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第7章 シンボルと物

社会信用スクールは、冨とお金の区別を誰よりも良く知っている。もし、その学びにおいて、お金に対して非常に大きな重要性を与えるならば、それは今日においてお金が冨へのアクセスのために必要であるからだ。

大量破壊をもたらす戦争の無い時代においては、文明化された世界は富に溢れている。そのとき、店主達は売れた在庫を置き換えるために必要な物を見つけることが出来ないと決して不満を述べることはない。商品保管庫ははち切れるぐらいに満杯である。強壮な男達の人手は、有り余る状態で、彼らの一部しか雇用され得ない。

文明国は非常に大量に生産するので、それらを売るために海外市場を求める。必ず彼らは輸出を好み、生産品が過剰とならないように輸入のための道を妨げる。

それはカナダが置かれた状況である。カナダは富で溢れかえっている国で、もっと生産できる潜在能力がある。

しかし、カナダの国の男女に彼らの国は金持ちだ、非常に多くの生産品を輸出している、世界で三番目か四番目の輸出国だと言う事の効能は何であろうか? 国から出て行く物はカナダ人の家庭には届かない。小売店に留まっている物はカナダ人の食卓の上に現れない。

母親は、ウィンドーショッピングをしたり、新聞での製品広告を読んだり、ラジオで製品についての見事な描写を聴いたり、全ての種類の数え切れない販売代理人の売り込み口上を聴いたりするけれども、子供達に食べ物や衣類を与えられない。

欠けているのはそれらの製品に対する請求権である。人はそれらを盗むことができない。それらを手に入れるためにはお金を払わなければならない。人はお金を持っているべきなのだ。

カナダには良い物が沢山ある。しかし、これらの物に対する請求権がカナダ人の手にない、すなわち人々がお金を持っていない現状において、全てのこの富の存在意義は何だろうか?

これはお金自体が富みでないことを意味している。お金は、現世の必要性を満足することができる地上の物品ではない。

お金を食べて生きられない。装うために、ドル札を縫って、ドレスやストッキングを作れない。お金の上に横たわって休むことはできない。 病巣部にお金を貼り付けても病気は治らない。お金を冠のように頭に被っても、教養は身に付かない。

そうではない、お金は本当の富ではない。本当の富は人間の必要性を満足させる有益な物である。パン、肉、魚、木綿、木材、石炭、良い道路の存在を前提とした車、医師の訪問治療、教師の体系的知識―これが本当の富である。

しかし、我々の現代社会において、各個人が必要とする全ての物を自分で作れない。人々はお互いから買わねばならない。 お金は、売られた物に対するリターンとして手に入れるシンボル、標しである。他の人から何かを手に入れるために提示しなければならないシンボルである。

シンボルは物を反映すべきである

富は物であり、お金はその物のシンボルである。論理的に、シンボルは物を反映すべきである。

もし、国に売り物として多くの物が存在するならば、それらが売却されるための多くのお金が存在しなければならない。人々と物が多ければ多いほど、より多くのお金が循環しなければならない。さもなくば、全てがストップしてしまう。

一般に欠けているのは、正にこのバランスである。応用科学、新しい発見、および機械の完璧さの御蔭で、我々は欲しいと思うだけ多量の商品を店頭に揃えている。 失業を強いられている人々さえいるが、それは潜在的な商品の供給力の存在を表している。多数の無益で有害でさえある職業もある。唯一の目的が破壊であるというような非常に多くの活動もある。

お金は、商品の移動を維持する目的、商品を売る目的で創造された。 それならば何故、生産ラインからの商品の流れと同じ速度でで、消費者の手の中に流れて行かないのだろうか?

何故か? 何故ならば、商品の源と、お金の源が異なるからである。最初の源―生産―は良好に活動しているけれども、第二の源―お金―は適切に活動していない。

商品の源は、神がこの惑星に恵むところの天然資源や、応用科学、および生産者の労働力である。これらの全てが豊富な生産品を供給している。

お金の源は別のところである。お金の源は、神でも、科学でも、農夫の畑でも、漁師の網でも、木こりの斧による強打でも、労働者の技量でもない。

そして、お金の源は、生産品の源と並行して機能しない。というのは、第二次世界大戦前には、商品が店頭に溢れていたが、お金が不足していて、戦争期間中には店頭に生産品が不足しているのにお金が供給されていた。

生産品は生産を通して生まれ、消費を通して消える。お金は、ある時には豊富で、また別の時には不足しているのだから、お金もやって来て消えている。お金は生まれ死んでいる。

 


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