勘違いをしている事にさえ気がつかなかった。それが過ちである事にすら思い至らなかった。
 子供だから許されるであろうと甘えていた。子供ならばそうあるべきだと甘やかしていた。
 その代償を、支払う日がやがて来るのだとはこれっぽちも、考えだって、しないで。


 U−5 Leopard cannot change its spot,……and you?


 唐突に目の前に現れたのは、記憶力がよい人物にとっては懐かしい顔であり、即ちツェンバーにとっては誰かすら判らない。
 ただ視界に入った瞬間、その男達は竦み上がった。震えて、何事かツェンバーに届く程ではない小さな声できゃんきゃん鳴きながら、そのままこそこそ背を丸めて退散するのが当然であるかのような雰囲気の中で。
 それでも男達は、向かってきた。近づく度に醜悪な顔が克明に映し出され、涙と鼻水と冷や汗にまみれ液体でぐちゃぐちゃになった顔面で、ツェンバーに襲いかかって来た。
「うぅうわああぁあぁぁぁ!!!」
 雄叫びにしては汚く、悲鳴にしては険しく、男性にしては若干高く上擦った声で、振り上げた手に持っていたのは鉄パイプでも角材でも斧でもなく、掌に納まりそうな紙切れがひらひらと。なんのつもりかと目を見張りながら降ろされる軌道上にツェンバーが自らの腕を差し出し一先ず身を庇えば、紙片に触れた右腕に瞬間的な灼熱が襲う。
 火花を散らすどころではない、その身全てを以て熱源体と化した紙は一瞬の内に己が体積の三倍は燃焼し、ほんの僅かな間だけ燃やし尽くした一帯の空気が歪む。たまらず振り払うように右手を引っ込めると、触れていた面の何倍も大きな焼け跡が服を溶かした地肌に焼けつく。
「てっめ、乙女の柔肌に何しやがる。」
 痛みが蝕まれるよう広がる感触に片目を眇めながらも、その口元は上機嫌を現して、闘争本能にも火をつけたらしい奇術の正体を見極めんと今初めてツェンバーは相手を注意深く観察した。
 膝ががくがく笑うという表現がまさにぴったりの状態でとても奇襲成功者とは思えない。だがその素性をツェンバーのデータバンクに照会する間を与えず男の後方から別の相対者が突進してくる。
「今やらなきゃここで頑張らなきゃもう他に何処にもどうしようもないんだ……!」
 もごもご、口内で終わりそうなか弱い声は言葉として中々ツェンバーの耳に入っては来なかったが、悲壮な決意だけは何処か感じ取れるのは、人に攻撃などまともに加えた事も無いのだろう、目を瞑るから蛇行して、前かがみになり過ぎて背を丸め、その男にしては全力疾走の突進は、ツェンバーにはひらり、あまりに容易く交わせる代物。
 先発と違い突進失敗者が持つ獲物は小型のナイフで、慣れない攻撃をその武器で行なおうというのは、無知故の愚行より蛮勇にも思えた。不得手なればこそ普通は、もっとリーチの差がつけられる長物か、同じ刃物でもおどろおどろしそうな鋸辺りはチョイスするだろうに、なんともまぁしみったれたそのナイフを、そういえば何処かで見た記憶がなくもない。
 やはり男達と自分が無関係ではないのだと、依然正解は導き出せないながらもヒントを得たツェンバーは、同じく人に危害を加える事にあまり慣れていないのやも知れない、それでもなんとか震える足を奮い起こして再び立ち向かってきた男と、相変わらず瞼を閉じてしまうという大前提で大失態を犯す男に挟み撃ちされる恰好になり脳の回転と同時にささやかながら躯の機動力もグレードアップさせる。
 真直ぐ腕を突き出し、両手で握りしめた刃の切先が勝手にツェンバーを選んでぶつかる事を願う無責任なアタックへは、身長で足りない分をカバーするバネがしなやかにツェンバーの足の稼動領域を上げ、硬質なブーツの尖端が下から突き上げるようにして男の拳ごと打ち砕き、銀の花びらを舞い上げる。
 突然の激痛と、事態の急変に目を引ん剥いた男の眼前にはそのまま帰ってくる足が降ろされる絵だけ写り、急進を止められない惰性が縮めた距離分、ツェンバーの踵がその肩に突き刺さった。
「ぅぎぁあ!」
 小さく潰れゆく声を残して傾いだ男はそのバランスを崩したまま地に突っ伏すだろうと判断、ツェンバーの視線はもう片方の敵へと移行し、横目に写していた段階で既に初動を始めていた右腕が二の舞を踏むまいと、再び怪しげな一枚を掲げる男の手を止め、踵落としを決めた足が空中散歩を終えるだけの時間を稼ぐと横っ腹に鋭くうずめ、悶えながら薙ぎ倒されそうになる男を援助せんと振り抜いた。
