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2007年4月

200742日 一定の確率で発生する?

 

当社の派遣スタッフが、派遣先において、セクハラ被害を受けてしまうという事故・事件は、残念ながら、一定の確率で発生してしまうタイプのことです。もちろん、そういうことを未然に防ぐための研修などの対応をしているものの、一定の確率で発生する前提で考え、発生してしまったら、即座の対応、ていねいな対応、再発を防止する対応を心がけています。

 

それでは、情報漏洩事故はどうでしょうか。

実は、かつて当社は、情報漏洩事故についても、「一定の確率で発生する」から「しかたがない」といったように考えていました。

しかし、考えてみると、セクハラ事故については、登場人物として、お客様企業のご担当者とスタッフさんがおりますが、情報漏洩事故についての登場人物は我々だけです。つまり、我々さえ管理をしっかりし、意識を高めることができれば、この種の事故はゼロにすることができるのです。

つまり、情報漏洩事故に対しては、「一定の確率で発生する」という前提で物事を考えるのではなく、「ゼロにするにはどうしたらよいか」を前提に考えるべきなのです。

 

もう一つ、別な事例で考えてみましょう。

当社の営業マンの中には、お客様企業との約束などをすっかり忘れてしまう者がおります。例えば、大手企業などでは、その企業における就業ルールや留意事項を説明した書類があり、そこで就業するスタッフがそれを読んだ上で署名し、企業に提出するというものがあります。最近、こういったものが増えていると想像します。さて、この書類、スタッフさんが署名した後、派遣元である我々がそれを確認した上で、我々から企業のご担当者へ提出するのがスジですよね。スタッフさんは、多くの場合、即座に読んで即座に署名します。そして、当社にご連絡が入る。担当営業に伝えると「わかりました」の返答ですが、これが一向に行動に移らない。つまり、取りに行かない。こういうことがよくあります。もちろん、こういう営業マンはごく一部の者であり、ほとんどすべての方は即刻、対応してくれています。

かつてであれば、当社は、「こういう営業マンは一定確率で存在する」ので「しかたがない」とあきらめていました。

 

私には、この「あきらめ」が我慢なりません。

誤解を恐れずに申し上げれば、当社は、次のような「あきらめ」あるいは「前提」をもってここまで来たように感じます。

  第1=「一定の確率でダメな社員が存在する」

  第2=「ダメな社員は、入社後、いつまでたってもダメなままである」

  第3=「教育という努力は無駄であり、恐怖政治の方が効果がある」

 

私自身、就職したばかりの今から28年前と現在を比較すれば、昔はかなりダメでした。つまり、第一に、ダメかどうか、賢いかどうかといった尺度は相対的なものに過ぎません。

第二に、誰しも経験と思索を重ねるごとに賢くなっていくのが人類という生物であり、その特長あるいは効果を生かさねば、その組織は発展がむずかしい。

第三に、企業の競争力にとって、教育こそが最大の差別化要因であり、これに成功すれば他社は容易にマネができない。と同時に、恐怖政治は、それを推進する側の人間を賢くすることはなく、むしろその反対にしてしまう恐れがあります。恐怖政治の推進あるいは絶対権力の所有などは、人間をバカにします。自分の実力と所有する権力に因果関係あるいは相関がなくなると、原因と結果が逆転し、「こんなに権力を持っているオレは優秀である」「みんながひれ伏すオレはスゴイ」という誤解に自分自身が縛られるという悲喜劇が生まれるのです。

 

さて、ちょっと脱線しましたが、私は、前述の3つの前提、「一定確率でダメがいる」「ダメは直らない」「教育は無駄」と戦うつもりで、実は、毎日、この原稿を書いているといっても、過言ではありません。

人間は賢くなるものであるし、また、賢くなりたいというのは、人間の本質的な欲求だと考えています。それを生かすことができない組織に、長期の発展は望めないと思います。

 

 

 

200744日 特殊相対性理論?

 

天才物理学者アインシュタインが20世紀初頭に唱えた、画期的な理論、それが特殊相対性理論と一般相対性理論です。

私が生まれた年、1956年にアインシュタインが亡くなっていたので、私は、「自分はもしかすると生まれ変わりか!?」と高校生まで考えていましたが、理数系の大学に入ってみてわかりましたが、同学年の数百名がみな、同じ考えだったので、「こりゃ、違うな」と思いました。

 

物理学の話は、恐らく、当社においてあまり通用しないと思いますので、アインシュタインの特殊相対性理論を説明することは割愛し、私が密かに「特殊相対性理論」と呼んでいる人間の行動パターンについての話をしたいと思います。

 

社会あるいは会社には、イヤなヤツが結構いたりしますが、その中でも、まわりの悪口ばかり言っている人なんか、イヤですよね。その人に言わせると、「アイツはバカだ」「アイツはダメだ」「あの部は腐っている」「半人前すら仕事をしていない」などなど。

こういう人は、周囲を誹謗中傷することで、「相対的に自分がスゴイということ」を言いたいのだと私は思います。アイツはバカだ=アイツがバカであることを見破っているオレ様はスゴイ=もちろんオレ様はバカじゃないどころか天才と呼んでくれたまえ、みたいな。

周囲を下げることで、相対的に自分が上がる。相対性理論、というわけです。

 

たとえば、このことを会社ぐるみでやっている企業すら存在します。

  「いやいや、A社はひどいみたいですよ」

  「内部はボロボロですよ、あそこ」

  「これはウチにしかできません、あそこにはできません。なぜならあそこは。。。」

といった営業スタイル、お客様から信用されると思いますか?違いますよね。

 

当社は、競合他社の誹謗中傷、悪口などは一切やらずに、ここまできました。このことが当社の1つの強みだと私は思います。

これまで、あるいは今でも、競合他社の中には、当社のことを悪く言う「特殊相対性理論」タイプの営業トークをしてきた会社もあるかと思いますが、当社は、そういった会社と同じレベルで戦うような愚は避けてきました。

 

会社として、特殊相対性理論に無縁できた当社ですが、残念ながら、社内では、これに遭遇することがよくあります。「ご注進!アイツ、ダメですよ!こんなにダメですよ!」みたいなセリフを聞かされることが、たまにあります。

