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第四章

ウォール街と世界革命

あなた方急進主義者と、反対の見解を持つ我々が異なっている点は、目的ではなくむしろ手段であり、また、成し遂げられるべきことではなくむしろどのように成し遂げられるべきで成し遂げられ得るかということである。

アメリカン・インターナショナル社の重役オットー・H・カーン(Otto H. Kahn)と、その仲間であるロエブ(Loeb)商会のクーン(Kuhn)が、1924年12月30日、 League for Industrial Democracyに対してした演説

第一次世界大戦前、合衆国の金融と商取引の構造は二つの複合企業体、スタンダード・オイル社すなわちロックフェラー財閥、およびモルガン産業複合体すなわち金融・運輸会社群によって支配されていた。ロックフェラーとモルガンの企業連合体は、ウォール街だけではなく、連動している取締役職を通じて合衆国の全経済構造を支配していた。1 ロックフェラー財閥は石油とその関連産業を独占し、銅企業合同体、精錬業合同体、および巨大な煙草業合同体を支配していた。おまけに何百ものより小さい産業合同体、公共サービス事業、鉄道、および銀行業機関だけではなく、U.S.スティール社のような幾つかのモルガンの所有物に対しても影響力を持っていた。ナショナル・シティ・バンクは、ロックフェラーのスタンダード・オイル社の影響が及ぶ銀行のうちで最大の銀行であったが、金融支配は、主要な生命保険会社すなわちニューヨークのEquitable Life and Mutual だけではなく、United States Trust Company およびHanover National Bankにも及んでいた。

脚注
1 John Moody, The Truth about the Trusts (New York: Moody Publishing, 1904).

p. 49



偉大なモルガン商会は、鋼鉄業、海運業、および電気産業を営んでいて、ジェネラル・エレクトリック社、ゴム業合同体、および鉄道会社が含まれていた。ロックフェラーと同じように、モルガンは金融会社すなわちNational Bank of Commerce、Chase National Bank、New York Life InsuranceおよびGuaranty Trust Companyを支配していた。J.P.モルガンとGuaranty Trust Companyの名前は、この本を通して繰り返し何度も現れる。20世紀の初期においてGuaranty Trust Companyはハリマン財閥によって支配されていた。大ハリマン(エドワード・ヘンリー(Edward Henry))が1909年に死んだとき、モルガンとその仲間はMutual LifeとNew York LifeだけではなくGuaranty Trustの株も買った。1919年、モルガンはEquitable Lifeの支配権も買って、Guaranty Trust Companyは、追加的に4社のより小さな信託会社を吸収合併した。その結果、第一次世界大戦の終わりには、Guaranty TrustとBankers Trustは、それぞれ合衆国における1番目および2番目に大きい信託会社になっていて、いずれもモルガン財閥によって支配されていた。2

これらのグループと提携したアメリカの金融業者は、まさに1917年前に金融革命に巻き込まれた。ウォール街法律事務所サリバン&クロムウェル(Sullivan & Cromwell)によるパナマ海峡論争への介入は1913年連邦議会の聴聞に記録されている。そのエピソードは連邦議会議員レイニー(Rainey)によって総括されている。

この政府[合衆国]の国会議員達がパナマ海峡に関する革命を可能にしたというのが私の主張である。この政府の介入がなかったならば、革命はたぶん成功しなかったであろう。私はこの政府が1846年の条約を破ったということを強く主張する。1903年11月3日、パナマで公布された独立宣言はここニューヨーク市で、すなわちウィルソン(Wilson)(原文のまま)・ネルソン・クロムウェルの事務所で準備され、パナマで実施されたものであるということを示す証拠を提出することができるであろう。3

脚注
2 J.P.モルガン会社は、1838年にGeorge Peabody and Co.として、元々ロンドンで創立され、1940年3月21日までは法人化されていなかった。その会社は1954年4月にGuaranty Trust Companyと合併した際に消滅したが、その最も重要な商業銀行を子会社とし、今日ではニューヨークのモルガンGuarantee Trust Companyとして知られている。

