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第五章

1917年、アメリカ赤十字社のロシア派遣団

気の毒なビリングス(Billings)氏は、ロシア解放のための学術的使節団を管理していると信じていた。彼は本当のところは仮面舞踏者以外の何者でもなかった。その派遣団の赤十字社としての顔色は見せかけに過ぎなかった。

ウィリアム・ボイス・トンプソンの助手コーネリアス・ケレハー(Cornelius Kelleher)(ジョージ・F・ケナン作「ロシアは戦争を残し去る」において)

1917年ロシアでのウォール街の計画事業は、赤十字社の派遣団をその作戦上の手段として使った。Guaranty Trust社とNational City Bankは革命時にロシアに代理人を置いていた。National City Bankのロシア支店のフレデリック・M・コース(Frederick M. Corse)はアメリカ赤十字社の派遣団に執着していたが、それについては後でたっぷりと述べよう。Guaranty Trust社はヘンリー・クロスビー・エメリィ(Henry Crosby Emery)によって代表されていた。エメリィは1918年にドイツ人達によって一時的に拘束されたが、その後移動して中国のGuaranty Trust社の代表者となった。


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1915年頃までは、ワシントンD.C.のアメリカ赤十字国家本部における最も影響力のある人物はメイベル・ボードマン(Mabel Boardman)女史であった。活動的で精力的な主催者であったボードマン女史は、その基金がJ.P.モルガン、E.H.ハリマン(Harriman)女史、クリーブランド・H・ドッジ(Cleveland H. Dodge)、およびラッセル・セージ(Russell Sage)女史を含む裕福で著名な人々から出ていたけれども、赤十字事業を後援する機動力であった。たとえば、1910年の2百万ドルの資金調達キャンペーンが成功したのは、ニューヨーク市のこれらの裕福な住人によって支援されたからに過ぎない。J.P.モルガンは自身で10万ドルを寄付し、ニューヨーク市の他の7名の寄付者は30万ドルを集めた。ニューヨーク市以外ではただ一人だけが1万ドル以上の寄付をしたが、それはボードマン女史の父親であるウィリアム・J・ボードマン(William J. Boardman)であった。ヘンリー・P・ダヴィソン(Henry P. Davison)は1910年のニューヨーク資金調達委員会の議長であったが、後にアメリカ赤十字社の軍事会議の議長になった。換言すれば、第一次世界大戦において、赤十字はウォール街、特にモルガン商会に強く依存していた。

赤十字社は第一次世界大戦の要求に対処できず、事実上これらのニューヨーク銀行家に引き継がれた。ジョン・フォスター・ドゥレス(John Foster Dulles)によれば、これらのビジネスマンは「アメリカ赤十字社を政府の仮想軍隊と見ていて、彼らは戦争の勝利に計り知れない貢献をすることを目論んだ。」1 そうすることにおいて、彼らは赤十字のモットー"中立性と人間愛"を嘲笑した。

資金を集める見返りに、ウォール街は赤十字社軍事会議を求め、ウッドロー・ウィルソンの金融銀行家の一人であるクリーブランド・H・ドッジの薦めで、J.P.モルガン会社のパートナーであるヘンリー・P・ダヴィソンが議長になった。 その後、赤十字社の管理者リストはニューヨークの重役達、Anaconda Copper Companyの会長ジョン・D・リアン(口絵参照)、American Tobacco Companyの会長ジョージ・W・ヒル(George W. Hill)、Guaranty Trust Companyの副会長グレイソン・M・P・マーフィ(Grayson M.P. Murphy)、およびロックフェラーのための公的な関係の専門家アイヴィ・リー(Ivy Lee)の住所録の体裁を示し始めた。後にルーズベルト大統領のもとで名声を得るために、ハリー・ホプインス(Harry Hopkins)は、ワシントンD.C.における赤十字社総支配人補佐になった。

脚注
1 John Foster Dulles, アメリカ赤十字社(American Red Cross) (New York: Harper, 1950).


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赤十字社のロシア派遣団は、1917年5月29日金曜日午前11時、ワシントンD.C.の赤十字社の建屋で開催されたこの再構築された軍事会議の第三回会合の前で問題となった。ダヴィソン議長はInternational Harvester Companyのアレクサンダー・レッジ(Alexander Legge)とともにそのアイデアを詮索することを委任された。その次に、ロシアにおいて相当な権益を持っていたInternational Harvester社が、ロシアでの任務への融資を助けるために20万ドルを提供した。もっとあとの会合で、ニューヨークの連邦準備銀行の重役ウィリアム・ボイス・トンプソンが「その軍事会議の全費用を払うと申し出ていた」ということが知らされた。この申し出は、「ロシアに関する軍事会議の費用を払うというあなたの申し出は非常に有り難く、我々の見解では非常に重要である」2という電文において受け入れられた。

その使節団のメンバーは無報酬であった。全費用はウィリアム・ボイス・トンプソンによって支払われ、International Harvester社からの20万ドルは、どうやら政治献金としてロシアで使われたようである。ペトログラードの合衆国大使館のファイルから、合衆国赤十字社は革命家達の解放のために大臣委員会の委員長であるプリンス・ルヴォフ(Prince Lvoff)に4,000ルーブルを、"政治的亡命者の解放"のためにケレンスキーに2度にわたって10,000ルーブルを与えたことが分かる。

