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第22章 超権力が政府を支配している

(ヴェル・ドゥマン誌の1970年1月号において初めて出版されたルイ・エバンの論文 )

政府権力

教科書は、一般的に政府に属する三つの権力、すなわち立法、行政、司法を区別する。

如何なる自由な国においても、合法的で主権を有する政府は、海外の権威の許可を得ることなしに国民と国立機関との間の関係を規定するための権力を保持していなければならない。これは立法権の行使のことである。

同じように、主権国家の政府は、その行為に際して海外政府の承認を得ることなしに、法律と憲法に従って国家を管理運営できなければならない。これが行政権の行使である。

最後に、主権国家の政府は、海外政府にそうすることの権限を求めることなしに、法律を強要し、それを破る人々を起訴し刑を宣告し、国内の市民の間での訴訟に対する判決を下さねばならない。これが司法権の行使である。


超権力

もし、これらの三つの権力―立法、行政、司法―がすべての主権国家の重要な制定された権力であるならば、それと違ってラベルを貼られていない別の権力がある。その権力は、それらの三つの権力を凌駕し、政府そのものを支配している。

この超権力は通貨の権力であり、どの憲法によっても権威を与えられていないが、その超権力はそんなことを気にせず、その職務を行使することにおいて泥棒以上のことをしている。

通貨の権力とは、あなたの財布に入っているお金のことではない。あなたのポートフォリオの中の株式や債券でもない。三つのレベル―地区、州、連邦―の政府が、いくら取り続けても満足することなく、あなたから取る税金でもない。労働組合がそれを求めて大声を上げ、そのためにストライキを宣言する賃上げでもない。各自がそれから手に入れるであろう取るに足らない一滴を計算することなしに、ある社会主義者達が資本家から取って労働者に分配するように計りたがる配当金でさえない。政府は果てることのない増税によって労働組合は労賃・給料のアップを要求することによって、政府と労働組合は全力でインフレーションに寄与しているけれども、通貨の権力とは政府がインフレーションと呼ぶものや、ある従業員達が生活水準の向上と呼ぶものではない。

いや、これらの全ては、我々が非難している超権力の身長や体力と比較して、小さい取るに足らないものである。この権力は、教皇ピウス11世の回勅書状クァドラジェジモ・アンノの中の言葉であるが、我々の生活を“耐え難く、悲惨に、そして無常に”する。それは、ピウス11世が同じ回勅で次のように的確に述べているが、生活をほとんど我慢ならなくしさえする。 :

“この権力は、お金を保持・統制することによって、信用を支配し割当を決定できる人々によって行使されたとき、特に圧倒的になる。彼らは、いわば全経済体へ生き血を供給し、いわば生産のまさにその精髄を手に握っていて、彼らに逆らったならば誰も呼吸すらできない。”

経済生活におけるお金と信用の役割に気付いておらず、またお金と信用が晒されている統制に気付いていない人々にとっては、そのような強い言葉は行き過ぎているように見えるかも知れない。しかし、教皇は決して誇張していない。


経済生活の血液

ここではそれは説明しないで、金融信用は経済生活において現金と同じ効力を有するということを思い出そう。人は、物、サービス、労働、製品を、町角の店で小売業者に硬貨や紙幣で対価を支払う場合と同様に小切手でも買うこともある。その場合、銀行の帳簿において数値が一つの口座から別の口座に移るだけである。経済生活をより活性化しているのは、この数値のお金(小切手)であり、我が国の商業および産業の全金融取引の80%以上がこの数値のお金に依っている。したがって、“お金”という一般的な用語は、支払い手段の両方の形に当てはまる。

そのように言ったあとで、お金が経済生活においてそのような大きな役割を担っているのかどうか、教皇がそれに付帯していると考えている超権力をその統制が本当に有しているのかを見てみよう。

