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第2章 経済

   人は、経済について話すとき、節約や貯金について考える傾向にある。“お金を蓄えなさい、資力を確保しなさい”としばしば言われたことがないだろうか? 我々は、“蓄えなさい、浪費するな”と助言されているのは明白である。

にも関わらず、我々は、“経済的でない経済がある”という非難にも直面している。このように、辞書の微妙さを教え込まれることなく、人々は用語経済に対して広い意味を既に認めている。

たとえば、小学校4年生の小さな少女達は家庭経済について既に勉強してないであろうか? 家庭経済から社会経済に進むことは、単に延長の問題に過ぎない。

経済という用語は、2つのギリシャ語、oikiaすなわち家、およびnomosすなわち規則に由来している。

したがって、経済は家の良い規則、家の中の物品の使用の秩序に対する良い規則についての用語である。

家庭経済は家庭の事柄に関する良い運営管理、また社会経済は大きな共同体すなわち国の事柄に関する良い運営管理と定義して良いかも知れない。

しかし、何故、“良い運営管理”なのだろうか? 小さい家庭あるいは大きい家庭、すなわち家族あるいは国の事柄の運営は、どのようなときに良いと呼ばれ得るのであろうか? それがその目的に到達する場合に、そう呼ばれ得る。

物事は、それがそのために制定された結果を達成するときに良いのである。

経済の目的

人は種々の活動に従事し、異なった階層、異なった分野における種々の目的を追求する。

たとえば、倫理的活動があるが、それは究極の目的に向かっての進歩に関わるものである。

文化的活動は、知性、知性の装飾、および人格形成に影響する。

社会一般の福祉に参加することにおいて、人は社会活動に従事する。

経済活動は現世の冨を取り扱うものであり、現世の必要性に対する満足を求めるものである。

経済活動のゴール・目的は、それ故、現世の必要性を満たすためのこの世の物品の利用である。そして、この世の物品が人間の必要性に奉仕するとき、経済はその目的を達成する。

現世の必要性は揺りかごから墓場まで人に付随するものである。不可欠なものもあるが、そうでないものもある。

空腹、渇き、悪天候、疲労、病気、無知によって、人は、食べること、飲むこと、着ること、住居を持つこと、暖をとること、さっぱりすること、休むこと、健康を気遣うこと、勉強することが必要になる。

これらは全ての人間に必要である。

衣食住、木材、石炭、水、ベッド、医薬品、学校の先生の教育本―これらは、それらの必要性を満たすために存在しなければならない全ての因子である。

物品を必要性に結び付けること―これが経済生活のゴール・目的である。

そのようになれば、経済生活はその目的に到達する。もし、そうならず、上手く結び付けられず、不完全であったならば、経済生活はその目的を達成し損ねたか、あるいは不完全に達成できただけということになる。

ゴールは物品を必要性に結び付けることであり、単にそれらを近づけるだけではない。

したがって、端的に表現するならば、食料が空腹な胃に入り、衣服が身体を覆い、靴が足に収まり、冬に火が家を暖房し、病人が医師の訪問を受け、先生と生徒が会うという良好な状況にあるならば、経済は良い状態であり、その目的に到達していると言って良いであろう。

これは経済の分野であり、非常に現世的な分野である。経済は、人間の必要性を満足するというそれ自身の目的を持っている。空腹のとき食べるという事実は、人間の究極の目的ではなく、究極の目的を目指してより良く進むための手段に過ぎない。

しかし、経済が究極の目的に対する手段に過ぎず、一般的階層における中間的目的に過ぎないとしても、経済そのものにとって、特有の目的ではある。

そして、経済がその特有の目的に到達し、物品を必要性に結び付けることができたならば、それは完璧である。それ以上のことを求めないが、それは求めてしかるべきである。この完全な目的を達成することが経済のゴールである。

倫理および経済

倫理的な目的に達することを経済に求めないし、経済的目的に達することを倫理に求めることもない。それは、モントリオールからバンクーバーまで大洋横断定期航空便で行こうとすることや、ニューヨークからフランスのル・アーブルまで鉄道で行こうとするのと同じぐらい乱暴な話である。