1917年、アメリカ赤十字社のロシア派遣団

1917年8月、アメリカ赤十字社のロシア派遣団はアメリカ赤十字社と名ばかりの関係があっただけで、本当は歴史上最も異常な派遣団だったに違いない。制服 ―メンバーはすべて大佐、少佐、大尉、または中尉のいずれかであった― の代金を含んで全ての費用は、ウィリアム・ボイス・トンプソンのポケットマネーで賄われた。一人の同時期の観察者は、全員が将校からなるグループを"ハイチ軍"と呼んだ。

アメリカ赤十字派遣団、すなわち約40名の大佐、少佐、大尉、および中尉が昨日到着した。その派遣団はシカゴのビリングス大佐(博士)によって率いられていて、ウィリアム・B・トンプソン大佐、および多くの医師や市民を含んでいるが、全員が軍の肩書きを持っている。我々はその一団を"ハイチ軍"と呼ぶのは、兵卒がいないからである。彼らは、私に分かる限りでは、明確に定義された任務を果たす訳でもないのにやって来た。事実、しばらく前のことであるが、フランシス長官は私に、既にロシアにおいて様々な連合国から多くの使節団が来ているので、彼らが来るに及ばないと説得したのだと言った。どうやら、この派遣団はロシアにおいて医者と看護婦が緊急に必要になると想像していたらしい。実を言うと、現在、医療関連の人材や施設は過剰であり、田舎では現地の人や外国人の看護婦で溢れていて、大都市では多くの半分空いている病院がある。3

脚注
2 アメリカ赤十字社軍事会議議事録(Washington, D.C., May 1917)

3 ギブス(Gibbs)の日記, August 9, 1917. State Historical Society of Wisconsin.


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その派遣団は、実のところ、軍の肩書きが中佐から中尉までの(40名ではなく)たった24名からなっていて、肩書き無しの団員として、3名の看護補助者、2名の映画製作カメラマン、および2名の通訳も付随していた。(24名中の)たった5名が医者であり、それに加えて2名の医療研究者がいた。派遣団は1917年8月シベリア経由でペトログラードに汽車で到着した。5名の医者と看護補助者は1ヶ月滞在したあと、9月11日に合衆国に帰国した。派遣団の名目上の団長にしてシカゴ大学の医学教授であるフランク・ビリングス博士は、派遣団の大多数が公然と政治的な活動をするのにうんざりしていると報告されていた。他の医療関係者は、ジョーンズホプキンス大学の医学教授ウィリアム・S・タイラー、フィラデルフィアのフィリップス結核研究予防研究所の特別研究員D・J・マッカーシー、コロンビア大学の食物化学教授ヘンリー・C・シャーマン、エール医科大学院の細菌学と衛生学の教授C.E.A.ウィンスロー、ラッシュ医科大学の医学教授ウィルバー・E・ポスト、アメリカ軍の医療将校予備軍のマルコルム・グロー博士、およびニューヨーク総合病院の臨床医学教授オリン・ウィットマンである。ジョージ・C・ホイップルは、ハーバード大学の衛生工学教授としてリストされているが、実際は工学コンサルタントであるHazen, Whipple & Fullerのニューヨーク事務所の仲間であった。これは意味深長である。なぜならば、マルコルム・ピルニィ ―彼については、後にもっと述べるが― は、衛生技術補助員としてリストされ、Hazen, Whipple & Fullerによって技術者として雇われていたからである。

派遣団の大半は、その表から分かるように、ニューヨークの金融地区からの弁護士、金融業者、および彼らの助手からなっていた。赤十字社の公的な配布文に"長官兼営業部長で、ニューーヨークの合衆国連邦銀行の重役"と述べられているウィリアム・B・トンプソンによって財務管理されていた。トンプソンはコーネリアス・ケラーを連れていた。彼女は派遣団の随行員と記載されているけれども、本当はトンプソンの秘書であり、住所がニューヨーク、ウォール街14番地と同じであった。派遣団の広報はヘンリー・S・ブラウンによって統御されたが、彼のアドレスも同じであった。トーマス・デイ・タチャーは彼の父親トーマス・タチャーによって1884年に創立された事務所Simpson, Thacher & Bartlettの弁護士で、鉄道の再構築と合併に目立って没頭した。息子の方のトーマスは最初家族の経営する会社で働き、ヘンリー・L・スティムソンの下で合衆国の弁護士補佐官になって、1909年に家族経営会社に戻った。若いタチャーはフェリックス・フランクフルターの親友で、後にレイモンド・ロビンスの補佐官になり、また赤十字派遣団にも参加した。1925年に彼はクーリッジ大統領の下で地方裁判所裁判官に任命され、ハーバート・フーバー大統領の下で法務長官になり、ウィリアム・ボイス・トンプソン研究所の所長であった。