私はそういうとき、英語で「Look at you!」=「オマエはどうなのよ!」と言いたい衝動を抑えつつ、「なぜ、ダメなのか」を論理的に説明できるかどうか、「なぜ、それを私にインプットしなければいけないのか」を論理的に説明できるかどうかを問いただします。あるいは完全に無視するか、ですけどね。

 

「特殊相対性理論」というぐらいなので、「理論」にまで昇華して欲しいと思いますよ、ホントに。

 

 

さて、せっかくですので、ここから先は蛇足、物理学の時間です。

それまで絶対的であると考えられていた「空間と時間も、実は相対的なものだ」というのが相対性理論です。

例えば、速度=スピードは、距離÷時間で求まりますよね。100キロメートルの距離を2時間で行けば、速度は時速50キロという計算になります。

距離すなわち空間と時間は、絶対的な存在というのが我々の常識であり、ニュートン力学の理論の基礎にあります。絶対的とは、例えば、「時間が早く進む空間と、遅く進む空間がある」などはありえないし、「同一速度で同一時間動いた場合に、5メートル進める空間と、進めない空間がある」も、ありえない。

しかし一方で、光あるいは電磁波の速度が、絶対的なものであるという理論ならびに実験結果が19世紀の末に確認され、ニュートン力学と矛盾する問題が起きてしまいました。

これを解決する理論として世に出たのが、アインシュタインの特殊相対性理論です。

 

それまでの常識を覆す考え方でしたので、世界中から様々な反響がありました。近代版のコペルニクス的な展開だったと言えるでしょう。

「極論がしばしば状況を打開する」ということの事例でもあると思います。

 

 

 

200745日 Scope(スコープ)

 

辞書を見ると、能力・理解・調査などの「範囲」と出ています。

もとはギリシャ語なので、学問分野に使われることが多く、microscope(顕微鏡)、telescope(望遠鏡)、horoscope(天宮図)、oscilloscope(オシロスコープ、電圧の計時変化を波形で表示する装置)など、さまざまに使われてきました。

また、最近とくに、ビジネスあるいはマネジメントの分野で使われます。

  「その問題は、スコープを変えてとらえ直してみると、別な問題となる」

  「残業問題は、労働問題というスコープだけでなく、効率性の観点からも再考すべき」

といったように使います。

 

さて、江戸幕府=徳川幕府の話。

徳川家康は、260年もの長期に継続する安定政体をつくりました。

家康は若い頃、甲斐の武田信玄との戦で、恐怖に馬上で脱糞しながら戦場から逃げ帰った経験を持っていました。しかし、その最強武田軍団も、その後、信玄亡き後、武田勝頼を織田信長・徳川家康の連合軍で打ち破り、武田家のはかなさを目の当たりにします。

次に、天下を取る勢いであった織田信長が、明智光秀の謀反によって殺された知らせに愕然とし、また、その後、織田家が滅びる姿に直面する。

さらに、天下を取った豊臣秀吉の亡き後、自らの手で豊臣家を亡きものとし、ついに徳川幕府を開く。

このように、武田・織田・豊臣など、威勢を誇った家が、瞬く間に滅びる姿を目の当たりにした家康は、徳川家が強く存続する方策を考えます。徳川幕府三代目将軍の家光による施策などもあり、徳川家は安泰、江戸時代は260年も続くことになるわけです。

 

家康あるいは、それに続いた徳川家将軍・幕府幹部たちは、天下=日本というスコープの中で、徳川家が安泰となることを260年間、考えていたと言えるでしょう。

しかし、幕末の黒船来航により、日本というスコープ自体が危機に陥ったとき、世界というスコープで物事を考えていなかった事実を思い知るのです。

つまり、日本の中で徳川家が磐石であっても、日本そのものが危機に陥れば、徳川家もへったくれもない、というわけでしょう。

あの時代の彼らに世界を意識することを期待するのは無理だ、という考えもあるかと思いますが、そもそも最強武田騎馬軍団を破ったのは南蛮渡来の鉄砲だったという事実や、同盟者の織田信長が南蛮人から情報を入手したり、千年前の中国の三国志を学習材料にしていたことに比較すれば、家康のスコープはせますぎた、と言えるでしょう。

 

さて、時代も場所もかわって、ビートルズの話。

1962年にデビューし、2枚目のシングル盤「Please Please Me」がヒットチャートでトップを飾ってから、出すシングルがすべてトップを取っていたビートルズ。ビートルズの曲がトップから落ちるのは、次のビートルズの曲がトップを奪うから、という法則が成り立っていたり、上位3曲が全部ビートルズだったりと、伝説的な強さを持っていたビートルズですが、1967年、「Strawberry Fields Forever」がトップを取りそこなうという「危機」に襲われます。英国のヒットチャートでの出来事でした。

危機感を抱いたビートルズは、次のシングル「All You Need is Love」、日本題「愛こそはすべて」を発表する際、人工衛星を使った「世界同時発表セレモニー」を挙行します。世界中からの注目を集め、「世界に向けてのメッセージである」と宣伝した曲が、この曲です。フランス国家の出だしの部分を吹奏楽が演奏し、「え!?」と思った直後に、コーラスが始まったのでした。

 

ビートルズは、「首位奪還」をする際に、スコープを英国から世界に広げたのです。

 

何かを見るとき、それは、自分の担当業務であったり、担当顧客であったり、市場であったり、人生であったり、様々ですが、スコープを変えてとらえてみると、思いがけないヒントをもらうことがあるのです。

 

 

 

200746日 千の風になって

 

NHKで最近、紹介され、現在でも注目されている歌があります。その詩を引用します。

 

   私のお墓の前で泣かないでください

   そこに私はいません 眠ってなんかいません

   千の風に

   千の風になって

   あの大きな空を

   吹き渡っています

 

この詩を読んだだけで、涙する方もいるかもしれません。

 

私自身は、10年前に父を亡くし、その後、母がアルツハイマーになってしまってから、父の墓の前で、何かを求めたことがありました。しかし、そこに父はいない。むしろ、どこにいても空を見上げれば、雲が父に見えたことがありました。

