★★★ ディベイト・コーナー ★★★

(担当:つつピー、K山)

今月のテーマ 
「子供と親は自分が通う学校や担任の先生を
自分で選べるようにするべきである」
(今回のディベイトは授業参観で行いました)

みなさんは、どちらに賛成ですか?メール下さい。件名は、「つつピー・ディベイト」として送って下さい。

6年1組で出た意見

YES

NO

・自分と合う学校や先生を選べる。
・おもしろい。
・勉強にやる気が出る。
・通学時間や災害などを心配するのだったら自分で近くの学校を選べばいい。

・教室に入れる人数は決まっている。調整がむずかしい。
・人数が増えたり減ったりすると勉強ができない。
・時代についていけない(たとえばパソコンができない)先生や人気のない先生がかわいそう。
・近くの学校でないと通学に時間がかかり、宿題などができなくなる。
・地震や台風などの災害時や集団下校などで問題が起きる。
・本当にいい学校だか、いい先生だか分からない(情報不足や判断ミス)。

☆メールによるご意見☆

 大変重いテーマを扱っていらっしゃいますね。 学校や担任の先生を自由に選べることについてですが、私はそれ以前に、その人自身に勉強する気があるのかどうかが大切だと思います。
 そのなかで、
「もっと違うことがやりたい。」
あるいは、こんなことは滅多にないと思いますが、
「先生のいっていることなんかあたりまえだ。」
「この学校の理科実験室では、すごい実験はできない。」
といった不満がたくさん出てくるようであれば、勉強する人自身が学校や先生を選ぶことについて、問題はないと思います。

 しかしその時に、あまり親が出てくるのは良くないでしょう。相談相手としての御両親は大切なものですが、言いなりになってしまってかえって本人がやる気をなくすのでは困ります。あくまでも、自分自身の問題だと思っています。

 ただ、みなさんのような小学生の段階であまり意識しすぎるのもどうかと思います。 なぜかというと、小学校というところは、読み書きや計算などの勉強をするだけでなく、世の中ことについていろいろ経験を積む訓練の場でもあるからです。 気に入った先生、気に入らない先生、色々な人とふれあいながら、人間を見る目をつけていくこと、また、気に入らない人とどう付き合ったら良いか、などなど、学ぶことは多いでしょう。
 世の中に出ると、どうしても嫌な人間と関わることがあります。 学校で人間をより好みできても、社会ではそうはいきません。
 もしも、あなたたちの先生が、自分に合わないなら(そんなことはないと思いますが)、どうやって利用してやろうか、ズルく頭を働かせてみるのもひとつの訓練でしょう。
 もっと大きくなって、自分の思った通りの勉強がしたくなった時は、迷わず学校や先生を選ぶべきだと思います。ですから、やる気のある人に限ってですが、私は、学校や先生を選ぶことに賛成です。(親のおせっかいには反対)

善一  E-MAIL: m070445@isc.senshu-u.ac.jp
           nakamura@bb.mbn.or.jp

「職業選択の自由」がある。
けれど、選択するほど職業を知らないことは多い。
何を職業とするかより、どこの会社に行くか悩む。
その間違いに気づかない人もいる。
運良く、途中で気づいても
やり直すのは簡単では、ない。

選択の自由があるということは、
自分で責任を取るということでもある。

若い時に、いろんな選択肢を持てることはいいことだ。
そして、まわりの大人達はそれを持たせてあげるように努力する。
だから大人達も勉強しなくちゃいけない。

大人も子どもも一緒になって一つのことを考える。
いいね。

楽しい授業をする先生は、きっと自分でも楽しんでるでしょう。

退屈な授業をする先生は、自分でも「つまんない。」と思っているのかな?

