
4.ヒトの最もすなおなもの、狂気。
その日は、学校全体が浮き足立っていた。
近頃頻発している吸血鬼事件という名の、夜間に人が襲われ失血するというまさに吸血鬼の仕業と言わんばかりの事件が、身近で、昼間に、行われそして、
初めての、死者。
ようやくおそろしさが追いついてきたと言わんばかり、噂話は頻りに盛んに花咲いて、次に襲われるのはなんて言わずとも、誰もが寒気に身を震わせていた。冬という季節だけではない、怖気が細胞の全て、神経の末端に至るまでを凍りつかせる。
逸早くその調査に乗り出していた愛満は、だからこそ今日もまた登校直後、成行の元を訪れる。彼は常と同じく、己のクラスの己の席で、何事も無かったかのように眠りこけていた。
「被害者が死んでしまったのは、手違いか何か?」
辺り一帯が同じ事柄で盛り上がっている事から突然こんな会話をしてみせても、嗚呼どうせ吸血鬼事件の話をしているのだろう、なんて誰も気に留めない。此れ幸いと最早人気の無い場所へ移動もせず、堂々成行の席でその話題を振る愛満は、慌ててはいなかったが、静かな怒りに燃えているよう、少し声に熱が籠っている。
「ん、……そうか、死んじゃったんだ。」
半覚醒状態で微睡みを含みながら、耳は正常に働いているようで愛満の言葉も、それから周囲の好奇心と恐怖に満ちた囁きも、現状把握に充分な材料。
「昨日、言った事覚えてる? まだひと月って日が浅い所為なのか、上手く抑えきれないんだよ。」
「つまり殆ど衝動のままだと? 渇きに身を任せて?」
「うん、昨日もね、話していていきなり、ぶわっと、他の意識が飲み込まれちゃった感じで、」
「直ぐに散会した訳。」
相槌の代わりにまばたきを返すと、どうしても襲い来る眠気に勝てないのか、成行は再びゆるゆるとした睡魔に食われようとしている。具合に愛満はこれ以上の言及が今は用を成さないと判断したようで、ため息混じりに、そして何処か冷たさを秘めて、託ける。
「今日一緒に、下校させて。話したい事がある。」
その言葉通り、授業休みの合間も昼食の時も愛満は現れる事無く、昇降口で待っている背中に、懐かしさが込み上げてきて成行は思わず少し大きな声で名前を呼んだ。
まだ、ほんの数日共に過ごしただけなのだけれど、喜ぶ心は隠しきれず。そして朝同様、振り返った愛満は何処か憮然としていて、心当たりがあるとすれば、成行は探り探り会話を始めた。
「死なせてしまった事、怒っている?」
「倫理的に。」
「っはは、確かにそう、昨日言ったのは俺だ……それじゃ、こわくなった?」
「………………」
沈黙が肯定か否定か、どちらともとれるニュアンスで、ただ畏怖よりももっと力強い、怒気に包まれているのは事実。培った時間は微妙な距離を二人に置かせて、興味対象から恐怖対象に変わってしまったとて仕方がないのだと、現実を受け入れようとする。
何故なら成行は、人を殺した。
それはつまり、愛満をも殺す可能性があると言っているも同じ。
「でも、愛満ちゃんを襲うのはいやだったから、別れるまで耐えてた……ってのは、信じて貰えないかな。」
言葉の切実に比べて、若干落ちたトーンは諦観が滲んだ証に、答えを必要としない寂しさは、長く伸びる影を選び濃い夕暮れから逃れる成行の、今の雰囲気が語っていた。
熟した橙色の中を口数少なく突き進んでいた愛満は、曲がった方向と建築物の都合か今は影の幅が短い為に殆ど壁に張りつく恰好で下水道の上を歩き続ける成行が追いつくまで歩行をやめて、じっと見つめる。
一拍。同じ位置に並ぶ。何か言いたげな様子に成行は押し黙り待っていた。
二拍。一瞬潤んだ瞳が、渇いた空の代わりに涙の気配を漂わせる。
三拍。だが瞼を閉じそして開けた時にはその予兆は掻き消えて、毅然とした愛満の顔だけが逆光に眩しく染め上げられ。
「あなたは、吸血鬼ではない。」
暴論に、呆ける事数瞬。漸次理解が脳に浸透すると、成行は上擦った声で笑い出した。
「それは、俺が吸血鬼と認めるのがこわいから?」