3 United States, House, Committee on Foreign Affairs, The Story of Panama, Hearings on the Rainey Resolution, 1913. p. 53.

p. 50



パナマ革命家上層部の10〜12名に加えて、"ニューヨークのウィリアム・ネルソン・クロムウェル(William Nelson Cromwell)の支配下にあったパナマ鉄道&蒸気船会社の役員、およびワシントンの国務省官僚"だけが差し迫っていた革命について知っていたと、連邦議会議員レイニーは更に述べている。4 革命の目的は、当時パナマを領土の一部としていたコロンビアから4千万ドルを奪うこと、およびパナマ海峡の支配権を得ることであった。

ウォール街の革命への干渉に関して最も証拠のある例は、孫文によって指導された1912年の中国革命におけるニューヨーク債券引受団の操作である。その債券引受団の最終的な利益は不確かなままであるけれども、ニューヨーク金融グループの意図と役割は、金額、提携した中国秘密社会に関する情報、および購入された兵器の船積みリストに至るまで詳細に文書化されている。孫文革命のために組織されたニューヨーク銀行家債券引受団には、Hunt, Hill & Betts法律事務所の弁護士であるチャールズ・B・ヒル(Charles B. Hill)が含まれている。1912年に法律事務所はニューヨーク、ブロードウェイ165番地にあったが、1917年にはブロードウェイ120番地(この住所の意義については第8章を参照のこと)に移っている。チャールズ・B・ヒルは、Bryant ElectricPerkins Electric Switch、およびWestinghouse Lampを含む数社のウェスティングハウス社子会社の重役であり、これらの子会社はすべて、そのニューヨーク事務所もまたブロードウェイ120番地のWestinghouse Electric社の系列である。ロシアでウェスティングハウス社子会社を組織したチャールズ・R・クレーンは、ボルシェビキ革命の第一および第二局面において、有名な役割を担っていた(26ページを参照のこと)。

1910年の中国におけるヒル債券引受団の仕事は、フーバー研究所のローレンス・ブース論文に記録されている。5 これらの論文は、孫文からアメリカ人支援者宛の手紙や、彼らから孫文に宛てられた手紙を含む110以上の関連した項目を含んでいる。金融支援の見返りとして、孫文はヒル債券引受団に新革命中国における鉄道、銀行、通商上の特権を約束していた。

脚注
4Ibid., p. 60.

5Stanford, Calif. See also the Los Angeles Times, October 13, 1966.


p. 51



ニューヨークの金融機関に支援された革命の他の事例は、1915−1916年のメキシコ革命に関係している。合衆国在住のドイツ人スパイであるバン・リンテレン(Von Rintelen)6は、ニューヨーク市での1917年5月に開かれた公判で告訴された。その告訴理由は、欧州における連合国に武器弾薬を迂回させて供給するために7、合衆国をメキシコや日本と反目させようと企んだということであった。合衆国からメキシコ革命家パンチョ・ヴィラ(Pancho Villa)に船で輸送された武器弾薬代は、Guaranty Trust 社を通して支払われた。バン・リンテレンの助言者であったソマーフェルド(Sommerfeld)は、エルパソ(訳者注:テキサス州西部の都市)までの輸送費とヴィラへの転送費としての38万ドルを、Guaranty Trust社とMississippi Valley Trust社を経由してイリノイ州アルトン(Alton)のWestern Cartridge社へ支払った。これは1915年の中頃のことであった。1916年1月10日にヴィラは、サンタイサベル(Santa Isabel )で17人の鉱山労働者を殺害し、1916年5月9日にニューメキシコのコロンバスを襲撃し、18人以上のアメリカ人を殺している。

これらのメキシコ国境で起こった襲撃におけるウォール街の関与は、アメリカ人共産主義者リンカーン・ステフェンスからウッドロー・ウィルソンの補佐官ハウス大佐への手紙(1916年10月6日付け)の主題であった。

