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第20章 最小の保障と最大の自由


(1945年1月19日、ラジオ・カナダでのルイ・エバンの談話の第二の部分)

保障と自由

社会信用は、社会は全ての国民のために存在しなければならないと宣言する。すなわち、各人全ての人が、必需品として共通の合意が得られた全てのものをより容易に手に入れるための手段を、政治的経済的組織の中で、見つけることが出来なければならないと宣言する。

しかし、全ての人々が欲するものを公然と理解し口に出す習慣がないのに、全ての人々が一致して望むものなんて分かるのだろうかと思われるかも知れない。それでも、全ての人々が望むものは、最小限の経済的保障と最大限の個人的自由だと断言して間違いない。

基本的な生活必需品

最小限の経済的保障とは少なくとも基本的な生活必需品の保障を意味する。少なくともそれを、基本的な生活必需品を望まないような正常な人はいない。 人はこれらの基本的な生活必需品を手に入れるのがより困難な社会には住まず、より簡単な社会、基本的な生活必需品を満足させる全てが存在し、必要とされる以上に存在し、基本的な生活必需品が保障される国に住むのを好むであろう。それ故、社会構成員の各々が少なくとも基本的な生活必需品を保障されるように面倒を見るのが、よく組織化された社会での義務である。 

教皇ピウス11世はこの基本的必需品という考えのまだ先へ行った。彼は各人・万民への、まっとうな生活のための手段の保障を求めた。彼が言ったことであるが、経済社会組織が良好で健全に確立されているためには、その構成員の全員・各人に天然と産業による物質財の分け前が保障されていなければならない。そしてその分け前は人々に必需品とまっとうな生活を提供できるだけ十分でなければならない。

経済的保障の不在

我々の現在社会はこれを達成していない。我々が民主主義のために(あるいは悪ふざけのために)戦っていなかった10年間、生産物が山積みされ目の前で腐った10年間において、国の社会組織はまっとうな暮らしのためにこれらの物質財の分け前を全く保障しなかったと宣言するために、何百万人の目撃者が国の全ての場所で立ち上がることが出来た。

少なくとも40万のカナダの家族がこれについて証人として告発できる。しかしながら、1939年に我々が戦争をしたのは、この社会の欠陥に歯向かったためではない!

自由の不在

しかし、その殺害行為のあと、戦後の社会保障計画を作らねばならないことを人は学んだように思われる。不幸なことに、人は昨日よりも良い明日について話していながら、人間の生活水準を任意に統制する通貨独占を強化し続けている。更にまた不幸なことに、人は経済保障について話す度に、自由を犠牲にしている。今や、自由は保障と同様に人間にとって不可欠である。

経済的保障、すなわち基本的な生活必需品の確保は一つのことであり、人間の選択の自由は別物である。動物は最初のものだけで満足できる。人間は両方を必要とする。経済保障は自由無しにでも存在できる。たとえば、牛舎、馬小屋、兵舎、および社会主義者によって約束される制度。

現実には、自由であるためには先ず第一に最小限の経済的保障が必要である。1930年から1940年まで失業していた人々は自由を持っていなかった。なぜならば、先ず第一に基本的な生活必需品を欠いていたからである。もし、誰かが何らかの形の社会保障を受けたならば、自由が損なわれる状態を伴う。 同じように、何人の労賃・給料生活者が彼らに全く不適切な雇用あるいは労働条件を受け入れなければならないでいるのであろうか! 彼らのパンは彼らの好みに相反する状態に結び付けられている。彼らは自由ではない。

組織化された社会の真ん中に生まれたというそれだけの事実によって無条件で基本的な生活必需品を先ず第一に保障された人は、然々の仕事や条件を受け入れることを絶対に要求されないであろう。彼は彼の素質と願望により合致して行動することが出来るであろう。そして、彼の労賃や給料は彼の選択の自由の犠牲に最早結び付かないであろう。


配当、自由のための道具

社会保障手段としての国民配当のユニークな特徴を描写するのは、ここにおいてである。その国民配当は、人を縛り付けることなく、尊厳を傷付けない唯一の社会保障手段である。 

それと同時に、国民配当は、消費者の不十分な購買力を補うことによって生産の永続性を保障する唯一の経済的手段である。それは、生産過程における進歩と歩調を合わせた唯一の補充のための配分方法である。両親から子供達に伝えられる遺産がある裕福な家族の場合と同じように、一世代から次の世代へと組織化された社会のふところに伝えられる社会的な遺産の存在を認める唯一の経済的提案である。

しかし、国家配当とは何を意味するのかと疑問に思う人たちがいるかも知れない。彼らは、企業配当が何であるかは知っている。それは、前期における会社の純益額の株主への分配である。国民配当は、毎月、三ヶ月毎、あるいは毎年、全国民に分配されるお金を意味するということである。

国民配当は、国の生産余剰力の恩恵を等しく受ける資格がある社会の全構成員への余剰力の分配を意味し、生産余剰力がないならば分配は行われえない。

その分配がお金の形でなされようと他の形であろうとも、真に余剰である生産品に対する分け前請求権が各人に与えられるという事が本質的なことである。そして、それがないために分配されない生産品は間違いなく余剰品となる。余剰品が火にくべられたり、下水管に流されたことが、これまでなかっただろうか?


