泣いているのを、知っていた気がする。だけど気づかないフリをしていた。
 あなたが隠れて泣いていたからじゃない。何も出来やしないと無力を噛みしめたからじゃない。
 ただ、わかりたく、なかっただけなんだ。


 U−3 遠い昔が今を呼ぶ時、逃げている証拠だと思い知れ。


 季節感のない街であるのは明々白々だが、それでも時の流れは世の他な街と同じく訪れる。
 薄く間延びした雲の切れ間に煙る太陽が見えない事もない、そんな些事さえ忽ち椿事、だが問題はそう誰もが空模様を観察などしないという事実。結局ひと時は激しさを覚えず、午下は穏やかなまま過ぎ去ろうとして。
 見慣れないものだから、輪郭がぼんやりしていても焼き殺されてしまいそう、精一杯眇めながら尚、太陽の面影というこの珍しい現象から瞳を離さずツェンバーは冷たい地べたに身を降ろしていた。固いコンクリート質に土か埃かが降り積もる、薄さは今日の雲とどっこいどっこい。
 ビルとビルの隙間、小路の薄暗闇は単に自宅に近いからという訳だけではなく、否結局それが理由ではあるのだが、人がそうそう近寄らない事もあって大抵はツェンバーの安息を約束した。
 やや陰気ではあるが湿っぽくは無く、風が吹き抜けては地面の上澄みを軽く攫う。汚れたそよ風が頬を撫ぜ、時折口内へ侵入してくる不届きものを吐き出す以外は、全くの麗らか。
 保護者役を買って出ているイオリナ辺りであれば、一言二言文句を洩らし腕を引っ張り上げそののち、もっと明るく人気のある方へと連れ去られるのだろうが、そうした外からの力がなければ、何処にどんな風にいようと気にする必要が無い。
 場所にもものにも執着なんて、作れば作るだけ縛られていくだけだ。
「そして後、数日。」
 そして、の以前に相応しい言葉が呟かれたのはどれ程前の事か、それとも脳内完結か、憂鬱なため息は腹立たしさを抑えた虚無が勝る。
 興味本位に近しいものでエファルの街に潜む十把一絡げを追ってみたはいいものの、労力を割いた割に成果が得られなかった、午前中の無為な労働のみならず、重々しく肩に圧し掛かるものは、まさに重圧。
 瞼を閉じれば、きらきらとした輝きの中、遠き日の群像があまりにも容易く蘇る。



 あばら家と呼んで差し支えないボロ小屋の向こうには、だだっ広い草原が始まっていた。
 そこを勝手に拝借し庭と呼べば、まぁまぁな居住環境、雑草が茂る中にでんと足を沈める古めかしいテーブルは、不法投棄されていたものをリサイクルした逸品。
 卓上に広がる点々も粗末な代物だったが、洗い込む事で衛生面をクリアし、更にその上に広がる華やかさが総てを払拭してパーティーである事を疑う余地などない。
 斜めに傾くスポンジにこれでもかたっぷりとクリームを塗りたくり、その本体に力を振り絞るが精一杯で苺だの砂糖菓子だの飾りつける程の余裕はなくとも、たったそれだけで、うきうきと作り手の心が踊ったであろう事が、伝わるような愛らしさを秘めていた。
 かっちゃかっちゃ、すり合わされて鳴き声を上げる茶器を胸元に抱え、喜びに舞い上がりながらもここで割ったりなんかして空気をぶち壊してはたまらないと慎重を期し、二人分のティーカップを用意出来た事に女の子はとても満足げに、誇らしげに、後ろを振り返る。
 透明なポットになみなみと熱い液体を波打たせ、女性はその少女の頭をぽんぽんと、褒めるようにして、一つは花柄の、一つは青い縞の入った、模様からしてチグハグな二つ分にゆっくりと中身をそそげば、吐き出される香気に忽ち、ただの平原が本当に、手入れの行き届いた小洒落た庭のよう、ホームパーティーでも開いているかのように華やいだ。
「それじゃあ、恒例の。」
 温かく微笑みながらも、何処か情けなさを秘めた、女性の機微に気がつく間も無く、少女の目の届かない高さまで積まれたがらくたの上、置かれ合図を待っていたプレゼントに興奮し、少女は鼻息荒く待望している。
 赤と、オレンジが、さんざめく、何かなんてわからない一束の花が弱風に泳ぎ。
「ごめんね、誕生日なのに何も無くって。」
 言葉により一層情けなさが表に出て来て眉の上に惨めさが乗る、その意味がわからないとばかり、或いはそんな風に卑下する必要はないのだと、十二分の感激だと、伝える為、少女は満面の笑みで受け取った。
「ありがとう、ママ!」
 真っ赤な花が霞むくらい、オレンジの花がとても映える、真紅の髪を振り乱しながら嘗ての誰かは手にしたプレゼントと同じくらい満開に喜びが咲いていて。


