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2007年1月

2007116日 「数字」

 

私が高校生のとき、今から35年前のことになりますが、英語の勉強のために紀伊国屋書店で1冊のテキストを買いました。そこにあった内容で、今でも印象深くおぼえているものがあります。

 

その題名は「Figures can lie」。

直訳すれば、「数字はウソをつくことができる」=「数字にだまされるな」というものでした。

 

そのテキストは、英国の著名な新聞Timesにある読者投書欄から、面白いものをピックアップした内容でした。最初の投書は女性からのものであり、それを要約すると、男性ドライバーよりも女性ドライバーの方が交通事故を起こしていないので、もっと女性ドライバーを商業目的などでも活用すべきだ、というものでした。免許証の発行数と、事故の件数を比較して、男性1万人での事故総数と、女性1万人の事故総数を比較して、女性ドライバーの方が慎重なせいか、事故が少ないと主張したものでした。

この投書に対して、別な読者が反論しました。現在の商業ドライバーのほとんどすべては男性である。また、一般ドライバーとしても、男性の方が女性よりも頻繁に、なおかつ長時間にわたってクルマを運転している傾向がある。従って、免許証の発行枚数と事故数を比較したのでは、どちらが事故を起こす・起こさないという判断はできない、というものでした。

高校生であった私でさえ、うなってしまうような名回答でした。まさに、「数字にだまされるな」ということではないでしょうか。

 

例えば、私たちが見ている数字を考えてみてください。

残業時間の平均値。業務部は何時間、宮崎は何時間といった数字を見ていると思います。例えばのハナシですが、極端な話、10名のチームで、5名が100時間残業、残る5名が残業ゼロだったとします。すると、平均値は50時間です。50時間だから、ちょっと多すぎるけど、ま、いっか、などと考えたりすれば、それこそ数字にだまされることになります。

残業時間については、平均値より以前に見るべき数字、もっと大切な数字があります。例えば「40時間以上の人が何名いるか」「70時間を超える人は1名もいないハズだよな」といった見方の方が大切ではないでしょうか。

あまりにも多い残業時間は、健康問題や基本的人権の問題にすらなります。また、一部のメンバーにかたよった残業は、組織マネジメントに問題がある可能性が高くあるでしょう。

 

このように、数字は、見る数字、あるいはその数字の見方を誤ると、数字にだまされることになってしまうのです。

 

 



2007119日 「これもマネジメント」

 

今から20年ぐらい前の話です。

ある企業がテレビ会議を導入しました。今で言えば携帯電話のFOMAみたいなものですが、当時はものものしい設備であり、大きなテーブルの上に20インチぐらいのテレビ画面と、大きなカメラが設置してあり、画面を見ながら、会話するといったものでした。1対1で話すというよりも、会議室と会議室を結ぶような格好で、数名+数名で遠隔地と会議するといった使い方が主流でした。

 

その企業では、東京本社と大阪支社での会議に使っていました。

ある日、仕事上でトラブルが発生し、緊急会議が開催されたときのことです。東京でも大阪でもバタバタしていましたが、即座に打つ手を確認する目的で、テレビ会議が開かれたのです。

このとき、私にとっては今でも忘れられない光景がありました。大阪の様子を映している画面を見ながら、東京のリーダー格の人が、「なんで○○がコピーなんかしているんだ!」と叫んだのです。一瞬、東京も大阪も、何を言っているのか、わかりかねる様子でした。

叫んだ人の真意は、次のようでした。コピーは誰でもできる。○○はある分野に最も詳しい人物であり、その分野に関する影響範囲を考えたりするのは、○○しかできない。その○○がコピーなんかしていて、どうするんだ!という叱責でした。○○はそのとき、手にもっていた資料をコピーするのは自分が一番早いと考え、それを実行しただけでしたが、緊急トラブル対応全体のスピードを考えれば、たとえ上司や目上の人にであっても、コピーを頼むべきであるということです。

 

マネジメントは、誰かに何かを「やらせる」だけでなく、「やらせない」ということをも含むという教訓になるのではないでしょうか。その人でないとできない何かを進めるためには、その人がやっている別な仕事を誰か他の人に回さないと実現できないことは、よくあることでしょう。

例えば、リーダーの育成が重要課題だとした場合。誰がリーダーを育成できるのでしょうか。育成できるその人は、育成に注力できる状況にあるでしょうか。その人から、リーダー育成以外の仕事を「取り上げて」みることはできないでしょうか。

 

 


2007123日 「仕事が人を大人にする」

 

私が愛するサッカーには格言が数多く存在しますが、その中でも好きなものは、サッカーの母国イングランドの格言、「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする」というものです。ま、サッカーやっている大人で、紳士でない人も結構いるけど。

              