 

父だけでなく、恐らく、祖父も、祖母も、伯父も、叔父も、それぞれ雲になったり、風になったりして、どこかにいるような気がします。

 

私たちひとりひとりの周りを吹き抜ける風。

 

また、過去において、当社の成長に貢献してくださった方で、今、風になっていらっしゃる方がいるとも聞きました。

当社の横をふっと吹きぬけた風は、いったい、誰だったのでしょうか。

 

 

 

200749日 生物ヒトの特長

 

もともとがコンサルタント出身の私ですが、マネジメントに適用するアナロジー(analogy:類推、推論などの意味。アクセントの位置に注意)として、次の5つが得意です。すなわち、歴史ネタ、文化人類学ネタ、生物進化ネタ、理数ネタ、サッカーネタ。当社へ入社以降は、生物進化ネタと理数ネタは、ウケが悪いので、ほとんど使ってきませんでしたが、ここで、生物進化ネタを1つ。

 

魚でも、鳥でも、爬虫類や両生類でも、二つの目は、左右についています。おそらくその目的は、視野を広く取って、天敵やエサを早く発見することだと思います。

一方、人類だけでなく、チンパンジーやオランウータン、ゴリラなどの霊長類グループは、正面に二つついています。メガネザルなどのサルの一部にも、この特長が見られます。

 

進化の仮説では、これは、樹冠生活の際にそうなったものだろうと言われています。

樹冠、つまり、高い樹木が生い茂って、地面に降りることなく、木から木へ飛び移る生活ができるように、樹木の枝々があたかも冠を構成しているがごとき状態。

地上に降りれば、天敵に襲われる可能性があるので、地上に降りることなく、樹冠の中で移動しながらエサを求めて生活できるというのは、サルたちにとって、メリットであったものと思います。

枝から枝へ飛び移る際、距離感をつかむには、片目で見るよりも両目で見るほうがすぐれている。一方、樹冠で暮らすことにより、猛獣などの天敵を発見することの問題点はかなり解決される。そこで、だんだん目が正面に寄ってきて、両目が正面についた。これが進化の仮説です。

 

距離感をつかむために正面に寄った二つの目は、特に霊長類に全く別の、新たな進化を促しました。仲間と正面から向き合うことにより、コミュニケーション能力が高まったのです。二匹のサルが向かい合っていれば、お互いの背後にあるものが見えます。何か危険が迫っているときや、エサがあるときなど、仲間の視線を追うことで情報を交換することが可能となります。さらに、子育てでは、母は子を正面から見つめ、恋の季節も相手を正面から見つめる。

こうして、樹冠で暮らすサルたちは、木々を飛び移ることだけに特化したメガネザルたちと、それだけでなく、仲間のコミュニケーションを発展させた霊長類に分かれていきます。

 

さて、この後、我々ヒトと、ゴリラたちが進化の道でさらに分かれていくのです。

なんだと思いますか?

答えは「白目」です。白目の面積と色です。

 

眼球は黒目の部分と白目の部分に分かれますが、ヒトは、白目の部分が大きく、なおかつ、黒目と識別しやすいように、白くなっています。ゴリラなど他の霊長類、あるいは他の多くの生物の白目の部分は、決して白くありません。茶色だったりします。

 

たとえば、ゴリラが他の生物、あるいはゴリラ同士で戦う場面を想像してみてください。相手の動きを察知する目的で、相手の目を見るでしょう。あたかも剣術の試合や、とっくみあいのケンカが始まる直前の様子のように。目の動きによって、相手の考えを察知し、それに対応します。逆に言えば、目の動きで察知されてしまうことはデメリットになります。

ですから、目の動きがわかりやすいことになる、白い白目は不利ですし、白目の部分が大きいと、目の動きがわかりやすくなってしまいます。

 

それなのに、なぜ、人類は、白目の部分を大きく、かつ、白く発達させたのでしょうか。

進化の仮説としては、コミュニケーション能力のさらなる向上だろうと言われているのです。

「目は口ほどにものを言う」「目で殺す」「目が訴えている」。こういった表現ができるのは、人類だけではないでしょうか。

向かい合って、両目をクルクル動かしながら、コミュニケーションをとる。これこそが、チンパンジーやゴリラなど他の生物と、ヒトを区別する最大の特長の1つなのです。

 

コミュニケーション、大切にしてください。

そして、目を十分に活用して、深いコミュニケーションを取ってください。

「目をそらす」「目を見ない」コミュニケーションは、サル以下のレベルです。せっかく、ヒトとしてもって生まれたメリットを生かしていないのです。

 

 

 

2007411日 勇気、ありますか?

 

ビジネスあるいは人生に、一番重要なものは何だと思いますか?

と問われれば、私なら、躊躇なく「知恵と勇気」と答えます。

今回は勇気の話。

 

当社には勇気ある方がたくさんいますが、さて、次のような勇気についてはどうでしょうか?

他部門の問題点について指摘する勇気。

 

なかなかむずかしい問題ですよね?

しかし、この勇気が不足してダメになっていった会社は、日本でも世界でもたくさん存在します。

 

たとえば、A部門の問題点をB部門が気づいたとします。

あなたがB部門だったらどうしますか?多くの場合、A部門とB部門の両方を統括する、すごく上の責任者に直訴して、その方からA部門に指摘してもらう、あるいは、解決してもらう。確かに、そのようにせねばならない問題も存在しますが、このやり方に依存症になってしまった組織は、ダメな組織に向かっていると思います。

 

ここで必要な勇気は、A部門の問題点を外から指摘するB部門の方に必要ですが、実は、同時に、「他部門から指摘された点を受け入れる勇気」がA部門に要求されます。

受け入れる勇気に欠けると、結局、自分たちが言われたくないので、自分たちも言わないという組織風土ができあがり、ダメ組織に向かう構造ができあがってしまうのです。

 

人間、誰しも、欠点や課題があるように、組織にも欠点や課題は存在します。そして、もちろん、誰だってそれを指摘されたくはありません。

しかし、高い志や大きな目標が共有できているならば、課題の指摘には「ありがとう」と言える勇気、そして度量が備わってくるものなのです。

 