過去の数世紀において経済生活の状況がどのようであったとしても、今日のお金(信用)が、全住民の私的または公的な必要性によって求められる活動における多様な生産源を維持するために必須であることは否定できない。それは、生産が需要に到達することを可能にするためにも必須である。

物と労働の対価として支払われるべきお金が無かったならば、最良の企業家でさえ生産を停止しなければならず、それに応じて原材料供給業者もその生産を減らさざるを得ないであろう。その企業家および供給業者の従業員はそれによって苦しむであろう。彼らは生活必需品を依然として必要とするが買えないので、他の生産業者は売れない商品を抱えることになろう。そのような連鎖は進む。それは、全住民がそれで苦しんできた良く知られた事実である。

同じことが公共機関にも当てはまる。公的必要性は、差し迫っていて、十分知覚されていて、十分表明されていて、公的行政機関も非常に良く理解している。しかし、これらの行政機関がお金を持っていないか、十分なお金を欠いているならば、その事業を断念せざるを得ない。

そのような状況で何が欠けているのか? 原材料? 労働力? 能力? この種のものは何も欠けていない。欠けているのはお金、金融信用、“経済体の血液”だけだ。血液を流せ。そうすれば、経済体はもう一度機能する。それが遅くなれば、ビジネスマンは事業を、オーナーは資産を失い、家族は毎日のパン、健康、更には子供達の命さえ、そしてしばしば家庭に平和も失う。

しかし、人は何が出来るのか? しかし、これは宿命的に耐えなければならない必然的な状況なのだろうか?―全然、そんなことはない。もし、経済体に血液が足らないのならば、それは血液が除かれたためである。そして、血液が戻ってきたならば、それは再注入されたためである。

血液の抜き取りと注入は、自然発生的な作用ではない。“その割当を決定し、そうして全経済体へ生き血を供給する”ことが出来るのは、お金と信用の統制者達である。人は生きるために、彼らの同意を必要としている。ピウス11世は正しい。

回勅書状の中で、教皇は血液の抜き取りと注入のメカニズムを説明しておらず、意地の悪い外科医の支配から経済体を解放するための具体的な方法も明らかにしていない。それは彼の役目ではない。彼の役目は、独裁者を非難し咎めることである。その独裁者は、社会、家族、人々にとって計り知れない苦痛の源である。その苦痛は、物質的な意味においてだけではなく、永遠に自分自身のものであらねばならない運命の追跡において各々の魂に対して不当な障害を作りだすことによってもである。そして、教皇は言わねばならなかったことを率直に言ったのである。ああ、彼の言葉に注意を向ける人々は余りにも少な過ぎた。そのため、非難された独裁者は益々その地位を強化して来た。教皇の言葉から推察するに、その権力を維持することを許しても良いけれども、その影響力を隠蔽することが困難となるようにその権力を顕在化すべしということが教皇の最大限の譲歩であったのであろう。

事実、何年も血流を全く欠いていた経済体に突然に血流が戻ったとき、そのメカニズムについて何も知らなかった人々さえも感動せざるを得なかった。1939年9月にその稲妻が光った。その前日まで、血の気の無い経済体が先進国を麻痺させていた。これらの同じ国々が参戦した宣戦布告の直後、これらの国々が6年間戦争するのに必要な全ての血、全てのお金、全ての金融信用が突然戻って来た。それは、人的および物質的資源の全てを活動させた。


政府を超越して

通貨権力は国家のお金と信用を発行する権力である。この金融信用の流通時間の長さを決定する権力、返済できないならば差し押さえを受ける人々の労働の成果である商品の差し押さえという苦痛付きで、予め決められた期間でのお金の返済を要求する権利、貸し出しと返済の条件を決めて、国民への課税権を担保として要求することによって政府を支配する権力である。