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1917年アメリカ赤十字社のロシア派遣団員リスト

ウォール街金融界およびその提携先からの団員
アンドリュース(Andrews)(Liggett & Myers Tobacco)
バー(Barr)(Chase National Bank)
ブラウン(Brown)(ウィリアム・B・トンプソン気付)
コクラン(Cochran)(McCann Co.)
ケラー(Kelleher)(ウィリアム・B・トンプソン気付)
ニコルソン(Nicholson)(Swirl & Co.)
ピルニー(Pirnie)(Hazen, Whipple & Fuller)     
レッドフィールド(Redfield)(Stetson, Jennings & Russell)
ロビンスRobins (鉱工業のプロモータ)
スウィフト(Swift)(Swift & Co.)
タチャー(Thacher)(Simpson, Thacher & Bartlett)
トンプソン(Thompson)(Federal Reserve Bank of N.Y.)
ワードウェル(Wardwell)(Stetson, Jennings & Russell)
ホイップル(Whipple)(Hazen, Whipple & Fuller)
コース(Corse)(National City Bank)
マグヌッソン(Magnuson)(コロネル・トンプソンの腹心の代理人による推薦)


医者                    看護補助者、通訳など 
ビリングス(Billings)(博士)        ブルックス(Brooks)(看護補助者)
グロー(Grow)(博士)            クラーク(Clark)(看護補助者)
マッカーシー(McCarthy)(医療研究者、博士) ロッチア(Rocchia)(看護補助者)
ポスト(Post)(博士)
シャーマン(Sherman)(食物化学)       トラビス(Travis)(映画)
タイラー(Thayer)(博士)          ウィスコフ(Wyckoff)(映画)
ウィットマン(Wightman) (薬学)        ハーディ(Hardy)(判事)
ウィンスロー(Winslow)(衛生学)       ホーン(Horn)(輸送)

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副団長にして団長秘書のアラン・ワードウェルは、ニューヨーク市ブロードストリート15番地のStetson, Jennings & Russell 法律事務所の弁護士で、H.B.レッドフィールドはワードウェルの法律秘書であった。ワードウェル少佐は、ニュージャージのStandard OilおよびニューヨークStandard Oilの経理部長を長年務めたウィリアム・トーマス・ワードウェルの息子であった。父親のワードウェルは、有名なStandard Oil trust agreementの署名者の一人で、スペイン-アメリカ戦争における赤十字社の活動を組織した委員会のメンバーで、Greenwich Savings Bankの重役であった。彼の息子アランは、Greenwich Savingsの重役であっただけではなく、Bank of New York and Trust Co.およびGeorgian Manganese Company の重役(Guaranty Trustの重役アヴェレル・ハリマンと一緒に)でもあった。1917年、アレン・ワードウェルはStetson, Jennings & Russellと提携し、後にDavis, Polk, Wardwell, Gardner & Read(フランク・L・ポークは、ボルシェビキ革命の間、国務長官代理であった)と結びついた。上院監督委員会は、ワードウェルはソビエト政権に好意的であると特筆している。その地位にあった国務省官僚プールが、父親のワードウェルはすべてのアメリカ人について最も広い個人的な恐れの認識を持っていると特筆している(316-23-1449)にもかかわらずである。1920年代に、ワードウェルはソビエトの貿易目標を促進することにおいて露米商工会議所と活発に活動した。

派遣団の会計は、セントルイスのLiggett & Myers Tobacco Companyの監査役ジェームス・アンドリュースが担当していた。別の団員ロバート・I・バールは副団長としてリストに載っているが、Chase Securities Company (ブロードウェイ120番地)とChase National Bankの副会長であった。広報としてリストされているのは、ニューヨーク市ブロードウェイ61番地のウィリアム・コクランである。鉱工業プロモータのレイモンド・ロビンスは副団長として含まれていて、"社会経済学者"と記述されている。最後になるが、その派遣団はシカゴの家畜飼育業組合のSwift & Companyの2名の団員を含んでいる。Swiftsが、第一次世界大戦中に合衆国におけるドイツ人スパイと繋がっていたことは既に述べた通りである。副団長のハロルド・H・スウィフトはwift & Companyの副会長の補佐人で、ウィリアム・G・ニコルソンは家畜飼育業組合のSwift & Companyの関係者であった。

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派遣団のペトログラード到着後に二人の人物が非公式に加わった。その一人はペトログラードのNational City Bankの代表者であるフレデリック・M・コース(Frederick M. Corse)であった。もう一人は"ウィリアム・B・トンプソン大佐の中国における信頼できる諜報員であるジョン・W・フィンチ(John W. Finch)によって特別に推薦された"4ヘルベルト・A・マグヌソン(Herbert A. Magnuson)であった。

フーバー研究所に保管されているピルニー文書はその派遣団についての主要な資料を含んでいる。マルコルム・ピルニーは、ニューヨーク市42番街のコンサルティング会社Hazen, Whipple & Fullerによって雇われた技術者であった。ピルニーは派遣団の一員であって、衛生技術補助員として名簿にリストされている。その会社のパートナーであったジョージ・C・ホイップルもそのグループに含まれていた。ピルニー文書は、ウィリアム・B・トンプソンからのオリジナルの電文を含んでいる。その電文は、ロシアに出発する前に、彼および赤十字軍事会議の議長にしてJ.P.モルガン商会のパートナーでもあるヘンリー・P・ダヴィソンに会うようにと、衛生技術補助員ピルニーを招待したものであった。電文には次のように書かれている。