 手早く片づいた二人の、その更に後ろが控えている事を、即ちツェンバーがやってきた時に狼狽えていた男達が三人組であった事を忘れる程に影の薄かった一人は、彼らの背景と化していた列車から何某かを取り出したらしい、先刻は車体のカラー一色だった中にぽっかりと向こうを覗く暗い空間が浮き、吐き出した内容物は既に乱雑な開封がなされた胸に抱えられるサイズの木箱、取り出したものが何かは、予想外の強肩から豪速球となり飛びかかって来たそれが今度こそ盾の役目を果たすべく上げられた腕にぶつかるまで判別出来なかった。

 始めの印象は、冷たかった。それも氷のような強烈さを持たない、微温湯と冷水の狭間のような中途半端なひんやりで、液体の持つぬめりがそのように捉えさせるのやも知れない。物体を取り巻く液体は粘液質で、ぴちゃり、なんだか涼しくない音でもって第一接触を果たす。
 その黄緑色のぬばねばを纏うもの達は、もっと気持ちが悪かった。周囲のカラーリングが邪魔する為詳しくは判らないが、白い球体に、一つ色濃い丸が染みのようについていて、その周囲に細やかな線が嘗て働いていた名残を思わせる。大きさからして、人の、或いは同じくらい大きな何かの、眼球。
 膜の向こうから押しつけられる目玉の感触は、スピードに背を押されていながらむにゅり、いやな柔らかさを保ち、その形状と周辺故回転しながら五つ分の瞳孔は其々一回ずつツェンバーと見つめ合う。
 単純な嫌悪を示そうと顰めた顔が引き攣ったのは、勢いを失い滑り落ちる瞳が地に辿り着く前から。粘液は予想外にツェンバーの腕に残ったが、それ以上に強烈な余韻が右の手を痺れさせる。麻痺なんてものじゃない、何かすっぽり抜け落ちたような、ごっそり骨も筋肉もとろかされたような、突然続きを失った部位を求めてのファントムペインが、痺れの実体。
 動かないながら、掌は感じる。指も存在する。だが肘から下の、手首までの感覚が瞬間的に掻き消されたイメージに、思わず左の手でその部位を抓んだ。液体を避けながら中身を感じない場所を上下から押すと、当然感覚の遮断されている右には何をされた事も理解出来ないが、それでも触れている左からすれば、突然空白になったのでも個体の形を留められなくなったのでもなく、中身がある事を感じ取れた。
 つまりやはり、正体としては麻痺らしい。だが寧ろこの結果に驚いているのは、仕掛けた本人のようだった。
「あ、れ、全部溶かしちゃうんじゃなかったの……?」
 眼球を入れていた瓶がまだその手に残っている事からも総てという点には語弊があるのだろう。しかしツェンバーが足下を盗み見れば、土がじゅうじゅう音を立てながら今も尚磨り減っている事実を思えば満更嘘でもないらしい。
「紛い物だったのかな、それとも使い方があるのかなっ。」
「わ、っわっかんねぇよ、多分あれだ、亜人だから!?」
 慌てふためきながら適当に挙げる案の一つとしておざなりに流されたが、ツェンバーはその一言で納得したようだった。
 竜の血。
 誇った事は無い。救われた覚えが殆ど無いから。それでも、そのお蔭で片腕を失くさず済んだのならば、今こそがその感謝の時か。
「どどどうすんだよぅ! 商品に手をつけるなんて!」
「だってしょうがなかったじゃないか、女王を倒すにはって夢中でっ、」
「それでぴんぴんしてたら意味ねーだろうがよぉぉ……」
 三者三様に頭を抱える中心地である、開け放たれた木箱には、何かが犇き合っている。それら全てが溶解眼は判らないが、何れ劣らぬゲテモノ揃いなのは間違いないであろう。そしてそれは、本来彼らが手にしてはならない、商品だった、と。
 そこまで考えてから、ようやくツェンバーは二つの事に思い至る。宛ら乱暴に空の星を繋げた星座のよう、合点がいった瞬間の閃きはまさに星のまたたきのよう。
「そうかお前ら、マクモーガルの手下か。」
 久しき単語に肩をびくつかせた三人は、出るに尤も相応しくない口から、否贖罪に駆られよという彼らの悲痛な願いにしてみれば常に出るべき口から、今やっと思い出したようになんの感傷も感慨も込めずに生み出された自体が許されざると、涙目で睨みつけた。
