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2007年7月

200772 ボディランゲージ

 

久しぶりに大阪出張に行ってきました。

夜、当社の若者?たちとカジュアル・イタリアンで野菜中心の食事をしましたが(若者たちは肉も食べてましたが)、その後、ホテルのてっぺんで一杯だけラフロイグ=スコッチ・ウィスキーを飲んでいたときのハナシ。

 

梅田駅近くのそのホテルの最上階は、夜景が見えるということと、バンドのナマ演奏があるということで、カップル多数。

私は一人ということもあり、カウンターに席を取りましたが、カウンターはカップルだらけでした。

 

観察眼が鋭い私には、それぞれのカップルの親密度合いが手にとるようにわかってしまう。

まず、二人の物理的距離。ヒジとヒジ、膝と膝の距離でおおよそが判明してしまう。

次に身体の向き。カウンターですから隣り合って座っているのだけれど、向かい合う方角に身体をナナメにしているか、あるいは、正面を向き、相手には横顔を見せるだけのような座り方かで、それぞれの相手に対する気持ちがバレバレ。例えば、片方はほとんど真横を向いているのに、相手は正面を向いていれば、「こりゃ片思いか」というわけ。

さらに、顔の上下の角度。下から見上げるように甘える女性がいるかと思えば、あごを引いて、なんだか防御の姿勢に見える人もいる。

 

「目は口ほどにものを言い」とも言いますが、言語を使わないコミュニケーションを、非言語コミュニケーションといい、その代表選手がボディランゲージbody languageです。「身体」の「言語」というわけ。

ジェスチャーという言葉もありますが、ジェスチャーは、自ら進んで何かを伝えようとするときに、身振り手振りを使うことを指します。一方、ボディランゲージは、何かを伝えようと必死になっているわけでなくとも、勝手に伝達されてしまうものをも含みます。つまり、意識的ではないのに身体の向きが相手の方を向いていたり、あるいは逆方向を向いていたり。

 

特に日本人は、能動的に身振り手振りを使うジェスチャーはあまり得意ではないようですが、受動的な立場にあるとき、派手ではないのですが、自然にボディランゲージが何かを訴えていることがよくあります。

 

たとえば、私が女性と二人でタクシーに乗る局面があったとして(ありませんけど)、彼女が自分と私の間にバッグを置けば、「こりゃ脈ナシだ」ということになります(これも、ありませんけど)。この行動様式は、意図的に「来ないでね」「ここが境界線!」という意思表示の場合もあれば、意図せず自然にあたかも防衛本能のように行われることがあります。

あるいは、私が女性とバーカウンターに隣り合わせで座ったとして(ありませんけど)、彼女の脚の組み方で、身体の向きがこちらを向いたり・あちらを向いたり(これも、ありませんけど)となり、相手の私に対する気持ちが判明します(そんなこと気にしませんけど)。

 

日本人はあまりハッキリと自分の意見を言わなかったり、断言しなかったりといった傾向がありますが、私の考えですが「ボディランゲージではウソがつけない」という法則があるように思います。

 

たとえば、「今日、飲みに行くか!」と上司が誘ったような独り言のような展開があったとしましょう。まだ、昼前で、本当に行くかどうかがはっきりしない状況だとします。「はい」と口では言うものの、「飲みに行くか!」と言われた瞬間に、身体が縮こまるような反応をしてしまうことがあります。身体は身震い、口ではお愛想。

たとえば、「これ、本当にできるの!?」と上司に詰問されている状況。「はい」と答えなければ煉獄の苦しみが続くゆえ、口ではそう答えるものの、下を向いて目をつぶっていれば、その答えが本当であるわけがない。

 

私が作ったことわざ、別名「佐藤治夫の第五法則」=「伝えるときはジェスチャーを使い、同時に、相手のボディランゲージを観察せよ」。

 

特に上司の立場にある方が、部下に何かを伝えよう、あるいは、聞き出そうというときは、相手のボディランゲージに注目すべきです。

身体の向き、身体が開いているか・閉じているか、顔の向き、肩に力が入っているか・リラックスしているか、などなど。

 

 

 

200773 香水とオーデコロン

 

バラのエキスなど、香りの元をアルコールに溶かしたものが香水。アルコールは揮発性なので、「香りが舞う」という効果がある。

 

香水はフランス語でparfumパルファム。英語ならperfumeパフューム。

女性ならご存知でしょうが、香水=パルファムの他に、

 eau de parfum(オー・ド・パルファム)

 eau de toilette(オー・ド・トワレ)

 eau de Clogne(オー・デ・コロン)

といった分類があり、香水=パルファムを筆頭にして、次第に「薄くなる」順序で並べました。つまり、オー・デ・コロンがここでは一番「薄い」。

 

フランス語のeauは「水」。つまり、eauが着いているものはすべて「水で薄めた」ということ。

余談ですが「eau de vie」オー・ド・ヴィなんて名前を付けたバーをよく見かけますが、「命の水」=お酒のこと、とシャレたわけですね。

 

フランス語toilette(トワレ)は英語toilet(トイレット)に相当しますが、もともとは「化粧」という意味。オー・ド・トワレは「化粧の水」の意。

これまた余談ですが、男性諸氏は、女性と食事にいったとき、帰り際に「トイレ行く?」なんて聞くのはサイテーですが、女性に「トイレ行きたい」と言わせるヤツもダメですね。「化粧室はあそこだと思うよ」と促して、その間にとっととお勘定を済ませましょう。

 

次にコロンCologneは実は、ドイツにある都市ケルンのこと。

ローマ帝国によって建設された都市ケルンは、ライン川の中流にある。オー・デ・コロンは「ケルンの水」という意味だが、この語源は、ケルンの人の発明によるということらしい。

 

日本人は肉食でなかったせいか、欧米人に比較すると体臭がキツくなく、また、清潔好きであったり、無臭や自然な香りが好きだったりということもあって、香水があまり普及しなかったが、一方で、オー・デ・コロンはわりと普及しましたよね。

日本に入った時期が早かったので、フランス語のdeを「デ」と読んで、オー・デ・コロンになりましたが、後からやってきたeau de toiletteはオー・ド・トワレというように、deがより発音の近い「ド」と変わりました。

 

本日の教訓は、「キツい表現は、水で薄めてコロンにしろ!」というもの。

 

当社は若い人が多いことと、スピードを重視することを主因として、言葉の表現がストレートであり、時折、ストレートに過ぎることがあります。

「あえて」ストレートにして、スピード感を出す場合はよいのですが、配慮が足りなかったり、語彙が貧弱な理由で、言葉がキツすぎることがあるようです。

 

「こういう観点での検討が欠如しているのは、考慮不足と言われてもしかたがない」と、「これ、考えた!? バカか、オマエ!?」

は、意味は全く同じですが、後者がキツい香水ならば、前者は水で薄めたコロンでしょう。

 

本当にパーが相手の場合は、水で薄めてしまうと「気がつかず」「意味が伝わらない」という危険性もありますが、しかし、多くの場合、あまりにストレートというか、必然性のない状況での過激な表現は、しゃべっている方がパーに見えます。「言葉、知らないの?」みたいなカンジ。

 

恋愛の局面などにも言えることですが、水で薄めたことによって、むしろ効果が大きくなることだってあるのです。

「なぜ叱られたのか」を考えさせたいならば、相手がこちらの言葉を深く飲み込むように、水でうすめることも必要です。

キツイ香水は、最初すぐに気づきますが、その後、長時間、近くにいたいと思いませんよね。キツイ表現にも似たところがあると思います。

 

 

 

200774 指標

 

当社の営業部門には「積上げ」「開始」「受注」「業確設定数」「本人OK数」といった業績指標があります。

同業他社は知りませんが、様々な業種・業態で、事業の成長性や収益性を測定することを目的にした様々な指標が活用されています。

 

たとえば、小売業ならば「日販(にっぱん)」=一日の売上金額、「客単価(きゃくたんか)」=顧客一人あたりの平均売上金額、外食産業なら「回転率」、投資事業なら「内部収益率」や「時間過重収益率」などなど。

 

「この事業ならこの指標」といった言わば「常識」があるようですが、しかしながら、市場の動向や組織の置かれた環境などによって、優先すべき指標は異なります。

当社の営業責任者会議でも、「この組織の現在の最重点課題は受注強化ではありませんか」とか「いや、開始不足に尽きる」といった表現がされるように、組織の状況によっては優先すべき指標が異なる可能性があります。しかしながら同時に、最終的に追求すべき指標があることも事実であり、当社営業ならそれは「積上げ」ということになるでしょう。

 

実は、当社の業務部門であるSSOMは、自らの生産性を測定する指標として、スタッフさん一人あたりの業務コスト月額を計算しています。

業務部門が投入するエネルギー全体は、当社の総稼働数にほぼ比例するという経験則があります。つまり、1万稼働が2万稼働になれば業務量は2倍、4万稼働、8万稼働になればさらにその倍というように、業務量が増えてきた経緯があります。

しかしながら経済学において「規模の経済性」という表現があるように、事業規模が2倍になったときに、業務量もそのまま2倍になるようでは、収益性に課題が残るというか、利益が出ない。何のために投資しているのか、そもそも何のために事業を興したかがわからない。

そこで、事業規模が2倍になっても、業務量は2倍まではいかずに、たとえば1.8倍で抑えるといった努力を測定する目的で、コストをベースとした生産性を測定しようと考えたのです。

 

その月、1ヶ月でかかった業務コスト全体を、その月に稼働したスタッフさん全体の数で割ってみます。こうすることで、スタッフさん一人・1ヶ月に対応するコストが計算できます。

この数字はコストですから、小さいほうがよいことは言うまでもありません。事業規模を拡大していく過程で、この数字を少しずつ小さくする=生産性を上げる=収益性を強化するということにチャレンジしているのです。

 

「コストを下げる」というと、なんだかちょっと後ろ向きにとらえる人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。

結論から言えば、同じサービスをするなら、小さいコストで実現できる方が有能な組織と言えるはずです。このことは逆に考えれば、同額のコストをかけるならば、よりよいサービスを提供できることを意味します。

さらに言えば、コストを下げたことによって得られた利益を投資に回すことによって、さらにコストを下げる施策や、さらにサービスを上げる施策が実現できるのです。

 

トヨタ自動車は、「カンバン方式」をはじめとする様々なコスト削減策によって収益性を高め、そこから得られた利益を投資に回すことによって、ハイブリッドカーなどの研究開発を他社より先行させることができました。

 

業務部門であるSSOMは、実は今期予算で、前期比10%以上の生産性強化を盛り込みました。つまり、さきほどのスタッフさん一人・1ヶ月の対応コストを、前年比で10%以上削減する計画を立てています。

コスト削減ですから、削減額の総額がズバリ、利益の増額に直結します。

地味な努力かもしれませんが、会社全体への貢献は大きいものと考えています。

 

SSOMは、業務部門からサービス部門への転身を図ると、6月19日「ブランドイメージ」で申し上げましたが、まずは業務の効率性を測るこの指標を導入したというわけです。今後は、サービスのレベルを測定する指標をも導入したいと考えていますが、現時点ではまだ、指標の候補となるものはありません。

今期は、業務の効率を上げながらサービスを同時に強化するという「業務改革」を進め、その後、サービスについての指標を検討していきたいと考えています。

 

さて、営業を除く他のさまざまな部門、管理部門や企画部門、その他の業務部門など、あなたの部門にも、自らを省みることができる指標がありますか?

