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第21章 人々への奉仕としての政治

(1945年1月19日、ラジオ・カナダにおけるルイ・エバンの談話の第三の部分 )

大衆操作

経済に対して全消費者への奉仕を求める社会信用は、政治制度に対して人々への奉仕も求めるものである。社会信用は経済における独占と同様に政治における独占とも戦うものである。

政治における独占とは、政党政治を通しての人々の搾取である。ローマ教皇(ピウス12世)が1944年のクリスマスメッセージで指摘したように、組織化され気前の良い資金提供を受けた政治家達は、票を手に入れ権力を得るために纏まりの無い一般大衆を操作するのに長けている。権力は彼らの唯一の目標であり、その目標しか念頭にないので、人々の利益についてすっかり忘れてしまい、彼ら自身および彼らを支持してくれた政党の利益だけを気にするのである。

人々が彼らの代表者に目を向け続けるように、人々を啓発し組織化することで始まっていない政治組織は如何なる組織であろうとも、政治の独占体、選挙のときに大衆操作をするための独占体である。現実には専制であるのに民主主義を装うので、それは独占体であるだけではなく、不誠実でもある。

社会信用の哲学を理解している人々にとっては、この種の政治が社会信用論者の気に入るもので決してないことが明らかである。

政党というものは、古かろうと新しかろうと同じように、関心は票に、すなわち票を手に入れるための大衆操作に向き続けている。社会信用論者は、もう一つの政治的詐欺(すなわち政党)の結成を拒絶する。それは、社会信用論者が教えた全てに背くであろう。


社会信用論者の政治的手法

そのような訳で、“ミカエル”誌の社会信用論者は、権利を主張するために調査し責任を引き受ける国民を教化し組織化することを、政治的手法として選択している。

社会信用論者は権力の獲得に興味はなく、国民に奉仕するべく公職に就く人々の出現に関心がある。情報に通じていて思慮深い、組織化された人々の中から、政府を独占者にではなく人々に奉仕させるために必要な法律の作り方を知っているであろう実力者が現れることを欲するものである。

教皇が書いていることであるが、“大衆は本物の民主主義の大いなる敵であり、自由および平等理想の敵でもある。この悪口に値する人々がいるけれども、国民は他者の自由と尊厳に対する敬意を前提とした、自分の個性、義務、権利、自由に気付いている。”

責任感―これが、“ミカエル”誌の社会信用運動が国民の中に育てようとしているものである。支持者の人数が増えることだけではなく、主に責任感覚の質が向上するのを待っていて、それが成功だと考えている。


経験からの教訓

なおその上、国民は権利と自由に敬意を払われるべきことを理解するために何度も繰り返して考える必要はない。我々が社会信用を手に入れるのに役立つのは、経済秩序や政治秩序の独占ではないことが明らかである。目的はそれと全く正反対である。それに、単なる政権交代を通しての変革を待っても無駄なことは、歴史が教えているではないか。

2〜3日前、新党の党首がラジオで、“今日、あなた方は、キリスト教教義と家族の尊厳に敬意を払う政策を作るであろう新しい政治家チームを持つ。”と言った。

彼のチームより前に新しいチームが存在しなかったと、彼は本当に信じているのであろうか? 彼が変えたいと思っている教義問答を人々は知らないと信じているのであろうか?

これらの言葉は過去に何度も繰り返され、人々が彼らを信じなくなり始めていることは尤もである。

候補者が同じで、状況が同じで、同じ問題に奮闘して、ある政党が他の政党に代わって政権をとったとき、正確に同じようなことを続けることは10回あれば10回ともそうである。


別の方法を試そう

お互いに対立する少なくとも二つの要素、統治することと統治されることについて考えることを忘れないようにしよう。人は十分しばしば統治することにおいては変えて来たが、もし、統治されることにおいて少し変えようとしたら、どうだろうか?

人は、猫とライオンを同じように扱いますか? 人々が猫またはライオンの世話をする場合、それが誰であろうとも、両方の場合での取扱いの違いは、飼い主の性質ではなく、その動物の性質に依存する。

政治にそれと同じアナロジーを適用しても間違いでないと我々は信じている。投票者が世論の傾向に従って投票しただけで満足している場合と、投票者が政治家を監視し、彼らに彼らの義務を思い出させるため、よく情報を手に入れ組織化されている場合とでは、政治家の振る舞いは異なってくるであろう。

それを取り計らうのは、各人・全員次第である。

公的な出来事に対して聡明で効果的な関心を向けるように人々を習慣付けることは、恐らく困難で非常に時間の掛かる仕事かも知れない。しかし、いつ我々は試みただろうか? 政党政治家が、それに専念しなかったことは間違いない。 搾取者は決して彼らの犠牲者を組織化しようと試みない。そんなことをしたら、彼らは搾取に抵抗するからである。

人は悪魔が神の恩恵を持って来るのを待たない。同じように、もし、我々が各人全員の奉仕に献身してくれるような政治経済制度を欲するならば、別の目的を狙っている人々に期待しないようにしよう。我々の各人全員がそのような制度を構築するために力を注がねばならない。

しなければならない最初のことは、間違いなく問題が何についてであるかを知ることである。だから、人は適切な文献の勉強から始めなければならない。社会信用論者はこの目的のための文献を持っている。

そして、啓発されたら行動に移ればよい、成果を求めるならばだ。他の人々に教えて団結することによって行動に移すべきだ。それが新しい種類の政治である。本当に新しい経済を実現するための有権者自身による初めての政策だからである。その経済制度においては、資格審査されず、状況調査されず、そして誰のポケットから盗る訳でもなく、各人全員に出し惜しみなく定期的な配当が分配される。




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