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第17章 国家の信用


社会の構成員としての大人の男女および子供のそれぞれは共同体の利益を受け取る資格があるという事は、気持ちの良い事である。また、富が溢れすぎてこの富の廃棄が最大の問題となっている世界において、揺りかごから墓場まで全ての人に少なくともぎりぎりの生活必需品を、その利益によって保証しなければならないと指摘することは的確である。

そして、ぎりぎりの生活必需品の保証の実際的な表現は、現代の分配経済において、生活維持に必要最小限な商品を手に入れるのに十分な定期的な購買力保証であることを我々は見て来た。

この購買力は二つの方法で提供される。直接的なお金の分配と、最終消費者が生産品を買うときにおける生産品小売価格の低減である。

両方のケースにおいて、国の信用事務所は引き出すための源を必要とする。すなわち、全国民に配当金を分配するために引き出す所と、買い手のために宣告された価格割引に対して小売業者を補償するために引き出す所を必要とする。

この源は国家の信用に委ねられる。


2種類の信用

信用という概念は信頼という概念と同義である。人は誰かを信頼してさえいれば、彼に信用を与える。

どんな信頼でも何かに、土台に寄りかかっている。そしてこの信頼の対象は変転し得る。

たとえば、天気予報士は、明日は美しい日になるであろうと私に確信させることが出来る。私の友人の性格は、彼は私に誠実であろうと確信させることが出来る。私は勉強することで、しかじかの試験で成功するとの自信を得る。

これら全てにおいて、お金の問題はない。他の問題に関する信頼である。

もし、私が小売業者であり、3ヵ月後に対価を支払うという顧客に売るならば、私の信頼は顧客の将来の支払い能力に影響される。私は彼に信用を与えている。なぜならば、私は彼がお金を見つけ、3ヵ月後にそれを私のところに持って来ると信頼しているからである。この信頼は金融に関するものである。 

社会信用論者は本当の信用と金融上の信用を区別する。


本当の信用

17世紀のフランス人が、後にカナダとして知られるところにあるセント・ローレンス河の岸辺に植民しにやって来たとき、この国で住むことができるであろうとの自信無しでは移住しなかったであろう。彼らの信頼は、生活に必要なものを供給することができるという新世界に帰属する能力に寄りかかっていた。それは新世界の本当の信用である。

北ケベックに移住する植民者はその地域を信頼している。北ケベックの森と土壌によって彼は生活し、家族を扶養できると彼は信じている。それは北ケベックの本当の信用である。

医者の力量が彼に頼る患者に信頼を与える。それは医者の本当の信用である。

本当の信用は、必要性に応える物やサービスを作り出す能力から生じる。

カナダの本当の信用は、必要なとき必要なところで、商品およびサービスを作り出して届けるカナダの能力である。

本当の信用は国の生産能力の発達と共に成長する。今日のカナダと4世紀前にインディアンだけが住んでいた頃のカナダとの間の相違は、その4世紀の経過の間におけるカナダの本当の信用の成長を示している。

本当の信用は、実現可能な商品およびサービスで表現される国の富である。

金融上の信用

金融上の信用は、お金で表される国の富である。

金融上の信用は、必要なとき必要なところで、お金を供給する能力である。

小売業者が顧客に与える信用は金融上の信用である。小売業者は決められた契約にしたがって支払われるであろうことを信頼している。

貸し手の借り手に対する信用は金融上の信用である。貸し手は決められた契約にしたがって返済されるでろうということを信頼している。

もし、本当の信用が物、存在するあるいは容易に実現できる商品に直接関係するならば、金融上の信用はお金に関してであり、それは必要なときに存在すると予期されている。

政治家が州の良好な信用について話すとき、彼らは金融上の信用について、州の返済能力に対する貸し手の信頼について話している。しかしながら、州の本当の信用は、銀行家が歓迎しようが手厳しかろうが、同じように存在している。