ここで誤解のなきように、申し上げておきますが、誰から見ても問題点が明らかな場合、みんなで寄ってたかって問題点を指摘することには勇気はいりません。むしろ、それをかばうほうが勇気が必要でしょう。

また、事情が異なる2つの組織などで、それぞれが相手の問題点の指摘ばかりに明け暮れているようでは、勇気の問題というよりも、「もう少し知恵を出せ」と言いたくなりますよね。

 

一方、お客様企業やスタッフさんにご迷惑をかけたり、当社が嫌われるようなことになるようでしたら、勇気を出して、他部門の問題点が指摘できる組織風土を作りたいものだと思います。

つまり、スタッフサービスや、テクノサービスという名前に傷をつけるようなことは、他部門であろうが、問題点を指摘できる勇気と、その指摘を受け入れる勇気が必要だと考えています。

 

 

 

2007412日 エリート

 

日本語で「エリート」というと、あまり良い印象を受けませんよね。

特に「エリート意識」という言葉は、「百害あって一利なし」の代表みたいに使われているような気がします。

しかし、私は、良い意味でのエリートあるいはエリート意識は重要だと考えています。

 

エリートを私流に定義しますと、

  「バカだと思われるぐらいなら、死んだほうがマシだと思っている人」

あるいは、

  「怠惰だと思われるぐらいなら、睡眠も食事もけずったほうがマシだと思っている人」

と、なります。

 

逆に、エリートでない人、エリート意識を持っていない人が出世するとどうなるかというと、第一に、「自分が誰からも叱られないレベル」にまで出世すると、突然、怠惰になります。勤怠の状況が悪くなり、どこで何をやっているかわからない。

 

エリートは、必ずしも自分がやっていることをすべての人から理解してもらおうとは思っていませんが、一方、エリート意識がないままで出世した人は、自分の存在そのものに価値があることをみんなに理解させようと考える傾向があります。つまり、ちょっとした違いではあるのですが、エリートは「オレのやっていることには大きな価値がある」と考えますが、そうでない人は「オレには大きな価値がある」と考えます。

 

私は、この、ちょっとした違いが、実は結構大きな違いだと考えています。

中国の故事成語で言えば、「自画自賛」と「野郎自大」の違いです。

 

「自画自賛」は、自分で描いた絵画を、自分でほめることです。自分の行動、自分の成果、業績などを自分でほめることです。

謙虚でないエリートは、あまり誰もほめてくれませんから、自分でほめるしかない、みたいなところがあるかもしれませんね。

 

一方、「野郎自大」。

昔、中国が「漢」と呼ばれていた頃、西南部に「野郎」と呼ばれる、ま、野蛮人の種族がいて、漢の強大さを知らずに、自分たちの力量を過大評価し、仲間内でえばっていたことから、「自らを大きく見せる、あるいは考える」ということで、「野郎自大」という故事成語ができました。

 

エリートは、自画自賛するためには、絵を描きつづける必要があります。つまり、怠惰にはなれないのです。

一方、野郎自大は、何もせず、強国の漢について調べたりすることもせず、「自分はスゴイ」と言っており、それに拍手を送る取り巻きがいるということです。

 

私は、会社の中で、ある程度、出世する人、出世しつつある人、出世した人は、エリートであったほうがよいと考えています。あるいは、エリート意識をもったほうがよい。

また、人事部や営業企画部のような部門、社員から注目を集める部門のメンバーは、若くしても、エリート意識をもったほうがよいと考えています。

 

誤解のないように申し上げておきますが、エリート意識=傲慢さ、ではありません。

エリート意識=勤勉さ、です。

「バカと思われるぐらいなら死んだほうがマシ」

「怠惰と思われるぐらいなら、メシも睡眠も削る」というのが、エリートなのですから。

 

 

 

2007413日 V.S.O.P.

 

今から28年前、私が新入社員として入った会社での入社式、社長の言葉にあったのが、これでした。

実は、その当時、サントリーがブランデーを売り出して、派手なコマーシャルが話題になっていたのですが、その名が「V.S.O.P.」でした。

 

サントリーのブランデーは、とても(Very)卓越していて(Superior)古く(Old)澄んだ(Pale)ブランデーということで、この名をつけたということですが、社長のスピーチは次のようなものでした。

 

サラリーマン人生は、VSOPである。

若い頃に求められることは、Vitality=バイタリティである。

その次に、Specialty=スペシャリティ=専門性が問われる。

さらに、Originality=オリジナリティ=独創性が問われ、

年を取ったら、Personality=パーソナリティ=人間性だ。

 

ま、うまい、シャレですよね。

 

当社は若い会社であり、それ以上に、若い方たちの会社です。

多くの方が、現在、バイタリティを最重要課題とした局面にいることと思いますが、そろそろスペシャリティに移管すべきというか、スペシャリティで生きる人が、もう少し多くなくてはいけないのではないか、と感じることがあります。

 

また、オリジナリティが求められる役割、年代でありながら、いまだ、過去の延長線上から羽ばたくことができない層も結構多い。

 

会社組織が、バイタリティあふれる若者を多数擁しながらも、スペシャリティに富んだ中堅、ベテランが要所をしめて、そして、オリジナリティを発揮して改革を進める幹部がいる。その上に、少数のパーソナリティ年代が和を演出する。

 

サントリーのブランデーはさほど売れませんでしたが、VSOPの名は、それ以上に有名になったといういきさつでした。

 

 

 

2007416 神速(しんそく)

 

神速、神の速度。

神様のスピード、つまり、究極のスピード。

スピードを重視する当社にあって、究極のスピードを神速と表現します。

 

さて、神速では抽象的なので、定量的に示すために物理学に登場してもらいましょう。

 

「第一宇宙速度」というものがあります。

地球を完全な球体であるとします。このとき、地表スレスレに地球を回って、地面に落ちないスピードを第一宇宙速度と呼びます。1秒間に7.9キロメートル進む高速で飛ぶことができれば、地面に落ちることがありません。これが第一宇宙速度です。