1917年6月21日、ニューヨーク、ウェスタンユニオン電報

マルコルム・ピルニー殿

私は君をニューヨーク16番通り5番街のメトロポリタンクラブでの食事に切に招きたい。明日金曜日の午後8時からで、そこでH.P.ダヴィソン氏と会わせたい。

W.B.トンプソン、ウォール街14番地

その書類一式は、モルガンのパートナーであるダヴィソンと連邦準備銀行の重役であるトンプソン(ニューヨークにおける最も有名な金融界の重鎮の二人)が、何故ロシアに発とうとしている衛生技術補助員と食事したかったのかを明らかにしていない。その書類一式は、ダヴィソンが何故その次にビリングス博士および派遣団そのものと会うことができなかったのかや、何故ピルニーにそうできないことを知らせる必要があったのかを説明していない。しかし、使節団の公的な見せかけ、すなわち赤十字の活動は、それらが何であったろうとも、トンプソン-プリニー活動よりも著しく興味が薄かったと推量して良いであろう。1917年6月25日にダヴィソンがビリング博士に次のように書き送っている。

脚注
4 Billings report to Henry P. Davison, October 22, 1917, American Red Cross Archives.


p. 77



親愛なるビリングス博士

あなたの使節団のメンバーに全員そろってお会いできないのは、私および軍事会議における私の同僚にとって残念です。

この手紙のコピーは、モルガンの銀行家であるヘンリー・P・ダヴィソンからの私信を付けて、衛生技術補助員ピルニーにも送られている。その私信には次のように書かれている。

親愛なるピルニー殿

コピーを同封したが、ビリングス博士にその手紙を送った理由を君はきっと理解できるであろうと思う。それが送られた趣旨をわきまえてそれを受け取ってくれ。

ダヴィソンのビリングス博士宛の手紙の目的は、会えないことを派遣団とビリングスに謝罪することであった。それゆえ、ロシアにおける派遣団の活動に関してダヴィソンとピルニーの間で何らかの深い取り決めがなされ、これらの取り決めの内容はトンプソンに知らされていたと想像することは正当であろう。これらの活動の信じるに値する本質については後で述べる。5

アメリカの赤十字社派遣団(すなわち、ロシアへのウォール街派遣団と多分呼ぶべきであろう)は、3名のロシア語-英語通訳も雇った。ロシア人ボルシェビキ主義者のイロヴァイスキー大尉、ロシア人のアメリカ人で、後にレーニンの秘書に、またカール・ラデックのBureau of International Revolutionary Propaganda(このBureauはジョン・リードとアルバート・リス・ウィリアムスも雇った)の長となったボリス・レインステイン、およびボルシェビキの閣僚ゾリンの兄弟であるアレキサンダー・ガンベルグ(別名がベルグで本名がミカエル・グルゼンベルグ)の3名であった。ガンベルグはスカンジナヴィアにおけるボルシェビキ諜報員の頭でもあった。彼は、後に、Chase Bankの副会長リーヴ・シュレイの助言者になっただけではなく、合衆国におけるAtlas Corporationのフロイド・オドラムの腹心の補佐人にもなった。

脚注
5 ピルニー文書によって、その使節団のメンバーがロシアを去った日付も正確に知ることができる。ウィリアム・B・トンプソンの場合、その日付はこの本の議論に対して最重要である。 : トンプソンは1917年12月4日にペトログラードを去り、ロンドンに向かった。一方、ジョージ・F・ケナンは、トンプソンは1917年11月27日にペトログラードを去ったと述べている。 (Russia Leaves the War, p. 1140).


p. 78



通り過ぎるに際し、問われなければならない。これらの通訳による翻訳はどのように有用であったのであろうか? 1918年9月13日に、ストックホルム駐在のアメリカ副領事H・A・ドゥーリトル(Doolittle)は、イロヴァイスキー(Ilovaisky)大尉(赤十字派遣団のロビンス大佐と個人的に親密であった人物)との、Murman Soviet と連合国の会合に関する会話について国務長官に報告している。Murmanへ上陸するように連合軍に求めるという提案がソ連政府で議論されたが、その場に連合国のために活動していた赤十字派遣団のタチャー少佐がいた。イロヴァイスキーはソ連に対するタチャーの見解を次のように解釈した。 「合衆国はそのような上陸や、ソ連とその政治の迅速な認定を急がせることを決して許さないであろう」という趣旨のことを、「イロヴァイスキーはかなり詳しくロシア語で話したが、その通訳はタチャーのためではなく本当はトロツキーのためだったと想像される」。6 どうやら、タチャーは誤訳されているのではと疑い、憤りを表したようである。しかしながら、「イロヴァイスキーは直ちにその骨子をボルシェビキ本部に電送し、その報道局を通してその骨子はすべての新聞に、タチャー少佐の所見に発していて、すべての真に公認のアメリカの代表者達の一般的な意見であるとして掲載された」。7