金融が現実への奉仕として存在しなければならないのならば、金融上の信用は本当の信用に関係しなければならない。

憐れにも、そうでなかったケースがある。1930年、カナダはその本当の信用、その生産能力を失っていなかったけれども、必要とされたところにお金を供給する能力を失った。

経済生活を歪曲しているのは、本当の信用と金融上の信用の間の分離・絶縁である。

本当の信用は信頼できる。それは、州、人間の仕事、応用科学の進歩の合同作業である。金融上の信用は全ての突然の転機を招く。それは銀行の行為に依存し、その行為は人々幸福よりも銀行の利益を追うものであり、更にまた、生産や消費の必要性の実態に全く無関係に、国際的な秩序の影響に晒される。 1930〜1940年の大恐慌は、国際的なスケールでの金融上の秩序の難局であった。


本当の信用のお金ベースでの欠陥ある表現

実際、銀行による全ての貸付は本当の信用に基づいている。それは売れる商品を生産し配達できる能力であり、それが借り手を銀行家にとっての信頼対象人物としている。

借り手の貸し方に記入される銀行融資は、これまでに述べてきたように、お金として役立つ。それは本当の信用に基づく銀行信用である。

銀行信用すなわち帳簿上のお金は、借り手の本当の信用のお金への銀行家による変換である。もし、それが政府への融資ならば、それは国の本当の信用のお金への変換である。

本当の信用のお金への変換は必要である。しかし、このように銀行によって為される変換は、基本的な欠陥を含んでいる。信じられない特権によって、銀行は他の人々の本当の信用をお金に変換し、銀行自身がこのように創造されたお金の所有者だと宣言する。そして、銀行はそのお金を他の人々、本当の信用の創設者に貸して、彼らを債務者にする。

また、本当の信用の変換は、一時的なお金を創造するのであって、そのお金は、その根拠となった本当の信用が存在し続けようとも、前もって決められた期間のあと回収され消滅させられる。

工場を建てるためにお金を借りる実業家の場合を考えよう。彼は、たとえば5年経過後に返済しなければならない信用を手に入れる。 彼が建てる工場は国の本当の信用を増加させる。したがって、国の富の反映で有らねばならないお金が同時に増えるということは相応しいことである。

しかし、実業家は5年経過したら負債を返済しなければならない。それ故、彼は彼の工場での生産品の価格に、生産原価だけではなく、工場の建設費の一部を含めるであろう。そうすることで、彼は返済を成し遂げることができる。

5年後に、全ての創造されたお金は流通網から回収され、その源に戻されるであろう。けれども、工場の生産能力はまだそこにある。このお金への変換の根拠となったものはまだそこにある。しかし、そのお金はもう無い。国はその本当の富と等価な金融上のものを持たない。


お金の社会的性質

また、たとえ、私的な物質財の問題であろうとも、本当の信用は社会的な性質を持っている。

例として挙げたばかりの工場の場合、もし、それが社会の存在のためでなかったならば、全く無価値であろう。消費者を抑圧するだけならば、工場は何の価値もないであろう。

私有財産である工場は、確実に個人所有者の富を増大するが、同時に国の富をも増大する。そして、工場の生産品が売られるならば、国全体がそれから利益を得るであろう。

借り手の本当の信用に基づいて創造されたお金を貸し、借り手にそのお金を返済することを強いる銀行家は、富の個人創造者に対して不正であるだけではなく、銀行家が抑制する生産され提供される富への権利を主張する社会全員に対しても不正である。

本当の社会信用のお金への変換は、社会自体の名の下に、銀行家の利益ではなく社会全体としての経済的繁栄を追って、主権者の権威だけによって行使され得る。


国家による、本当の信用のお金への変換

それが、社会信用が国家による、本当の信用のお金への変換を求める理由である。その本当の信用が、公共のものであろうと民間企業のものであろうともである。

この変換は秩序を守って為されねばならない。それは、生産の事実および消費の必要性と整合していなければならない。

国家による、本当の信用のお金への変換は、銀行がしているのと同様に、金融上の信用すなわち帳簿上のお金を単に記入することで十分良く実行され得る。しかし、利子と共に貸し付けられてはならず、貸し出し期間を独断的に制限されてもいけない。