親愛なるハウス大佐殿
先週の月曜日にニューヨークを出発する直前、"ウォール街"はメキシコの無法者による合衆国の襲撃をもう1回引き起こすためのアレンジを終えたということ、および、それは十分に時をわきまえて極悪非道に行われるので、選挙問題を解決するでしょうと告げられ、私は納得しました。8 

かつて、メキシコの実権を握っていたカランザ(Carranza)政権は合衆国において追加的に武器を購入した。American Gun社は5千丁のマウザー銃を輸送する契約をし、戦争貿易省によって1万5千丁の銃と1千5百万発の弾丸の輸送許可証が発行された。アメリカのメキシコ駐在大使フレッチャー(Fletcher)は、「軍需品やライフル銃など如何なる物であろうとも、カランザに輸送することを推奨することや是認することをきっぱりと拒絶した。」9 しかしながら、国務長官ロバート・ランシング(Robert Lansing)が介入することによって、暫定的な延期に対する防壁が下げられてしまい、"しばらくして、[American Gun社]が船積みし配送する許可を得てしまった。"10

脚注
6 Later codirector with Hjalmar Schacht (Hitler's banker) and Emil Wittenberg, of the Nationalbank für Deutschland.

7 United States, Senate, Committee on Foreign Relations, Investigation of Mexican Affairs, 1920.

8 Lincoln Steffens, The Letters of Lincoln Steffens (New York: Harcourt, Brace, 1941, I:386

9 U.S., Senate, Committee on Foreign Relations, Investigation of Mexican Affairs, 1920, pts. 2, 18, p. 681.

10 Ibid.


p. 52



ヴィラとカランザの軍による合衆国の襲撃は、ニューヨーク・タイムズ紙において"テキサス革命"(ボルシェビキ革命に対する一種の予行演習)として報じられたが、ドイツ人とボルシェビキ主義者が合同で企てたものである。1919年秋委員会におけるテキサス、ブラウンズヴィル(Brownsville)の地区検事であるジョン・A・ウォールズ(John A. Walls)の証言は、合衆国におけるボルシェビキ財閥およびドイツ活動家とメキシコにおけるカランザ軍との間の繋がりを証拠立てる書類となって残っている。11 したがって、世界で初めてソビエト型の(トロツキー主義者によって書かれた)憲法を持ったカランザ政権は、ウォール街の支援で成立した政権である。もし、アメリカの軍需品が無かったならば、カランザ革命はたぶん成功し得なかったであろうし、もしアメリカの助けが無かったならば、カランザは実際に続けられたほど長くは政権を維持できなかったであろう。12

ロシアにおける1917年のボルシェビキ革命においても、同じような介入がスウェーデンの銀行家にして仲介者であるオロフ・アシュベルグを軸に展開された。論理的に言えば、その物語はウォール街銀行債券引受団による革命以前におけるロシア帝政の公債から始まる。

 

アメリカの銀行家達とロシア帝政の公債

1914年8月、欧州は戦争に向かった。国際法に基づいて、中立国(1917年4月まで合衆国も中立であった)は交戦国のために公債を募ることができなかった。これは倫理だけではなく法律の問題でもあった。

モルガン商会が1915年に英国と仏国のために戦債を発行したとき、モルガンはこれらは戦債とは全く異なり、単に国際貿易を促進するための手段であると主張した。そのような区別は実は1914年10月ウィルソン大統領によって苦心して作られていた。彼は外国政府のために合衆国で債券を売ることは、交戦国に対して貯金を借りる効果があり、戦争に出資することにならないと説明していた。一方、財務省中期証券や物品の代償としての負債を証拠立てる他の書類の引き受けは、単に貿易を促進するための手段であって、戦争の試みに出資することに値しないと説明していた。13

国務省ファイルの文献は、スティルマンおよびロックフェラー財閥支配下のNational City Bankとモルガン財閥支配下のGuaranty Trustが、合衆国が参戦する前に交戦国ロシアのために多大な公債を募ったということや、国務省がこれらの会社に対して国際法に違反していると指摘したあとに、これらの公債が募られたということを立証している。更に、公債のための交渉は、国務省の最高水準を示す"緑の組み字(Green Cipher)"の描かれた封筒に入れて、公用の合衆国政府通信便を通して行われた。以下は、それを論証するであろう国務省電報からの抜粋である。

脚注
11 New York Times, January 23, 1919.