「いいえ。昨日のアンケートの答えと今日までのあなたの行動に、矛盾が多いから。」
腹を抱えて笑う成行を咎めもせず、淡々と査定結果を伝える愛満は、夕日に守られてその表情を見せない。
「一体何が気に障って、そんな結論に至ったのか、宜しければお聞かせ願えますか?」
身を捩りながら垂れてしまった唾を拭いつ成行も、張り詰めた声が次第に穏やかならない空気を醸し出す。
歪んだ笑顔は、腹筋の痛みをこらえているからか、落涙寸前でたえているからか。
「守るべきプライドと、形骸化した掟を、混在させている時点で抑々失格している。」
「覚醒したてで無知なんだという結論を出したじゃないか。」
角度を変えた顔の陰影はメリハリを持ち、伏せた睫までくっきりと夕焼けが縁取る愛満の、表情には興味が失せた不服さえ漂い。
「知識の有無ではなく、目覚めた瞬間から血が駆り立てる、矜持を持っていないのが問題なのであって。」
「血に駆り立てられているさ。その為に、殺人となってしまった悲劇を、愛満ちゃんも知っているだろ?」
捲くし立てる口調に合わせて腕は勢い任せに振られ、自己を否定する敵に対して成行は情緒不安定のよう、狂気染みてゆく。
「吸血鬼は獲物を殺さない。食料が失せては困るから。」
「だから、制御が出来ないんだって!」
口角泡を飛ばす、街並みには他の人影が無い。ただの愉快犯とも受け取る事が出来た時は過ぎ、死者を出した吸血鬼事件をおそれ、よもや本当に吸血鬼がいるのではと、自然日が傾く前に家路を急いだ、誰しもの遅過ぎる自衛の結果。
「大蒜も、十字架も、空想に弱点を持たせたくて植えつけられたイメージに過ぎない。身体能力が人の比ではないから嗅覚も鋭く、匂いの強いものがより臭いだけであって、大蒜に罪はない。」
「嗚呼、それはあるのかも、知れないけど。」
「十字架は、嘗て駆逐された歴史の中でそれを崇める者達の象徴だから忌嫌うのであり、それ自体に効力などありはしない。それに現代では、信心深い人間が少ないのも理由の一つ。」
「……随分、詳しいんだね。」
話題の転換に少し正体を取り戻したのか成行は、真実味を持って語る愛満の様子を窺うようこれまで以上にじっくりと眺める。
だが目の前にあるのは、普通の少女の輪郭に、咎めるような無表情。
「銀も同じ。それが強力な武器として扱われた時代の名残に過ぎない。」
「それが全て真実なのだとして、全部無知で片づかないかい? それが脅威だと御伽噺でも教えられたら、実態を知らずともおそれてしまうのは人にありがちな事だ。」
「なら、してはならない方の掟の話を、……?」
不意に成行が差し出した手の意図を計りかね、愛満は、満面の笑みなのに何処か奇妙な、そこそこ成功している福笑いのよう、完成間近で頓挫したかさもなくば、壊れかけの、成行の顔を見つめる。
「そんなに疑うのなら、紛れも無い証拠を見せてあげよう。」
掴まれない掌を返し自ら愛満の手を握ると、追われているかのよう焦って駆け出す寸前の早足が力強く引き連れる。
文句も、悲鳴も、といって了承もなく、引っ張られるがまま連れ立つ愛満は、中断が入らなかったかのよう話を続けた。
「必要な場面でも無いのに自ら正体を明かすのは、浅ましいとして疎まれている。」
「君が俺を探していたんじゃないか。引っ掻き回されるくらいなら、制そうと思うのは必要とは呼べない?」
「成る程、一理あると言えなくも無い。」
吟味か咀嚼かするように、成行の反論を飲み込みながらも、追撃の瞳は怯まず緩まずもう振り返りもしない、成行の背中を無常に突き刺して。
「流れる水の上を、渡る事は出来ない。嘗て吸血鬼の殺し方として、燃やした灰を川に流すというのが流行っていたから。」
「川を渡った覚えは無いけど。」
「その死を悼み足蹴にしないように、というこれは尊厳としての掟。だから罰は下らなくとも、下水道だってなるべくならば避けるようにはするのが誇りある者だ。その身が真に吸血鬼であるのならば、血が覚えている筈。」
「なんかその辺、こじつけっぽいなぁ。」