測定する指標を決め、目標値を決めること、あるいは、同業他社か他業界他社における想定値を目標値あるいは参考値にしながら、自分自身を常に省みることを「ベンチマーキング」といいます。(3月22日「ベンチマーク」参照)。

現実を客観的に見るためには大変に有効な手段であると思います。

このためには、まず、指標を決めることが第一歩です。

 

 

 

200775 愛妻弁当

 

「愛情こめて作っているんだから、マズイはずがない!」

というのは、残念ながら真理ではありません。

料理には技術が必要です。

ただし、一方で、

「愛情こめて作りつづければ、必ずおいしくなる」

というのは真理だと思います。

 

人間は進歩、進化しますが、かといって、短期間で目標が達成できるわけではない。

少年サッカーのコーチをしていますが、時折、母親が「ウチの子は、最近あんなに一生懸命やっているのに上手にならない」というように嘆くことがあります。

しかしながらこのことも、愛情こめれば即座に料理がおいしくなるわけではないことと同じで、「最近、一生懸命」ぐらいで効果がでるわけではありません。

しかし同時に、愛情や熱意を長期間にわたって継続できれば、料理もサッカーもかならず上達します。

 

スタッフさんへのサービスも全く同様です。

 

「これだけ相手のことを考えているんだから、感謝されないハズがない!」

というのは、場合によっては早計かもしれません。

 

料理の話に戻して考えてみましょう。

愛情をこめて、昨日も今日も明日も、何年も作りつづけることができれば、必ず料理は上達します。

しかし、その何年もの間に、「前回は味が薄いと言っていた」「なぜ、このオカズを残したのだろう」「今日はおいしいと言ってくれた」などの、様々な経験とそこから学ぶ姿勢があってはじめて、料理が上達していくのです。

1週間前から「1週間もかけて考え、練習し、作ったのに、おいしくなさそうだった」という反省があったとすれば、それは、たった1週間しか愛情を注いでこなかったからかもしれません。

バレンタインに向けて、1週間かけて手作りチョコレートを作ったとしても、必ずしも成功しないのも同じことでしょう。

 

数多くの失敗体験と成功体験によって学習した場合のみ、そして、その根本に愛情や熱意があった場合にのみ、「おいしい!」という結果が得られるのではないでしょうか。

 

私たちは、スタッフさんたちに対して、これまで、必ずしも愛情をこめたお弁当を渡してきたわけではないかもしれません。

そうであればなおさら、短期間で「おいしい!」と言っていただけるわけではないでしょう。

作りつづけないといけないのです。何年もかけて。

 

さて、ここで観点を変えて、「愛情はないが技術がある場合に料理はおいしいかどうか」を考えてみたいと思います。

たぶん、おいしいハズです。

しかしながら、その料理を何年も食べつづけた場合、おいしいと感じ続けることができるかどうかは、別問題だとも思います。

 

相手は長期間という時間軸の中で、変わっていくのです。人間ですから。

愛情がなければ、その変化に気づかないものと想像します。

料理店における料理人は、特定の顧客のためだけに料理し続けるわけではありませんが、それでも本当に腕の良い料理人は、顧客の食べる姿を直接確認したり、あるいは想像したりしながら、「おいしく食べてもらうために」自分自身も変化・進化し続けるものです。

 

当社のサービスも同様でしょう。

トークや対応の技術があれば、スタッフさんの満足を得られる可能性は高い。しかしながら、本当に相手のことを考え続けることができないサービスであるならば、時間の経過とともに劣化していくはずです。ここでも相手は、変わりつづける人間なのですから。

 

ここからは蛇足ですが、私は、愛妻かどうかは別にして、愛妻弁当を持ってきたことがありません。

一方、独身だった新入社員時代=今から28年前、自分で弁当を作って持ってきていました。貧乏だったので。

この弁当が評判になり、会社の同僚が「買いたい!」と言い出したことをキッカケに、毎日、数名分の弁当を持って会社に行き、1つ250円=28年前の物価で販売した実績があります。

「うまい!安い!」と好評を頂戴しましたが、長続きはしませんでした。

なぜなら、私は同僚や先輩(いずれも男性)を愛していたわけではないので、重い荷物と安い価格に嫌気が差したのです。

ちなみに、こんな私の異様な生活パターンを見た同僚の女子社員が、時折、弁当を差し入れてくれたことがありました。

 

あの頃はよかった。。。。。

 

 

 

200776日 ランチェスターの法則

 

オペレーションズ・リサーチという数学の応用分野である学問があります。

オペレーションズoperationsとは軍事行動あるいは軍事作戦という意味で、それを研究するresearchという学問分野です。

なお余談ですが、医者が「オペ」=手術というのは、英語でoperation

 

第一次世界大戦の際に、英国の学者であり発明家であり事業家でもあった、ランチェスターという人物が提言した「ランチェスターの法則」は、わかりやすい上に画期的であったため有名になり、参謀本部などで「常識」となっただけでなく、その後、ビジネス分野でも盛んに引用されるようになりました。

 

具体例で申し上げれば、英国軍の飛行機10台がドイツ軍の飛行機8台と空中戦を行った場合、10対8以上の戦果を上げることができるが、逆に飛行機台数が、8:10だった場合、受ける損害は飛行機台数に反比例するどころか、もっと大きくなる。

このことを数学を使って説明したものがランチェスターの法則です。

 

わかりやすい事例で説明しましょう。

甲軍の飛行機が2台、乙軍の飛行機が1台、2:1の空中戦を行うものとします。両軍の飛行機・銃器の性能、飛行士の能力などを互角と仮定します。

甲軍の2台の飛行機が、乙の飛行機1台に集中砲火を浴びせます。一方で、乙軍の飛行機は、生き残るためには甲軍2台の飛行機の一方だけをねらうわけには行かず、一方と銃撃戦をやった直後に他方からも銃撃を受けるでしょう。

たとえば、それぞれの飛行機が10分間に100発発射したとして、そのうち10発が命中したとすれば、乙軍の飛行機は20発の有効弾を被弾することになりますが、甲軍の飛行機はそれぞれ5発ずつしか被弾しないことになります。

つまり、飛行機台数は2:1ですが、1台の飛行機への被弾数は5:20=1:4となります。一定数の被弾を受けると飛行機は戦闘不能、飛行不能となりますから、戦果という尺度で考えれば、1:4をひっくり返して4:1。

 

つまり、戦力=飛行機台数の比が、戦果という結果には2乗で効いてくるということになるのです。

戦力比が10:8ならば、戦果の比は100:64になるです。

 

ただし、この法則が成り立つのは、

  「戦国武将が1対1で戦うような戦い方ではなく」

  「数的有利な状況を生み出して、そこで特定の敵をみんなで叩く戦法をとり」

  「やられてしまった敵が生き返るようなことはなく、戦闘不能となる」

という条件を満足する場合です。

 

余談ですが、宮本武蔵が吉岡一門と1対多の戦闘をしたとき、映画などでは「お約束」となっていますが、田んぼのあぜ道で、常に武蔵は敵と1対1の状況を作り出して、一人ずつ確実に相手を倒していきます。

ですから、1対1タイプの戦闘には、この法則は適用できません。

ランチェスターも、1対1タイプの戦いがあちこちで起こるような戦闘では、線型タイプ=1次関数タイプ=比例するタイプの別な数式を用いて説明しています。

 

ここからは第二幕。

今回の話は第三幕がメインですから、頑張ってついてきてください。

 

「稲刈り競争ゲーム」を甲軍と乙軍が戦うものとします。

広大な田んぼに稔っている稲を、一定時間内にできるだけたくさん刈り取るというゲーム。

甲軍が10名、乙軍が8名の参加なら、結果はどうなるでしょうか。

ここでも一人あたりの能力を互角とします。

簡単な計算ですよね?戦力が10:8なら、戦果=刈り取った稲の本数も10:8になるはずです。

 

さて、それでは、私たちが従事している人材ビジネス、特に一般派遣のような市場で、当社と競合他社が「戦う」場合、飛行機による空中戦と、稲刈り競争のどちらが、より似ているでしょうか。

戦力=営業体制が10:8のとき、戦果=積上げあるいは開始は10:8でしょうか、それとも100:64でしょうか。

 

ちょっと考えればわかりますよね。

私たちの事業は、稲刈りに似ています。田んぼの稲を刈り取るように、派遣先から受注を頂戴してくるのです。もちろん田んぼのように、あらかじめ稲が整然と並んでいるようなことはなく、受注はどこにあるかわかりません。あるいは、稲のように同時期にすべてが「刈り入れ時」となるわけではなく、あるところでは逼迫した人材不足であってもその隣ではゆったりしているかもしれません。

 

ですから、私たちの事業は、戦力=営業力に比例した戦果=積上げあるいは開始が期待できるものと考えることができます。

つまり、営業体制が10:8なら、開始も10:8なのです。

 

さて、ここで、社歴の長い方なら「おや?」と思っていただきたい。

当社が急成長を実現していた90年代後半、当社の営業体制と競合他社の営業体制を比較して、戦力の差より大きな戦果の差があったことを思い出していただきたい。

つまり、営業体制は10:8であったにもかかわらず、戦果はそれこそ100:64ぐらいの開きがあった。それはなぜだったのか。

 

ここからが第三幕です。

 

「勢いがあったから」「やる気が違っていた」「一人あたりの行動量に差があった」。

いずれも間違いではありませんが、それでも同じ人間ですから、当社のみなさんが110%の活躍をしたとしても、一人あたりの戦果も110%にすぎません。

計算してみればわかりますが、100名のそれぞれが110%活躍したとしても、80名の100%の1.37倍にすぎません。100:64は1.56倍の違いになりますから、遠く及びません。

それに全員が一律に相手より10%よけいに活躍するのは容易ではないでしょう。

 

