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第14章 国民配当

公共の宝物

我々、少なくともカトリック教徒である人々は聖者教会の教義を知っている。教会は豊富な精神的な宝物を所有していて、それは我らが神の無限の功徳、および聖母マリアと聖者の有り余る功徳から作られている。

教会はこれらの功徳に対して封印しないし、我々に次のようなことを言う事はない。“これらの功徳はそれらを獲得した人々に属する。あなたにはそれらに触れさせない。豊富な限りない剰余があるが、あなたにはそれらのどれも持たせない。出来る範囲で自分自身で獲得しなさい。”

いいえ、免罪を通して、我々の手の届く範囲内に完全にあるという状況の下で、我々がアクセスすることを教会は許す。それは我々が教会の功徳において全て平等であることを意味しておらず、全員がこの精神的な宝物に容易にアクセスでき、教会は我々がそれを引き出すのを喜んで眺めているであろうということを意味する。人がそれからより多く引き出せば引き出すほど、その宝物は益々増大する。なぜならば、魂は強化され、完成されるからである。功徳の生産者達―聖者―は、我が神によって設立された教会に対しての奉納義務があると理解していて、彼らの貢献によって増加してきた宝物からこの教会の同胞が利益を引き出すのを見るのを喜んでいる。

この概念を、社会信用が主唱する配当の概念にたとえることができる。それは商品の生産者から何も取り上げることはなく、それどころか、公共善に貢献しながら、生産高を増幅するであろう。 


豊かさのシステム

豊かさが存在する。これをまだ悟っていない人々は、我々の教義について何も理解していないことに間違いない。たぶん、彼らは失業者を見たことがないのであろう。仕事のない人が居るということは、商品が分配されないのであるから、商品の豊富さが抑制されていることを意味している。

豊かさは存在するが、人がそれを覆い隠している。なぜならば、全ての人々のために存在しているものがあるのに、全ての人々に分配したがらないからである。人は剰余、共有の宝物を厳重に保管する。なぜならば、人は生産に寄与する特権を持っている人々だけが小さな分け前に対する権利を有することを望むからである。生産に寄与しない人々に対しては、何もないという考えである。

社会信用配当は、今日失われていて、その源において抑制されている生産品を分配するであろう。それは生産を枯らさないであろう。それは生産を刺激するであろう。


生活保護ではない

その配当は、失業手当や生活保護と混同されてはならない。配当は公共の施しではなく、社会の構成員、すなわちカナダ会社の全株主への所得分配である。

生活保護に使われる資金は、社会の雇用された構成員の現在または未来の収入に対して賦課される。持たざる人々に小さな購買力を与えるために、生活保護は他の人々から幾ばくかの購買力を取り上げたり、まだ生まれていない人々の購買力を担保にする。 


潤沢の世紀と国において!

更に言えば、生活保護は、仕事を罰するものであるから、非道徳である。仕事をすることを受け入れた人々は、たとえその労賃では見苦しくない生活を送れないとしても、生活保護の受給権を失うからである。

生活保護のような形態の社会保障は、貧困な人々の自尊心を傷つける。なぜならば、彼らは他人にとっての重荷であり、仲間からの強制的な寄付に依存して生きているのだと告げられるも同然だからである。

社会信用配当にはこれらの邪悪な特徴が何もない。それは全員に属するが故、全員に分配される所得である。それは誰にも重荷を背負わせず、誰からも奪わない。それは、現実の差し迫った生産高によって条件付けられるので、インフレーションを引き起こさない。

誰も害されない。生産の過剰があるが故に、配当が分配されるべきなのだ。その配当制度を拒否することは、富を破壊すること、豊富な生産能力を前にして貧困の君臨を許すこと、不当に、消費者を欠乏状態のままとすること、家族を苦しめたままにすること、労働者を失業したままにすること、産業を混沌状態のままにすること、納税者を絶望したままにすること、政府を奴隷状態のままにすることである。


配当と個人

配当は個人にどのような影響を及ぼすだろうか?

次のようなメッセージとともに800ドルの小切手の入ったオタワからの封筒が郵便で送られてきたら、どんな影響があるだろうか。 “産業、労働力、機械設備で裕福となった国家は、あなたにこの配当金をお送りできることを喜ばしく思います。この配当は、3,000万人の国民各々に送られていて、豊富な生産品の販売を支え、失業、貧困、および産業の停滞を避けるためのものです。”

あなたは、600ドルをポケットに入れて1ヶ月間仕事を休みだろうか? それとも、隣人各々もまた800ドルを手にするのだという考えで、羨望したり憤ったりするだろうか? あるいは、配当が生産品を無駄にすることなく貧しい人々を貧困から救い出すからという理由で、カナダ政府を不道徳だと宣告するであろうか?