12 U.S., Senate, Committee on Foreign Relations, op. cit., pp. 795-96.

13 U.S., Senate, Hearings Before the Special Committee Investigating the Munitions Industry, 73-74th Cong., 1934-37, pt. 25, p. 7666.


p. 53



1916年5月24日に、ペトログラード駐在フランシス大使は次の電報をワシントンの国務省に送り、それはフランク・アーサー・バンダーリップ(Frank Arthur Vanderlip)に、そしてそれからニューヨークのNational City Bankの頭取に転送された。

563, May 24, 1 p.m.
ニューヨーク、National City Bank のバンダーリップ様

我々の以前の意見は強化されたと思う。我々は電信で送った計画を安全な投資かつ非常に魅力的なルーブルへの投機として推奨する。為替レート保証の観点で、現在の市場レートより幾分高めにした。大幅に遅れたことによる好ましからぬ意見のため、自身の責任の下、2千5百万ドル分買うことを提案する。すべてのうちの大部分は銀行および関連機関によって保有されれるべきと思う。税に関する条項で、公債は1年ごとに1億5千万ドル以上の税の実利的な先取特権になり、たとえ債務不履行になったとしても完全に安全で、市場を守ることになる。公債に関して3つ(3年?)のオプションは非常に重要であり、そのため大量のルーブルの融資が集団によってあるいは親密な友人に割り当てることによって拡大されるべきである。American Internationalは障害物を片付けるできであり、我々は政府に知らせるであろう。集団は直ちに形成されるべきで、公債の発行は十分な共同保証を安全にすると考える。個人的にジャック(Jack)と会い、それらを本当に機能させ得るように全力を尽くしなさい、さもなくば" cooperation guarantee"に新しい集団を作らせなさい。来る10年の間、国家と産業の財産管理に有利な機会が非常に拡大するであろうし、この取引が確かに達成されるならば、確立されるべきである。返事を送る際には、電報に関する状況を心に留めよ。マクロバーツ・リッチ(MacRoberts Rich)

アメリカ大使フランシス14

 

上記電報に関して、引き続く物語を理解するために留意すべき点が幾つかある。先ず第一に、American International Corporation、モルガン商会、およびこの物語に繰り返し現れる名前に留意して下さい。第二に、"guarantee"Guaranty Trust Companyのことを言っている。 第三に、マクロバーツは、National City Bankの副会長で執行役員であるサムエル・マクロバーツ(Samuel MacRoberts)である。

脚注
14 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/110 (316-116-682).

p. 54



1916年5月24日に、フランシス大使はペトログラードのGuaranty Trust のロルフ・マーシュ(Rolph Marsh)からのメッセージをニューヨークのGuaranty Trust に電報で送っているが、この際にも、特別な"緑の組み字"と国務省の通信便を使っている。この電報には次のことが書かれている。

565、5月24日午後6時
ニューヨークのGuaranty Trust Company 宛て

新しい計画はオロフが立案したもので、あなたの名声を傷つけるよりもむしろ助けるだろうと、オロフと私自身は考えている。ここで大きな事が達成されるならば、そのような協力体制が必要である。ここでの全ての大きな計画を考慮し共同で行動するためにCityと協定を結ぶように強く懇願する。両者にとって利益のあることが決まっていて、互いに争うことが避けられるのである。Cityの代表者はそのような協力を欲している(手書き)。考慮されている計画は我々の債権とオプションを名目上は削除するが、我々は共に、計画の通り、公債オプション付きのルーブル債権を検討しているのである。第二項は驚くべき儲かる機会を与え、あなたの受諾を駆り立てる。Cityと結びついて行動することを全権限を持って私に電報で知らせてください。我々の愉快な計画は我々のために満足な状況であり、大きな事をするのを許すということをよく考えなさい。あなたが2千5百万ルーブルの債権を取ることを繰り返し懇願する。損する可能性はなく、投機的に有利なことは決まっている。副会長を早く説得するように再度お願いする。この効果は、決定的に良いであろう。専属の弁護士は同じ名声と重みを運ばない。これは、大使館を通して暗号でであるが、返答も同じようにしてくれ。機会があるたびに電報が届いてないかチェック願う。