ここからは私の仮説です。

おそらく、稲刈り競争だけでなく、空軍による空中戦のような効果もあったのです。

つまり、「SSの行動量やスピードを目の当たりにした相手がやる気を失った」のです。

 

稲刈り競争は淡々と稲を刈っていきます。

しかし、もし相手が、自分よりはるかにハイスピードで稲を刈りまくり、そして疲れることを知らなかったとしたら、どうでしょうか。やる気を失うでしょう。

稲刈り競争は空中戦のように、相手に向かって射撃して直接的に相手の戦力を奪うことはありません。空中戦のように相手の戦力を奪うからこそ、2乗の法則が効いてくるのであって、田んぼにむかって淡々と稲を刈るゲームでは、相手の戦力が劣化することはないのです。普通は。

 

ところが急成長を続ける当社は、競争相手が呆れるほどのやる気とスピードを、あたかも見せびらかすようにして快進撃を続け、それを見た相手が少しずつやる気を失っていったのではないでしょうか。

 

100名が110%活躍した当社と、80名が90%活躍した他社では、計算してみるとわかりますが、戦果は1.53倍ぐらいの開きが出てくるのです。

 

競争相手が「やる気を失うほど」の「やる気」をこちらが示せば、戦果は戦力の差をこえて、ほとんど2乗で効いてくることがあるのです。

 

 

 

200779日 ナイスプレーを邪魔するな

 

私がサッカー審判資格を取得するために受けた講習の中で、ベテラン審判員から受けた話で印象に残ったのが、このフレーズでした。

 

サッカーはどんどん進歩する。

プレーヤーは、相手の戦術を学び、それを越える発想・技術を常に追い求める。相手にとってだけでなく、審判や観客にとっても驚くようなプレーをいつも考えている。旧来の常識にとらわれたり、あるいは怠慢によって、選手のナイスプレーを邪魔してはならない。

 

例として少し専門的になりますが、オフサイド・トラップという戦術について紹介します。

守備側の戦術として、相手選手をオフサイドという反則に陥れようというものがあります。頭脳的なプレーであり、高度な連携が要求されるものです。

これを知った相手選手は、オフサイドにならないように、しかし同時にギリギリでチャンスを作るような動きを考え出します。

例えば、オンサイド=反則ではない場所のギリギリのところを真横に走り、パスが出たタイミングで直角に曲がってスペースを突くという高度な連携プレーがあります。

攻撃側はオフサイドにならないギリギリのところをねらい、一方、守備側はオフサイドにするギリギリのライン・コントロールをするのです。

このとき、オフサイドになれば守備側のナイスプレーであり、オフサイドにならなければ攻撃側のナイスプレーでしょう。

審判は、どちらがより優れているかを、適正な位置からしっかりと見て、厳粛な判断を下さねばなりません。不勉強や怠慢、思い込みによって、選手たちのナイスプレーを邪魔してはならないのです。

 

サッカーが日進月歩であるように、私たち人材ビジネスの事業環境も大きく変わっています。

営業部門というよりも、プレーヤーたち、すなわち、営業行為そのものを推進している営業マン&営業ウーマンたちのナイスプレーの邪魔をしてはならないのが、営業本部であり、管理部門や業務部門など後方部隊なのです。

 

たとえば、社会保険。

非正規雇用、この言葉自体に私はじゃっかんの憤りを感じていますが、正規でない雇用、すなわち派遣労働者やパート・アルバイトに従事する労働者の社会保険加入率向上が、日本社会の大きな課題になってきています。

最近騒がれている「格差」の方角から考察すれば、今後ますます、正規雇用と非正規雇用の「ルールの違い」や「待遇の違い」がマスコミ等の注目を集めることは必定であり、その問題を悪化させたり、放置したりしている当事者がいわゆる「犯人探し」のターゲットになる怖れがあります。わかりやすく言えば、「派遣元は社会保険の会社負担金を出すのがイヤなので、社会保険の加入を推進せず、問題を放置している」というのがマスコミが書きたがるストーリーの第一であり、「それによって派遣元は大きな利益を出し、経営者は別荘を持ってる・ヨットを持ってる・絵画を持ってる・外車に乗ってる・銀座で遊んでる」といった、自称善良な一般市民が憤慨するネタを提供し、雑誌社は部数を伸ばし、TVは視聴率を上げることを考える。これが第二のストーリー。

残念ながら、日本のマスコミの多くはこの程度のレベルでしょう。

 

みなさんの方が私より現実を知っていると思いますが、登録者やスタッフさんで、社会保険のことを詳しく知らない人がまだまだ多い。

しかしこのことは、「だから私たち営業部隊も知らなくてよい」ことを意味しない。

この状況での、「営業選手のナイスプレー」とは、社会の変化を感知し、我々自身がいかに変わらねばならないかを認識し、まず自分自身が変わり、そして周囲に情報発信することではないでしょうか。

もちろん、サッカー同様、選手全員が常にナイスプレーをするとは限りません。中にはパーな選手がいることはどの分野でも同じ。しかし同時に、どの分野でもナイスプレーをしようと考える選手がいることも事実です。

 

社会保険の重要性が注目される傾向をつかんだ私たちは、数年前から準備を始めました。

しかしながら、その準備は「会社負担金の財務シミュレーション」が中心であり、営業部門への教育、スタッフさんへの説明資料・説明サイトなどの事前準備、問合せ電話が急増することへの事前準備、そしてこれを機に営業推進エンジンを強める営業戦略策定において、率直に申し上げれば十分であったとは思えません。

これは、私自身、後方部門の一員として不勉強と怠慢を恥じるべきだと考えています。

 

たとえば野村證券。

証券業界にも、これまで様々な環境変化がありました。

株式の仲介業務から始まって、公社債の店頭販売、投資信託のブーム、公社債投資信託のブーム、日本企業の海外証券市場への上場、海外企業の日本証券市場への上場、先物などデリバティヴ商品の普及、特定金銭信託などの特殊な商品と特殊な営業手法、投資家保護の規制があれば、投資家の自己責任を明確にする指導もあった。

こんな中で、野村證券は、当社にとっての「大阪事件」に匹敵すべき事件を複数経験し、営業停止処分などの行政指導をも受けながら、それでも日本最強の旗を降ろすことなく、海外大手金融機関と唯一戦える国産金融機関と言われている。

 

野村證券の最前線部隊である営業部門は、常にナイスプレーを考えている。

そして同時に、営業本部や後方部門は、ナイスプレーの邪魔をしないように、ナイスプレーが生きるように、常に先を読み、マクロの動向を分析しながらも、ミクロの事象で仮説を修正しようとしている。

 

彼らが最強である最大の理由は、私の意見ですが、常に環境変化をキッカケとして、営業推進エンジンをより強く回そうと考えていることだと思います。

決して、「昔に戻る」ことを考えない。いま、目の前にある環境変化をキッカケとして、これをチャンスだと考え、常に他社より伸びることを考える。

社会保険の例でいえば、「メンドクサイから後方部門へ飛ばす」ようなことは考えない。このことをキッカケとして、営業成績を伸ばす方法がないかどうかを考える。それを後方部門を含めた全員が考える。

 

私はよく「楽観的だ」と言われます。

「人間のほとんどはパーだから、そんなことはできるハズがない」という意見のある人もいるでしょう。

しかし、私は、選手は心の底ではみな「ナイスプレーを(できれば)やりたい」と考えているハズだ、と思うのです。

そして、本部や後方部門はそれを邪魔せず、むしろ生かすことを考えねばならないのだと思います。

 

 

 

2007710日 中性的

 

エステ会社かなにかのTVコマーシャル。

モデルの女性が街中でキャットウォークしていて、イケメン青年とすれちがう。

この女性も、この男性も、私には極めて「中性的」に見えるのです。

 

この女性に、宝塚の男装をさせて舞台に立たせてみる。いつもの笑顔を引っ込めて「はい、キリッとした顔してねー」で、一発OKでしょう。

一方、男性の方には女装をさせてみる。背が高いという点をのぞけば、おそらく、かなりイイ女に変身すると思います。

 

現代の日本だけでなく、ローマ時代でも、「美」は女性に求められたというよりも、美少年あるいは美青年に求められたことを考えれば、「中性的」に人気が集まるのは、現代日本だけの例外というわけでもなさそうです。

 

しかし、私の意見ではありますが、「中性的」な男性あるいは女性、あるいは中性的な行動様式等が好まれるのは、その時代・場所に「勢い」がある場合ではなく、むしろ「退廃的」な匂いがするケースではないでしょうか。フランス語からの外来語を使えば「デカダン」。

 

例えば、日本に勢いがあった時代。

NHKの大河ドラマが視聴率を稼ぐのは大体、この勢いのあった時代だと思いますが、「戦国時代」「幕末維新」あるいは「戦後」。

戦国時代でも幕末維新でも、あるいは戦後のドタバタの時代であっても、男性は男性らしく、女性は女性らしかった。あるいは、男らしいことや、女らしいことが魅力的であった。

 

でも「男のような女性、あるいは女傑といった存在も魅力的であった」ことも事実です。

これは私の意見ですが、「男らしくやらねばならないときには、男はもちろん、女であっても男らしくやる」ことに魅力や価値があるということではないでしょうか。

決して「中性的」なことに魅力があるわけではない。

戦国武将の配偶者や娘といった女性は、女性的でありながら、いざとなったら男らしく(という表現はヘンかもしれませんが)槍を持って戦ったり、あるいは自らの命を絶つ覚悟さえしていた。

中性的な男、中性的な女、つまり、「両方の良いところを持っている」のではなく、「どちらとも言えない中途半端」な人物や、行動様式、思考方式が、戦国時代や幕末維新などに魅力的であったとは考えられない。

 

このことは、会社組織においても同じだと感じます。

 

「勢い」のある会社組織では、「男らしく」行動する・決断すること、同時に、「女らしく」配慮する・身を律することが、尊ばれているような気がします。

これは決して、性別で分けて、男性は全員常に男らしく、女性は全員常に女らしくということではなく、男らしい男性が、時に、女性に負けないぐらいの配慮を見せたり、女らしい女性が、時に、男性以上の決断力を発揮したりしているものだと感じます。

 

ここに、中性的な、どっちつかずのキャラクターが活躍する出番はない。

 

男性的であること、女性的であることに価値がある、魅力がある現場は、何と言っても営業最前線でしょう。

営業組織を牽引する際の男らしさ、同時に、お客様からお問合せを頂戴したときなどの女性的な配慮。いずれも、男性であっても、女性であっても、発揮したい特長だと思います。

 