今や、この金融信用、このお金は、その支配者ではなく国の全住民の生産能力を使用する許可になっている。お金と信用の支配者は、小麦の一茎さえ生み出さず、一足の靴さえ生産せず、たった一つのレンガさえ製造せず、坑道を探らず、1インチ四方の道路さえ舗装しない。これらの事業を遂行するのは国の全住民である。それ故、それがそれ自身の本当の信用である。しかし、それを使うことができるためには、人は金融信用というお金の支配者の許可が必要である。その金融信用は銀行の帳簿上の数字の記録でしか過ぎないのに、国家の本当の信用の価値を表している。

銀行家のペンは、個人、企業、政府に与えることを承諾するか拒否し、専門家の技量や国家の天然資源を動員するか否かももそのペンが決定する。それは許可するか拒絶する。それはそれが与えるところの金融上の許可の条件を決める。それはそれが許可を与えた個人または政府に借金を背負い込ませる。銀行家のペンは、超権力の手の中で王位の権力、通貨権力を持っている。

我々は10年間の経済的麻痺に耐えた。政府はそれに終止符を打つ力がないと考えていた。宣戦布告がされると、生産すること、徴兵すること、破壊すること、および殺すことのための金融上の許可が、突然一夜にして現れた。

オタワにおいて10種類の議会集会がいずれも数ヶ月続けられたが、売れ残っている生産品ともっと生産できる潜在能力を前にして、全家族が飢えて苦しむという反自然的な危機への解決策を見付けることができなかった。

しかし、いわゆる緊急の6日間集会(1939年の9月7日〜13日)によって、何百万ドルもの出費になる戦争に全力で突入することがあっさりと決められた。迅速にして満場一致の決定がなされたのである。マッケンジー・キング内閣の大臣J.H.ハリスは、奮い起こすことができた最大の雄弁さで、次のように演説した。“カナダ人はこの議会に目を釘付けにしている。したがって、この議会内において行動と考え方が一致するように取り計らうのが、我々の義務ではないだろうか? その理由は明白である。 キリスト教信仰、民主主義、および個人の自由が危機に瀕しているのだ。”

キリスト教信仰と個人の自由は、彼が属している政府以上に彼には、危機に瀕しているとは思えなかった。その数年間、カナダの家族はパンを手に入れることができなくて崩壊していた。若者達は、全面的な奴隷状態の見返りとして粗末な配給食糧を手に入れるために、強制収容所(ワークキャンプとも称されている)に避難していた。男達は彼ら自身を森林地に埋葬していた。仕事のない強壮な男達が町から町へ放浪していた。他の人々は、モントリオール市のゴミ捨て場から回収してきた金属シートやタール紙で作った小屋に避難することを求めていた。

そして、ドイツを分割し、その片方および他の十数カ国のキリスト教国家を残忍な共産主義者スターリンの支配下に置くことになった戦争で、キリスト教信仰と個人の自由は何を得たと言うのか?

しかし、ハリスと他の人々は知っていた。戦争を始めることが、超権力すなわち通貨権力によって支配されている血液を経済体に戻すための条件であるということを。


極悪非道の奇怪さ

通貨権力は最悪の暴虐行為であり、全ての家庭、全ての機関、全ての行政機関、および全ての政府に暴虐を働く。

そして、この超権力はどこからその権威を得ているのだろうか? 他の三つの政府権力は憲法で規定されている。しかし、どんな憲法が、政府までも親指の下に押さえ付けるような権利を超権力に与えることが出来たのであろうか?

全ての先進国において同じ状況が存在するという事実は、その奇怪さを正当化しない。それは単に、お金と信用の超権力が全ての文明化した世界をその触手の中に握っているということを示しているだけである。これは極悪非道でさえある。

そう、それは極悪非道の権力である。しかし、お金と信用の制度の操作に目を向けないで、他の全てのところで我々の経済と社会の災難の原因を探している限りにおいては、その権力は神聖なオーラを帯びている。どこか他を探すことは許されるが、通貨制度に目を向けることは許されず、最高権力であるはずの政府でさえそれは許されない。

一人の天才C.H.ダグラスが提案した社会信用の光によって、その神聖なオーラが壊され、神聖な特徴を少しも持っていない暴虐の仮面が剥がされた。そして社会信用の使徒がこの光を拡散した。しかし、支配制度と奉仕体の間を区別・理解できるはずの多くの人物が、自尊心あるいは私的な利益のために耳や目を閉じてきたことだろうか!