 余興でありながらも生死を問わない催しの中で、戦いそして死んだ。その事実を受け入れられないのは、喪った人を大切に思えばこそ。
「忘れたって、いうのか…………忘れてたなんて、言わせねぇ!」
 マクモーガルは、死んだ。ツェンバーと対戦し、その数時間後に命を落とした。致命傷は、ツェンバーが与えた傷。
「お、お、お、お前が女王だろうがなんだろうが、かか、仇は仇だ!!!!」
 報復に、出向いてきた四人組。だが実際に歯向かってきたのは、今ここにはいない、声の低い男だった。目の前の三人は、今と同じように震え竦み泣きながら、ただただ後ろに控え、あまつさえ逃げ出していたというのに。
「随分心構えが変わったもんだな? その新しいおもちゃのお蔭か?」
 商品であるらしい、ツェンバーの腕を不能に陥れし目玉は使用の可否を討論されているが、始めの発火紙については始めから使用可能だった、最初から、与えられた武器だった。思えばもう一人が用いていた獲物は、あの時一人ツェンバーに立ち向かってきた男も手にしていたナイフ。尤もその男は突進しながら視界を閉ざす愚か者では無かったが。
 その、一番頼りになる男がいない。作戦、行動共にか弱き三人を纏め上げていたであろう、あのリーダー格がいない。そしてその頭を失った弱者の手には、過ぎた玩具が握られている。そうまでして強化された彼らが、何かを守らされている。
 そう、彼らは番人だった。一見列車の前に屯していただけの三人。だがここは整備の為列車が居並ぶ青空倉庫、ツェンバーの通りすがりも若干不審ながら、関係者でもない者が長時間滞在している時点で充分に不審で、それを理解していたからこその過剰な警戒態勢が、マクモーガルの仇という私怨に摩り替わっただけの事。
 では、彼らは何を守る? 列車なんて大それたものがこの三人に任されるとは思い難く、そうでなくとも広大な範囲のものを固まって守備するというのは道理ではない。ここに至るまで整備士すら見かけもせなんだ、つまり他に外側の警戒者は見当たらず、そんな列車の一角に犇き彼らが大事そうに扱っていたものといえば、商品。
 武器も商品も、どちらも得体の知れない、或いは気味の悪い、例えば闇魔術を愛する者が好んで用いそうな、趣味の悪い代物。
「そういえば、聞いた事がある声だとは思ったんだがな。あの男が買いつけて、お前達に護身用に下さったってか。それとももっと大事なものを護るように、か。」
 何処までが図星なのか、少なからず動揺する男達を思えば何処までかは図星なのだろう。それで充分だとツェンバーは固まる三人の元へ駆けた。誰かが行なった突進なんてただのお遊戯だと証明するくらい速く、だがそれはただの疾走。
 効能が見えない事に怯えながらも、ツェンバーが停止し状態を確認していた事から何かしらの手応えはある筈だと解釈、勝手に臨戦態勢を解除した彼らには瞬時に対応するだけの能力も無く、麻痺している右腕をただの棒切れとして、そのしなやかさからは鞭のが妥当か、振り被れば一網打尽で打ちのめされる。だがその音は非常に重々しく、棍棒ではたかれたように鈍かった。
 一様に横へ薙がされた三人は土に倒れたまま立ち上がれず、へたれ込む。直接攻撃を食らった口数の多い男は衝撃で息の出入り口が故障したのか、浅い呼吸を繰り返す。二人に挟まれ肉壁に押し潰された、以前は一言も喋る事が無かったが今回も一言程度しか話さなかった男は、既に意識を手放している。
 大の男二人分の重みによろけながらも一番打撃の効果が薄かった男が一番回復が早く、上体だけ起こしながら突然に威力を増した右腕を凝視した。
 ツェンバーが始めから本気でなかったにせよ、パンチ力が途中から上がる事が理解出来ても、あまりに人の腕とは思えないその音が、不可解だと睨みつける。
 震えていた膝が収まったものの、緊張が筋肉を混乱させ恐怖がよりそれを助長し漏れ出した小水が地面を濡らす、湯気の立ち具合という情けなさは健在だが、今以て誰かを人身御供に逃げ出すという嘗てを繰り返さない事を買って、ツェンバーは静かに説明を始めた。
「その商品とやらのお蔭で、溶けはしないものの麻痺しちまったようだ。治るかどうかによりお前らの処遇を決めたいところだが……不便であっても、弱体化ではないんだなこれが。」