もちろん営業現場に限らず、管理部門、業務部門など、いかなる組織、いかなる業務であろうと、男性らしさが求められる局面、女性らしさが求められる局面があるものと考えます。

 

ちなみに、「弱いものイジメ」などの言動は、男らしくもないし、女らしくもない。

「いつも自分は被害者=被害者意識」も同様。

「乱暴なこと」と男らしいこととは違うし、「女々しいこと」と女らしいことも違います。

ま、言うまでもなかったでしょうけど、ね。

 

 

2007711日 ランチェスター法則の応用例

 

7月6日「ランチェスターの法則」に反響があったので、応用例を述べたいと思います。

 

我々の人材ビジネスは、稲刈り競争に似ている。求人という稲、あるいは求職という稲を、いかに多く刈り取るかの勝負である。

しかしながら、淡々と稲を刈るだけの勝負であるならば、戦力と戦果は比例し、ランチェスター法則である「2乗で効いてくる」ということはありえない。

かつて最強と言われたときの我々は、「相手の戦意をくじく」ほどのスピードや行動量であったはずで、つまり、ランチェスター法則の事例で言えば「敵飛行機に直接的にダメージを与える効果」があった。

 

これが、7月6日のサマリーです。

 

例えば、サッカー。

サッカーは11人と11人で競うスポーツですから、戦力は同じです。

しかし例えば、1人が退場処分を受けると、11対10になります。ゴールキーパーは特殊な存在ですから、フィールドプレーヤーの数を比較すれば、10対9となり、退場処分を受けたほうのチームは、1割減の戦力で戦わねばならない。

しかし、サッカーを知る人なら覚えがあるように、人数の少なくなったチームが、必ずしもボコボコにやられるわけではありません。

 

サッカーは1つのボールを全員で追いかけますから、稲刈り競争に似ています。

10対9の戦力差で戦えば、ボールを保持する確率が10対9となり、戦力が大きいほうが有利であることは間違いありません。

しかしながら、全フィールドプレーヤー19名が局所的に集まっているわけではありませんから、人数の少ないチームのプレーヤーが行動量を増やして、局面・局面では常に同数かそれ以上が登場するという状況を実現できれば、「人数が少ない」という印象は消えうせ、むしろ「勝てる」という意識のもと、結果を出すこともまれではありません。

 

しかしながら、もし、一人少なくなったチームが、「一人少ない」=「不利だ」と感じ始めると、全く異なる展開になります。

「負けてもしょうがない」という言い訳が心の中で生まれてくると、もはや末期症状。戦意を失い、戦力の大幅ダウンとなります。

7月6日の例のように、2乗で効いてくることになれば、戦力が10対9であれば、戦果は2乗で100対81となる。

 

ランチェスターの法則は、一人一人の戦力が同等であることを前提にしていますから、やる気によって戦力が上下する「人間」を戦力とした場合、そのままでは応用ができません。

しかし、稲刈り競争のように同一市場の需要を取り合うビジネス競争や、1つのボールを取り合うサッカー競技などに対しても、「相手の戦意を奪う」ことができれば「敵戦闘機を戦闘不能にする」ことと同様な効果が得られ、結果として「2乗で効いてくる」ような差をつけることができるのです。

 

もう一度、サッカーに話を戻してみます。

 

一人減ったチームが次第に戦意を失っていくと、100対81のような状況になっていきます。サッカーは簡単に得点できませんから、こんなに点は入りませんが、「押されっぱなし」みたいな状況になっていきます。

こうなると、次に考えられるのは、ヤケになった選手たちの中から、二人目の退場者が出てくることでしょう。

フィールドプレーヤー、10人と8人の戦い。10対8ですが、2乗が効いて100対64みたいなことになる。

サッカーであれば、時間がくればホィッスルによって決着がつく。

しかし、ビジネスであれば、4月24日「ゴーイング・コンサーン」で述べたように、勝負は永遠に続くわけで、時間の経過とともに、差は広がるばかりとなる。

 

例えば、当社の行動量が「とてもマネできない」レベルになったとする。

これに気づいた競合他社が、次第に「勝てない」と思い始める。あるいは受注で競合したときに、勝負の途中から言い訳を考えるようなことになる。

そして、実際の勝負として、つまり、事業の成長性として負け始める。

「どうせ勝てない」と思った他社から、退職者など、サッカーで言えば退場者が出始める。

退場者が出れば、さらにそのことが「勝てない理由」となって、さらなる退場者を生む。

こうして、負け始めた組織は、「負けていることが原因となって、さらに負けつづける」という悪循環に陥る。一方、我々は「勝っていることが原因となって、さらに勝ちつづける」という好循環を実現する。

 

動き出した戦力差が、2乗で効いてくるキッカケは「とてもマネできない」レベルの行動量ということです。

 

 

 

2007712日 あなたの手

 

シワシワの母の手

少しずつ、少しずつ小さくなっていく母の手

 

昔、私が子供の頃、私の手を引いたその手が、

今、私の手に引かれている

 

今では、口に食べ物を運ぶことさえ億劫だと言うその手

靴が上手に履けないと訴えるその手

髪を梳くことさえ忘れてしまったあなたの手

 

しかし、その手が、

かつて、信じられないほど器用だったことを私は知っている

驚くほど力強かったことを知っている

そして、限りなくやさしく温かったことを私の手が知っている

 

あなたの手は私の誇り

あなたの手はあなたの誇り、来た道の証

あなたの手が、あなた自身とその人生を語っている

 

 

さて、あなたの手は、

何を語っているのでしょうか

 

 

 

2007713日 入社時期

 

当社の従業員は「当社がトップになってからの入社がほとんど」と言います。

 

だから?

トップをねらうという野心がない?

トップだから当社を選んだという「寄らば大樹」タイプ?

トップだから「仕事にゆとりがある」と誤解していたのであまり働かない?

 

第一の論点は、他の業界のトップ企業はどうなんでしょうかというものです。

トヨタの社員で、「トヨタがトップになる前に入社した人」がどれだけいるでしょうか?

おそらく皆無でしょう。役員から新入社員まで全員、トヨタがトップになってから入社したものと思います。

野村證券も同じ。トップに立ったのは昭和40年すぎですから、それ以前の入社の方は全員が定年を迎えています。

 

本当に「トップ」と呼べる企業は、「トップになる以前から在職する従業員が少ない」といったレベルのことに悩んだりしてはいません。

 

第二の論点は、トップといいますが、何のトップですか?というものです。

事業規模のトップですよね。

もちろん、これはこれで大事というか、最も重要なことではありますが、「志」としては、事業規模だけのトップを「トップ」とは呼びたくないと私は思います。

利益はどうでしょうか?

スタッフの満足度はどうでしょうか?

社会への影響力や存在感ではどうでしょうか?

外資と比較して世界規模で考えた場合はどうでしょうか?

 

もちろん、創業30年にも満たない企業ですから、様々な部門でトップを取るということは不可能に近いものとは思いますが、国内事業規模部門でトップを取ったとしても、それは「最初のタイトル」みたいなものであって、それを取る前に入社したか後に入社したかに、大きな違いはないと考えたい。

 

第三の論点は、もし、「トップ以後入社組」が「甘い」と感じるなら、それは、トップ以前入社組が甘いことが原因、というものです。

「最初のタイトル」で浮かれすぎたのではないでしょうか。

「天下を取った」みたいな気分になっていたとすれば、その気分を察知して入ってきた人たちは「天下のSSG」に入ったのだから、という甘えがあるかもしれない。

そうだとすれば、「悪貨は良貨を駆逐する(5月16日)」法則が働いただけであり、「既に甘くなっていたところに甘い人が増えた」だけに過ぎません。

 

事業規模部門でのトップには、もちろん大きな意味があります。あるいは、最大の意味があります。

しかしながら、企業の成長を人間の成長にたとえるならば、事業規模の成長は「身長が伸びた」「身体が大きくなった」ことに相当しますが、肉体的・精神的にバランス良く成長しているかどうかとは別問題です。

 

「骨や筋肉」は強いでしょうか。

状況が変われば市場動向が変われば、すぐにへなってしまったり倒れそうになったりしてはいけません。強さを伴わない大きさは大変に不安定です。

 

「敏捷さ」を保っているでしょうか。

神経系統がキチンと発達していないと、機敏な反応ができません。図体が大きいけどトロいようでは、チャンスを生かせないし、ピンチを乗り切れない。また、右手だけ器用だけど、全体としてチグハグな動きをしているようでは、総力発揮ができません。部分最適ができても全体最適ができなければ、「腕力が強いが勝てない力士」みたいなことになるでしょう。

 

「心肺能力、あるいは持久力」は十分でしょうか。

企業はゴーイング・コンサーン(4月24日)です。1日だけ、1週間だけ、1年だけの勝負ではありません。持久戦を勝てないようでは長期の発展はもちろんありえません。

 

「目」はどこを見ていますか。大きくなりすぎて足元でおきている小さな問題が発見しづらくなっていませんか。あるいは、周囲を見るとき、遠くを見るとき、うえから見下ろすような目になってはいませんか。

 

「耳」には何が聞こえていますか。「良い話」ばかりが聞こえ、「悪い情報」が届かなくなってはいませんか。身体が大きくなれば、かがまないと聞こえないような小さな声が、地表で話されているかもしれません。あるいは、こちらに向かって叫んでいても、ガリバーの耳まで届かないようなことになっているかもしれません。あるいは、私たちの大きさを見て「どうせ聞かないだろう」と話すことをやめてしまった「声なき声」があるかもしれません。

 

「口」は何を語っているでしょうか。

「ガォー」とかの叫び声ばかりでは、キングコングかゴジラと同じです。

お客様企業に向けて、スタッフさんに向けて、社会に向けて、何を語っているでしょうか。

テープレコーダーの録音のようなことになってはいませんか。言葉を知らない粗野な中学生みたいな内容に留まってはいませんか。

 

私も「トップ後の入社組」です。

「まだまだ、だな」と思ったから入社しました。

「まだまだやることがある」「まだまだ私にできること、すべきことがある」と感じたから、この船に乗る意味があったのです。

 

最初のタイトルが奪われましたから、もちろん奪い返す必要があります。

しかし、タイトル1つであなたは満足しますか?

テニスのグランドスラムはタイトルが4つ必要です。

英国サッカーで「三冠」というのは、リーグとFAカップと欧州選手権の3つの優勝です。

 

あなたが欲しいタイトルは何でしょうか?何と何でしょうか?

