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第19章 社会はその全ての構成員のために存在する


(1945年1月29日、ラジオ・カナダにおけるルイ・エバンの会談の最初の部分)

配当、目的のための手段

社会信用を単なる通貨改革と考えるのは極めて狭い見方であろう。社会信用の視野は遥かにより広範囲に及んでいる。それは完全な哲学―正に共同体についての哲学―であり、政治および経済において尊重されることを欲するものである。

多過ぎる人々が、社会信用論者は全国民のそれぞれに毎月25ドル(そして2004年には800ドル/月)という不可能なことを言っていると、馬鹿にしている。

国民各々に月当たり800ドルを支払うことは、もし、国の生産能力に着目して考えるならば、大いに達成可能な目標である。しかし、もし、国の通貨の量と流通を思いのまま操っている極悪非道の支配者の許可を先ず得なければならないならば、達成が非常に困難な目標となる。

社会の構成員各自への定期的で拘束のない配当は社会信用の提案の一つの一部である。なぜならば、主に労働の分業化と応用科学の恒常的に成長している寄与から生じる生産品に溢れている今日の世界において、社会信用の哲学を経済において実現するためには、配当以外の手段はない。


共同体構成員のための共同体

社会信用の哲学は何か? そもそも哲学があるのか?

社会信用は、人間が社会に生きている限り存在するのに、実際は全く無視されて来て、今日この時代において一層無視されている哲学を公言する。

この哲学は、社会そのものと同じぐらい古く、したがって人類の起源と同じぐらい古く、共同体の哲学である。

共同体の哲学とは、誇張した表現であるけれども、一定の目的のために集まり団結する全ての人々の心の中にある一つの概念である。

乳製品販売店にミルクを運搬することで共同している10人の農民がいるとしよう。彼らは何故共同するか? 何故ならば、そうすることで、彼らが個別でするよりもより利益を得ることができると全員確信しているからである。彼らのうち誰も損しないし、彼らの時間と輸送設備を最も良く利用することは全員の利益である。

彼らを共同させる動機は、各自が共同することで利益を引き出すという確信にある。

全ての種類の共同の基盤になっているのは、それと同じ原理である。

10人の人々について本当であるところのもの、大きかろうと小さかろうと、工場従業員であろうと農業従事者であろうと、スポーツマンであろうと教養人であろうと、俗人であろうと宗教家であろうと、全ての共同体について本当であるところのものは、カナダの州であろうとも10州の連合体であろうとも、連邦政府と呼ぶところの一般的な社会についても同様に本当である。

したがって、共同体の哲学は、共同体およびその構成員各自のために、すべての構成員が一緒に結び付くことである。


その構成員全てのための社会

社会信用は、一般的な社会、州、国家に適用される共同体の哲学である。

社会は、全てのその構成員、各自、誰もの利益のために存在する。もし、人に次のように告げるならば、それはその人への侮辱になるであろう。

“あんさんは社会の一部なんや。それから逃げられへんで。ちゅうのはな〜、重要なことは、個人の問題と違うのんや。社会の秩序が大事なんや。そやから、あんさんは全ての法律に従って、一市民としての義務の全てを果たさんとあかんねんで。そやないと、社会はあんさんを罰するんやで。そんでな〜、社会からは何も期待したらあかんのや。あんさんは、別にそれが誤りってこともないんやけど、住みか、パン、保護が与えられへんかもな。社会はあんさんのことなんか全く気にせ〜へんで。あんさん以外の人々は社会から利益を得るけど、あんさんは別やで。”

このように話すことは、人を社会から遠ざけるであろう。あるいは、実在の状況に対する彼の反抗を引き起こすであろう。


社会的混乱に向かわせる憤慨要因

ところで、我々の現在の社会組織において、誰も公的にはそのように話さないけれども、多数の市民は社会の利益を否定されていることで欲求不満に感じている。そして、欲求不満の市民の人数が多過ぎるときや、欲求不満が長く続き過ぎる場合、これらの欲求不満の人々が社会に対してしばしば反感を持つ。彼らの反感は、その原因なしのことではない。