例えば、月は地球の周りを回っていますが、かなり距離がありますから、地球の引力は弱くなっており、ゆっくりしたスピードでも大丈夫です。でも、もし、そのままのスピードで、もっと地球に近いところを回っているようならば、月は地球に向かって落ちてくるのです。

第一宇宙速度は、地表スレスレですから、相当、速くないといけません。1秒間に大手町から新宿まで飛んでいくようなスピードであれば、地面に落ちることなく、地表をグルグル回りつづけるのです。

 

次に「第二宇宙速度」。

さらに速くなって、1秒間に11.2キロメートルの速度に到達すると、地球の引力にうちかって、地球から離れていきます。地球の重力圏から脱出するための速度が、第二宇宙速度です。

 

しかし、第二宇宙速度で、地球の重力圏から脱出しても、太陽系から抜け出すことはできません。それほど太陽の引力は大きいのです。もちろん、地球も、太陽の引力により、太陽の周りを回っています。

「第三宇宙速度」とよぶ速度、1秒間に16.7キロメートルのスピードに到達すると、太陽系から脱出することができるのです。

 

自然界で最も高速なものは、光と電磁波です。光の速度は光速とも呼ばれますが、1秒間に地球を7周半、つまり30万キロメートル進みます。

しかし、この速度は光あるいは電磁波でなければ出せない速度ですから、我々にとって目標とすることはできません。

目標は、宇宙速度です。

 

「落ちない速度」が、第一宇宙速度です。

あなたは、あなたたちは、第一宇宙速度を出せていますか?

 

「既存のレベルから抜け出す速度」が、第二宇宙速度です。

第二宇宙速度で、従来の成長率の常識を超えるスピードが出せているでしょうか?

 

「スコープを変える速度」が、第三宇宙速度です。

地球上あるいは太陽系で勝負をしているというスコープから、銀河系あるいは宇宙というスコープで物事をとらえるほどのスピードが、第三宇宙速度です。この速度が出せれば、ビジネスのとらえ方まで変わってくるものと思います。

 

神速。

あなたの速度はどのぐらいでしょうか

 

 

 

2007418日 短所は目立つもの

 

短所は目立ち、長所は目立たない。

人は、他人の短所に対しては敏感だが、長所に対しては鈍感である。

 

これは、残念ながら、古今東西、人間社会に共通する真理であるようです。

 

たとえば、このブログ、私のメッセージに対しても、この真理を証明する事例がありました。

内容ならびに表現が適切でない記事、「女は30歳から」というものがありましたが、これを掲示してからのクレームは、素早く、かつ、強烈でした。そして、ついでに、私に直接は寄せられませんでした。

一方、毎日の記事に対するプラス評価は、じんわりと生まれてきているように思います。

誤解のなきように申し上げますが、ここで私はグチを言っているのではありません。人間社会の真理の証明事例を1つ申し上げているまで、です。ハイ。

 

全く違う事例ですが、就職の際に無難な会社を選んでしまう、恋人に無難な相手を選んでしまうといった性向も、この真理の表れだと思います。

つまり、目立つ欠点がないものを選んでしまう。

あるいは、誰にでも欠点があるゆえに、誰をも選べない、何も選べない。これは「理想が高い」とよく日常会話で言われているようですが、理想が高いのでもなく、ハードルが高いのでもありません。自分で、ハードルが決められないのです。

 

逆な見方をすれば、「長所が見えない」「長所に気づかない」「長所に気づきたくない」。

 

カエサルは「人は見たいものしか見ない」と言いましたが、つまり人間は、他人の短所を見たいと思い、他人の長所を見たいとは思わないのです。

 

人間でも、組織でも、「大人」は、長所と短所を両方観察し、分析し、洞察します。

他人の長短を客観的に見ると同時に、自己の長短をも客観的に分析します。

一方で「子供」は、良いと決めたら長所しか見ず、悪いと決めたら短所しか見ません。

日本のテレビや雑誌では、持ち上げると決めたら何が何でも持ち上げるという勢いでほめ殺して、ある日突然、叩くと決めたらどんな些細なことでも叩くという行動パターンがあります。バカみたい、ですよね。

 

組織の中で、人材を育成しようと考えたら、長短の両方を見なければいけません。そして、長所をほめる、長所を伸ばすことを優先する必要があります。長所を伸ばすことで、短所が自動的に改善されるという例は多いのです。一方、短所を解決して長所がより伸びるという方が、むずかしいものと思います。

 

欠点・短所を指摘するというスタイルで人材育成を進めると、あたりまえですが、欠点・短所を指摘してばかりいる人材ができあがります。

 

短所は目立つものなのです。

特に、自分にはその短所がない・弱いという場合、他人のその短所はとても目立つものです。目立つゆえに、気づく。問題は、気づいた後で何を考えるか、何をするかです。

 

他人の短所を指摘してばかりいる人は、そのことが自体が、そのひとの最大の短所であることが多いのです。

 

 

2007420日 クイズ『究極問題』

 

女性向けの究極問題。私が20年前に発明しました。

 

男性の魅力要素を次の5つとします。すなわち、「頭脳」「体力」「経済力」「面白さ」「ルックス」。この5つのうち、1つだけを捨てねばならないとしたら、あなたは何を捨てますか?