 

 

 

2007717日 入社時期(違う観点から)

 

身体は大きくなったものの、神経系・筋力系・心肺系あるいは目や耳などの器官が不十分な状況で入社した人にとっては「なんじゃこりゃ」という印象かもしれない。当社は。

 

「はい、これがダメですねー」

「これなんかもう、信じられませんねー」

「何が哀しゅうて、こうなっちゃってるんでしょーねー」

なんて、感じていませんか?

 

だとしたら、あなたには少年サッカーのコーチはできませんし、

若い集団にコーチングもできませんし、

若い当社を牽引することもできません。

 

少年サッカーのコーチの話をすれば、「できていない点を誰よりも早く正確に発見するだけでなく、それを本人や親、他のコーチなどに暴露するがごとく・誹謗するがごとく・ののしるがごとく展開する、イヤなヤツ」が存在します。

「周りが全然、見れてない!」

「左足が全く使えない!」

「高いボールをこわがっとる!」

「ポジショニングの意味がわかってない!」

とかとか。

 

はいはい、わかりました。

で、あなたがそれら問題点を改善してくれるのではないのですか?

指導してくれるのではないのですか?

それとも私に「解説する」のがあなたの仕事、あなたの存在意義なのでしょうか。

 

問題点を百も承知で、経験の浅い若者たちが何かに挑戦しようとしています。

たしかに世間を知りませんし、常識がないかもしれません。視野は狭く、アンテナは低いかもしれない。だからあなたの問題意識を理解することもできないかもしれない。

この状況で、あなたは何をしてくれるのでしょうか。

 

「賢さ」を「付加価値」に変えることができない人は、結局、そんなに賢いわけではないのだと思います。

「賢さ」を「ああなりたい!」とか「勉強しなきゃ!」とか思わせて、賢さが伝播するようにできない人、自分ひとりの賢さが回りに好影響を与えることができない人は、結局、そんなに賢いわけではないのだと思います。

「賢さ」が過度の緊張を呼び起こし、誰も真実を語ろうとしなくなる、報告のための報告に奔走するようなら、結局、そんなに賢いわけではないのだと思います。

 

あなたの「経験」と「賢さ」は必ず、当社に必要であり、付加価値を生むはずです。

もしまだそこまで行っていないのであれば、もうちょっと賢くなってください。

 

 

 

2007718日 Awakenings

 

日本題「レナードの朝」という米国映画があります。

医師による、実話に基づいた著作があり、それをもとに映画化したものです。

 

原因不明の脳の病気で、植物人間のようになってしまったり、ほとんど知覚がなくなってしまったりといった症状がある。

この病気の患者が療養する医療施設があり、そこが舞台となっています。

 

少年のときにこの病気に侵され、ほとんど知覚がないままに中年になってしまった患者を、ロバート・デニーロが演じています。例によって「なりきって」います。

一方、著作の原作者として、映画でも医師として登場する役をこなすのが、ロビン・ウィリアムスです。

20年近く昔の映画ですので、二人とも中年前半みたいなカンジ。

 

この医師が、「効くかもしれない」と考え、ある種の強い薬を試してみたいと考える。

脳を「覚醒する」効用があるのではないかと考える。

「覚醒する」「目をさまさせる」「起こす」といった意味の動詞がawakenで、その動名詞がawakeningAwakenは言わば「文語」で、会話ではawakeが使われますけどね。

この薬によって、脳が覚醒し、あたかも「人間に戻った」ような患者たち。

しかしながら、恐らく抗原抗体反応だと思いますが、薬が効いたのは1回だけであり、そのあとすぐまた元に戻ってしまったという、実話がベースの映画です。

 

一人息子だったレナードが10歳の頃に原因不明の病気に侵され、中年になった息子を施設に見舞う老いた母親。

この母親に、医師が薬の説明をします。「まだ使ったことはありませんが、効果が出る可能性がある」と。

しかし母親は力なくうつむきます。「覚醒した息子を、この世界のいったい何が・誰が待っているというのですか?」と。

知能の発達は10歳で止まり、それだけでなくその後の世界は彼にとって何の意味も持たなかった。いま、40歳で覚醒したとしても、10歳のあの頃に戻れるわけでもなく、身体だけ大人になってしまった彼を迎え入れてくれるものもないでしょうに。

 

「いったい何が・誰が待っているというのですか?」と訴える老母に向かって、医師であるロビン・ウィリアムスが、あの笑顔で「It’s you.」=「あなたです」と答えます。あなたが待っているじゃありませんか、と。

 

私はこの映画をみたとき、このシーンを見たとき、画面の中の老母に負けないぐらいの勢いで号泣してしまいました。いや、声をあげて泣いたというよりも、嗚咽でぐしゃぐしゃになりました。

「あなたが待っているじゃありませんか」。

 

ここから先は、当社の従業員の中で、「戻ってきてくれた方たち」に向かって話しかけます。

 

あなたは、いろいろなことがあって、ちょっと休んでいましたね。

戻ろうかどうしようか、戻れるかどうか、少しの間、悩んだりもしましたね。

でも、あなたは戻ってきれくれました。

あなたを待っていてくれたものは何だったでしょうか。

仕事ですか?

お客様ですか?

同僚ですか?

 

戻ってきたレナードを待っていたのは年老いた母親でした。

しかし、レナードはすぐにはそのことに気づくことができません。

 

あなたもそうかもしれませんね。

あなたを待っていたものが何であったのか、あなたにはなかなか気づくことができないかもしれません。

しかし、レナードの母親がそうであったように、気づいてくれなくてもいいのかもしれませんね。あなたが戻ってくれさえすれば。

 

あなたは戻ってきた。

それだけでいいのです。

 

 

 

2007719日 計画性

 

仕事は計画的に。

また、人生もそうありたいものです。

しかしながら、なかなかそうもいかない。

 

以下に、飲み会・宴会・コンパ・食事会を、計画的に進めたいという話をします。

「飲み会ぐらい無計画に、めちゃくちゃにやりたい!」と思う方もいるかと思いますが、さて、「飲み会ぐらいは!」という人は、飲み会以外なら計画的なのでしょうか。

仕事も、私生活も計画的であり、飲み会の進行だけが無計画な人はなかなかいないのではないか。これが私の意見です。

 

飲み会、開始1時間後の、テーブルをご覧ください。

最初に出てきた刺身が大皿に二切れ残っているので、醤油小皿が各自の前に、まだある。

鶏の唐揚げは全部売れたが、大皿の上に油にまみれた葉っぱが見放されている。

焼き鳥が三本半、残っている。

卵焼きが少し残っている。

サラダはまだ半分残って、ドレッシングを吸い込んで、しなっている。

謎の焼きうどんが3分の1ぐらい残っている。

そして、メニューを見ながら注文を考えている人がいる。

 

自分たちが何をどれだけ食べるかを計画しない飲み会。

さらに、ピッチャーにはぬるんだビール、焼酎とワインと日本酒に移行しつつも、冷たいビールを求めて、黒ビールあたりを注文する人が隅っこに座っている。

 

実は、私は、この種の「無計画、無秩序な飲み会」が嫌いでごじゃる。

私自身、喫煙者でありながら、醤油小皿と箸と唐揚げと灰皿が同時にテーブルに載っている情況が嫌いでごじゃるよ。

 

私の好む飲み会?は、

まず、スプマンテ=発泡ワインを飲みながらメニューを読む。決して高級シャンパンである必要はない。

メニューを読みながら、今日のメンバーが、何をどれだけ食べるべきか、食べることができるかを考える、そして、話し合う。

私はよく「あんたたちは野菜を食べなさい」と言いながら、勝手に食べるものを押し付けますが、食材や調理方法がカブらないように考える。

バンバンジーと焼き鳥と鶏の唐揚げを注文してしまうようなヘマはしたくない。唐揚げと天ぷらとコロッケを注文してしまうようなパーにはなりたくない。

 

メニューを読みながら、何をどれだけ食べるかを最初に決める。途中で足りないとわかった場合は、二次発注を行うこともあるが、できるだけ、最初にすべてを決めてしまいたい。

「とりあえずアレとコレとソレ」を注文して、五月雨式に追加注文して、結局、テーブルの上には前回納品分の残りが常に存在しているような注文の仕方は嫌いである。

 

飲み会・開始2時間後、「もう、何も食べられない」というリタイア組が出ているにもかかわらず、テーブルの上には結構な食べ物が残っているというのが許せない。

さらに許せないのは、食べ物が残っているにもかかわらず、「デザートは別腹!」とかのたまうアホの存在だ。

 

スプマンテの力を借りながら、メニューを読み、計画を立てる。

まず、何と言っても、このひと時が楽しい。

前菜と、サラダを食べながら白ワインを味わう。

パスタとアントレをシェアしながら赤ワインを。

お酒は全部で三杯で十分だ。

「酔うほど飲まなきゃいけないルール」は存在しない。

「たくさん食べた人が勝ち!というルール」も存在しない。

そして、ドルチェにコーヒー。

 

場所を変えて、ウィスキーかカクテルを1杯か、せいぜい2杯。

 

「そんな豪華な食事をするほど金持ちじゃない!居酒屋しか行けない!」と反論する人もいるかと思うが、店の選び方とメニューの選び方次第で、居酒屋とレストランでのコストの差はほとんどない。

 

居酒屋に行って、無計画に、死ぬほど注文して、死ぬほど食べて、死ぬほど飲んで、そして死んだようになる。

何が哀しゅうて、そんなん、やってなはる?

 

最近の飲み会を思い出してください。

何を食べたかが思い出せない飲み会は、計画的であったとは言えませんよね。

 

 

 

2007720日 計画性と想像力

 

計画的な行動、あるいは計画性には、想像力が必須だと考えます。

 

飲み会「開始1時間後のテーブルの上」を想像する力があれば、注文は計画的になるかもしれません。

 

「こうなるかもしれない」「ならないかもしれない」「この種のジャマが入る可能性がある」「途中でペースが落ちる怖れがある」などなど、「将来、計画どおりに行かない可能性を想像することができる力」がないと、結局、計画は「絵に描いた餅」というか、説得力に欠けることになります。

 

計画策定には、「計画達成時の姿を想像する力」と、「計画遂行過程を想像する力」の両方が重要だと考えます。

 

その計画、あるいは目標を達成した姿を想像できなければ、組織や自分自身を引っ張っていくことはできません。

「日々これだけやれば1ヶ月でいくらになる」などといった単純な足し算だけでは、計画とは言えません。この種の足し算はむしろ「1ヶ月でこれだけやらないといけないので、1日だとこうなる」といった割り算をしただけの場合の方がむしろ多いかもしれませんね。

 

「それができたときの姿」にどんな意味があるでしょうか?

その姿は、今の姿と何がどう違うのでしょうか?