無政府主義者、共産主義者、あるいは社会主義者に対して欲するだけのことを書いたり、訓戒することができる。しかし、もし、社会が、一握りの人々が多数の人々を搾取する組織であり続けるならば、もし、応用科学や世代の進展が浮浪者、飢餓者、戦争を引き起こす人々を作るために役立っているだけならば、犠牲にされている大衆の反乱を妨げるものは何も、全く何もない。

窓を壊して生産品を盗む人々を投獄することができる。しかし、大衆の物欲しげな目を前にして、何十年も窓の後ろに生産品を山積みにして来た人々を投獄する方がずっと賢明であろう。牢獄はその方が混み合うこともなく、もっと有効利用されるであろう。

しかしながら、無政府状態よりも良い解決策がある。反乱を起こしたり、全てのものを均一化する代わりに、社会の全ての構成員、例外なく全員に、社会組織から本当恩恵を受ける者にするための改革を目的として、我々は組織的に纏まることができる。そして、それは正に社会信用運動が達成しようと求めるものである。


独占と正反対のものであるところの社会信用

社会信用とは、社会はその市民全員の利益のために存在するということを規定する教義である。

社会信用は如何なる独占―たとえば経済的独占、政治的独占、名声の独占、暴力的独占―とも正反対のものなのは自明のことだというのは、その理由による。

社会信用を社会の構成員各自誰もに奉仕する社会システムと定義しよう。そこでは、政治は国民各自誰もに奉仕し、経済は消費者各自誰もに奉仕する。

さて、独占も定義しよう。すなわち、少数の特権階級の人々に奉仕する社会組織の搾取である。そこでは、政治は政党と称される一味に奉仕し、経済は少数の金融家、野心的で無節操な企業家に奉仕する。

独占は、大衆の権利を無視し、彼らから搾取する。社会信用は、国民の誰もが権利を有することを主張する。

大企業の立場で独占について考える習慣は流行り過ぎている。企業は大きくとも、消費者一般に奉仕し得る。独占企業にならずに、一般大衆に奉仕する良く組織化された会社であり得る。

独占の有害性を成すものは、その大きさよりもむしろ、その不健康で反社会的な目的である。その欠点は、それが競合社を抑圧したり政府を買収したりするような不誠実な手段を使うということであり、その結果、少数者の利益のために社会が容易く搾取される。


お金の独占は保護されている

余りにもしばしばのことであるが、独占を非難する人々は特定の産業の独占、すなわち電気の独占、石炭の独占、石油の独占、砂糖の独占などに言及するが、そこまでである。彼らは経済の分野における全ての独占のうち最も有害なものを無視する。それは、お金と信用の独占であり、国の発展を公的な借金に変換する独占、生産の実態や家族の必要性とは全く無関係にお金の量をコントロールすることによって人間の生活水準を規制する独占である。


政党政治の独占

その上、しばしば過ぎる話であるが、経済の安定を取り計らうべき政治家自身が独占者になっていることを人は忘れている。しかし、この独占は政党の形で存在し、政党は民主主義を気取っているために、人々は騙される。政党は彼らを搾取するために作られているのに、政党は彼らのために作られていると、彼らは考えている。


共謀

話のついでに、政党はお金の独占について非難しないように非常に用心深いということを指摘しておこう。他の独占は(選挙に勝つために見せ掛けとして)批判されるが、お金の独占については一言も言及されない。同様に、お金の独占者は政党に対して障害を置かないように非常に用心深い。巨大な経済独占者と巨大な政治独占者は、ある種の紳士協定、すなわち人々を犠牲にしてお互いを守るための相互協定を締結しているように思われる。

我々は、ケベック州の前州知事が署名している私信の中で、“神聖にして犯すべからざる独占的金融”という言い回しを読んだ。この表現、この“神聖にして犯すべからざる独占的金融”は、この州知事の公的な文書には度々現れていない。けれども、彼が公職に就いている期間における州の信用は、それ以前およびそれ以降と同様、この同じ神聖にして犯すべからざる独占的金融に捧げられた。

社会信用論者は、お金の独占と政党政治の両方と同時に戦うものであることが分かるであろう。社会信用論者は、経済を全ての消費者に奉仕させることを欲し、政治を全国民の利益のために応答させることを欲するが故に、その両方と戦うのである。




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