イロヴァイスキーはモスクワ駐在のアメリカ総領事マディン・サマーズ(Maddin Summers)に、次のように物語っている。何度かその領事館で、彼(イロヴァイスキー)と赤十字派遣団のレイモンド・ロビンスはボルシェビキ報道機関を、特に"フランシス大使の召還に関して"操っていた。彼は彼らが良心的ではなかったと認めたが、「彼らが公認のアメリカの代表者達の政略に如何に相反していようとも、彼らの正当性の見解に従って行動した」。8

これが1917年におけるアメリカ赤十字社のロシア派遣団だったのである。

 

アメリカ赤十字社のルーマニア派遣団

1917年にアメリカ赤十字社はルーマニアにも医療補助派遣団を送ったが、その後、ロシアの同盟者として中央政権と戦った。ロシアへ派遣されたアメリカ赤十字団のルーマニアへのそれとの比較は、ペトログラードに駐屯の赤十字社派遣団は赤十字社とほとんど公的な関係がなく、医療補助とさえ関係がなかった。ルーマニアに派遣された赤十字団は"人類愛"および"中立性"という赤十字の原則を雄々しく遵守したのに対し、ペトログラードの赤十字団は破廉恥にも両方を損ねた。

脚注
6 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/3644.

7 Ibid.

8 Ibid.


p. 79



アメリカ赤十字社のルーマニア派遣団は1917年6月に合衆国を発ち、ジャーシィ(Jassy)に駐屯した。その派遣団はバージニア出身の弁護士であるヘンリー・W・アンダーソン団長の下、30名からなっていた。30名のうちの16名が医者または外科医であった。比較すると、ロシア派遣団29名のうち、他に4名が大学からであって医療関係分野のスペシャリストではあったけれども、医者はたったの3名であった。ルーマニア使節団の医療専門家が16名だったのに対し、ロシア使節団では医療専門家と分類されている人はせいぜい7名であった。両方の使節団にはほぼ同人数の医療補助員と看護婦がいた。しかし、意義深い比較は、ルーマニア使節団における弁護士は2名だけで、会計士が1名、および技術者が1名だったということである。ロシア派遣団には15名もの弁護士とビジネスマンが含まれていた。ルーマニア派遣団の弁護士と医師は、ただ一人の例外(ワシントンD.C.の司法省からの"オブザーバ")を除けば、ニューヨーク地区の近郊から来ている者はいなかったが、ロシア派遣団の弁護士およびビジネスマンはこぞってその近郊からであった。どういう訳か、ロシア派遣団の全団員のうちの半数以上がニューヨークの金融業地区から来ていた。換言するならば、これらの派遣団を相対的に比較することで、ルーマニア派遣団は医療行為という正当な目的を持っていたのに対し、ロシア派遣団は医療目的ではなく正確に政治的目的を持っていたと確認できる。ロシア派遣団の人員から商業的または金融的な派遣団だと分類できるが、行動からは破壊的な政治活動グループであった。

 

1917年のアメリカ赤十字社によるロシア派遣団とルーマニア派遣団の人員

人員           ロシア派遣団     ルーマニア派遣団
医療(医者または外科医)    7           16
医療補助員、看護婦      7           10
弁護士、ビジネスマン    15               
合計            29           30 
  

出典: American Red Cross, Washington, D.C.
   
U.S. Department of State, Petrograd embassy, Red Cross file, 1917.

 

p. 80


赤十字社のルーマニア派遣団は、1917年の残りの間と1918年のある時点までジャシィの駐屯地に留まった。ロシアにおけるアメリカ赤十字派遣団の医療スタッフ、すなわち7名の医者は、1917年8月にうんざりして仕事をやめ、トンプソン大佐の政治活動に抗議し、合衆国に帰国した。したがって、1917年9月にルーマニア派遣団がジャシィに近付く危機状態において手助けしてくれるようにペトログラードのアメリカ人医者と看護婦に要請したときには、ルーマニアに行くとこが出来るアメリカ人医師や看護婦はもうロシアにいなかった。

ロシア派遣団の大半は内部の政治的策略にその時間を取っていたのに対し、ルーマニア派遣団は到着するや否や救援活動に身を投じた。1917年9月17日にルーマニア派遣団長のヘンリー・W・アンダーソンからペトログラード駐在のアメリカ大使フランシスに宛てた極秘電報は、ルーマニアにおける切迫した大惨事に対応するための当面緊急の援助として、5百万ドルを融通することを要求していた。その後、アンダーソンからフランシスに一連の手紙、電報、通信が続いたが、結局援助を得ることができなかった。

1917年9月28日、ルーマニアのアメリカ公使ボピカ(Vopicka)は、ワシントンへの取次ぎを求めてフランシスに長々と電報し、ルーマニアの大惨事および流行病発生の危険についてのアンダーソンの分析、更により悪いことに冬が間近に迫っていることを繰り返し告げた。

惨事を避けるためには、大量の資金と大胆な方策が必要とされている......。 権限があり、政府に接近できる人物のもとで状況に対処しようと試みないならば......。  資材の輸送、受取、および配付の世話をしてくれる適切な組織が必要だ。