空腹な人は、ロザリオの祈りを暗唱することによってではなく、食べ物を食べることで空腹を満たすであろう。それは適切である。それをそのように望むのは創造主であり、彼は奇跡を通して確立された秩序から離れることによってだけそれから外れる。彼だけがこの秩序を破る権利がある。したがって、人の空腹を十分に満足させるためには、経済が仲裁しなければならず、倫理は関係しない。

そして、同様に、汚れた良心を持つ人は、良い食事をしても、大量のぶどう酒を消費しても、それを浄化することはできない。彼が必要とするのは告白である。

この場合、仲裁するのは宗教の役目である。倫理的活動であり、経済的活動ではない。

倫理が人の全ての活動に、経済の領域においてさえ、随行しなければならないことは疑いないことである。しかし、倫理は経済に置き換わらない。 倫理は目標の選択において導き、手段の正当性を見守るが、経済が実行すべきことを実行することはない。

だから、経済がその目的に到達せず、物品が小売店に陳列されたままか、あるいは生産されず、家庭には必要性が存在し続けるとき、経済の秩序内にその原因を探す必要があろう。

経済秩序を混乱させる人々や、それを管理する使命がありながらそれを無秩序にする人々を非難するのは当然のことである。彼らの職務を果たさないことによって、彼らはきっと道徳的に責任があり、倫理の承認を果たしていない。

事実上、もし、両方の事が本当に区別されるとしても、それにも関わらず、両方とも同じ人間に関するものであり、また一人が犠牲にされているならば、もう一人はそれで心を痛めるということが起こる。人間には、経済秩序、社会の現世的秩序がその本来の目的に到達することを確実にする道徳的な義務がある。

また、経済は人間の現世の必要性の満足に対してだけ責任があるけれども、良い経済業務の重要性はしばしば魂を管理している人々によって強調されてきた。なぜならば、美徳の実践を助長するためには、最小限の現世の物品が通常必要だからである。

教皇ベネディクト15世は、“魂の救済が危なくなっているのは経済の領域においてである”と書いている。

そして、ピウス11世は:

“今日において、大勢の人々が必要な唯一の事、すなわち永遠の魂の救済に注意を払うのに多大な困難に直面するほどに、社会・経済生活の状況は悪いと言わざるを得ない。” (回勅状クァドラジェジモ・アンノ、1931年5月15日)

どこにでも秩序はある。―目的の階層における秩序、手段の従属における秩序。

同教皇は同じ回勅状で次のように述べている。

“これは、教会が誠心誠意で説いていて、正しい理性が要求するところの完璧な秩序である。そして、それは全ての創造された活動の中で第一番目で最高の目的として神を置き、全ての創造された物品を神の下での単たる手段と看做す。それらの物品は、我らが最高の目的への到達に向けての助けとなる限りにおいて使用されるべきである。”

そしてそのあと直ちに、教皇は付け加えている。

“したがって、儲かる仕事が軽視されると想像されるべきではなく、人間の尊厳に不一致だとも思われるべきではない。それどころか、それらの中に、神・創造主の明白な意志を認知し、畏敬するように我々は教わっている。そして、神は、必要性を満たすために様々な方法でそれを働かせ、それを使うために、人間を地上に置いた。”

人間は彼の創造主によって地上にもたらされた。そして、人間は自然の必要性の満足をもぎ取る義務を有するが、それは地球からである。創造主が人間のために地上に置いた物品無しで生きることによって、自分の一生を短くする権利は人間にはない。

地球、地球の物品を人間の現世的必要性の全てに奉仕させることは、まさに、人間の経済活動―物品の必要性への適応―の本来目的である。

人間の経済の特徴

人間は生まれつき社会的な生物なので、本来の人間の経済は社会的でなければならない。それは社会の全ての構成員に奉仕しなければならない。

他の人々を窮乏にしたままで、地球上の物品がほんの一握りの人々だけに使用されるような形で奉仕する経済組織は、間違いなく非社会的であろう。したがって、それは非人間的であろう。