もう日陰を選ぶ余裕も無い成行は、時折その身を太陽の前に曝す。それでも基本的に壁際であれば生まれる影に身を潜め、それは常にドブ板の上に身を置く事でもある。
「大体、愛満ちゃんがそう断定出来る根拠って何?」
「逆の問いかけに困るのはそっちでは? 何を以て自らを吸血鬼だと断定したのか。」
「それを教えに今、こうして我が家へと向かっているんじゃないか。」
幾つも似たようなコンクリートの長方形が並び立つ道を抜け、コンビニやスーパーの更に向こう、公園を縦断した通りに少し寂れた乃至うらぶれた、褪せ気味の白い塗装が赤い陽を跳ね返すマンション群があった。側面に番号が振られており、一帯のマンションでコミュニティが形作られる、ポピュラーなタイプの集合住宅地だったが、どうも人の気配が無い。
勿論此方にも事件による抑制があるのだろうが、それにしても一番近くのスーパーでは丁度タイムセールが行なわれているとでかでかポスターが貼ってあったのに、主婦層の姿が見えないのは奇妙なものがある。
「去年か一昨年か、欠陥住宅である事が発覚してね。ほら、耐震偽装ってやつ。この辺は他にも似たようなのが沢山あるし、余裕がある人はみんな引っ越してしまったんだ。」
シャッター商店街、試合後のスタジアム、文化祭の後の教室。栄枯盛衰を知る場所は、儚くも味のある寂寞が支配して、それこそがこの住宅地を占める空気の本質と合点のいった愛満は、謝罪文が貼られそれに対する愚痴や野次がおそろしい量落書きされている掲示板を横目で眺めた。
「うちは、地震が起きれば誰もが被災者になるんだからと高を括ってまだ残ってるんだけど実際には、経済的な理由さ。」
差別が表面だけでも時代錯誤になったとて、母子家庭はそうでない家庭に比べて余計な難を強いられるのだろう。最早逃亡者の体で息を切らす成行の、言葉を遮らずに愛満はただ、斜陽の差し込む斜陽のマンション群の中を直走っていく。
「きっかけ、ね。俺が吸血鬼になったのは、母さんと口論していた時だったよ。受験勉強で息詰まってこっちはこっちで苛立ってるし、母さんは母さんで、最近は八つ当たりが多いんだ。」
やがて成行の家がある棟に着いたらしく、林立する他のマンションと差の見えない四角の中へ入っていく。管理人の類いはいないようで、エレベーターは最上階の十階で停まっていた。
「それもしょうがないんだと思う。不景気の中では、下っ端の従業員や、パート・アルバイトが割りを食う。給料を安くされたり作業を増やされたり馘(を切られたり……」
誰が途中で停める事もなくスムーズにがら空きの箱は二人の前に登場し、成行は未だ手首に痣が残りそうな程強く握りしめながら、そしてその掌から、微かな震えを愛満は感じ取る。
「母さんは俺を育てる為に、昔から昼も夜も無くずっと働いてきたけど、それでも古馴染みから幾つも追い出されて、精神的に参ってたんだろうな。」
宙ぶらりんの空き箱を今し方駆け下りてきたばかりの十階に再び向かわせるべく釦を押し、その指示に従って吊り上げられていくエレベーターの中で、それまで饒舌に喋り倒していた成行の口調が噛みしめるよう、緩やかになっていった。
「俺も、手伝いたかったんだけど、自分の事で精一杯でさ。母さんもそれはわかってるから、バイトを増やせとかいわないんだけど、それがまた遠慮だなとか思うと……そういう、ささやかなずれが、最近じゃ衝突して喧嘩ばっかりでさ。」
「一つの麗しい親子愛、というやつ。」
「っはは、どうなんだろ。どうせなら、バイトしなさい、そんなのいやだ、なんてやりとりのがすっきりする。バイトしようか、そんな事しなくていい、なんてお互い建前と謙遜で張り合う、喧嘩はとても、親子なんて。」
分厚い鉄扉が左右に開き、玄関が幾つも連なる変哲の無い廊下がただ一直線伸びていた。成行の拘束は振り払おうと思えば簡単に外せる程に弱まっていたが、愛満は手を繋がれたまま、成行の歩調がゆっくりとしたものに変わっても、合わせて後ろに続く。