「麻痺、してる……?」
 とても信じられないとより熱視線を送る男だったが、だらりと垂れ下がるその様は嘘と真の間を揺れる。だが殴打の瞬間、力を込めた様子は無く勢い任せに振っていた形を思い出せば、急拵えの出任せでもないと理解を示した。
「ところがどっこい竜の血の優れものなところは、アタシの、人としての支配下をのがれた時こそ本領発揮、ってところだな。」
 自嘲気味に笑いながら左腕が軽く叩くと、鉄を相手にしているような、こつこつ、かんかん、硬質な音が返事をする。軽く振り回せば、脳からの指令を受けている従順さは無いが、銃器を振り回しているような重たい空気の流れが男の頬を撫ぜた。
「つまり、つまりあんたは無意識のが強いって、事なのかっ!?」
「一概には言えんな。しかし、身体能力だけとれば間違いなく、人より竜のが上だろう?」
 そんな馬鹿なと戦意を喪失していく叫びに失神から立ち直った真ん中の男は、目の前にそそり立つ敵の姿に悲鳴をあげ、ひたすらな危機回避の本能で無我夢中にして無謀な攻撃を行なわんと、背後の木箱から再び商品を取り出そうとしている。
 第一に逃走を選択しない変わりようは必死の表れなのか。だが再びあの目玉を食らうのはいい気がしないと、説明をしていた頃には意識がまどろんでいた男にはただのだらしがない右腕を振り、気がついた頃には避けようがなくまたただの腕としてしか見なければここでよけずに耐え、商品に縋りついた方が未だしも勝機があると計算したのか歯を食い縛った。
 竜の強靭な肢体は、それを支える頑強な筋肉、それを護る鋼鉄の皮膚により成り立つ。果たして男の顔からはえげつない破壊音が皮の向こう側から聞こえ、ひびや折れが一箇所では足りない事を示す。右腕がツェンバーの元へ帰ってきた時には、鼻から口から止め処なく流れ落ちる血液が無口だった男の顔の半分を濡らしていた。
「う、あうぅ!」
 見ているだけで先刻同様に叩きつけられた横腹が痛むのか、呻き声を洩らしたのは隣の小煩い男だった。やおら力無く後ろに傾き出した真ん中の男を左右が同時に支えて、其々も相当に困憊しているだろうに、引き摺りながらようやく逃げる外無いと恥も外聞も捨てる。
「ごめんなさい、すみません、助けて下さい……!」
「お願いお、願、い、見逃して下さい、お願い、します、お願い……」
 最早頼む本人を見る事すら恐怖だと、すすり泣くように募る声は逃走進路に投げ出された。ツェンバーの方を唯一向く男はぐりんと白目を剥き出しに、片や地を這い蹲り、片やなんとか立ち上がろうとしてはまだ膝立ちに留まる、二人に乱暴に引き摺られる度がくんがくと首が力無く連動した。

 追う必要無しと判断すると、ツェンバーは彼らが手を出すべきではなかったと口論になった商品の中身を覗く。概ね予想通り、溶液に浮かぶ瓶詰めの眼球が所狭しと詰められており、嗚呼見るんじゃなかったと嘆息。
 打開策を求めて急遽引っ掴んだものだからとても修復不可能な開封は、それでも車内の入り口に投げ捨てられていた蓋さえ強引に被せてしまえば外面には代わりが無かった。
「変な動きをしていた商人のところにあいつらの一派が何かを買い求め、」
 幾ら武器として強くなろうが、麻痺している事実までは覆せず、従って腕としての機能は全く果たそうとしない。
「その一人こそ行動派だったのに不在で、金魚の糞だったあいつらが奮戦した。」
 列車とは本来ホームがあって始めて乗降出来るものである。即ちただ野に置いてある段階では中々の高低さが存在し。
「んでもって列車の積荷、商品が同じショップに売ってそうなもので、」
 どうしたものやら、商品と列車を交互に見ては、無事な左腕で頭を掻く。
「それがエインセルに指示された列車にあるって事は……」
 その左腕を渋々酷使し、全身の回転を加えてなんとか列車に跳ね上げる。華麗な破砕の歌こそ無かったが瓶同士がぶつかる音が甲高く響き、暫く待ってみたが液が漏れてこない事に安堵してから、攀じ登って更に不自然ではないよう奥まで仕舞い込み、片腕が不能というだけでよもやこれ程までに疲労するとは思わなんだ、ツェンバーはぐったりしていた。