ロルフ・マーシュ
フランシス
アメリカ大使

注:−
  メッセージ全体は"緑の組み字"入り封筒内
  電報室15

 

この電文における"オロフ"は、スェーデンの銀行家でストックホルムのNya Banken の社長であるオロフ・アシュベルグのことである。アシュベルグは1915年にニューヨークにいて、これらのロシア公債についてモルガン商会と協議していた。1916年のこの電文が発信されたときには、モルガン-ロックフェラー共同体のために公債の手はずを整えるべく、Guaranty Trustのロルフ・マーシュ、National City Bank(電文内では"City")のサムエル・マクロバーツおよびリッチとともにペトログラードにいた。後述するが、翌年、アシュベルグは"ボルシェビキの銀行家"として知られるようになり、彼自身の記憶もその呼称が適切であることを物語っている。

国務省ファイルはまた、National City BankとGuaranty Trustの電報を公費で発信することの合法性と妥当性に関して、フランシス大使、フランク・ポルク(Frank Polk)長官代理、およびロバート・ランシング国務大臣の間で交わされた一連の電文も含んでいる。1916年5月25日、フランシス大使は次のような電報を送っていて、2件の以前の電報に言及している。

脚注
15 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/112.

p. 55



569、5月25日、午後1時
5月24日付けの私の電文563と565は、国際貿易を大いに活発化し、[外交関係を?]を著しく利するであろう公債を完成できるように取り組んでいる機関の地方の議員に送られている。成功の見込みは期待できる。ペトログラードの議員達は条項が非常に満足な内容で提案されると考えているが、もしここの政府がこれらの提案を知ったならば、彼らの機関が完成された公債を妨げるのではと議員達は恐れている。

フランシス、アメリカ大使16

 

電文を促進するためにフランシスが言及している基本的な理由は、"国際貿易を大いに活発化するであろう公債を完成できるように"である。国務省の設備を使っての商売上のメッセージの送信は禁止されていた。そして、1916年6月1日にポークはフランシスに電報を送っている。

842
1915年5月15日の回覧電報指示(転送商業メッセージの中止)17に含まれている国務省法規の観点で、何故、あなたの563、565、および575のメッセージが伝達されるべきかを説明願います。
今後は国務省指示に厳密に従ってください。

長官代理
ポーク

861.51/112
     /110
それから1916年6月8日に、ランシング国務長官は禁止について説明し、提案されている公債は違法だと明確に述べている。

860 あなたの5月24日付けの535、565、5月25日午後1時付けの569。 バンデルリップとGuaranty Trust社にメッセージを送る前に、それらが何らかの種類のロシア政府公債に言及するものかどうかを質問しなければならない。もし、そうならば、残念ながら国務省はそれらの伝達をつかさどる団体ではあり得ない。そのような行為は、その敵対的な取引を実行する目的のために交戦国による公債取引においてこの政府を参画させようとするものだという筋の通った批判を甘んじて受けることになるだろうから。そのような参画は、中立国政府は交戦国による戦債の募集に力を貸すべきではないという国際法の一般的に認められているルールに反している。


脚注
16 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/111.

17 Handwritten in parentheses.

p. 56



このランシングの電文の最後の行はペトログラードに発信されなかった。その最後の行には、"これらのメッセージはロシアのチャンネルを通して送るように図れないか?"とあった。

我々は、これらの電文とそこに登場する仲間達をどのように判断できるであろうか?