それどころか、天然資源に富み、良く組織化され、良く管理された国に生を受けたことを、あなたは神に感謝しないだろうか? 尚一層 、自国を愛し、その繁栄に貢献しようと努力しないだろうか? 配当の可能性は生産の発展に依存することを知っているので、労賃のアップを告げられたばかりの労働者と同じように、より勤勉に働き続けないだろうか? 

配当があなたに及ぼす良い影響は、他の人々にも当てはまる。配当が有害だと考える人々が多過ぎるが、彼らは偽善者で高慢な人々である。彼らは、彼ら自身は善良であるが、罪の中に生まれ取り上げられた他の人々は配当を賢く使うには放蕩であり過ぎると考える。


配当および家族

配当は家族に対してどういう意味があるのだろうか? あなた自身に対してと同様、あなたの妻および子供達に対する配当に関してである。

それはあなたの家庭に、びっくり仰天と不協和の種を蒔くであろうか? それどころか、長い間欲しいと思っていた新しい家具、新しいアクセサリー、新しい生活を楽しくする物を買うというような、あなたの家庭の生活条件を改善するようなことを、あなた方は一緒に考えないだろうか? 

やっと、あなたは古くなっている洋服ダンスを買い換えることができるだろう。子供達により良い教育を受けさせること、たとえば芸術も含めて個々の才能を伸ばしてやること、家庭に電気を引くこと、妻のために小さな助力と休息を与えることを考えることができるようになるだろう。教会に座席を持ち、慈善事業に対する寄付金を増額できるであろう。なぜならば、家庭での安らぎが少し増したからと言って、キリスト教徒らしさを少でもし失うようなことがないからである。 十分な予算が無いことによって安い下品な印刷物に限定されなくなり、あなたと家族は教養雑誌と娯楽雑誌の両方を定期購読できるであろう。

家庭賃金について多くのことが言われてきた。結婚した男、多くの子供達の父親は、独身者よりも確かにより多くの収入を必要とする。しかし、彼らは生産価値において等価であろうから、雇用者に対して異なる労賃を要求できない。もし、そんなことをしたら、雇用者は独身者や家族の少ない人々を優先的に雇うだろうからである。

配当は、各個人に等しく分配されるので、その問題を解決する。 既婚者、幼い年齢の6人の子供の父親は、独身者と同じ労賃を手に入れることができるであろう。しかし、独身者は労賃以外に1人分の配当を手に入れるだけなのに対して、自分を含めて8人を養う必要のあるその既婚者は8人分の配当を得るであろう。それらは誰にも負担を掛けない家族手当であり、生産設備をフル稼働させることに繋がるので、負担を掛けるどころか誰もを助けることになる。


配当と農夫

(補償される割引に加えての)配当によって、農産物は適切な価格で売れることになり、農夫は労働に対して十分な対価を得ることができる。彼の家族はしばしば大家族であるが、その構成員各人に与えられる配当という収入も得られる。彼は彼の農産物を売ることができるのと同じように、工業製品を買うこともできる。 

彼は欠いていた農機具、化学肥料を買うことや、牛の頭数を増やすこと等について、やっと考えることができる。

もし、この農夫が開墾者であるならば、配当が彼にどれだけ役に立つか想像できるであろう。そのような重労働によって、社会の生産性のある土地を増加させる人々は、生産システムの剰余の恩恵をより多く受け取る権利があるに違いない。


配当および労働者

国民配当は労働者にどのような影響を及ぼすだろうか? それは労働者の尊厳を守るであろう。労働者は最早薄給で雇われることを強いられないであろう。空腹は貧しい人々を奴隷化し、搾取者によって与えられた条件を呑まされる。更に、配当の御蔭で生産品の完売がほぼ保障されることによって、雇用者は彼の雇用人により良い報酬を与えることができる。

同じ理由から、配当は雇用の永続性を支援する。実際、これについてあなたはあなた自身を欺いてはいけない。もし、生産の多くの過程において機械が人間に置き換わったとしても、少なくともカナダにおいては、公共および民間部門での改善・開発という仕事が十分残り、労働力を吸収できる。

配当によってもたらされる絶対的な必要性に対する保証の御蔭で、人はそれぞれに適した職業を探す余裕が生まれ、全ての社会組織はそれによって得をするであろう。

万民に対して十分なものを生産できる潜在能力がある限りにおいて、配当は万民・各人に生活必需品への権利を保証する処方箋である。




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