その姿は、さらに遠くのある姿へのステップとなりうるでしょうか?

このように、計画を達成したときの姿を思い描くことができなければ、「何のために苦しいことに挑戦しているのか」がわからなくなり、必ずペースが劣化します。

 

一方、計画遂行過程を想像する力も重要です。

計画遂行過程には、必ずと言ってよいほど、阻害要因と撹乱要因が待ち構えています。

阻害要因(そがいよういん)とは、つまり、ジャマです。

何も、ワザとジャマする人が現れるというわけではありませんが、計画遂行にとってジャマとなる事象は必ず発生します。

たとえば、風邪を引く。

たとえば、雨が降る、嵐が来る。

たとえば、何かの値段が上がる。

たとえば、競争相手が突然がんばり出す。

 

こういった阻害要因の発生を想像できる力が必要です。

もちろん、あらゆる阻害要因を「想定内」とした計画策定は現実的ではありませんが、ある程度の阻害要因は「織り込み済み」としたいものです。そうでなくとも、もし、「こういうことが発生したら、どうするか」というシミュレーションを頭の中だけでも、済ませておきたいものです。

 

もう一つが撹乱要因(かくらんよういん)。

たとえば、「こういう方式でやろう」と考えて計画を遂行している最中に、「このほうがいいんじゃない?」という親切?な人が表れる。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その人は善意でアプローチしてくる場合もあれば、悪意で邪魔しに来ている場合もある。あるいはアドバイスするのが仕事だから機械的に言ってくるだけかもしれない。

善意であっても、パーかもしれないし、勘違いしているかもしれない。

あるいは、実は、最高のアイディアを持ってきた人なのかもしれない。

いずれにせよ、「さぁ、どうするか」、意見を聞くのか聞かないのか、やってみるのか無視するのか。無視すると決めたとしても、心が動く、撹乱される。だから撹乱要因。

 

撹乱要因も「必ずやってくる」と考えた方がよい。

撹乱要因を事前に想定することはむずかしい。事前に想定できるようなものなら撹乱されることも少ない。

 

むしろ、計画策定時に、自分自身で「何かを信じる」ことが大事だと思います。

 

「信じること」と「信じるまではいかないが、いったん決めたこと」を事前に整理できていれば、信じることに対して別な考えをぶつけられても撹乱されることはなく、そうでないことに対しては、信じることに照らし合わせてみて合致するなら聞く耳を持ち、そうでないならば聞くまでもない。

 

「この方法でやればできる」「この方法でやるからこそ意味がある」と信じることができれば、別な方法を提案してきた人の言動に撹乱されることはない。

 

来週のNHK大河ドラマ「風林火山」の予告編を見ました。

強敵村上軍との戦で腹心の板垣と甘利を失い、自信喪失した武田晴信。

彼に向かって母親の風吹ジュン=私と同年代が言います。

「みな、強いそなたを信じているのではありません。そなたの信じるものを信じたいのです」と。

 

組織を引っ張る人への教訓でしょう。

信じるものがありますか?

あなたが信じるものが、みんなに伝わっていますか?

そうであれば、撹乱要因に撹乱されることはないのです。

 

 

2007723日 神様の視点

 

4月5日「Scope(スコープ)」の続編です。

 

「日本人は優秀である」とか「勤勉である」と言われます。

私なりにこのことを分析すれば「5段階評価で4が多い」ということになります。

 

米国などでは、ごく一部の優秀な頭脳=5段階評価の5が、アイディアを出し、ルールを決め、その他の人々がそれに従う。

マニュアルを整備し、全員がマニュアルに従うという米国流は、このことの典型だと思います。

 

一方、日本では、多くの人が「改善」と称して知恵を出し合う。誰もがみんな「自分は平均よりちょっと上=4」と思いたいという文化もあり、現場から改善提案が継続する。

 

余談ですが、こんな違いが、企業の経営トップと一般従業員との距離の違いになって表れています。

米国自動車の工場などでは、「背広組=工場長など」と「工員」は、工場内でもいるべき場所が明確に分かれています。背広組の快適なオフィスは高いところに設置されており、ガラス越しに工場内を見ることができるようになっています。

こんな背広組が米国内のトヨタやホンダの工場を見学するとビックリします。

日本企業では、社長であっても背広の上にナッパ服を着て、ヘルメットをかぶり、生産現場の中を歩きます。

日本人は「全員が4」みたいなカンジなので、社長と従業員が現場で改善について熱い議論を交わすことさえありますが、米国では「5と3の違い」による距離は大きく、社長は雲の上の存在、幹部たちも「人種が違う」とでもいった雰囲気です。

 

さて、この日本人の「全員が4の意識」によって、成功している分野と失敗している分野の事例を申し上げたいと思います。

 

成功例は自動車です。

米国に学んだ自動車産業ですが、日本では作る人も乗る人もみんなが品質と価格にこだわり、日本市場での長年の努力の結果、気が付けば米国市場においても競争力を持った製品を供給できるレベルに至りました。

世界の中でも突出して品質などへのこだわりが問われる日本市場で鍛えられたクルマは、世界においても強い競争力を持っているというワケです。

 

成功例は他にもあります。

ゲームソフト、アニメ、マンガ。

いずれも諸外国のものとははるかにレベルが違います。

「なんでそこまでこだわるのか」というぐらいのレベルにあるこれらエンターテインメント・ソフトは、現在、日本の主要な輸出品目にもなっています。

 

和食も海外でブームですね。

美しく健康に良い和食は、欧米でもアジアでも高級店で供されているようです。

和食も一握りの天才料理人のおかげではなく、レベル4の多くの料理家と、舌の肥えた・目の肥えた美食家たちのこだわりが、和食を世界に送り出したとも言えると思います。

 

さて、失敗事例ですが、その代表が携帯電話でしょう。

日本の携帯電話は、こだわりすぎました。

 

あの小さな機器は、電話であり、カメラであり、ビデオ・カメラであり、テレビ電話であり、パソコンであり、テレビであり、ゲーム機であります。

一昔前のビデオ・カメラやゲーム機などの大きさを思い出してみれば、あの小さな機器にこれら機能をすべて搭載することは「異常」とさえ、私には思えます。

 

そして、この異常なほどの機能と品質を持つ機器を開発しつづける原資=もととなるお金は、携帯電話の機器の販売価格から得られるのではなく、通信料金から得られるのです。

1億人のほとんどすべての人が、1台以上の携帯電話の通信料金を払いつづけるという前提がなければ、こんなことは不可能です。

 

この高機能・高品質の携帯電話は、海外では全く相手にされていません。

もちろん、諸外国の携帯電話に比較すると格段に高性能ですが、何もそこまでいかなくとも十分なわけで、必要な機能が適正な価格で得られればそれでよいというのが、世界の常識なのでしょう。

 

つまり携帯電話は、日本市場というスコープで勝利するために戦ってきた結果、世界では通用しないというか、意味の無いものになってしまったのです。

一方、自動車は、日本市場というスコープで勝利するために戦ってきた結果、故障しない品質、燃費、低公害、回転半径など、世界で通用するものを作ることになったのでしょう。

 

このことを「神様の視点」でとらえてみると、自動車に対しては「そうそう、日本市場で勝てば世界で勝てるんだよ」ということになり、携帯電話に対しては「あらあら、その局地戦での勝利は世界では意味がないんだよ」ということになるのでしょう。

 

日本市場というスコープで戦わざるを得ませんから、しかたのないことではありますが、実は、この「神様の視点」は、我々、人材ビジネスにかかわる者にとっては、あるヒントを与えてくれるのです。

 

もちろん人材ビジネスも日本市場で戦う必要があります。

しかしこの戦いは、自動車や携帯電話と違って、日本全体が同一市場というわけではなく、ローカル、つまり、地域の局地戦の集合であると言えるでしょう。

つまり、自動車や携帯電話のときに考えた「世界」を、ここでは「日本全体」と置き換えて考えてみることができるのです。

 

たとえば福岡市というスコープで考えた勝利の法則が、他の地方大都市にも効果を持つことが考えられます。

これは、自動車で言えば、日本で成功したやりかたが米国など他の国でも通用することと似ています。

 

今回の問題提起は、「東京市場」についてのスコープの組み方にあります。

 

東京市場は世界にも例の無いような特殊な性格を持っています。

人口密集だけでなく、整備された交通システムにより、神奈川・千葉・埼玉からも東京で働くことが常識になっています。

ですから、「東京」というスコープで、市場をとらえ戦略を立てることは必須でしょう。

 

しかし、東京は大きすぎます。

この大きな東京を、次に、どのように分割して考えるかがポイントかもしれませんね。

 

私に解答はありませんが、是非、いっかい「神様の視点」で考えてほしいと思います。

日本人は、与えられた範囲の中で、みんなで知恵を出し合うという特長を持っています。

範囲がせますぎると効果は出ませんし、範囲が大きすぎると知恵を結集することが困難になってきます。

神様の視点で考え、「そうそう、そこで勝てば、そのやり方を広めればいいんだよ」といった「勝利の方程式」が得られるかもしれませんから。

 

 

 

2007724日 ステレオタイプ

 

まず、このブログをいつも読んでくださっている方に、私の血液型を当てて欲しい。

ちょこっと、そこら辺のメモ用紙に書いておいてください。後で正解を発表します。

 

ステレオタイプ stereotype とは、「紋切り型の類型」とでも翻訳すべき言葉ですが、外来語としてそのまま使われることが多いと思います。

 

「彼はサラリーマンだから、上司にペコペコして勇気がなく帰りに一杯飲んでいるハズ」

「彼女は独身30女だから、年に1回海外旅行してヴィトン持って年齢サバよんでるハズ」

などという「ハズ」は、偏見に満ちた考えで、男子サラリーマンや独身女子30歳でなくとも、こんな考えを聞いたらムッとしますよね。

 

この種の偏見は、サラリーマンとか独身貴族といったものに対するステレオタイプ=固定的な先入観に基づく類型という考えが、広まっており、人々の考えがそれに支配されているからだと思います。

たとえば、

「理系は論理的だが、視野が狭い」

「文系は社交的だが、論理的ではない」

「東北地方出身者は温厚だが、回転が遅い」

「江戸っ子は回転だけ速いが、長期的な展望を持つことができない」

「大阪出身者は面白いが、銭金について計算高く本音を見せない」

「九州出身者は明るく社交的だが、軽すぎてタイヘン」

「日本人は勤勉で序列を重んじるが、リーダーシップや社交性に欠ける」

「中国人は社交的だが、ずるがしこくルールを守らない」

「インド人は論理的で自信満々だが、ガンコで傲慢だ」

「アメリカ人は人懐っこく陽気だが、軽いし、犯罪を気にしていない」

「イギリス人は紳士で論理的だが、プライドが高くぶっきらぼうだ」

「フランス人はシックなオシャレだが、理屈っぽく好き嫌いが激しい」

「イタリア人は明るく陽気だが、ナンパで明日のことを考えていない」

「ドイツ人は論理的で地道だが、偏屈で人生の楽しみを知らない」

などなど。

 

