄生者が主人で労働者は奴隷である。その労働者に彼が相続人であると告げなさい。そうしたら、寄生者が彼に次のように言わせるでしょう。あなたは、理想主義者で、トラブルメーカで、倫理の破壊者である。

少数の人々の利益のため、および大多数の人々の奴隷化のために存在するシステムは、先人によって残された現実の遺産、多大な資産の存在を認めたがらない。

しかし、社会信用は古い偶像およびその上級指導者に対する全ての敬意を捨てて、この遺産の存在およびその相続人としての権利を高らかに宣言する。

あなた方がセント・ローレンス河を横断する橋の建設に成功したときに、あなた方に40年の負債でもって報いた帳簿係と社会信用が紛争することはない。これらのジョークは、我々が彼ら全てを暴風に投げないように、我々に過度の弊害を引き起こしてきた。


文化的遺産

社会信用論者は文化的遺産を、“世代毎に発展し引き継がれてきた、発見と発明、文化と学問、社会的・政治的・産業的組織、教育と宗教、熱望と理想の広範な遺産であり、これらは集合的に人類の共有遺産、すなわちより簡単に言えば文明を形成している。”と称している。”(この潤沢の時代に:C.マーシャル・ハタースリー著、p.232)

それは共有の財産であり、社会の全構成員が生産の分け前に対する権利を有している理由である。この財産が生産要因としてより優勢になればなるほど、その分け前も益々増大する。それを開発した労働者がそれに対する報酬を受け取る権利があることは確かであり、誰もそれに対して異議を唱えないであろう。しかし、この共有の文化的財産の所有者、すなわち社会の各構成員はそれにも関わらず自身の権利・資格を保持している。

資本無しの労働力は生産性が極めて悪く、労働力無しで資本だけならば何も作れないので、資本と労働力は一緒に機能しなければならないということは、何度も何度も言われている。しかし、文化的遺産、すなわち長年の発明と進歩の寄与が無いならば、それらが一緒に機能したとして何が出来るだろうか?

応用科学、文化的財産の寄与の御蔭で、生産高が倍増し、原材料が少なくて済むようになり、労働力も削減されている。相続人が彼らの分け前を手に入れることは公平なことではないだろうか?


相続人

そして、相続人は誰だろうか?

我々は、この文化的遺産は社会の全ての構成員に属する共有財産であると言った。社会、共同体を抑圧すれば、豊かさも抑圧することになるであろう。豊かさは個人の努力の結果というよりもむしろ共有の文化的財産の結果である。個人の努力の結果というものも確かにあるが、共有の文化的財産の結果でもある。

遺産と相続人が無視されているために、世界は不公平さと馬鹿げた事で満ちている。潜在的な生産性が市場に現れず、しばしば実現されることさえない。なぜならば、重要な生産を生み出す要因である共有財産に対する権利を有する相続人が、生産品に対する請求権を与えられていないからである。


国民配当

社会信用が国民配当の名の下に社会の全ての構成員に分配したいものは、この遺産からの収入である。

それは剰余に相当するので配当である。

剰余金を持つ企業は危機を表明しないで、株主に剰余金を分配する。もし、カナダの農業および工業が剰余を持っているならば、組織化された社会の構成員としての全てのカナダ人に何故利益を与えないのか?

この理論の中に、誰も共産主義や社会主義の影を見るべきではない。民間産業は存続し、利子だけではなく民間の資産も存続する。 現実に投資される民間資本に対しての合理的な配当は存続する。労働によって報酬を得るという制度も存続する。しかし、相続人はその遺産に対して毎年収入を得る。

若かろうと老いていようと、金持ちであろうと貧乏であろうと、雇用されていようと雇用されていなかろうと、病気であろうと健康であろうと、全員がこの配当に対する権利がある。なぜならば、それは特に誰かによって稼がれたものでなく、生産に直接寄与した人々は全員既に報酬を得ていて、剰余金は文化的財産だけによるものだからである。

この文化的財産は、全ての人々の共有財産である。もし、一部の人々だけにより多くの配当を与えるならば、ひいきしていることになる。もし、誰にも与えないならば、生産品は睨みつけるような必要性を前にして消費されず無駄になり、潤沢さの中での貧困という理不尽な状況になるであろう。


何もしていない人には何も与えない?

“しかし、それは何もしていないのに何かを与えることである”と言う人々がいるかも知れない。

これは、既に存在している富を分配するに際し、富裕層にそれを受け取る権利を与えることである。一方、社会信用では、社会の構成員に彼らの父親達によって蓄積された資本に基づく配当を認めるものであり、彼らは彼らの息子達のためにその資産を更に蓄積し続けるであろう。

ジャック・マリタン

結論として、偉大なカトリック哲学者ジャック・マリタンの言葉を示す。

“財産についての(より社会的)概念が卓越するであろうシステムにおいて、この格言(“何もしない者には何も与えるな”)は生き延びることが出来ないであろう。それとは全く反対に、使用権共有の法は我々に、少なくとも先ず第一に、人間にとっての基本的物品と精神的必要性とは何であるか、人々にとって出来るだけ多くの物を何もしないで手に入れることが適切であることを証明させようとするであろう。人間が基本的な必需品を手に入れられるという事は、結局のところ、野蛮だと言われるに値しない経済の第一条件に過ぎない。

“そのような経済の原則は、相続という考えの深遠なる意味と本質的な人間のルーツについてのより良い理解に導くであろう。この世に生を受けた全ての人間は、ある意味で過去の世代の相続人としての条件を実際に享受できるのだという風な理解に導くであろう。”





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