もし、社会の何人かの構成員が社会の経済的利益から実質的に追放され、断然必要なものを手に入れるのが妨害され、資格ある構成員としてではなくむしろ制圧されるべき敵のように扱われることを不本意ながらでも許すならば、その経済システムは人間的ではなく、極悪である。それは狼の経済社会である。

ジャングルにおいて、生存競争の中で、強者は勝ち、敗者は消える。そのような法は、聡明で社会的生物である人々にとっては許せない。人類における生存競争は、共通の敵―森林の中の野獣、無知、意に沿わない自然力―に対する集団的闘争以外の何ものでもあり得ない。本当に人間的な経済は、生活における協力に基づかねばならない。

一方、人類は、もし彼らが社会的ならば、自由な存在でもある。そして、もし、人間の経済が全ての人間の必需品の満足を保証するならば、人の自由な開花の邪魔をすることなく、そうしなければならない。

経済は、社交性や純粋な自由に対して乱暴をしてはならない。人間社会は家畜の群れではない。登録を人生の権利への条件とするような経済は人間的ではなく、人間の本質に反している。

それ故、異常な経済を真っ直ぐにするための手段において、我々は人間の自由に敬意を払う手段を選択するであろう。

階層

もし、経済の目的が現世の目的であるならば、それは社会的に達成されるべき社会の目的でもある。もし、それが人間の現世の必要性を満足しなければならないのならば、全ての人間の現世の必要性を満足しなければならない。

これはそれぞれの管轄地域に応じて社会階層の全てのレベルに当てはまる。

もし、それが家族に関するのならば、家庭の経済は家族全員の必要性の満足を追求しなければならない。

地方経済に関するのならば、それは地方の管轄内において、その地方の全ての住民の現世の必要性の満足を追求しなければならない。

同じように、連邦の経済に関するのならば、連邦内にあるものにおける人間の必要性を満足しなければならない。

世界経済全体を考えるならば、何らかの結合組織が国家間に存在することが重要である。その組織は、全人間の現世の必要性を満足する方向に世界経済を向けるべく、構成する関係国の自主性を尊重するものであるべきである。地球は全人類のために創造された。

しかし、社会の良い組織は、下流社会以内において全員の現世の必要性の満足が出来るだけ完全に達成されるのを保証するものであり、個人とより直接的に接触する組織体であるべきである。

だから、それ自身が家族の代わりをするのではなく、極貧の人々の手助けをするために、国家は遥かにより賢明になるべきである。家族がそれを構成する構成員の必要性全てに出来るだけ完全に反応できるように、経済秩序を法制化し系統立てるべきである。

だから、それ自身が州の代わりをするのではなく、州が財政破綻しているとか、直面する必要品を供給する能力がないという弁解の下で、連邦政府は、もし州が本当の冨を維持する金融手段を持つならば、遥かにより整然としているであろう。

これが社会信用の哲学である。同時に、それは本当により民主的である。

社会信用は、金融システムの中央集権化を避ける。中央集権化、国家の統制は民主主義の否定である。

社会的で非常に人間的な経済組織の目的は、クァドラジェジモ・アンノの次の文に総括されている。

“経済的社会的組織体が健全な状態で樹立され、その目的に到達したならば、自然の富や資源、技術的業績、経済事項に関わる社会組織が与え得る物品を全員・各自に保証できる。”

全員および各自は、自然および産業が与え得る全ての物品を保証されねばならない。

それ故、経済の目的は、消費者が必要とするものに対しての全員の満足である。目的は消費であり、生産は手段に過ぎない。

経済に生産を中止させることは、それを不能にすることである。

物品が市場の倉庫に眠っているのに、社会の一部の人々の必要性しか満足されないならば、無分別で非人間的である。

経済を危険な状態とし、相入れない勢力の手に委ねることは、恥ずかしくも降伏することであり、最強者の歯へ人々を配達することである。



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