配当、進歩の成果

国民配当は、労賃や給料から何かを取り去るものではない。今や、機械が労働者に置き換わる時代なので、労賃や給料に影響しているのは近代化である。そして、生産品は増えているのである。しかし、配当があれば、その欠陥を正確に埋めることができるであろう。近代化が労働力を機械に置き換えれば置き換えるほど、労働者に分配される労賃や給料は減少するだろうから、万民に直接的であろうと間接的であろうと分配される配当によって、埋め合わせされねばならないであろう。

それらは万民に、万民に等しく分配されるであろう。何故ならば、進歩の成果であって、個人の仕事によるものではないからである。個人の仕事は、それが生産にもたらす価値に応じて、様々な形で報われるものである。しかし、進歩は集合的な利益であり、万民が組織化された社会の構成員として等しくその恩恵を受ける資格がある。

進歩に伴って、労働力の寄与率は減少するけれども、商品の生産高は減少しない、現実に増加している。これが、配当の意味するところのものである。


小さなこと、大きな効果

そして、それは非常に簡単で小さなことである。個人の主導権や個人の財産を何ら侵害することはない。そうすれば、豊かさを前にして飢えていたり、配給を待って並ぶ社会が、豊かなものが万民に行き渡り、各人の自由な開花を支援する社会に変わるであろう。

全ての人々に馴染みある経済構造に何らの混乱も生じない。農民は作物を栽培し続けるが、もし彼の生産物が本当の必要性に応えているならば、彼の作物はより売れる。実業家は彼の民間企業を続ける。彼はそれを改善さえする。なぜならば、本当の必要性に応えているならば、彼は彼の生産物を売ることができるからである。労働者は労賃を稼ぎ続け、彼の仕事はより安定する。何故ならば、彼が本当の必要性に応えている企業で働いているならば、生産物が売れるからである。


配当は生産を方向付ける

生産を本当の必要性に応えさせるためには、消費者によって必要性が表明される必要がある。消費者は、手の中にお金があれば、彼らの必要性を効果的に表現する。利益第一主義者からの宣伝圧力ではなく、本当に消費者からの注文のために、お金は、宣伝を通して利益を得ようとする側から離脱して、消費者側に組するようになる。 

これが正に配当のするところのものである。国の進歩を現実的に表す配当が、各人誰もの手の中の購買力の増加を生じさせる。生産品を供給する能力のある人々に消費者の個々の必要性を指し示すことによって循環するのが新しいお金である。

最早、新しいお金は、今日のものと違って、借金という形で循環するのではない。これまでの借金としてのお金の場合、その利子が個人または政府によって、独占事業の独占者、製造業の独占者、お金の破壊者すなわち銀行家に支払われる。

国家の負債は国民配当と正反対のものである。両方とも国の生産能力の進歩を表している。しかし、国家の負債は社会を食い物にする少数者に奪われた進歩を表しているのに対し、国民配当は構成員の各自・全員の利益のために存在する社会における万民に分配された進歩を表している。 


独占者に死を

理解できると思うが、国民配当は非常に簡単で徹底して公平な仕組みであり、非常に論理的で社会的でもあり、最終的に消費者を一番大事にし、お金の独占を打ち破るということを除いて、経済に何の変化も起こさない。

お金の独占を打ち破れば、他の独占業者の歯も粉砕できるであろう。お金が社会に奉仕するものとなり、生産という身体の血管を循環する経済の血となり、消費者の必要性を満足させるようになったら、お金は権力の道具という悪徳性を失う。企業は、大きかろうと小さかろうと生産を続け、消費者はそれらの生産品を手に入れることができる。

そして、あるかなり大きな独占産業体がまだその重さを保とうと欲するならば、それを止めるのが公共善に対しての責任を有する政府の役割である。債務証券を持って、お金の独占者のドアの前に卑しい態度で姿を表すことが最早不要となり、物理的に可能で人々が欲することを達成するために必要な金融財産を自動的に所有することによって、政府は経済を妨害するどのような独占者に対しても、押し込み強盗や社会犯罪者に対するように、対処できるであろう。

また、社会信用は、先ず第一に政治の安定性を達成することなしには、経済的な業績となり得ないが、これは次の章での話題とする。




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