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第23章 通貨権力は銀行の中に存在する

(ヴェル・ドゥマン誌の1970年1月号に最初に出版されたルイ・エバンの論文)


   立法権力が国会に席を占めているが、これは法律の定めに従い、投票で決められたものである。

行政権は大臣の事務所に存在するが、公僕として判断を下すのは首相と彼の内閣である。

司法権は裁判所内に存在するが、それは裁判官が彼らの義務を実行する場所である。

そして、通貨権力という超権力はどこに存在するのか? 通貨権力は銀行内に存在する。金融信用が現実に創造され、消滅させられるのは銀行内においてである。

新しい金融信用が創造されるのは、銀行が建設業者か小売り業者か、あるいは政府に貸付けを認めたときである。銀行家は、借り手がその金額をまるで預けたかのように、認めた貸付の金額を借り手の口座に記録する。しかし、借り手は持っていないお金を手に入れるために銀行に来たのだから、現実には一銭のお金も持ち込んだ訳でも、預金した訳でもない。

借り手は、銀行に入ったときは持っておらず、銀行から出て来た今は持っている預金高に基づいて、小切手を発行することができるであろう。

銀行の他の顧客の預金高が減った訳ではない。したがって、これは既に存在していた預金高に付け加えられた新しい預金である。それ故、銀行の全口座の全信用高は、この新しい預金によって増加したことになる。 

よって、現代のお金であるところの金融信用が増加し、その新しい信用に基づいて借り手が発行する小切手として世の中に流通する。

逆に、借り手が負債(以前に借りていた信用)を返済するために銀行に来たとき、流通していた信用の額は減少する。このように、経済生活における血液の全量は同じ額だけ減少する。

ペンの一振りで為される単純な簿記操作が金融信用を創造した。負債が返済されるとき、別の単純な簿記操作がこの信用を消滅・破壊する。

与えられた期間において、貸し出しの総額が返済のそれを超えているならば、消滅されるよりも流通に回るものの方が多いことは簡単に分かる。逆に、返済の総額が貸し出しのそれを超えるならば、その期間において流通する信用が減少する。

もし、その減少期間が続くならば、全経済体はそれによって影響される。それは、危機と呼ばれるが、信用の制限によって引き起こされる危機である。

借り手は利子のために貸された以上に返済しなければならないので、世の中に流通させた以上のお金を世の中から取らねばならない。このため、借り手は他の借り手によって世の中に出回った余分のお金を取らなければならない。全ての新しい信用は、貸し出された元本以上のお金を返済しなければならないという条件で、銀行から出て行くので、最初の借り手に続いて他の人々もまた借りねばならないのだ。後から借りた人は返済がより困難になりさえする。というのは、最初の借り手が利子として余分に返済したお金の額だけ既に減少している状況の下で、世の中に流通している信用の中で更に余分のお金を見つけなければならないからである。.

この連鎖は同じように次の借り手にも及び、必然的に誰かが負債を返済できなくなる。そのとき、銀行が追加融資を渋ると、全経済生活は減速する。しかし、銀行はこの状況において被害を被っている側の住民に責任を転嫁する。

経済生活再開のために必要な信用の流れを得るためには、貸し出しの連鎖が再び起こらねばならない。そして、より莫大な負債の連鎖が増殖される。


超権力の道具

現行の銀行制度は、国家とその政府を支配する最高の立場を維持するために、通貨超権力によって使われている道具である。銀行は、生活必需品を供給するために必要な従業員が益々少なくなっている生産の場において、雇用される側への購買力の分配を束縛する馬鹿馬鹿しい政治・金融規則によって、全面的に支援されている。

このことで、あなたの地方の銀行家がその独裁者の一部であると結論してはならない。彼は、彼の銀行の帳簿に融資を記録したときに信用を創造したことや、返済を帳簿に記録したときにその信用を破壊し帳消しにしたのだということさえ、きっと気付いていない下位の者に過ぎない。 

愚かな学者が、流通する信用量は銀行の行為に依存するということを否定するのを、従来通り聞くかも知れない。明白なことを受け入れようとしない愚かな学者は、もし本当に無知であるならば無知であることを通して、彼らを縛り付けている既得権益のために、あるいは昇進を約束してくれる権力との共謀によって、超権力をはかり知れないほど支援している。

一方において、上級銀行家は、現代のお金の主力である金融信用が銀行の帳簿内で創造され帳消しにされるということを非常に良く知っている。

著名な英国の銀行家レジナルド・マッケナ伯爵は、英国の大蔵大臣を一期務め、イングランドの五大銀行の一つであるミッドランド銀行の頭取であったが、その銀行の1929年1月25日開催の年次株式総会の演説において、(彼の著書、戦後の銀行業に記録されているように)次のように言った。

“通常の市民は、銀行がお金を創造消滅させることができ、実際そうしているということを告げられるのを好まないであろうと思う。存在する金融量は、預金および銀行買付けを増加するか減少するかという銀行の行為だけによって変化している。我々はこれがどのように遂行されるかを知っている。全ての貸付、当座貸越、あるいは銀行買付けは預金を創造し、貸付、当座貸越の返済、あるいは銀行の売りは預金を消滅させる。 ”

マッケナは、大蔵大臣の経歴もあったので、二つの権力―銀行の権力と国の主権政府の権力―のうち大きい方がどこにあるのかを非常に良く知っていた。そして、彼は次のことを率直に述べたが、それは彼のレベルの銀行家にとって極めて普通ではない行為であった。

“彼ら(銀行)は国家の信用を支配し、政府の政策を指図し、国民の運命を手の中に握っている。”

これは、教皇ピウス11世が1931年の回勅状クアドラジェジモ・アンノに下記のように書いたことと、完璧に一致している。

“お金を保持・統制することによって、信用を支配し割当を決定できる人々は、いわば全経済体へ生き血を供給し、いわば生産のまさにその精髄を手に握っていて、彼らに逆らったならば誰も呼吸すらできない。”




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