 

「捨てる」あるいは「捨てない」ということを、次のように詳しく定義してみます。

「捨てない」とすれば、それは5段階評価の最高得点である5を意味します。

一方、「捨てる」とすれば、5段階評価の2であるとします。

 

ルックスを捨てた場合、頭が良くて、運動神経がよくて、経済力があって、面白いけど、しかし、見た目がかなり悪い。合コンの第一印象では、誰もが「パス」。

面白さを捨てた場合、頭が良くて、運動神経がよくて、経済力があって、ルックスもよいのに、なぜか面白くない。「ねぇねえ、聞いてよ!」っていう最高のネタにも、「で、それが何?」みたいな。。。

経済力を捨てると、頭が良くて、運動神経がよくて、面白くて、ルックスもいいのに、稼ぎが悪い。頭が良いのに稼ぎが悪いというのは、恐らく、勘違いして、サラリーマンをやっていればそこそこだったはずなのに、「ボクは役者になる!」とか言って、薄給をなんとも思わないヤツなんでしょう。

体力を捨てると、頭が良くて、経済力があって、面白くて、ルックスもいいのに、病弱だったりする。長い映画は途中で寝てるし、買い物は気がつけばベンチに座ってるし、長距離ドライブなら「運転してくれない?」。

頭脳を捨てると、運動神経がよくて、経済力があって、面白くて、ルックスもいいのに、頭がパー。たまに、プロ・スポーツ選手にこういう人、いますよね。

 

「どれも捨てられない!」とか「私はルックスを優先する!」とかは、回答になりません。捨てるものを決めるのですから。

 

人生やビジネスで、「これは捨てよう」と決断できる人は、素晴らしい人だと思います。

多くの場合、「何も捨てられない」といいながら、結果として様々なものを捨てていることが多いのです。

 

たとえば、家具店に入って、「この店は、何が豊富で、何は得意でないのですか?」と聞いてみてください。多くの店員は「当店には何でもあります!」と答えます。何物をも捨てていない店は、何も得意な分野が無いことが多いものです。

 

たとえば、レストランに電話して、「おたくはカップルむけ?家族向け?会社の接待向け?」と聞けば、「すべてのお客様に満足いただけます」と答える店を私は信用しません。おそらく、どの組み合わせで行っても、満足できそうにないからです。

 

一方で、「これは捨てよう」と決断した人や組織は、それ以外の何かでカバーできるはずだと考えます。これが仮説です。そして、それが失敗に終われば、仮説を改め、捨てるものを変えるか、捨て方を変えるはずです。あるいは成功したとしても、常に、捨てたものをそろそろ取り戻そうと考えるか、まだ早いと考えるか、常に仮説を検証しつつ、仮説の再設定を考えるものなのです。

 

捨てるものを決められない人や組織は、逆に言えば、追及するものをも決めていない場合が多くあります。「何でもあります」には、個性はなく、魅力もありません。

 

冒頭の「究極問題」。

例えば、大阪の著名な落語家であった、桂春団治の奥さんは、ご主人に対して経済力を求めなかったものだと推測します。「自分が何とかやりくりする」という覚悟と自信があったのかもしれません。

「何かを捨てる」「何かを求めない」という決断は、自分でそれをカバーするという決意でもあるのです。

 

 

 

2007424日 ゴーイング・コンサーン(going concern

 

「企業はゴーイング・コンサーンである」とよく、言われます。

ゴーイングは「営業中」という意味であり、コンサーンは「会社」という意味ですから、「やってる会社」というように、軽い意味にとらえてしまうことも多いのですが、実は、「企業はゴーイング・コンサーンである」というフレーズは、もっと重い意味で使われています。

 

実は近代のビジネスは、ゴーイング・コンサーンでないスタイルで始まりました。

 

むかしむかし、欧州の人々が、「胡椒(コショー)を得るために、インドまで遠征した」という話を世界史で学んだおぼえがありますよね。

ちょっと脱線しますが、「なんでコショーなんかのため!?」って思いませんでしたか?

冷蔵庫のない時代、冷蔵保存も冷蔵輸送もなかった時代、肉食人種である欧州人は、必ずしも新鮮でない肉を食べるのがタイヘンでした。みんなが田舎に住んでいる時代はまだよかったのですが、パリやロンドンなどの都会が発達すると、田舎で飼育している牛や豚などの肉を、冷蔵しないで都会に運び、都会で売り、都会で食べるのは苦痛でした。クサイのです、肉が。インドなどの暑い国で、多くの宗教が菜食主義を主張している背景には、くさりかけた肉を食べると健康によくないということがあるとも言われています。一方、欧州諸国では、コショーをかければギリギリセーフみたいなところがあって、コショーは必需品。それも、都会に住む金持ちにとっての必需品ですから、その価格はうなぎのぼり。都市が発達すればするほど、コショーの値段は上がったのです。

 

ですから、コショーを運ぶ商人は多かった。

それが、中世を経て、ルネッサンス時代になると、正確な地図ができたり、航海術が向上したりして、アフリカの南端をぐるっと回ってインドまで大きな船で行き、コショーを積んで帰ってくるというビジネスが大流行しました。

船は沈む可能性もあり、海賊に襲われる可能性もある。

計画どおりにコショーを積んで帰って来れるかどうかはわかりませんが、成功すれば莫大な利益が待っています。

 

近代のビジネスは、「1つの航海」が単位でした。

この単位で、株主を集め、資金を調達し、代表取締役=船長を決め、従業員=船乗りを集める。ビジネスの期間は、半年の場合もあれば、嵐にあったりしたせいで2年かかるといったこともありました。失敗=沈没すれば、株主は資金を失い、取締役は命を失う。一方、成功すれば、数年間は遊んで暮らせるリターンがあったとも言われています。

 

この、「バクチのようなビジネス」を変えたのは、英国やオランダの「東インド会社」などでした。日本が、関が原の合戦をやっている時代の話です。

 

「ビジネスは1回かぎりの航海という単位でとらえるものではなく、複数の航海の組み合わせ、いや、ビジネスは永久に続くものとしてとらえ、各年度ごとに該当する航海の成否を換算しながら、決算をすべきものだ」というのが、ゴーイング・コンサーンという言葉の中に込められている考えです。

 

今日の開始1本にこだわりながらも、今月の積上げどころか、年度累計の積上げ、いや、さらに、永久に続くという前提で考えてビジネスをとらえ、成績評価は月別・年度別で行う。これがゴーイング・コンサーンの考えです。

 

そして、さらに、「永久に続くという前提」を、より深くかみしめて欲しいのです。

 

本人OKが取れなかったスタッフは、今日の開始には寄与しません。しかし、明日の開始、来月の開始に寄与するかもしれないし、極論ですが、その人の子供が40年後の当社の開始に寄与するかもしれないのです。なにせ、永久なのですから。

本人OKが取れそうにないと思ったら、ほとんどガチャ切りする。この行動パターンは、企業は永久であるべきという考えに反しています。

 

ロット受注が入った、これを開始する。

そこまではいいのですが、その後、もはやロット受注みたいな話はないと思うと、次第に冷めてゆき、顧客企業との距離が広がる。

この行動パターンも、企業は永久であるべきという考えに反しています。5年後に別なロットが入るかもしれないのですから。

 

マヌケな企業は、今日の売上だけに奔走し、将来のことを考えません。

賢い企業は、たとえ将来、自分がその業務の担当でないと思っても、企業は永久であるべきという考えのもとで行動するものなのです。世界のトップ企業は、みなこれであり、例外はありません。

 

 

 

2007425日 シュンスケ、最優秀選手に!