学校は選べることもあるけど、先生を選べないのは親を選べないのとおんなじ。
でも親を選ぼうと思っても、けっきょく選べない。
先生を選べても選び間違うこともある。

大切なのは与えられたものから自分は何を学ぶかではないかしら?
好きな物ばかりに囲まれているのは不自然だよね。
嫌いなものを削除していくやり方は、戦争を生む感情と似ている気がする。

選択の自由もあって、与えられた環境でベストも尽くせる。
そんな子どもは、すごい大人だと思う。

先生、すてきな授業してね。

Brazilより        Sachiko de Barros

前に学校での講義で貴校のホームページ問題で見てはいたのですが、ここまでの内容だと少しびっくりしています。

さて、この内容についてですが、人気のある先生とない先生がいると思うのですが、親とか児童・生徒が選べるというのは少し考えなくてはいけないと思うのです。
そうすることにより、親や生徒はいいでしょう。しかし、先生の方としても困ってしまうでしょうし、先生だって先生になりたくてなったと思うので、かなり精神的につらいことだと思います。

それに4月になって新学期が始まったときの「担任の先生が誰になるのかなあ」
という楽しみがへるとおもいませんか?

知らない先生と1年間を通してクラスを作っていくというところにいいところがあると思います。

以上で終わります。
よしひろ a9614010@st.t-kougei.ac.jp

はじめまして、矢治と申します。

「教師を選ぶ」ということですが、選ぶためには、判断材料を選ぶ側が持っていることが当然必要です。

「生徒が教師を選べる方がいい」という方に質問ですが、いったいどうやって判断材料を得るのでしょうか?また、教師を選ぶということのために必要な判断材料はそもそも何なのでしょうか?
私自身は、教師を選んでいる暇はありませんでした。そういうことに頭を悩ますよりも、まず学ぶことが先決でした。
そのような判断材料を得ている間に、一年なり二年なりという時間が過ぎていくような気がします。
現実的な案とすれば、「選ばれないような教師を淘汰する」システムを作るべきでしょう。

それから、親が教師を選ぶという意見には大反対です。
多くの親は、自分が勉強していないからです。勉強していない親に教師を選ばせることほど、危険なことはないと思います。

/// 矢治浩平 ///
/// Mailto:yaji@mxv.meshnet.or.jp ///
/// http://www2k.meshnet.or.jp/~yaji ///
/// 矢治君のページはYahoo!で矢治 ///

初めて貴HPを拝見させて頂きました。

[生徒や親が教師を選べる]
これは、小学校或いは義務教育の範囲でということですか?
どちらにしても、私の意見は
[的外れである]
としか言いようがありません。
教師を選ぶ条件をはっきりと提示するべきではないでしょうか?
また、自分で選んだ教師に対して親・子供はどんな責任を持つのですか?
[問題が起きれば学校の責任]
[学校は何から何まで教えてくれるはず]
[学校は楽しい所のはず]
[教えるのは先生だけ、教わるのは生徒だけ]
[いじめっ子は先生が成敗するはず]
[うちの子はあの先生に習えばもっと伸びたのに]
そんな考え方が根底にある気がしてなりません。
[集団生活]
[自己啓発]
なんて考え方は今の時代無いのでしょうか。

子供が選ぶ教師とはどんな人になるのでしょうか。
・一緒に遊んでくれる先生。(先生は仕事です)
・解かり易く教えてくれる先生。(自分で考える力を付けるのが学校です)
・自分に合った先生。(抽象的で人格を表していません)
・勉強にやる気が出る。(自分の気分を他人のせいにしているだけ)
また、子供が選んだ先生を親は受け入れられますか?

もう一つ、もしもそんなに嫌な先生に担任を受け持たれたら、学校に行かなければい
いのではないですか。
ただし、先生が嫌だからと逃げ出す親子にその先明るい将来が待っているとは思いま
せんが。

[先生一人 対 親子数十人]
で成り立っていることを考えた方がいいのでは?
発展テーマとして
[マンツーマン小学校は必要か?またその存在意義は?]
なんてのはどうですか?

