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第5章 専門化− 機械

  生産が進歩するにつれて、生産者は専門化する。この専門化はそれ自体では全生産高増大の要因となるが、各専門家の努力の必要性が減少する。

長い間、土地を耕す人々、道具を製造する人々、輸送に携わる人々、様々な種類のサービスに従事する人々がいた。しかし、専門化が進んでいて、農業分野でさえそうで、特に産業分野では進んでいる。ある作業者達は、最終製品のうちの一部を作るだけで、常に同じ作業である。

生産高に関する限り、この分業は確かに有効であるが、消費者の必要性を満足させるためには、商売が遥かに重要になる。したがって、分業の発達、専門化の進行と並行して、商売のメカニズムを柔軟に発展させねばならない。

分業は機械の発明を助長してきた。事実、分業が進むに連れて、全生産過程のほんの僅かな部分だけに寄与する作業者は一様な繰り返し作業、機械的作業をするだけとなった。それは、労働力を機械に置き換えるても同等な作業であった。

機械化は生産高の増大に寄与する一方、労働力の削減をもたらす。分業と機械化は、生産分野における経済的生活の決定原理、最小の努力による最大の効果と完璧に調和する。しかし、この分業と機械化のために、我々が未だに解決できないでいる問題が生じている。

もし、分業が徒弟期間を短縮し、ほとんど不要とするならば、労働は否定的に変質し、本当の労苦となった。考えたり、工夫したり、心を込めたりする満足を得ること無しに、毎時間、毎日、同じ動作・姿勢を繰り返さねばならないことは、退屈で精神を荒廃させるであろう。これが今や多くお職場での事例である。人間の創造的な能力は毎日の労働において益々疎外されている。鋼鉄製の機械の前で動くロボットとほとんど同じになっている。

一つの治療薬は、必要不可欠な労働を最小限にして業務時間を短縮し、余暇を与えることである。そうすれば、趣味の領域で能力を発揮し、考える人間に戻ることができるであろう。別の治療薬は、厳密に言えば既に最早人間のするべき仕事ではない繰り返し作業を人間に代わって行う機械の導入を早めることである。

しかし、現行の経済の規則では、生産に個人的に関与しなければ、生産に対する支払い請求ができないので、労働者が仕事をしなければ何が起こるか創造できる。余暇は失業と称され、そのように仕事から解放された人間は落ちぶれた者になる。

ある人々は、新しい需要が新しい雇用を創造する結果、失業者を取り込むことになるから、機械が人手に完全に置き換わることは未来永劫ないと言う。ただし、その新しい仕事もいずれは機械によって取り代わられるので、また更に新しい需要が必要になると言う。それでも、これらの崩壊、労働者の仕事の継続的な没収は、労働者の生活を益々混乱させ、全ての安心を追い払い、将来計画を立てることを許さず、国家の介入の増大を強いる。

それ故、ほとんど全ての新しい機械の導入に反対する人々に賛同しなければならないのか? 全く、その必要はない。 しかし、商品分配システムは機械化に適合させられねばならない。機械化によって生産性がアップするので、たとえ生産過程での人の労働時間が減ったとしても、機械化生産によって国内の生産高は増大するはずである。これは衝突と動乱無しでなされるべきである。生産における個人の寄与から生産に対する請求を−必要とされる程度に−切り離すならば、それは可能である。

あとで詳しく述べるが、これは社会信用が為し得ることである。購買力の不足のために、賃金労働者が入手可能な商品の全てを買うことが出来ないという状況を打破することが出来るように、各自・全員に配当を分配するシステムを導入することで、為し得ることである。

生産が益々専門化・機械化されるにつれて、各生産者、人あるいは機械は、消費し切れないほど大量の商品を流れ作業の中で生産する。今や、生産者が個人的な必要性を越えて供給する全ては、共同体の残りの人々の使用のためである。このように、家族の必要性を越える農夫の生産は、必然的に共同体の残りの人々の使用のためである。鍛冶屋の生産物のうち彼の家族が使用するもの以外は、共同体の他の人々の使用のためだけである。

農夫や鍛冶屋は、彼の家族が使わないものを隣人や国家に与えなければならないということではない。彼の家族が消費しないものは、共同体の残りの人々の消費のためだけに生産され、何らかの方法で共同体の残りの人々に行き渡らなければならない。

機械はと言えば、生産するものを何も消費しない。だから、機械の莫大な生産力は余剰を増大し、何らかの方法で、その生産目的を達成するために消費者に到達しなければならない。

どの労働者も傷付かないような適切なルールを示すことができる。しかし、何らかの方法で、生産者が特定の必要性を越えて生産した、この豊富な生産物を消費者が利用することのできることが必要である。そして、吸収しきれないほどの大量の生産物が作られるほど、その分配の流れは大きくなければならず、それを利用する権利はより寛大にしなければならない。




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