すべてのルーマニアの資材と金融取引がペトログラードの赤十字社派遣団に統御されていたので、ボピカとアンダーソンの手は縛られていた。そして、トンプソンと彼の15名のウォール街の弁護士およびビジネスマンは、どうやらルーマニアの赤十字の仕事に深い関心を持っていたようである。合衆国国務省のペトログラード大使ファイルには、トンプソン、ロビンス、あるいはタチャーが1917年または1918年のいつの時点でもルーマニアにおける緊急状況に関与したことを暗示するしるしはない。ルーマニアからの通信は、フランシス大使または彼の大使館スタッフに届き、時には領事館を通してモスクワに届いた。

1917年10月までにルーマニアの状況は危機局面に達した。ボピカは10月5日に(ペトログラード経由で)ニューヨークのダヴィソンに電報を送った。

ここに最も緊急の問題が.....悲惨な結果が恐れられる....何とかして特別な出荷を手配して頂きたく....急がなければ間に合わない。


p. 81



その後11月5日にアンダーソンはペトログラード大使館に電報を送り、援助が遅れていることで既に数千人の命が失われたと言っている。11月13日にアンダーソンは、ルーマニアの状況にトンプソンが興味を欠いていることに関して、フランシス大使に電報を送った。

受信したようにすべての出荷項目を供給するようにトンプソンに要求したが、相変わらず送られてこない。また彼には輸送状況について知らせるようにも要求したが、全くと言って良いほど音信がない。

その後、アンダーソンは、フランシス大使が彼のために、ルーマニア派遣団の資金をロンドンの別口座とし、直接アンダーソンに属し、トンプソンの派遣団の支配から脱出できるように、とりなすよう要求した。

 

ケレンスキーのロシアにおけるトンプソン

では赤十字派遣団は何をしていたのであろうか? トンプソンはペトログラードでの裕福な生活に対する世評を疑いなく知っていたが、どうやら彼は、ケレンスキーのロシアにおいて二つの主要プロジェクト、アメリカのプロパガンダ計画に対する支援およびロシアのLiberty Loanに対する支援だけ請け負っていた。ロシアに到着後間も無く、トンプソンはブレシコ-ブレシコヴスカヤ(Breshko-Breshkovskaya)夫人とケレンスキーの秘書デビッド・ソスキス(David Soskice)に会い、大衆教育委員会が自身の新聞を持ち、講演者スタッフを雇うことができるように、2百万ドル寄付すること、およびロシアがドイツとの戦争を続けるように扇動するというプロパガンダ目的の映画形式イラスト(861.00/ 1032)を提供することで合意した。ソスキスによれば、一束の5万ルーブルが、「あなたの最良の判断に従ってあなたのために、これを使ってください」という言明とともに、ブレシコ-ブレシコヴスカヤに与えられた。更に210万ルーブルが当座預金口座に預けられた。J.P.モルガンから国務省への手紙(861.51/190)から、モルガンがロシアののためのトンプソンの要求に応じて彼に42万5千ルーブルを送金したことが確認できる。J.P.モルガンはまた、"トンプソン氏を通して個人的出資をする知恵"に関してモルガン商会の利益をロシアのLiberty Loanに移転した。これらの金額はペトログラードのNational City Bankを通して送信された。

 

トンプソンがボルシェビキに100万ドルを与える

しかしながら、歴史的により重要なことは、最初トンプソンによって、その後1917年12月4日以降はレイモンド・ロビンスによってボルシェビキに与えられた援助であった。

ボルシェビキ運動へのトンプソンの寄付は同時代のアメリカの新聞に記録されていた。1918年2月2日の Washington Post 紙は次の小記事を載せていた。


p. 82



ボルシェビキに百万を与える

赤十字の援助者であるW.B.トンプソンは政党が誤って伝えたと信じている。ニューヨーク、2月2日(1918年)。6月から11月末までペトログラードにいたウィリアム・B・トンプソンは、ボルシェビキの教義をドイツとオーストリアに広めるためにボルシェビキに百万ドルを個人的に寄付した。

トンプソン氏はアメリカ赤十字派遣団の団長としてロシアの状況を研究する機会を持ったが、その費用もまた大部分彼の個人的な寄付によって負担された。ボルシェビキはロシアにおける親ドイツ的気風に対抗する最大の力を与え、彼らのプロパガンダはGeneral Empiresの軍国主義的政権を徐々に衰えさせてきたと彼は信じている。

トンプソン氏はボルシェビキについてのアメリカ人の批評を非難している。彼は彼らが誤って伝えられてきたと信じていて、連合国の理想のためと同様、ロシアの未来のために使われるであろうとの信念のもと、ボルシェビキ運動に財政上の貢献をした。

ヘルマン・ハゲドーン(Hermann Hagedorn)の伝記「大事業家ウィリアム・ボイス・トンムソンと彼の時代(1869−1930年)」は、ニューヨークのJ.P.モルガンからW.B.トンプソンへの海外電信"ペトログラード、ホテルヨーロッパ、アメリカ赤十字社 気付"の写真を複製している。その電報には日付がスタンプされていて、1917年12月8日にペトログラードに届いていることが分かり、以下のような内容である。