最後に、
[やる気があれば、今の日本ならどこの学校でもやっていける。言い訳する前にや
れ。]
が、私の意見です。
乱筆乱文で申し訳有りません。
実名・メーアド公開で構いません。

***********************************
   望月 正文 (Masafumi Mochizuki)
mailto:masa@mail.webfujiyama.or.jp
***********************************

初めてホームページをみさせてもらいました。大変面白い企画をなさっています
ね。今回のディベートのテーマも面白いと思いました。こんな発想は日本の社会
ではタブーかと思っていました。生徒のみなさんもちょととまどっているのでは
ないでしょうか。私の考えでは学校や先生が自由に選べるのはすばらしいことだ
と思います。いろんな先生の授業をうけられるし、多くの友達と出会う機会も増
える。しかし、反対派の子ども達の意見に合ったように、教室がパンクする、地
震がきたら困るなど、現実的な問題があることも事実ですね。人気のない先生が
かわいそうというのはどうでしょう?むしろ、やる気が出るのでは!このような
新しい発想には必ず現実的な問題が出ますが、そこであきらめずにその解決方法
をみんなで考えて行くのも大切な事だと思います。学校の校舎だって教育の方法
に合わなくなったら立て替えればいいじゃないですか?

ささやかながら、わたしの職場で得た個人的な体験から、「考えるヒント」を提
供したいと思います。

[学部の提供している教学サービスの質と量についての「学生アンケート」の継
続実施]

わたしの所属する学部では、学部スタッフによる「学部教育に関する自己評価・
自己点検」がルーティンワークとして毎年行われています。その目玉商品とし
て、原則として学部学生全員を対象とする「学生アンケート」を実施し、その結
果を教授会の重要審議事項として討議しています。この「学生アンケート」の目
的は、サイレントマジョリティである学生の「教学サービス」に関する率直な意
見を吸い上げることと、同時に、「学生は勉強するのが当たり前」というスタッ
フの認識に風穴を開けることでした。現在では、アンケートデータとその簡単な
分析結果をグラフによって示すことにより、「論より証拠」というかたちで、ス
タッフ一人一人が客観的に検討すべき問題であるというコンセンサスを得られて
います。なお、個別の授業・講義に関する学生アンケートのフォーマットも一応
用意されていますが、まだ利用しているスタッフは少数にとどまっています。い
ずれは、普及させていきたいというコンセンサスは得られています。

(教訓)
大学生と小学校児童、そして公立と私立の違いはありますが、学校や先生の自由
な選択を考える際には、まず最初に、「選択される側」の意識改革と、「選択す
る側」の意見のシステマティックな収集を、実際問題として考えておくことが肝
要だと思います。

なお日本の大学生は、「興味が無い、あるいはおもしろくない講義には出席しな
い」のがごく当然の対応で、人気の無い講義は、書類上の受講登録者数は数百人
いるはずなのに、実際に授業に出席している人数は五十人以下などというケース
はざらにあります。こうした事態が起こるのは、大学だからこそと言えばそれま
でですが、「学ぶ側」すなわち「教育サービス」を受ける側に選択する権利が認
められると、必然的にこうした状況はついて回ることが予想されます。つまり、
「子供と親が、自分が通う学校や担任の先生を選べるようになる」ということ
は、学校や教師にとって、その「教学サービス」の質と量が、子供さんとその父
兄の方により評価され、その評価・選択の結果が如実に現われる事態を意味しま
す。「選ぶ側」にとっても、「選ばれる側」にとっても、相応の「痛み」が伴う
ことを覚悟しておかなければならないでしょう。

参考になれば嬉しいのですが。

小山直樹 (nkoyama@konan-u.ac.jp)