これらのステレオタイプは、演劇や小説やマンガや報道などが作り上げたものだと思います。

特に演劇では、「善玉」と「悪玉」がハッキリしている方が見ていてわかりやすく、安心できる。

また、子供向けのアニメやマンガは、顔を見ただけで善悪の違いがわかった方がウケがよい。バイキンマンやショッカーやバルタン星人やベジータなどがその例。

 

ステレオタイプに基づいて先入観を持ったり、「あの人は○○だから、ああなのだ」と決め付けたりすると、実は、「楽」なんだと思います。考えないですみますからね。

ところが、この人が逆の立場に立ったらどうでしょうか。「○○だから、ああなのだ」と自分が決め付けられたら、どういう気分でしょうか。

 

ラップを歌う日本人とアメリカ人の二人組み、Def Techの「Power in da musiq」=「音楽に宿る力」でも、ステレオタイプが、人々がわかりあうことを邪魔していると歌っています。

 

「このスタッフさんは、テクノだから××なのだろう」

「このスタッフさんは、紹介予定を希望しているから××であるハズだ」

「あの企業は、外食だから業務確認は絶対に一発では決まらない」

「あの企業は、製造業だから単価が安ければそれでいい」

 

「○○だから××」という先入観や、決め付けは、○○に対するステレオタイプを作ってしまっている、あるいは、その考えに自分が支配されてしまっている。

 

ステレオタイプの考えに支配されてしまっている人は、たとえば私を、

山口県(長州藩)出身・B型・獅子座・午年にて生まれ、野球少年経由、政治経済学専攻、米国留学経験つき、ネクタイ販売員と結婚し、娘一人、ゴルフ・外車・六本木・クラシック音楽・ボルドー(赤ワイン)・コントラクトブリッジで暮らしているなどと想像するかもしれませんが、

実際は、

東京出身・A型・射手座・申年、サッカー少年経由、数学専攻、39歳まで海外に行ったことはなく、国語の教師と結婚し、娘一人&息子一人、少年サッカーのコーチ・国産車・新宿御苑・ビートルズ・ラフロイグ(スコッチ)・スパイダーフリーセルで暮らしています。

 

 

 

2007725日 テレコミュニケーション・センター

 

フリーダイヤル「オージンジ、オージンジ」にかかってくる電話に出るのが、この組織、テレコミュニケーション・センターです。

かかってきた電話の発信地や種類によって、東京・大阪・八戸・宮崎の当社メンバーが電話対応をしています。

 

このメンバーたちに、「作文」を書いてもらいました。

「サービス部門として考えること」といったようなテーマでみなさんに書いていただいた作文から、ほんの一部分ずつを取り出して、ご紹介したいと思います。

 

以下、解説などは一切ありません。

いわゆる「オチ」もありません。

勝手ではありますが、私の印象に残った部分を抜き出してご紹介させてください。

 

「毎日、何十本と電話を取っている中で、電話の向こうの一人一人に対して、そんな思いやりを持つことは、なかなか難しいことです。しかし私たちは、声でしかコミュニケーションが取れないため、そういった相手の立場になって考える意識の改革が必要だと思います。電話でコミュニケーションを取る=テレコミュニケーションの根本的な意味を、改めてもう一度考える必要があると思います。」

 

「サービスとは、追求していけば、無限に広がるものだと感じた。これでいいという線を引いてしまうことは簡単である。ただ、それでは自分自身は向上しないし、相手に対する気配りもおろそかになりかねない。相手があってのサービスである。」

 

「電話応対が仕事なので、電話を取り次いだり、折り返しの対応を何回も繰り返す。私たちにすれば繰り返しの中の1件でしかないが、かけてくる側に立てば、1日の中のたった1本でしかないことが多いと思う。」

 

「お客様と会話をする数分、数十秒という世界の中で、良いサービスを提供し、お褒めの言葉を頂戴することは容易なことではありません。」

 

「知識を増やすことはもちろんですが、些細なことにでも耳を傾ける姿勢を持つことができるように、取り組んでいきたいと思います。」

 

「サービスの向上=効率が落ちるという概念を捨てることから考えなければいけない。私たちテレコミュニケーション・センターでは、迅速な対応が求められる。例えば、ワンコールで電話を取り、お客様企業をお待たせしないことは基本である。」

 

「人が少しずつ退職してしまい、どうしても業務に追われ、自分自身がどうありたいかを見失ってしまうこともありますが、まず、相手の立場に立った考え方、発想など、柔軟な姿勢でありたいと思います。」

 

「おもてなしの心でお客様と接すれば、より、声に表情が生まれるのではないかと思う。」

 

「人材を必要としているお客様企業が電話をかけるのは、当社だけとは限らない。数社の話を聞き、一番条件のよいところを選ぶとしても、一番初めに電話を受ける私たちテレコミュニケーション・センターの対応が、スタッフサービス・グループの印象を決めるといっても過言ではない。日頃、第一声の『お電話ありがとうございます』の言い方から指導を受け、ありがとうという気持ちを伝えることに努めています。」

 

以上です。

 

 

 

2007726日 犬の散歩

 

犬の散歩。経験者はわかると思いますが、犬は大喜びであり、アチコチを嗅ぎ回ってタイヘンです。しかし、それを制すると犬は不満そう。つまり、犬は「鼻」を使いたくて堪らない。

 

犬という種の生物が持っている能力の中で、他の種に比較して突出して高い能力が「鼻」でしょう。

その能力を使う・磨く・競う・自慢するのは、本能なのかもしれませんね。

危険を察知するのも「鼻」ならば、獲物を嗅ぎつけるのも「鼻」、ナワバリを確認するのも「鼻」ということだと思います。ウチの犬も、そう言ってました。

 

犬が「鼻」なら、人間は?

はい、正解。「脳」でしょう。

「脳以外に考えられない」と、脳が言ってますよね。こんなことを考えること自体、脳が他の種に比較して、突出した能力を持っていることの証左(しょうさ)ではないでしょうか。

 

馬や鹿の仲間など、逃げ足が勝負の草食動物なら「走り」が命、

追いかける立場のチーターなど肉食動物も「走り」が命、

逃げる立場の魚も、追う立場の魚も「泳ぎ」が命、

アンコウなら「チョウチン」命、

卵が食べられちゃう立場の魚なら、「卵の数」が命というように、

他の種の生物に比較して、突出して優れた能力や特長を持っていれば、それをさらに強化したいと思う、あるいは、その能力が高い個体が「楽しい」のが、自然界のオキテ。

 

今回のテーマは、犬が鼻を使う・鍛えるように、ヒトは脳を使い・鍛えなさいというもの。

脳を使わない人生なんてツマラナイ。

 

そしてもう一つ、犬が鼻を使うとき、歩き回る・走り回る。そうでなければ、アチコチの匂いを嗅ぎ回れないから。

ヒトが脳を使うときも、アチコチの事実・真理・思想・知識を見聞せよ、と言いたい。

 

犬はハウスに入ったままで、その前に順番に様々な匂いのモノが出され、犬はそれが何であるかを当てるだけ。「犬の鼻能力テスト!」なんて、ありえません。

でも、これと似ているのが、ヒトがソファかイスに座っているだけで、その前に順番に様々な情報が出され、ヒトはそれでフンフンと思うだけ。「ヒトのフンフンテスト!」みたいなものが、テレビ依存症になっている人の生活でしょう。

 

犬は小山にある無数の穴を嗅ぎ回り、その中に獲物がいるかどうかを1時間も2時間も半日でも待っている。多くの場合は「何もナシ」なのだが、たまに、「大当たり」と称して、ウサギなどの獲物が5匹ぐらい出てくることもある。犬は記銘力が弱いので、ハズれたときのことはサッパリ忘れるのだが、大当たりという成功体験は忘れられずに、週に何回もここにきて長時間を費やしてしまう。また、どれが当たりか、あるいは、いつ当たるかは、運のような鼻の能力次第のような微妙なところがあって、どうしても、これがやめられない。

「あなた(犬)の運試し!」依存症。

 

ヒトは店にある無数の台を見て回り、その台が出るかどうかを1時間も2時間も半日も1万円使ってでもやっている。多くの場合は「オケラ」なのだが、たまに「大当たり」と称して、万両箱いっぱいの獲物が出てくることもある。ヒトは記銘力が弱いので、ハズれたときのことはサッパリ忘れるのだが、大当たりという成功体験は忘れられずに、週に何回もここにきて長時間を費やしてしまいながらも、「ん?トントンかな」とか言う。また、どれが当たりか、あるいは、いつ当たるかは、運のような脳の能力次第のような微妙なところがあって、どうしても、これがやめられない。

「あなた(ヒト)の運試し!」依存症。

 

「脳」使ってますか?

「脳」、何に使ってますか?

「脳」を使うために、身体も使ってますか?

座っているだけで必要な情報がすべて自動的に飛び込んでくるなんていうのは、マンガに出てくる「悪玉のラスボス」だけですよ。

 

 

 

2007727日 ネタ切れ

 

「よく、ネタが切れませんね」と言われることがあります。

しかし、

ネタ、切れました!

みなさんにご愛顧いただいたこのブログも、今日をもって最終回とさせていただきます。あと私に出せるネタはセクシー?な方角のものしかなく、私としては意外なことに、これがタイヘンに評判が悪く、もはやネタ切れでごじゃりまする。

 

といったオチャメなことを、たまには言いたくなることもありますよね?