 

サッカーの中村俊輔選手が、スコットランドで最優秀選手に選ばれました。

 

正式には、選手協会賞とでも呼ぶべきもので、プロ選手が1票ずつの選挙権を持ち、今シーズンの最優秀選手を選ぶというものだそうです。新聞記者が投票するといったものではありません。私の感想ですが、それゆえになおさら、この受賞には価値があるように思いました。

 

さて、日本の新聞に紹介された、スコットランドの解説者のセリフを紹介します。「彼はヘディングもできないし、タックルもできない。しかし、それがどうした。彼は天才だ」とありました。ちょっと笑えますね。

 

このコメントの背景には、「でも、アイツはヘディングができない」とか「タックルができない」といった辛らつな評価があるということでしょう。

4月18日「短所は目立つもの」で述べたように、「タックルができない」といった短所が目立っていたのです。彼の良さである、技術やセンスがプラス評価される以上に、短所が目立っていたものと想像します。

 

スコットランド・プロリーグの選手たちは、シュンスケと比較すると、全く違う印象を与えます。身長は彼より10センチぐらい高く、筋肉は20キロぐらい余計についているというカンジ。「引き締まったプロレスラー」みたいな体格で、かつ、陸上選手のようなスピードで疾駆する選手がほとんどです。ヘディングの競り合いで鼻の骨を折るようなことは日常茶飯事ですし、タックルは、ボールと選手をまとめて場外に吹っ飛ばすような勢いです。

 

こんな環境ですから、シュンスケの短所、スピードがないことや、当たりに弱い短所はすごく目立ったのでしょう。

しかし彼は、短所を筋トレなどでカバーしつつも、長所を生かし、また、チームメイトも彼の長所を尊重してくれたおかげで、大きな付加価値を生み出すことに成功しました。

長所を生かす、長所を伸ばすことがいかに大切であるかを教えてくれる事例だと思います。

 

実は私、スコットランドでは彼の受賞がどのように受け止められているのかが知りたくて、かの地のインターネット・サイトをちょっとのぞきました。

 

あるサイトでは、誰もが自由に投稿できるものだったのですが、次のようなコメントがありました。

「20年前に誰がこんなことを予想できただろうか。日本人が受賞するなんて。いったい、我々はどこで何を間違ったのか」

ハワイ出身の曙が横綱になったときや、モンゴル出身の朝昇龍が横綱になってときの日本人の反応にも、同じようなものがあったかもしれませんね。

 

また、彼を評価する新聞記事に、彼の「consistency」が高く評価できるといった論調があったようですが、それに対して、

「サッカーの評価にconsistencyが出てくるとは思わなかった。そもそも、あの日本人はconsistencyという単語の意味すらわからないのではないか」

といった否定的、ある意味で人種差別的なコメントもありました。

この単語「consistency」は、「堅実さ」といった意味で、シュンスケが技術を生かして、ボールをなかなか取られない、ミスをしないことを述べていたものと想像します。

一方、スコットランドのファンの多くは、ボールを奪われるかもしれないリスクを犯してでも敵陣に切り込んでいくスタイルを好んでいるのでしょう。

 

このように、否定的なコメントが多い中で、

「試合の後で、彼がいつも居残って練習している姿を見てきた。彼が引退した後は、スコットランドに残って、指導者になってもらいたいものだ」

という好意的なコメントもありました。

 

異なる価値観や、スタイルを持って乗り込んできた人に対して、人々は多くの場合、目立つ短所を指摘しながら否定的な受け止め方をするものです。人間はそもそも保守的であり、過去の成功体験などからなかなか逃げられないからでしょう。

 

私たちもそうではありませんか?

違う考えを述べる人、違うやり方をやろうとする人に対して、まず、否定する。とにかく否定する。理屈を聞かずに否定する。理屈を言わずに否定する。

これでは、人間は賢くなれません。

 

違う考えを言う勇気ある新入りは、シュンスケかもしれないのです。

 

 

 

2007426日 鈴木さんの言葉

 

日本経済新聞の「私の履歴書」。

セブン-イレブン・ジャパンを作り、イトーヨーカ堂を改革した鈴木敏文さん。

私が尊敬する経営者の一人です。その鈴木さんの「私の履歴書」で印象に残った言葉を1つ。

 

「顧客の都合を無視して、自分たちの生産性が上がるわけがない」。

 

最初に、この言葉が使われた文脈を紹介します。

大規模店舗法あるいは「大店法(だいてんほう)」と呼ばれる法律があって、これによって、スーパーマーケットなどの大規模店舗の出店を、行政=監督官庁が規制してきました。行政は、「営業時間を夕方六時までに制限」したり、「日曜休業」とすることで、開店時間を短縮したりすることで、従業員の採用を容易にし、残業を減らすなどによって、スーパーの生産性が上がるだろうと、主張したといいます。鈴木さんは、これに対して、上記の言葉、顧客の都合を無視して生産性が上がるわけがない、と考えたのです。

 

日経新聞の「私の履歴書」では、これ以上の説明はありません。

この言葉を、私なりに解釈してみたいと思います。

 

やるべき仕事が100、決まっているとします。

これを遂行するには、夜間や週末を使うよりも、平日の日中だけで行うほうが生産性は高くなる。夜間、全員が残業をするわけではありませんから、一部の人が残業をするために光熱費を全フロア分使うよりも、全員を帰して電気を切った方が生産性は高いでしょう。あるいは、週末に仕事をするには、週末でも働くという人を多数雇用する必要があり、その採用コストや教育コスト、平日と週末のマネジメントの違いなどによる間接コストなど、結果として高コストとなり、生産性が下がることが一般的です。