おもしろいテーマですね。私も幼稚園ではありますが、PTAの会長を
この1年間やらせて頂いておりました。今度小学校新6年と4年と1年
の父親です。
先生サイドで思うこと。
先生も非常に活動的にやっておられる方と惰性でやっておられる方とが
いるということ。(これはどこの社会でもいっしょ)
少なくとも本当に真剣に取り組むインセンティブが
常時働く環境ではないという気がします。
けれども子供にとって良かれと思っていろいろやっている先生はたくさん
いるわけで、私の幼稚園でも近くの山に園児全員で登山にいく企画をされました。
昨年たまたま雪で、父兄の方がたいへんな思いをされて猛反対をされました。
しかし、子供にとっては自分の中であの山に登ったという自信が生まれて
いるわけで、この自信が教育だと思います。
しかし、親にとっては猛反発の種になり、それが教育長の耳に入り
園長はお叱りを受けているわけです。
教育長が世論というかうわさに負けているわけです。
おれがバックアップするから、その内容ならやれというのが教育長の
努めだと思います。
私はこの園長は、すばらしい教育者だと確信します。子供の体力作りを
1年間かけてやり、いけると判断し、子供のためにやっているわけです。
(親のためではないことに注意。)
結果は今年はおおむね父兄の方にも好評でした。
これはなかにいたからわかる話で、一父兄としてうわさを聞いているだけなら
園長に対してみんなと同じ評価をしたかもしれません。
このようなことを考えると、親に先生を評価させるのも問題だし、
子供に評価させるのはもっと問題だと思います。
小学生レベルでは、そんな事聞く耳を持たないのが親の努めだと
思います。先生の批判が子供から出たら親が叱りつければ、子供は
そんなものだと思い別段意識しないと思います。
そこで、子供の話に耳を傾け、まして共感しようものなら自分の考えに
自信を持ち、先生というものを軽んじるようになると思います。
中学生位になると、1人前の顔をして先生に公然と反抗するようになる
子供を一人の人間として尊重するということと、1人前扱いするというのは
違うし、個人主義という原理と個人の勝手を許すというのは全然違うと
思います。個人主義には、厳しい自己責任の原則と他人の価値観を認めるという
度量が要求されますが、小学生、中学生でこのレベルを要求するのは
土台無理。大人でも無理な場合がほとんど。

父兄サイドからみると
近所の奥様方の話を聞いていると、「内の子はあの先生と合わないから
成績が下がったとか、こんどあの先生になったからうれしいわ」という
話をされている人がいます。参観にいってもその乗りの父兄が
散見されます。小学生からそうです。よっぽど暇なんだと思います。
子供の心の中に充実感を感じさせる先生がいい先生なわけで、おもしろい
先生と少し違う気がしますが、そのレベルで子供の評価を受ける先生は
本当にいい先生だと思います。これは絶対客観評価できない。
これが高校受験の内申書に影響する中学生になったらどうなるのか
と思うと恐ろしい気がします。
内申書があるから、父兄の先生に対する姿勢が厳しくなるわけで
勢い先生も窮屈になる。父兄に先生を選ばせるとろくな事にならない
と思います。これは父兄を馬鹿にしているのではなく(私も父兄です。)
いつも先生を見ているわけではないので、正当な評価を親もできない
ということです。または、評価される対象が親であれば、先生にも
別の思惑が働くだけで、決していい方向には向かない。
理想的な先生は、親や上司ではなく子供の人間として生きる力を
注ぎ込むことに全力を挙げている方で、子供の評価が一番確か
ですが、おそらく大人にならないと子供にとってよかった先生という
のは、判断できない。怒られまくっていても後であの先生は、俺の
事を考えてくれていたという方はいっぱいいるわけです。

私の結論
●小学生、中学生時代には、先生を先生として敬う姿勢を身につけさせる
 のが先決で、先生を選ばせるのは10年早い。(大学では、一応
 各人の自己選択の道が開かれているのでそれでよい。)
●システムとして、事勿れ主義の公務員の体質を改善するには、
 多くの失敗をした人、前向きな実績を上げた人が上に上がるシステム
 を作り、上司のいうことを聞く人または取り入るのがうまい人が
 上につくシステムを廃止する。(公務員にここまで要求するのは、
 問題あるかも?)
●教育制度は、内申書重視や総合選抜制、共通一次制度を廃止して
 試験の一発制度に戻す。一発制度でだめでも浪人というさらに人生に
 とって貴重な時間を体験できる道が、幸い多くの人に開けている。

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はじめまして。大です。
先生は、自分達で選ぶ必要はないと思う。自分で選ぶと、同じ先生、または、自分が好きな先生を選んでしまう。しかし、選べない場合は、自分に合わない人に合わせると言う一つの勉強が出来る。このように先生が選べないほうが、得をするから、先生は選べないほうが、良い。
さようなら。
僕のアドレスはsadahiro@po.anoa.or.jpです。