ニューヨーク Y757/5 24W5 Nil —貴殿の2番目の電報を受け取った。教示されたとおり、百万ドルをNational City Bankに振り込んだ。モルガン

ペトログラードのNational City Bank支店はボルシェビキの国有化命令から免除されていて、外国と自国を含めて唯一免除されていたロシアの銀行であった。トンプソンのNCB口座に振り込まれたこの百万ドルは"政治的な目的"のために使われたと、ハゲドーンは言っている。

 

社会主義者で採鉱振興者であるレイモンド・ロビンズ9

ウィリアム・B・トンプソンは1917年12月初旬にロシアを去り帰国した。彼はロンドン経由で旅したが、ロンドンではJ.P.モルガン商会のトーマス・ラモントと一緒にロイド・ジョージ首相を訪問した。それに関するエピソードについては次章で再開する。彼の副官レイモンド・ロビンスは赤十字ロシア派遣団に残った。ロビンス大佐が次の数ヶ月において見せた一般的な印象は新聞に見落とされなかった。ロシアの新聞Russkoe Slovoの言葉によると、ロビンスは「片方の手でアメリカの労働者を演じ、他方の手ではアメリカの資本家を演じており、ソ連政府を通してロシアの市場を獲得しようと努めている」。10

脚注
9 "Robins"が正しいスペルであるが、国務省ファイルでは一貫して"Robbins"と綴られている。

10 U.S. State Dept. Decimal File, 316-11-1265, March 19, 1918.


p. 83



レイモンド・ロビンスはフロリダの硫黄会社購買部のマネージャとして人生を出発した。この土台から彼は陶土層を開発した後、19世紀末におけるテキサスとインディアンの領土を調査踏査した。アラスカへ北進して、ロビンスはクロンダイク(訳注:カナダ中西部の地域)のゴールドラッシュで一財産を築いた。その後、注目すべき理由もなく、社会主義者に転向し、改革運動に身を投げた。1912年までに彼はルーズベルトの進歩党の活動家になっていた。彼は、1917年のアメリカ赤十字派遣団に"社会主義経済学者"として加わった。

彼の改革論者としての社会的に見栄えのするアピールは、「独占主義者の告白」におけるフグレデリック・ハウエの示唆を思い出させるような、更なる権力と富を獲得するための偽装以上の何ものでもないということは、ロビンス自身の言説を含めて十分証拠がある。たとえば、1918年2月、アーサー・ブラード(Arthur Bullard)は公開情報に関する合衆国委員会とともにペトログラードにいて、エドワード・ハウス大佐のために長い覚書を書くのに従事していた。この覚書は、ワシントンD.C.のハウスに送る前に、コメントと批評を求めるために、ブラードによってロビンスに与えられた。ロビンスの非社会主義的で帝国主義的なコメントは、原稿は「著しく慧眼で洞察力があり良くできている」が、以下の一つまたは二つの条件付きとしたいという趣旨であった。特に、ボルシェビキの承認は長らく伸び伸びになっているが、直ちに発効されるべきで、合衆国がボルシェビキを承認するならば、「我々はロシアの過剰な資源を支配でき、国境のすべての地点で取締官を持つであろうと私は信じる」。11

"ロシアの過剰な資源の支配権"を得るというこの願望はロシア人にも明らかであった。これは、アメリカ赤十字社または帝国主義の実地訓練に従事していたウォール街の鉱工業プロモータによる社会主義改革のように聞こえるであろうか?

いずれにしても、ロビンスはボルシェビキ主義者に対して隠しだてなく援助した。12 革命のボルシェビキ段階がスタートした3週間後になってやっと、ロビンスは赤十字社本部のヘンリー・ダヴィソンに、「ボルシェビキ政権との交流継続必要性を大統領に主張して下さい」との電報を送った。興味深いことに、この電文はロビンスに宛てた「大統領は合衆国の代表者とボルシェビキ政府との間の直接の連絡を自制することを望んでいる」という電文に対する返答であった。13 数件の国務省レポートはロビンスの活動の遊撃兵的性質について不満を述べている。たとえば、1919年3月27日にウラジオストックのアメリカ領事ハリスは、ロビンスとの長い会話について意見を述べており、ロビンスのレポートにおける酷い不正確さに抗議している。ハリスは、「ロビンスは私に1918年5月までドイツまたはオーストラリアの戦争犯罪者がボルシェビキ軍に加わったことはないと述べた。彼はこの言明が真っ赤な嘘だと知っていた。」と書いている。それからハリスは続けてロビンスに適用できる証拠の詳細を提供している。14

注記
11 Bullard ms., U.S. State Dept. Decimal File, 316-11-1265.