ですから、「営業時間を制限したり、日曜休業する」ことが生産性向上に資するという考えは、あながち間違ってはいないでしょう。

 

しかし、この考えは「やるべき仕事が100、決まっている」という前提での話です。「官僚的」な考え、と言ってもいいかもしれません。

 

小売業の経営が仕事である鈴木さんの考えを想像してみましょう。

営業時間の制限や日曜休業は、お客様である消費者の都合を無視している。従って、お客様の支持が得られない。お客様には様々な都合があるだろうが、こちらの都合にたまたま合致するお客様だけ、すなわち、毎日の買い物は夕方までに絶対に済ませる専業主婦の方などで、さらに、日曜日は買い物をしないという生活パターンの方だけからしか支持が得られない。つまり、こちらの都合にたまたま合うという方だけをお客様とするということだから、お客様は増えないどころか、減っていく可能性の方が強いだろう。

 

別な表現をすれば、仕事を100と決めてかかると、仕事はむしろ減っていく。つまり、売上、事業規模が減っていく。生産性とは、売上をコストで割ったものであるが、自分たちの都合でコストを固定化すると、売上が伸びずに、生産性は伸びるどころか、次第に低下していく構造となる。

 

ここから私たちの人材ビジネスへの教訓を引き出したいと思います。

 

新営業システム、2時間人選、アライバル25などは、当初、私たちの都合で考えたものではありません。

「自分たちの良さを説明しても、お客様企業は聞く耳を持たず、欠員や増員のあるときだけ、即座の対応を求めているだけだ」というものが新営業システムの根幹にある考え方だと思いますが、これを究極にまで掘り下げて考案したものが新営業システムであり、まさに、お客様の都合だけを優先し、我々自身の都合を無視したところに、このシステムの優れている点があるものと思います。

 

2時間人選でも、アライバル25でも、我々の都合を考えたら、「そんなバカらしいことをやる意味があるのか」と疑いたくなるほど、究極のスピードを要しますし、ある意味で、お客様にとって、過剰なサービスといえなくもないと思います。しかしながら、このことが、我々の姿勢をお客様に示すことになり、支持を頂戴できたゆえに、我々の急成長が実現できたのです。

 

当初、私たちは、自分自身の都合を無視し、お客様の都合だけを追求することにより、新たな付加価値を社会に提案し、提供してきたのです。

 

ここで、みなさんに考えて欲しいことがあります。

 

当初、お客様の都合だけを考えた私たちのシステムですが、今、それに慣れてしまったゆえに、それをそのとおりに進めることが我々の「都合によい」ことになってしまって、いつしか、お客様=企業ならびにスタッフさんの都合を軽視してしまっているようなことがないか、と。

 

「なぜ、そうしているのか?」と問うてみて、「昔からコレでやってるから」とか「5年前に○○さんが決めたやり方だから」という答えしか返ってこないのであれば、この怖れがあるものと想像します。

 

古今東西、どんな施策であっても、当初のねらい、当初の課題認識が忘れられ、形だけが生き残るということは、枚挙に暇が無いほどの事例があります。

 

日経新聞「私の履歴書」の鈴木さんは、軽く、「お客様の都合を無視して、生産性が上がるはずがない」と喝破しましたが、私には、このような背景があるものと思えました。

 

 

 

2007427日 自分にしかできないこと

 

「バイク作りの神様」と呼ばれた男性が、自分の作ったバイクの試験走行で大怪我をし、その後、「車椅子作りの神様」と呼ばれている話を、NHKのテレビで見ました。

 

事故にあった直後は、途方に暮れ、それでも現実を受け入れ、車椅子の生活を始めようとしました。ところが車椅子をいくつも試してみますが、どれも使いづらい。彼は、「自分ならできるんじゃないか」と思い、車椅子を作り始めます。そしてある日、「これは自分にしかできない」と決めて、車椅子を作る会社を興したのです。

 

事故に遭えば、誰でも「何でオレが!」と思うものでしょう。病気だって同じだと思います。「これは何の試練なんだ!」と神様に問い掛けても、神は沈黙を保つだけ。

この人は、「これは自分にしかできない」と思って初めて、吹っ切れたと言っていました。大変に重みのある言葉だったと感じました。

 

人は、「これは自分にしかできない」と思ったとき、想像をはるかに超える能力を発揮するものです。どんな小さなことでも、「自分にしかできない」と思えるものに直面したとき、様々なアイディアが浮かび、試行錯誤が楽しくてしょうがない状態になり、失敗はブレーキにならず、工夫に次ぐ工夫が湧いて出てくるものなのです。

 

私事で恐縮ですが、私も、この「これは自分にしかできない」と感じたときに、脳の回転は高性能パソコンを上回り、目に入るものがすべてヒントに感じられ、電車に乗っていても、お風呂に入っていても考えは休むことを知らず、そうかといって、全く疲れを感じない状態になります。

 

サラリーマン生活28年になりましたが、「これは自分にしかできない」と感じた、大きなものは、これまでに3つありました。

1つ目は、このコラムの12月5日「最強軍団の夢」で紹介しましたが、私が30歳ぐらいのころに昔の会社で作り上げた「最強軍団」のときです。

2つ目は、NCS=2時間人選システムを作ったときのことです。

そして3つ目は、実は、このコラムというかブログというか、この文章です。

 

もうお気づきの方も多いかと思いますが、毎日のこの文章は、みなさんに「考えていただくため」に書いています。それぞれの役割で、様々な状況や課題に直面しているみなさんに、知恵を絞ってもらうために、ヒントになればいいなと思って書いています。

ただ、時折、ワルノリする怖れがあり、何回も言いますが、3月27日「女は30歳から」のような原稿が出来上がってしまうときがあります。この文章というか、3月27日は永久欠番のようになってしまいましたね。はは。って笑っていますけど、ちゃんと反省しています。はい。