合法的な通貨権力

社会信用の実行 ―それについて、ここでは説明しない。“ミカエル”誌がこれまで何回も説明して来たし、間違いなく今後も再び何度も説明するであろう。― は、この超権力、すなわち人間性を苦難に貶める原因を殺すであろう。

その代わりに必要とされるものは、憲法あるいは法律によって確立された通貨権力である。上に述べた他の三つの奉仕と同様に、共同体に奉仕する通貨組織を作るためにである。

必要とされるものは、司法制度と同様の組織によって行使される通貨権力である。裁判官の代わりに有能な会計士から成る組織である。これらの会計士は、裁判官と同様に、その筋とは独立して彼らの義務を果たすであろう。彼らは、彼らに依存しない統計データに基づき、彼らの操作―足し算、引き算、あるいは三数法(訳注:比例式において外項の積は内項の積に等しいという法則)―をするであろう。その統計データは、自由な消費者によって自由に表明される注文に応えての自由な生産者の活動から生じる国の生産と消費についての計算書に依存するものである。

これは、お金と信用が経済の実態を忠実に反映した数値表現に過ぎないことを意味している。

このように作られた組織にその目的を与えるのは、そのような通貨権力の法則である。その組織は全住民に必要な金融信用を供給するであろう。その結果、全住民は国の生産能力の範囲内ならば必要とする商品を注文できる。そして、何が必要かを最も良く知っているのはその当人と家族自身なので、少なくとも見苦しくない生活水準を保つための基本的な生活必需品を各個人、各家族に供給するのがその通貨組織の義務である。これが、就業していようと失業していようとも各国民に分配される国民配当と社会信用が呼ぶところのものである。

そして、同じ通貨組織が、消費者によってそのように表明された注文に応じて国の生産能力を使うことができるように、生産者に必要とされる金融信用を供給する。その通貨組織は、個人の必要性だけではなく公共の必要性のためにも、そうする。

もし、不正使用されている超権力のペンが、国の本当の信用に基づく金融信用を、その暴君の意志に応じて創造したり拒絶したり出来るならば、合法的な通貨権力のペンが全住民、社会の全ての構成員への奉仕のために金融信用を発行することにおいて同じように効力を発揮するであろう。その目的は、法律で規定されるであろう。

最早、純粋に金融上の障害はなくなるであろう。我が国で生産できるものを手に入れるために、外国の銀行家に借金するというような実に馬鹿げた物語に終止符が打たれるであろう。生産がより容易になり、生産高が増加して価格が騰がるというような矛盾は、経済の金融的側面を、現実を正確に反映したものにするように法律で義務化されている通貨組織体によって消え去る。人間の労働の代わりに機械が生産品を供給しているのに新しい仕事を創生しようとする試みのような馬鹿馬鹿しい政策は、怪物に支配されていた過去の歴史として追放されるであろう。仕事を作り出すという只それだけの目的で、人々の通常の必要性に無益なものまで生産するという天文学的な無駄は、我々の後に続く世代への責任の欠如として禁止されるであろう。

そして、同様の何千もの他の事態が、奉仕する通貨権力の樹立に引き続いて起こるであろう。そして、進歩の第一の効果が経済的な仕事から人間を解放することであるべきなのに、収入を雇用にだけ結び付けたがるような耐え難い慣習は捨て去られるであろう。人間が解放されれば、より非物質的な活動に自由に専念することが可能になり、個性と自由の開花に向かうであろう。




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