「兎に角俺は、力が欲しかった。母さんの力になれる、お荷物にならないで自分を養える、力が。」
鍵も掛けていないドアノブに手をかけ、蝶番が耳障りな金属の悲鳴を上げる。とうとう愛満の手首を解放し、一人で何かに導かれているかのよう、ふらふらと力無く彷徨うが如く成行は家の中を進んでいった。
「そして、手に入れたんだ。」
「それが、あなたの吸血鬼になった理由?」
家の中から、冷気が押し寄せてきた。正確にいえば、雪こそ降らない外気と、欠陥住宅とは言え多少なり防寒設備が成されている筈の室内が、同じくらいの温度に保たれている。人がいなかったにしても、これは冬にも拘らず冷房が入れられていたのではと疑いたくなる寒気に、愛満は身震い一つせず、入口のところでぽつねんと立っている。
「なりたいという希望や、況して感情に呼応してなれるものでは、ないのに。」
成行は通りすがりの電気パネルを操作していき、玄関に廊下にポーチまで一斉に点灯すると、急激に家中が外の夕暮れに負けない眩しさに包まれる。
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の向こうには、システムキッチンの一角が見えた。その端に、つまり成行の進行方向に、何かの小さな山がある。地続きのダイニングルームでも同じよう成行は全ての電気パネルをオンにしたようで、向こうの和室まで明かりが灯るが、笠がぼんやりとした温かみのある光彩に抑えていた。
「そう、これが、俺が吸血鬼になった理由さ。」
先に見えたキッチンの隅にある山で成行は足を止め、屈んだ。照明により山は蹲っている人だと判明し、それはどう好意的に解釈してもお世辞にだって、
生きているとは思えなかった。
「ただいま、母さん。」
朗らかな挨拶だけ聞けば、そこにいるのが死人だと誰が思うだろう。成行は母さんと呼んだ死体に、これまで愛満に見せた事の無いくらい無邪気な笑顔で触れ、血の気の失せた青い肌をした母は、乳房が抉り取られて動かない筋肉と内臓と骨を曝す。
半壊は下半身にも及んでいるようで、必要に応じて脱がせては直しているのだろう乱れた着衣の、性器の辺りに血の付着が見られた。正座の形で折り畳まれた膝下には、極く一般的な包丁が刃を血に濡らし投げ出されている。
それを成行は拾うと、手慣れた様子で母の太腿を一部切り取り、ドアを背凭れにして愛満がいるのだと、覚えているのかさえ、怪しい。
「……喰ったのか。」
吐き捨てるような愛満の言葉に振り返った、微笑んでいる筈なのに何故か醜悪に感じる成行の口元に、
屍肉は運ばれ、
そっと慈しむよう、
口づける軽やかさで、
食まれる。
「やっぱり、あなたは吸血鬼失格だ。」
「食人行為を見て、まだそんな事を言えるのか?」
「これを見たからこそ確定した。吸血鬼は屍肉を喰らわない。」
「愛満ちゃん、君の吸血鬼理想論はもう聞き飽きたよ。こわくてこっちへ来れもしないくせに!!」
愛憎で貪った破片を口の端につけたまま、喉を張り裂かんばかり叫んだ成行は包丁を片手に愛満へと突進する。
「まずい、まずいっ、まずいっっ!!!」
ひたすら連呼に終始するヴァンは、人知を越えた速さで街中を駆け抜けていく。雑踏どころか軽快に飛ばす車さえ景色にして、風を切る音が耳を劈き、風はヴァンの肌をあちこち切り刻んだ。
「被害者全員同じ手口で同じ傷跡、あれは吸血鬼のやり方じゃない、っていう勘違いを誘う為の偽装かと思ったけど、もっとずっと単純に、それこそまるで子供騙し、吸血鬼っぽい細工をしただけ!」
あまりの快速に横っ腹が悲鳴を上げても、手を当てて揉みしだき誤魔化しながら決して速度を緩めはしない。
「このままじゃ、まだ死人が出る……!」
起こるであろう危険に殊更足を速めても、彼の思いはおそらく一歩届かない。
++以下言い訳
あ、因みに冬なんですよ。思いっきり初夏に更新してすみません。
やっと猟奇的表現があります危険だよ表記が必要な場面にまで到達しましたカニバリズム万歳。
前回へ
次回へ
一次へ
廻廊へ
|