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第4章 商品

  商品は存在するか? 消費者の基本的必要性の全てを満足するだけの十分な量が存在するか?

人類は食料不足の時代を経験した。飢饉が大きな土地に蔓延した。冨を惑星の他の領域からその土地まで輸送する適切な手段を欠いていた。

今日では、もうそのようなことはない。全ての物が有り余っている。問題となっているのは、もはや欠乏ではなく、豊富なことである。

その事実を証明するために詳細を述べることは必ずしも必要ではない。市場を安定化するために”、在庫品を自発的に大規模に廃棄する事例を引用する必要性さえない。

二度の世界大戦の例がその要点を十分に立証している。

1914年から1918年までと、1939年から1945年までの間において、何百万人もの働き盛りの人々が有用な物の生産ラインから外され、破壊作業に従事した。工業、有力な機器設備も同じ運命に晒された。そして、それにも関わらず、人類は生活必需品が手に入った。

飢饉は今や人為的な不足以外の何ものでもなく、それは一部の人間達によって企てられたものである。有り余るものが全ての国に溢れるのを妨害しているのは、地雷敷設原、潜水艦、魚雷、強制封鎖である。

戦後の問題について考えるとき、翌日の小麦、あるいは道具と労働力をどこで見つけようかと思うことが決してない。それは概して異なる問題であり、政治家と社会学者を当惑させるものである。戦争の終わりと共に不用となる兵器、機械、製作中の発明品を彼らはどうするのであろうか?

両方の戦争の間において、全ての家庭が必ずしも裕福でなかったならば、それは商品の不足や、生産能力の不足に起因するものではない。それは単に、消費者が生産される商品を注文するための手段を持っていなかったためである。

現に活動している生産というものは、国の男女の本当の必要性と甚だしく一致していない。利潤を得るために計算された生産と言うべきであり、通常の男女に不要な商品が生産され、ある場合には有害でさえある商品が生産される。

多数の寄生的職業、機関、広告キャンペーン―その存在は、消費者が欲しい物を効果的に表現する能力がないことに起因している―は、消費者が欲しい物を表現できる手助けをするために有効に雇用されるべきなのだが。

我が国を去ることなしに、全ての消費者の正当な必要性を満足することに対する物質的および技術的な障害が存在しないことを我々は本当に断言できる。

2種類の商品

価格と購買力に関する幾つかの問題を理解するために、2種類の商品を区別することが役に立つ。

一方において、生活を支えるか飾るための商品がある。これらの商品は直接消費者に提供され、それ故、消費財と呼ばれている。.

市場に出回っている食べ物、衣料品、燃料、食料品や、医者のサービスが消費財である。

他方において、公衆への売り物ではなく、消費財生産のために生産者によって保持される商品がある。このように、工場は消費財ではない。それでも、消費財を生産するのに役立つので、商品ではある。本を作るための機械、靴や衣類を製造するための機械、商品を運ぶための機械は、工場と同じカテゴリーに分類される。

これらの工場、機械、輸送手段は我々が買う商品ではないが、他の商品を生産するために役立つものであり、資本財 と呼ばれる。それらは、実際に生産者の現実的資本である。農場も資本財であり、農夫の資本である。

資本財は生産に役立つ。我々は、混乱を最小限にするために、“資本財”という用語を使い、“生産財”とは呼ばない。なぜならば、資本財は生産に直接には役立たない物を含むからである。たとえば、道路、公共の建物、軍備などを含むからである。

この区別を使うのが何なのかを示すためだけではなく、消費財と資本財の区別を明確化するため、少なくとも現行システムにおいて、消費者の生活水準に関係してこれらの2種類の商品がどのように振舞うか、その違いを例で示そう。

市場にある商品を買うためにはお金を払わなければならない。お金はほとんどの場合、労賃や給料として得られる。資本財であろうと消費財であろうと、それらを生産するために働く被雇用者に、労賃および給料が分配される。

ある男が売ることが出来る商品、たとえば靴を作っている。彼は自分の労賃で靴を買うことができるけれども、全ての靴を買うことは出来ない。別の男は兵器工場で働いている。彼は自分の労賃で砲弾や機関銃を買うことはなく、売られている商品、たとえば靴を買う。二人の労賃で、最初に述べた靴職人の生産品をより多く買うことができる。

これは次のことを意味している。消費財の生産に対して得られた労賃に、資本財の生産に対して得られた労賃が加わることで、消費財―売られえる商品―がより良く売れる。

それは、新しい建築物をもたらす産業の発展、あるいは軍需品の製造をもたらす戦争が、人々に商品を買うことを許容することによって、ある種の繁栄を創造する理由である。そうでなければ、お金が欠乏して、商品を買うことが出来ないであろう。そういう訳で、建築ビジネスが順調ならば全ては順調であると、人は言うのである。そしてそのために、皮肉に思われ、決して真実を表していないが、良い戦争は(雇用を通して)繁栄をもたらすという考えが生まれる。

そういう理由で、戦争は建設よりも遥かにより効果的である。たとえば、もし、工場のような普通の産業の発達について話すならば、商品が生産され次第、工場の出費を賄うために市場に放出される。そのとき、購買力の欠如の問題がより重大になる。戦争および兵器工場は、市場に製品を出す訳ではない。破壊したり、あるいは労働力や機械を動員することで有用な物の生産を抑制する一方で、破壊以外に何もしない人々に労賃・給料を分配し続ける。



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