12  New World Review (fall 1967, p. 40)は、ロビンスについて、彼は資本主義者であるにも関わらず、革命の目的に同調しているとコメントしている。

13 Petrograd embassy, Red Cross file.

14 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/4168.


p. 84


1918年1月におけるボルシェビキ支配領域図 → クリック Limit of Area Controlled by Bolsheviks, January 1918


p. 85

ハリスは、「ロビンスはその時ロシアに関する事実を故意に偽って述べたが、彼はその後ずっとそれをしてきた」と結論した。

1918年に合衆国に帰国するや否や、ロビンスはボルシェビキのための努力を継続した。ソビエト局のファイルがラスク(Lusk)委員会に押収されたとき、ロビンスがラドウィッグ・マルテンス(Ludwig Martens)および局の他のメンバー達と相当に通信していたということが分かった。押収されたより興味深い文書の一つは、合衆国における最初のソビエト代理人であるサンテリ・ニュオルテヴァ(Santeri Nuorteva)(別名:アレクサンダー・ニベルグ)からNew York Daily Forwardの編集員であるカハン(Cahan)同志への手紙であった。その手紙はレイモンド・ロビンスのために道を用意するようにと忠実な党員に頼んでいるものだった。

(To Daily)  FORWARD    1918年7月6日

親愛なるカハン同志

社会主義者新聞が、赤十字派遣団長でロシアから帰ったばかりのレイモンド・ロビンス大佐はアメリカの人々への公的なレポートにおいて消息を聞かれるべきだという熱烈な叫びを直ちにあげることが最高に重要である。武装勢力による介入の危険が大いに増してきている。反動主義者達は侵略を起こすためにチェコスロバキア事件を利用している。ロビンスはこれとロシアにおける状況全般について全ての事実を握っている。彼は我々の見解を採用している。

議論の概略およびチェコスロバキア人についてのいくらかの事実を示すCall紙の社説のコピーを同封する。

友愛をもって

PS&AU          サンテリ・ニュオルテヴァ

 

p. 86


国際赤十字社と革命

赤十字の管理者は知らないが、赤十字社は革命活動の媒体または隠れ蓑として折々使われてきた。認可されていない目的のために赤十字の看板を使用することは珍しくない。ニコラス皇帝が、伝えられるところでは、自身の安全のために(この方向の移動は安全というよりもむしろ危険側であったけれども)ペトログラードからトボルスクに移動したとき、その列車は日本赤十字社のプラカードを備えていた。国務省ファイルは赤十字活動の隠れ蓑のもとでの革命活動の例を含んでいる。たとえば、ロシア人の赤十字社職員(チェルガノフ(Chelgajnov))は1919年に革命活動のために逮捕された(316-21-107)。1918年におけるベラ・クン(Bela Kun)によって指導されたハンガリーのボルシェビキ革命の間、赤十字のロシア人メンバー(ロシア赤十字社のメンバーとして従事している革命家)がウイーンやブダペストで発見された。1919年にロンドン駐在の合衆国大使がワシントンに驚くべきニュースを電信している。英国政府を通して、彼は「赤十字社の制服を身にまとってこの国に到着し、ボルシェビキ主義者だと名乗っている数名のアメリカ人がボルシェビキのプロパガンダを広めるためにフランスからスイスに進攻している」ということを知ったと述べている。その大使は約400名のアメリカ赤十字社の人々が1918年の11月と12月にロンドンに到着したことに言及している。そのメンバーのうち1/4は合衆国に帰国したが、「残りはフランスに侵攻することを主張している」と述べている。その後のレポートとして、1918年1月15日付けで、ロンドンの労働者新聞の編集者がドイツのボルシェビキに権限を委任することを提案する3名のアメリカ赤十字社職員によって、3回にわたりアプローチされたという趣旨のレポートがある。その編集者は合衆国大使にそれはアメリカ赤十字社職員を見張っていると示唆していた。合衆国国務省はこれらのレポートを真剣に受けとり、ポークは"もし本当ならば、最大の重要事だと思う"という電文を送っている(861.00/3602 および /3627)。


p. 87



総括すると、1917年のアメリカ赤十字社のロシア派遣団に対して我々が抱いていたイメージは、中立の博愛主義のそれとはほど遠いものである。その派遣団は実際はウォール街金融業者の派遣団であって、ケレンスキーまたはボルシェビキ革命家を通して、ロシアの市場および資源を支配するための道を築くためのものであった。それ以外のいかなる説明も派遣団の活動を説明し得ないであろう。しかし、トンプソンもロビンスもボルシェビキ主義者ではなかった。首尾一貫した社会主義者でさえなかった。著者は、両名の社会主義者としてのアピールはより平凡な目的のための隠れ蓑であったという解釈に傾いている。両名には営利的意図があった。すなわち、ロシアでの政治的なプロセスを個人的な金儲けに利用しようとした。ロシアの人々がボルシェビキを望んでいるかどうかは無関心であった。ボルシェビキ体制が合衆国に不利に働くかどうか ―それは後に両立するように働いたのであるが― には無関心であった。唯一の圧倒的な目的は、そのイデオロギーがどうであろうとも、新しい体制への政治的および経済的影響力を獲得することであった。ウィリアム・ボイス・トンプソンが単独で行動したとしたならば、連邦準備銀行の取締役としての任期は重要ではなかったであろう。しかし、彼の派遣団がウォール街機関の代表者達によって支配されていたという事実は重大な問題、派遣団は事実上ウォール街シンジケートによって構想計画された作戦であったのかという問題を提起する。これについては、この物語の残りが述べられている間に、読者が自ら判断しなければならないであろう。


p. 88


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