 中々過激な内容で避けて通れない気がしてメールを出しています。
問題は選ぶ方のレベルと言う事になるでしょう。
昨今の学校を巡る親達を見ていると「ちょっとどうかな?」と言う気がしないでもありません。
直接に選ぶと言うより意見を聞いて審査してくれる「かけ込み寺」的なものは必要かも知れません。

 何らかの方法で教師が淘汰されて行くのは当然です。
児童数も減少の一途なのですから教師は余ります。
その中で優秀でモテュベーションの高い人が残るのはよい事です。
殆どの世の中の職業は大袈裟に言えば互いに殺しあった結果、生き残った人だけがその世界で生きてゆけるのですから。
こんな事は当たり前の事なのです。

 淘汰される基準はやはり児童側の意見を何処かに吸い上げて審査して行く事になるでしょう。
自分が学生だった時の事を思い返せばその時にクダラナイと思った教師は、30歳を過ぎた今の観点から見れば「けしからん」教師でした。
その辺の人間を見る感性は案外、大人と子供の間に差は少ないと思います。
年令と共に判断力が上がって行くなら、世間の大人のみっともない有り様は説明できなくなります。
ただ、子供は簡単に回りに影響されます。
生きている世界が狭いからです。
ですから、間接的にと言うのが必要になって来ると思います。

 当然、この様な事を行なう為には審査の公平性、どの様な教師を求めるかのコンセンサス、透明性、それ以前に現在の教師を巡る環境の改善が必要です。
「淘汰されて当然」なんて書きましたが個人的には教師と看護婦の労働環境の悪さには同情を禁じ得ません。
もうちょっと教育に公共的な予算を使うべきだと感じています。
社会って子孫を育てる為のシステムではないかと思うのです。

yoshy  yoshy@mahoroba.or.jp

はじめまして、23歳の学生です。私は義務教育の9年間のうち、6年間は新米の先生が担任でした。しかし、授業が下手だなと感じた思い出はありません。どの先生も一生懸命で新米もベテランもなく、先生は先生と見ていました。
この時期、大学のサークルの先輩や、友達が新米先生として悪戦苦闘しています。普段の生活を共にしてきただけに、あいつに教育者が務まるんかなと、なかには心配になる奴もいます。だから当時私を担任してくれた先生の中にも、私の友達のような人もいたのかなあと、可笑しく思います。
さて先生を、生徒や親が選択できる制度についてですが、私は反対です。選択性にすると先生が画一的になりそうで心配なのです。いろんな先生がいて、いろんな先生に接する機会に恵まれる方が生徒にはいいんじゃないでしょうか。さもなければ私の先輩や友人で先生は、みんな首になりますよ。変わってますから。

migita@okym.enjoy.ne.jp

私は選べないほうが良いと思います(No派)

学校や教諭が本来の目的以外の労力を使う事になります。
人気取りに重点が置かれる教育では問題が多いでしょう。

それに運不運による学校や担任の決定は、人生の中で起こる避けられない事態とその問題解決として良い経験になるのはないでしょうか。

社会で何でも思い通りに選択できる訳ではないですから。

匿名希望

賛成です!!
「つつピー・ディベイト」
学校は、もっと垣根(ブロック塀かもしれませんが)を取り払わなければなりません。子供と親は自分が通う学校や担任の先生を自分で選べるようにするべきです。オープンでない環境からはいろんな悪が生まれます。教室の壁もなくしてしまいましょう。学校の門も開けたままでいい、遅刻して門に挟まれる事もなくなります。めったに児童生徒や父母の入ってこない校長室は”親子なんでも相談室校長×××”と名称を入れて開放しましょう。尊敬できる先生に巡り会えるかどうかが運まかせというのは悲しい。
                        マイヨール・ユタカ

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12月のテーマ 「宇宙の仲間を求めて」
☆ 2月のテーマ 「霊や魂は存在するか」
☆ 5月のテーマ「人類は不老不死を求めるべきか」

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