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第9章 通貨の欠陥

次のように信じがたい状況にある。流通する全てのお金の源は銀行である。貨幣や紙幣さえも、銀行が手放さない限り、流通しない。

しかし、銀行は利子付きで貸し出すことによってだけお金を流通させる。流通する全てのお金の源は銀行であり、そのお金は利子で膨らませてから銀行に返済されねばならないことを、それは意味している。

銀行は依然お金の所有者のままである。我々は小作人で借り手に過ぎない。ある人々が長期間、永久的にさえ利子を払い続けられたならば、他の人々は債務を果たすことが出来なくなる。

多様な個人と企業の破産、度重なる抵当、公共の負債の連続的な増加は、そのようなシステムの自然の結果である。

お金が誕生するとき、存在するようになるときに利子を課すことは、非合法で道理に合わなず、正当な算術と相容れない。したがって、通貨の欠陥は、社会的欠陥であるのと同じぐらい、技術的な欠陥である。

我らが国が人口と同様に生産高においても成長するとき、より多くのお金が不可欠である。しかし、借金契約をすることなしに新しいお金を手に入れることはできず、その借金は集合的には返済不可能である。

だから、我々には、成長を諦めるか借金地獄に陥るか、あるいは大量失業に突き進むか返済不可の借金を背負い込むかと云う択一しか残されない。そして、全ての国において論争されていることは、正にこの板ばさみに関するものである。

アリストテレス、およびその後、聖トーマス・アキナスは、お金は子孫を生み出さない、より多くのお金を増殖しないと書いている。しかし、銀行家はお金がより多くのお金を増殖すると仮定して、お金を創造している。政府や一般大衆はお金を創造しないので、銀行家が請求する子孫(すなわち利子)を誰も創造しない。たとえ合法化されていようとも、この問題の形態は悪徳で侮辱的である。


衰弱と衰退

政府や個人に借金をさせることによって、我が国のお金を創造するというこの方法によって、政府と個人に対して同じように、本当の独裁が確立されている。

最高権力であるべき政府が、少数の不当利得者からなる集団への借金契約の調印者になっている。国の全国民を代表する大臣が返済不可能な借金契約に署名している。利益を渇望する少数の株主を代表する銀行家が、我が国のお金を作っている。

これは、教皇ピウス11世が話している権力の縮退の驚くべき様相である。政府はその崇高な役目を引き渡し、民間の同業者の召使になってしまっている。

政府はカナダを導く代わりに単なる徴税者になっていて、政府支出の最大の項目は債務支払い、公的負債に対する利子の支払いに正になっている。

更にまた、立法化は主に国民への課税に関するものとなっていて、至る所で自由への制限が為されている。

お金の創造者は返済されることを保証するための法律がある。しかし、差し迫った貧困で人間が死ぬことを防止するための法律はない。

逼迫した金銭状態のため、個人の中に狼の心が成長する。潤沢さを前にして、その潤沢なものの取り分を得る権利としてのシンボルである少なすぎるお金を獲得しようと試みる。その結果、異常に激しい競争、保護、告発、“ボス”の圧制、家庭内の争いなどが起こる。

一握りの人々が他の人々を犠牲にし、大多数の人々が不満でうめき苦しみ、多数の人々が最も侮辱的な貧困の中に沈み込む。

病人は看護されず、子供達は貧しく不十分に扶養され、才能は開発されず、若者は仕事を見つけられず家や家庭を持てず、農家は農場を失い、企業家は破産し、家族は財政難でもがく。これは全てお金の欠乏に起因するもので、他の原因が関係しない問題である。

銀行家のペンは、一般大衆に貧窮をもたらし、政府を奴隷状態にする。

  



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