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第6章 豊かさの中での貧困

人間が人間への奉仕のためにエネルギーの変換手段や、自然力の利用手段を発見したのだから、世界に実現されている商品の豊富さは、全ての人々の経済的保証に反映されるべきである。その経済的保証とは、個々人と国家間において良き喜ばしき平和な社会関係において、全ての家庭における最小限で慎ましい物質的な快適さを意味する。

戦争時の破壊によって貧困が起きたときを除くならば、有り余るほどの商品を我々は目の前にしている。それにも関わらず、不幸なことに、世界中の全ての文明化された国家において、経済的な保証が全く見られない。

昇降機や穀物保管庫は溢れるほどに満杯であり、店のウィンドウ、新聞、ラジオ、TVは至る所で広範囲な生産品の存在を知らせている。しかし一方、家庭内の人々は食料無しで済ませねばならず、ボロ服や通常以上に古くなった家具を使わなければならない。

“一体全体、何%の住民が、合理的な快適さの中で暮らすための入手可能で十分に存在する富を使用できないで、ただ単に存在しているのであろうか? 少なくとも、住民の3/4はそんな酷い生活を送っている。” (チャールズ・E・コーフリン尊師、お金、p. 26)

しかし、引用はほとんど不要である。ほとんどの読者は自分の個人的状況や、隣人のそれを検討さえすれば十分である。今日、誰が明日の妥当な快適さを保証されているであろうか?

食料、衣類、住居などの必需品を明日もカナダは豊富に供給し続けることができるということを誰も疑わない。しかし、明日、明後日、来年において、自分と自分の家族のためにその必需品の十分な分け前を得られると、どのぐらいの人々が確信しているだろうか?

失業したり一時解雇された労働者の人数が、商品の過剰および消費の飽和点到達を論理的に示しているはずだ。この人数は、先ず第一に、苦難、貧困、および絶望を意味している。

人間の必要性を前にして、商品は存在する。なのに、これらの商品がこれらの存在する必要性を満たさないのは何故なのだ? 経済がその目的を達成するのを妨げているのは何なのだ?

多種類の必需品を持っていない消費者は、彼らのための作られたはずの商品を何故使えないのか?

多量の生産物および使われていない生産能力を前にしての広範囲の貧困の存在は、分配システムに対する恐ろしい告発である。

供給はそれほど多量では決してなかった。この供給を前にして、本当に需要はないのだろうか?

需要は存在する。しかし、供給されたものを得るための請求権、それを持つための権利が不足している。この請求権とは、お金のことである。

本当の需要、有効な需要

本当の需要と有効な需要を区別すべきである。

本当の需要は本当の必要性の結果として生じる。空腹な人々がいる限り、食料に対する本当の需要が存在する。適切な住みかの無い人々がいる限り、住居に対する本当の需要がある。病気の人々がいる限り、薬および医療に対する本当の需要がある。 

しかし、生産物に対する請求権、すなわちお金が無いと、この本当の需要は有効にならない。

お金が必要性に繋がれたときにのみ、有効な需要は存在する。 

現行の経済システムの下では、需要を有効にする請求権の無い多くの本当の需要に人は通常気付く。費用の回収を強いられる生産者達はまだお金が残されている場所を探し、需要を創造することができるならば何でもする。それは圧力の下で売ることであり、消費者の必要性に最早応えておらず、むしろ生産者の必要性に起因したものとなっている。

これは経済の順序の逆転である。消費者は搾取されるべき餌食になり、最早奉仕されるべき主人となっていない。

人間味のある解決法は、必要性の存在するところにお金を置くことであろう。そうすることで、本当の需要が有効となり、需要が存在しないところに人工的な必要性を創造する必要はなくなる。

本当の需要と支払い能力の折り合いをつけるために、権力への意志は自由への意志に打ち負かされねばならなく、この折り合いは分配システムの修正を伴うべきだと、ダグラス少佐は指摘している。(経済的民主化、p. 90を参照のこと)

彼は経済の目的についての深遠なる考えを持って、次のように付言している。

“現在において、いやしくも世界に何らかの正気が残されているならば、以下のことが明らかである。本当の需要が生産の本来の目的であり、それは底辺から上方に合致されるべき、すなわち、第一に全般的な必要性に合致するだけの十分な必需品の生産が有らねばならず、第二に経済システムは実質的に自動的で普遍的な分配を確実にするように工夫されなければならない。これが達成されたのち、有用性の範囲がより限定される品物を製造することが望ましいであろう。全ての金融上の問題は全く的が外れている。もし、金融がこの単純な提案に応えないならば、金融は崩壊し、置き換えられるであろう。”

生産は消費者の必要性を満足するために存在し、また一般に受け入れられている規則に従って、消費者は生産品を手に入れるためにお金を出す必要があるのだから、消費者の手の中のお金は彼らの必要性と合致していなければならず、その国の生産能力と結合していなければならない。もし、そうでないならば、お金は消費者、したがって人間に敵対する。その場合、変化が不可欠である。 

ある人々がお金の廃止を提案しているのは、現行の通貨システムが消費者の必要性の満足を妨げているためである。彼らの考え方は、国家が全生産品を所有し、生産品はその創造者によって直接消費されず、国家が共同体の全構成員に分配するというものである。

これは共産主義者の解決法であり、我が国では誰もそれを望んでいない。 その上、緊急の必要性を前にして、商品および生産品が不動化されるのを認めることは出来ない。

我々は、必要性を表明するのが最早消費者でなくなるような独裁的な解決については考えてさえいない。超人が消費者の持つべき全てを指示し、作るべき生産品を指図する。そのようなシステムにおいては、パンを犠牲にして銃器が生産されるかも知れない。

別の解決策がある。消費者の、全ての消費者の手の中にお金を置き、彼らに生産品を選択する全ての権利を与えるという解決策である。そのとき、消費者は本当に生産に向かい合う。それは、社会信用解決策である。 社会学者はこれについて次のように書いている。

“そして、もし、あなたが社会主義や共産主義を望まないならば、それらと対照的な社会信用を選択しなさい。社会信用は、社会主義や共産主義と戦うための有力な武器となるであろう。” (O.P.ジョージェス-ヘンリー・レヴェスキュ尊師、社会信用とカトリック教義の中の一文)

しかし、人は先ず第一に、このお金の勉強をしなければならない。通貨システムの欠点がどこに由来しているのか、そのシステムを働かせてその役割を達成するためにどうのようにしたら良いのかを理解するためにである。   


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