本当の富の如何なる増加も、このお金への変換の根拠を増大させ、本当の富の如何なる破壊もその根拠を破壊するものである。お金はその根拠が消えない限り消えてはならない。


国家信用口座

現行のシステムの下で、銀行家が彼の貸すお金を創造するとき、借り手の元帳(あるいはコンピュータ)にそれを記録するだけである。借り手は何らかの信用が残っている限り、その信用に対しての小切手を切ることでそれを使う。

同様に、本当の信用の増加に比例してお金に変換する社会信用政府は、国家信用の元帳にそのようにして創造されたお金を記録するだけである。国民への国家配当を支払うため、および小売価格に対して宣告された国家割引分を小売業者に補填するために切られる小切手は、その国家信用に基づくのである。

この国家信用口座の管理には、独断的なものや気まぐれなものは何もない。国家信用口座は、政府によって任命される国家の通貨権威、非政治的職権によって管理されるが、その組織は生産と消費のデータに合わせて国家信用を管理する義務がある。政府によって任命された裁判官が事実を法律に照らすことによってのみ判決するのと同様である。

全ての生産品の価値と、全ての富の破壊の価値を記録するのが会計士の任務である。これらの二つの評価の差が正味の増加であり、お金の増加の根拠を与える。

これは不可能な仕事ではない。国の物質財の増加、すなわち、資本財の生産、消費財の生産、輸入品、誕生などのいずれについても、また国の物質財の減少、すなわち、減価償却、磨耗、火災、消費(全購入品)、輸出、死亡などのいずれについても正確な統計データが既に存在している。

欠けているかも知れない情報を先ず探すことが、信用管理組織の最初の仕事になるであろう。

そのような任務において独断的なものは全く何もない。生産を指図するのではなく記録する。また消費を指図するのではなく記録する。自由に生産し消費するのは国民自身であり、そのようにして全生産と全消費のデータが揃う。国家の信用管理組織は単にそのデータを記録し、それから正味の裕福さの増加を推定する。

簿記は現実に一致する。それを偽って伝えない。そして、この簿記に従って発行されるお金は、生産と消費の自由な行為の結果として生まれる。そして、お金が生産と消費を支配する現行の秩序を乱す銀行金融システムとは正反対に、その自由な生産と消費がお金の量を支配する。

英国の作家、ジョン・ハーグレイブが、社会信用を極めて簡単に定義している。その定義は、お金と消費のこの自由さ、および簿記システムと同様に柔軟なお金の発行を非常に良く表現している。

“望むものを生産し、欲しい物を取りなさい。ただし、生産したものと取ったものを記録しておきなさい”

生産品の販売を妨げるものが何もないので、消費者からの注文がある限り、このシステムは高レベルに達するであろう。配当あるいは国家割引の形で分配される国家信用の量を決定するのは、この生産の増加である。

もし、申し分ない生活水準を享受する国民が、自由な職業に就くことをより好み、市場で売られる商品の生産に従事しない方向となった場合、レジャー経済が徐々に発達するであろう。それは論理的に進歩の証であり、労働力は機械に置き換えられるが、生産性は向上する。

レジャー(自由活動)の増加は、人間が切望する目的であり、潤沢の経済においては、今日において非常に熱心に切望されているゴールである完全雇用よりもより合理的である。

しかし、完全雇用の代わりにレジャーを追及するため、すなわち奴隷状態の代わりに自由を礼讃するためには、労賃や給料だけからの収入ではなく、万民への配当による収入を認めることが先ず第一である。



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