私は、仕事も、人を大人にするものだと考えています。

人がたくさん集まって仕事をする会社。同じ場所で仕事をするだけでなく、協力しあったり、刺激しあったりしながら仕事を進めているものと思います。

「大人になる」ということの説明には、なかなかむずかしいものがありますが、一方で「まだまだ子供である状態」を説明することなら、もっと簡単そうです。

子供は、会社を、学校のようにとらえています。マネージャが先生で、自分たちが生徒。生徒である自分たちは、権利の要求には敏感で、問題点を先生に言いつけ、その解決は先生や学校がしてくれるものという前提で生きている。数名でマネージャの席ににじり寄って「どうしてくれるんですか!」みたいな光景がもしあるとすれば、学生服を着て先生の机に迫る生徒たちと変わりはありません。

問題点の指摘をしてはいけないと言っているのではありません。もう少し大人のやり方というのがあるのではないでしょうか。マネージャも、同僚も、みんな仲間です。みんな等しく大人であるはずなのです。保護される子供と、保護すべき大人が共存している学校とは違うのです。

 


2007126日 「健康管理その2」

 

複数の社員の方から、私自身が健康管理のためにやっていることについての質問を受けたので、その答えを少し披露したいと思います。

 

私は、できるだけ、原始人になったつもりで食事と運動について考えています。

例えば、松坂牛は原則的に食べません。こんな牛肉は、原始時代にはありません。人間が自分たちの都合のために、作り出した人工的な牛肉だからです。

普通の牛肉を食べるときですら、「今の自分の体力・精神力・知力で、牛と戦って勝つことが出来るか」と自問自答してみます。原始人であれば、牛に勝てなければ、牛肉にありつくことはできません。何らかの武器を使ったり、グループで牛と戦うとしても、牛に勝つのは容易ではないでしょう。「牛に勝てない」ほど老化現象が進めば、牛肉は食べないほうがよいと考えています。

一方で野菜は、根気よく探せば採集可能です。今の私の年齢であれば、何が食べられるか、何がどこに良いかなどの知識を身に付けた原始人であるはずで、野菜中心の食事は、今の自分に合っているハズだと考えています。

 

運動も同様です。運動しない原始人は、食事にありつけるわけがありませんので、まず、運動そのものが必須であることは間違いありません。

また、運動しながら自分の運動能力を把握しているわけですが、若い頃と違って、瞬発力が落ちていますので、瞬発力がなければ捕らえることができない動物の肉などは避けざるをえません。自分で運動しながら、「鶏を捕らえることができるだろうか」とか、長距離水泳をしながら、「この持久力で追いかけつづけることができる動物は何か」などと考えたりしています。

 

お酒についても、原始人がお酒にありつけるのは、どのぐらいの頻度であろうかと考えて、滅多に飲みません。

ただ、こんな私ですが、タバコだけはやめていません。一応、自分に対する自己弁護ですが、「賢いワタクシはタバコの製法をおぼえ、葉っぱを採集してタバコを作っている」という想定です。ちょっと無理があるけど、ね。

 



2007129日 「ばくはつ五郎」

 

私が子供の頃、「ばくはつ五郎」というアニメ番組がありました。正義の中学生、五郎が、毎週なにかに爆発するものの、さわやかに問題解決するといった内容だったと思います。

 

実は私は、若い頃、「ばくはつ五郎」でした。

中学生の頃は、教師に対して様々な戦いを挑んでいました。就職して社会人になってからも、会社の上司や先輩に対して、よく戦いを挑んでいました。今でこそ、むしろ温厚な人物に見られることが多くなりましたが、若い頃は「ばくはつ五郎」だったのです。

                      

そんな私の、最後の爆発についてお話したいと思います。今から10年近く前のことです。昔の会社での話となります。

相手はベテランの部長でした。私が係長になる前から部長だったので、年齢差も大きく、一回り以上離れていたと思いました。何かの会議で、その部長とその部の若手何名かが主催者であって、私を含めた何名かが様々な部署の代表として出席していたものでした。

そこで私は、経緯や内容は忘れてしまいましたが、その部長に対して、ま、いつものように爆発したわけでした。

 

そのとき初めて、私はあることに気づいたのです。

それまで、「権威に対して無力な若者が一人で立ち向かう」みたいな戦闘パターンだと自分で思っていたのですが、もはや、そうではなかったのです。その部長を見据えていた視線を、周りに走らせたとき、彼の部下の若手の表情を見て、はじめて気づいたのです。

そのとき、私は、既に、ある部署を代表する立場にあったのです。若手は私よりも数年以上も年若く、彼らが私に対しておびえるような表情をしていることに気づいたのです。

 

戦いは、自分よりも強大な相手に対して戦う際、若者らしい戦い方でよいのですが、そうでない場合、つまり、自分が既にある程度のポジションにいる場合などは、別な戦い方をすべきなのです。

そのとき以来、私の戦い方はすっかり変わりました。