 そして再び開いた目に移るのは、袋小路の殺風景。太陽の匂いが降り注いだ思い出と何処にもシンクロすべき点の無い、ただの現実が待ち構え。
「今じゃ逆転しちまったよ。」
 自嘲気味な嘆きに、摘まんだ毛先のけばけばしいオレンジが、枝毛の一つを潰された。逆転とは言ってみたけれど、きっと花のオレンジに容易く敗北する、なんて褪せた、オレンジ色。



「多分私は、思うに自主翻訳というのは苦手な分野なんじゃないかな。」
 精一杯言葉を選んだ結果の自己分析は、しかし結局精根尽き果てましたという敗北宣言に他ならない。
 その自覚があるのか弱々しい声で嘆くシクォーテルの側らには、先日シャードに土産として貢がれた『ツェインアローバ』の刻印が表紙に成されているハードカバーと、更にその下に潰されている同じ程度の分厚さを誇る辞書が放り出されていた。
「勿論、広く知られているのが絵本や童話という形だからと侮っていた訳じゃない。大抵そうした作品の元になった話と言うのは削られたダークな部分が非常に重苦しく乗っかってくる凄惨な現実であったりするが、いやそれにしても、少々どころか手強いやつでな。」
「はぁ。……確かに、辺境の地の訛りがきつい、古代の話ですからね。詳しい言語学者達でも解釈が真っ向から対立する事もあるそうですし。」
「だよなだよなそうだよな! 決して私だけが悪い訳では!!」
 慰めを得られた事によりシクォーテルは弾みながら自己修復に努め、同意をより強く求めようと両手を握られる話相手、テッソは常であればもっと狂喜乱舞してもいいだろうに、何処か苦笑いの拭えない様子だった。
「ところどころすっ飛ばしながら今二頁目なんだがな、特にこの段落の装飾文が独特でね……」
「あの、すいません僕この話はちょっと」
「だが既に一頁目からで、これまで知ってきた話とは随分とニュアンスが違うのだよ! 今からこれでは、この先一体どれだけ楽しませてくれるのだろうと思うと、っくー!」
 話を聞いてくれない、なんて事は流石に王の私室までストーカーを働かない程度には節度を弁えている兄・ジョイバヤで慣れきっているだろうに、テッソは曇りがちな表情を更に濁らせて、不服そうにため息を吐く。
 王宮だいすき、王様だいすきの 軍人っぷり(いつも)からは考えられないグロッキー状態だが、それ程までにシクォーテルの語りが、ツェンバーが脱兎の如く対応するマニアックなものかといえば、そうでもなく好奇心豊かな子供の言葉足らずに近い。
「あの、すいません王様僕本当にこの話は不得手で」
「ん? 童話だと馬鹿にしているのか? 大丈夫、確かにちょっと御都合主義な勧善懲悪の面もあるが、言ったろう、原本は相当捻くれているぞ。」
「それは――――知っていますが。」
 相手が相手だけに強く言い出せず、堂々巡りに辟易としてきた頃、救いの女神は扉の向こうより舞い降りた。
「シクォーテル様、差し支えなければ准尉をお借りしたいのですが?」
「はい今直ぐ喜んで!!」
 問われた当人が何か発する前に対象がすっくと立ち上がり、朗らかな声でそう返されては最早手出しのしようもなく、中途半端に開いた実に間抜けな状態に気がついたシクォーテルは静かに閉口し、ただ同意の証に頷く外なかった。
「……宜しいですか? では、此方へ。」
 二人の温度差に目配せしながらも、エインセルは熱が冷めない内にとテッソを連れ出した。一人部屋にぽつねんと残されたシクォーテルは、所在なさげに再び古文書と格闘するという案を思いつくまで、ただぼんやりと天井を眺め。
「それで、御用時というのはなんですか?」
 奇妙にうきうきと心を躍らせているテッソの様子にエインセルは怪訝そう眉を顰めた。
 共に行動した時間が短い故に間違った考察をしている可能性もあるが、テッソはシクォーテルを狂信者宜しく祀っていたというのに、傍から離れられて嬉しいという気持ちがこれだけ駄々洩れしている不可思議。それとも王という偶像からシクォーテル個人という実体へ移行するにつれて、なんて事ならば、成る程おかしくもないのだが。
 一人、部屋に置き去りにされるシクォーテルの、小動物や子供が持つ特有のもの悲しい瞳を見てしまったからには、気がかりが振り払えず咳払い一つ、エインセルはテッソに態度の疑問を投げかける。
「シクォーテルを知って、幻滅しましたか?」
「いいえそんな、とんでもない!」
 同意イコール打ち首という質問の仕方も難ありだったが、テッソは渾身の力で否定を提示した。そこに嘘があるようには、早さと態度が見せない。
 審査するエインセルの鋭い眼差しに怖気たよう、テッソはもごもご口籠りながら、諦めたように語り始めた。
「……僕の出身地って、あの伝承があったとされる辺りに近いんですよね。」
「嗚呼、そういえばジョイバヤに聞いた事があったような。」
「だから伝承への信仰とか関与が根深いっていうか、それを観光のメインにしていたというか、まぁ、そういう体制がすきじゃなかった、それだけです。」
「つまりあくまで『ツェインアローバ』の話が気に食わなかったと?」
「や、そんな、気に食わないだなんて。」
 再びもごもご、優柔不断さを見せつけられエインセルは嘆息するが、それでもそんなに傷つく必要は無いという朗報をのちにシクォーテルの元へ持って帰れるという部分だけで満足する事に算段がついたようで、再び前を歩き始める。
 つられて歩みを再開しながら、テッソの脳裏には遙か昔に捨ててきた故郷の茫洋とした風景が蘇っていた。