はい、

失礼しました。

 

文章を書くことが仕事である人にとって、「ネタ切れ」は深刻かもしれませんが、

私たちビジネスマンにとって、組織の課題解決に向けて「解決策が思いつかない」=「ネタ切れ」はやっぱり、深刻です。

 

自分自身の成功体験と失敗体験しかネタがない場合は、この症状にすぐに襲われます。

これを私は「不勉強症候群」とか「想像力欠乏症候群」と勝手に呼んでいます。

年齢が若く、経験が浅ければ、新たな課題に直面したときに、なかなか解決策が思い浮かばないのは、ある意味で当然でしょう。

しかし、経験豊富な方にアドバイスを求めたとしても、もし、そのアドバイスが、その人の成功体験・失敗体験のみに基づいたものであり、その時と今では状況や条件が違うとすれば、そのアドバイス、あるいは昔の方法を、今、そのまま適用することができないことは、言うまでもありません。

 

自分の経験を、あるいは今、発生している事象を、全く他の分野などの事象と比較検証してみることを、お薦めします。

 

そういう思考方式が身につくと、逆に、自分とは無縁と思っていた世の中の様々な事象が、突如、自分への学習材料として見えてくるのです。

つまり、ネタが切れないのです。

 

つまらない事例から申し上げましょう。

週末はほとんど「パチンコ命」の人がいて、1万や2万を平気で浪費しているという話を聞いたとします。単なるストレス発散なら害は少ないのでしょうが、「確率変動がどうのこうの」とか言っていると重症です。つまり、自分の「脳」と「時間」の使い方として、大して賢くもないパチンコ産業のワナに完全にハマっていることになります。

こんな話を聞いた後の日曜日、犬の散歩をしていると、「人間がパチンコにハマるのと同じようなことが、犬に起きたとすればどういうものだろう」と考える。そしてネタが生まれる。

この思考方式は、「人間にとっての○○は、他の生物にとってはどうなんだろう」というものです。もちろんこの逆で、「ある生物にとっての○○は、人間にとってどういうものだろう」と考えることができます。

この方式は、私が密かに「主体置換方式」と呼ぶものです。

 

次の事例。

村上ファンドの村上氏に、実刑判決が下されました。

彼がやったことを、たとえば、「江戸時代だったらどういう風にやっただろうか」「江戸時代だったら、どの程度の罰則であっただろうか」と考える思考方式。

つまり、「時代と場所を置き換えたら、どんなことになるか」を想像するパターンです。

この思考方式が身につくと、逆に、江戸時代に起きたことが、もし、今、起きたらどういうことなんだろうかと考えることができ、時代小説や時代物テレビ番組を見ても、面白さが断然違ってきます。

この方式は「時空置換方式」。

 

次の事例。

数学や自然科学の法則を、人間・人間社会・組織などに応用してみようという試みです。

まだ私が使っていないものから紹介すれば、「コリオリの力(物理学)」「ゼロの発見(数学)」「星と微積分(数学・物理学)」「錬金術(化学)」「モホロビチッチの不連続面(地球物理学)」「パスツールの白鳥の首(生物学)」などなど、いくらでも出てきます。

この方式は「法則対象置換方式」。

 

次の事例。

生物の進化は、組織の進化に応用するにはもってこい、でしょう。

4月9日「生物ヒトの特長」などでもご紹介したとおり。

この方式は「進化論適用方式」あるいは「ダーウィンあんたは偉かった方式」。

 

次の事例。

いま、この決断をしたら、その後、人々は組織はどう変わっていくのだろう。こんなことを考えることがよくあります。

ある時点の決断や、施策や、事故や、事件が、その後の社会に対して、いかなる影響を及ぼしたかを考えることは、決断に至る過程において、極めて重要な思考方式だと思います。

つまり、「歴史から学べ」と。

この方式に名前をつける必要はないかと思います。

 

このように、思考方式と、その際に活用する材料を用意しながら生きていけば、何か気づいたことがあれば、即座にネタができあがる。

 

このブログが、本当にネタ切れになる日を楽しみにしてください。

 

 

 

2007730日 改革者は当初、嫌われる

 

私は、中国の方と知り合いになると、必ず聞く質問があります。

「歴史上で一番好きな人物は誰ですか?」

 

「漢の高祖、劉邦(りゅうほう)かな」

「それともライバルの項羽(こうう)かな」

「秦の始皇帝だったりして」

「三国志、魏の曹操(そうそう)も人気があるだろう」

「私なら諸葛孔明(しょかつこうめい)か太公望(たいこうぼう)だな」

「まさか毛沢東(英語ならChairman MAO=毛主席)ということもあるまい」

などと考えながら答えを待っているのですが、意外なことに多いのが「ケ小平」という回答なのです。

 

私が聞く相手は、30歳から50歳ぐらいまでの男性・ビジネスマン・大都市在住という傾向がありますが、それでも、私にとっては「ちょっと意外」です。

なぜなら、私の年代だと、ケ小平が「嫌われていた」印象が強いからなのです。

 

ケ小平(日本語読み=トウショウヘイ)は、1980年代と1990年代に中国の最高権力者であった政治家です。

彼の政策は、「改革開放」という言葉に象徴されるように、毛沢東が主導した厳格な共産主義ではなく、市場原理を経済発展に一部取り入れたものであり、このような考えを持っていたために、最高権力者になる以前には何回も挫折を繰り返していました。

改革開放路線は、現実的な進め方を重視し、少しずつ、また、国営企業を次第に民営化するなどの方法をとったせいでしょうか、必ずしも、彼の時代の特に前半あたりでは人気があるとは言えなかった。むしろ、嫌われていたという印象を私は持っています。

 

印象的だったのは、有名な1989年「天安門事件」のときの学生の行動です。

ケ小平の「小平」と中国語の発音が同じである「小瓶」を引きずりながら、若者たちが抗議と嫌悪を明らかにしていました。

 

このように嫌われていた彼が、現在の若手ビジネスマンからは最も好かれている一人である。

もちろん、彼の改革開放政策によって、チャンスを得て、経済的にも豊かになった層だから、ということもあるかもしれません。

しかし私は、「改革者は当初、嫌われる」という法則が、ここでも働いたのではないかと思うのです。

 

「もう、これではやっていけない、生きていけない」あるいは「どうして改革が進まないのか」といった状況、つまり、既に人民が「改革を待っている状況」であれば話は別であり、「私が改革をやります」という人物の登場は、最初から拍手喝采をもって受け入れられるものです。

こういうケースでは、むしろ当初、人気が出るものですが、一方、必ずしも「改革待ち」ではない状況では、過去と現在を否定するように映る改革者は、嫌われることが多いと思います。

この「嫌われる」には二面があって、「改革など必要なし」と考える保守派と、「改革は徹底してやるべし」と考える革新勢力の両方から嫌われる可能性があります。後者からは「そんな生ぬるいことではなく、革命のごとくやるべし」ということから嫌われることがあるようです。

 

業務部門改めサービス部門として始動しつつあるSSOMでは、改革を推進している方は、もしかすると周囲から嫌われているかもしれません。かつてのケ小平のように。

SSGのヘッド・クォーターであるべきSSHDも改革が必要です。ここでも、改革を推進しようとすると嫌われるかもしれませんね。

 

私としては、改革推進者にエールを送りたいと思います。

当初、嫌われるかもしれないが、ケ小平のように後で評価されるかもよ、と。

ん? ケ小平ヤダ? ルックスが嫌い???

じゃ、ゴルバチョフでどうですか?

 

 

 

2007731日 二流レストラン

 

二流レストランの体験記です。

 

東京にある著名ホテル、その最上階にあるフレンチ・レストラン。

つまり、ロケーションは超一流です。

17世紀のフランスといったコンセプトで揃えた調度品や絵画、彫刻。

テーブル、イス、クロス、銀器、食器のいずれもが高級品。

ワインはすべてフランスから。

食事は素材にこだわり、調理法も凝っている。もちろんおいしい。

 

しかし、このレストランは明らかに二流でした。

 

その理由は、「お客様をどの席に案内するか」の配慮に欠けていたからです。

 

私がこのレストランを使ったとき、一組、タイヘンにウルサイおばさま二人組みがいました。

実は、エレベータに乗るときに偶然遭遇し、そのときから既に周囲の注目を(悪い意味で)集めているようなノリ。ダミ声で怒鳴っているように聞こえる通常会話。その音量の10分の1さえあれば、相手に届くだろうと思われるような過剰ボリューム。「そんな話を周囲に聞かせたいのですか?」と質問したくなるような会話内容。

やれやれ。。。

 

プロなら一目見ただけで、周囲に対する(悪い)影響力がわかってしまうような顧客。

一流レストランであれば、他のお客様への悪影響を最小限にとどめるような席にご案内するはずです。

 

実は、一流と呼ばれるようなレストランはすべて、お客様の席をどこにするかに対して、細心の注意を払っています。

たとえば、大手町ファーストスクエア地下にある中華・小洞天。

日本橋発祥の老舗であり、大手町でも行列ができるほどの人気店です。

ランチの平均単価が900円ぐらいの大手町にあって、1155円という価格設定は決して安くありませんが、昼は11:40に店に到着しても座れないほど混雑しています。当社の従業員は、フライングしても行列の最後尾でしょう。

この店、回転も早いので、つまり、「お客様を席へご案内する」というイベントがひっきりなしに発生しています。しかし、この役割をこなすのは、フロアのチーフと思われる男性と女性の二人だけであり、他にもベテラン店員がいるにもかかわらず、お客様の席への案内だけは、その二人以外の店員がすることはありません。

 

それほど、席への案内、つまり、このお客様にはどこに座っていただくかを決めることは、レストランや外食にとって重要なことなのです。

 

小洞天の10倍以上の値段のフレンチでしたが、冒頭のレストランは、その基本ができていない。

 

私は、お客様と会食をしながら、ふと、このレストランの経営者がどういった人物かを想像してみました。

 

調度品、食器、料理人を選んだのは、その経営者でしょう。

その経営者は、お客様がいるときに、店に顔を出すことはない。これが想像の第一。

想像の第二は、経営者のチェックは、「チェックすること自体が目的のような、儀式のようなチェックだけだった」。

 

つまり、お客様のいないとき、料理人の料理を確認し、フロア係りのサービスを確認する。

料理の確認はそれでよいかも知れませんが、フロア係りのサービス・レベルを、そんな方法で確認できるはずがありません。

 

見方を変えて言えば、「店が開店する時刻まで」は、そんな方法でもチェックはできたものと思いますが、「店が開店してから」=「お客様が見えてから」を確認することはできない、確認していないと思うのです。

調度品、食器、食事、いずれも一級品に仕上がっている。

しかし、今日はどんなお客様がいつお見えになるかはわからない。開店してから閉店するまで、サービスの観点では様々な状況が現出するはずですが、開店後、一番工夫できること、工夫すべきことは、個々のお客様の席を決めることであるはずで、そのことが軽視されている。

これではやはり、このレストランは二流というほかはありません。

 

実は、世の中にはこの種のことが結構多い。

経営者とか上層部とかが、「お客様が見える前の段階」あるいは「お客様がいない状態」だけをチェックし、実際に、自分たちが決めたことがどれほどの付加価値を生んでいるか、課題を抱えていないかを、「見ていない」組織。

 

一言で言えば、パーな組織、ということになります。