 そう、そもそもこの場所に来たのは、腹を立てて退出したエインセルからの案件そのもの。どれだけ逆らってみせようとも、飼い犬であるからこそ保たれる秩序と安寧を壊すまでには、反発は出来ないという限界。
 だが調べていた事柄とぶつかり合い、所謂点と点が結びついて線になるのならば、ただの服従ではないという建前が生み出される。
「……差し詰めアタシは囀るポメラニアンか。」
 そして建前がなんであっても、現実が受け取る認識は厳然たる事実、それのみ。
「だとしても、このまま放置は危ういか? 潜入するというのなら、余計な痕跡は残したくないが……」
 商品を仕舞い込んだにしても開封を隠せた訳ではない。また現場には、乱闘を思わせる血痕と、番犬の不在。
 明らかに何かがあったとしか伝えないそれは、敵方に無用な危機感を与えかねない。例え肉弾戦であろうとも、相手の何処が急所でありどのような攻撃を繰り出して来るのか考える間を思えば、世は須く情報戦であるのだからして。
「現状どうにもならないんじゃ、応援でも呼ぶか……癪だな。」
 人に助けを求める事も、誰に求めるべきか浮かんだ人も。
 だがそれはある意味必然でもある。得体の知れない何かに因って得体の知れない症状を引き起こした身体を先ずどうにかしてくれそうという候補には、医者が挙がって当然なのだから。
 しかし己のそうした思考回路が苦々しいと顔を歪めながら、愈々諦め時だと進んだ足は重苦しく、シャードの診療所へと向かった。



 ツェンバーが立ち去って十数分経ってもまだ、息を殺し続けていたのは何も、引き返してくる事や況して見つかる事をおそれたのではない。別段己に疾しい点はなく、攻撃される謂れなんてないのだから。
 それでもただ目の前の光景に恐怖を覚え引き攣った躯は地面に縛りつけられたよう動かす事叶わず、何処ぞの誰かのように漏らしこそしなかったものの滴り落ちる汗は土を湿らせた。
 ようやっと掌がぐーぱーするようになって、影から這いずるように張大(チャンタイ)は背中越しに行われた戦闘の跡地に近づく。
 ツェンバーを見かけて、悪戯を仕掛けてやろうと。たったそれだけの好奇心で追いかけてきただけだというのに。先回りして罠にでも引っかかったところを嘲笑ってやれれば、それでいいとささやかな満足。
 すきじゃない、父とも母とも呼べない親。それが珍しく悄気返っているから主従の立場を逆転させてやろうと彼是考えていたのに、勝手に元気づけた女王。余計偉そうになって踏ん反り返るあの態度を復活させた相手に報復をするのは当然だと、張大はこの数週間常に小さなバトルを繰り広げていた。
 中には気づかれもせず無残に終わった失敗もあるが、中にはツェンバーが不快そうに眉を顰めるような成功例もある。尤もそのどれもが張大の仕掛けた故意の攻撃だと理解しているのかは、不明だったが。
 その一環として追いかけ先回りしてみれば、武器を持った多人数の男と取っ組み合うなんて予想外の展開で、割って入らなかったのは女王ならば勝てて当然と思った訳じゃない、
 こわかった。ただ、こわかった。
 張大にしてみれば体格も勝る三人組だっておそろしかった、そしてそれを血の海に沈める、ツェンバーの方が。
 女王だと判っている。誰も勝てはしない街の覇者、君臨するからこそ女王だと。それでも子供の他愛ない悪戯くらい許されるのではないかと我儘な解釈は、子供扱いされたくないと反発していた筈の心と見事に反比例している。
 いや、もっといえば都合よく解釈していたのだ。子供ではないと権利を主張するくせに、子供ではない責任を果たそうとはしなかった、そういう身勝手。
 即ち女王に手出しするならば、命の危険も伴って然るべきだという、事実。
 気がついた頃には全身から滲み出る汗が服を張りつかせて、動き方を忘れた間接が奇妙に痛んだ。息苦しいと思いきり深呼吸すると、空気がたまらなく美味しかった。
 無用なちょっかいは出さない方が身の為だと思い馳せれば、ではそれまでの無用なちょっかいが既に理解されていた場合の身の安全は? 再び、呼吸が難しくなる。
 そんな張大の目の前には、気に食わない親とおそろしい女王がいる街からやがて出発する、列車があった。



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