「お前あの観光客に、吹き込んだんだって?」
 大柄な体躯を活かした威圧的な態度で、幼いテッソをとって食わんばかり男はにじり寄った。
「だ、だってちゃんとした史実を知りたいって言うから……」
 身を震わせながらも瞳逸らさず、今にも泣き出しそうに真実だけを述べてみせると、村の男は頭を掻きながら面倒臭そうな応対。
「ちゃんとした、なんてものないんだ。所詮伝承なんだから。」
「でも、僕らの村に伝わるのが一番正確だって、」
「だぁからってそれを馬鹿正直に教えてやる必要が何処にある? 大事な観光資源を貶めて満足かお前は!」
「そんな、僕らはきちんと歴史を伝えていく役目を」
「いーんだよ! 望まれてるのは、バケモノと人間様の美談なんだ! 現実じゃない!」
 だから余計な事は云うな。
 使命感は一蹴され、残ったのは旋毛に叩き込まれた拳骨の痛烈さだけ。
 これで何度目だろうか、幼さ故の慟哭は誰にも届かず、テッソの想いを汲み取ってくれる人は傍にいない。
 誰も、いない。

 どうして? 物語は、嘗てあった出来事を、世に残していく為の手段ではないの?
 どうして? そこにある真実を知るのならば、広める為にこそ僕らは教わったのに?

 嘗てこの地に竜がいた。
 それは人に迫害されていた。
 そしてその仲を取り持った英雄がいた。

 そんなんじゃ、少しも真実に届きやしないのに。
 みんな、それで満足なのか。
 そこまでしか、知りたくないのか。
 何がどんな理由で起こり何処に落ち着いたのか、どうだっていいのか。
 ただ、美談だと酔い痴れる事が出来れば、それで。



「それじゃ、いつも通りお願いしますね?」
「は?」
 倒錯していたテッソの脳がエインセルの言葉で現在を認識した時、彼女の言葉を蔑ろにしていた事実がただ横たわっていて、じろりと睨まれてもわからないものはわからない。聞くは一時の恥、一体何を頼まれたのか問い返す身から出た錆の選択肢。
「まぁ、私の話など確かに退屈でしたやも知れませんがね。」
「いえっ、いいえとんでもない! ちょっと僕がぼんやりしていて」
「構いませんよ。いつももっと問題児を相手にしているのですから、大した事じゃありません。」
 そんな切り返しをされれば追撃も出来ずに、テッソは申し訳なさに悶えながら盗み見てみれば、確かに怒りはそこまで感じられないが、それが逆に不穏、というもので。
「ツェンバー達へ召集を伝令して下さい。但し用件は怪物退治ではなく、ちょっとスリリング且つデリケートなミッションです、とでも。」
「密偵、とか?」
「概ねそんなところですが、詳細は後程いつもの集会所で。」
 半信半疑、テッソは思うまま告げた。
「はぁ。……あの人達にそんな繊細な仕事が出来ますかね。」
「そんなものは期待していませんけどね。マンネリは腐敗を生み出してしまうから、変化を与えていかなければならない、と。」
 愉快そうに口角を上げるエインセルは、不謹慎ともとれるだろうに妖艶さが打ち消してしまう、そんな微笑みのままテッソを送り出した。



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