モルガン−ロックフェラー財閥は国際法の遵守に関心がなかった。これらの電文には、交戦国に公債を供給しようとする明確な意図がある。これらの企業のほうでは、交渉のために国務省の設備を拝借することに何のためらいも無かった。さらに、抗議してはいるが、国務省はメッセージが通過するのを放置していた。最後に、そして次の事件にとって最も興味深いことであるが、スェーデンの銀行家オロフ・アシュベルグは、Guaranty Trustのための交渉における著名な協力者で仲介者であった。それ故、オロフ・アシュベルグをより詳しく見てみよう。

 

1916年、ニューヨークでのオロフ・アシュベルグ

オロフ・アシュベルグ、"ボルシェビキ銀行家"(または、ドイツの新聞で呼称されていたように"Bankier der Weltrevolution")は、1912年ストックホルムに創立されたNya Bankenの所有者である。彼の共同取締役は、G.W.ダル(Dahl)、K.G.ロスリング(Rosling)、C.ゲルハルド・マグヌッスン(Gerhard Magnusson)を初めとして、スウェーデンの協同組合の著名なメンバーやスウェーデンの社会主義者を含んでいる。18 1918年にNya Bankenは、ドイツのために金融操作をしたとして連合国のブラックリストに載せられた。ブラックリストに載せられてしまったので、Nya Bankenはその名前をSvensk Ekonomiebolagetに変えた。その銀行はアシュベルグの支配下のままで、主に彼によって所有されていた。その銀行のロンドン代理店はBritish Bank of North Commerceであり、そのBritish Bank の頭取はセシル・ローズ(Cecil Rhodes)の以前の同僚であったアール・グレイ(Earl Grey)であった。アシュベルグの興味深い実業界仲間は、そのアール・グレイ以外に、ボルシェビキ革命(その時、第一党のボルシェビキとして浮かび上がるために彼は立場を変えた)まではペトログラードのSiemens-Schukertのロシア人経営者であったクラシン(Krassin)、最初のボルシェビキ政府の金融大臣であったカール・フルステンベルグ(Carl Furstenberg)。およびニューヨークのGuaranty Trust 社のための対外取引を管理していた副会長のマックス・メイ(Max May)であった。オロフ・アシュベルグはマックス・メイを非常に尊敬していたので、メイの写真がアシュベルグの本に載せられている。19

脚注
18 Olof Aschberg, En Vandrande Jude Frän Glasbruksgatan (Stockholm: Albert Bonniers Förlag, n.d.), pp. 98-99, which is included in Memoarer (Stockholm: Albert Bonniers Förlag, 1946). See also Gästboken (Stockholm: Tidens Förlag, 1955) for further material on Aschberg.

19 Aschberg, p. 123.

p. 57



1916年の夏、Nya Bankenと帝政ロシアの金融大臣ピエール・バーク(Pierre Bark)の代理人として、オロフ・アシュベルグはニューヨークに居た。ニューヨークにおけるアシュベルグの主要な仕事は、New York Times紙(1916年8月4日版)によれば、スチルマン(Stillman)のNational City Bankによって率いられているアメリカの銀行債券引受団と、ロシア向けの5千万ドルの公債について交渉することであった。この仕事は、1916年6月5日に終結し、年7.5%の銀行手数料という条件でニューヨークでは5千万ドルのロシア債権、ロシアでは対応してNCB債券引受団向けの1億5千万ルーブルの債権という結果であった。 次に、ニューヨーク債券引受団は回れ右をして、合衆国市場において5千万ドル分の6.5%の証券を自身の名前で発行した。このようにして、NCB債券引受団はロシアへの5千万ドル公債に関して利益を得、それをアメリカ市場で売って更なる利益を得、ロシアで1億5千万ルーブルの債権を獲得した。

帝政ロシア政府のためにニューヨークに滞在している間、アシュベルグはロシアにおけるアメリカのための未来に関して予言的コメントをしている。

アメリカの資本とアメリカの企業心のための裂け目は、戦争によってもたらされた覚醒により、その戦いが終わったときに全国的になるであろう。今、ペトログラードには、大勢のアメリカ人すなわち状況に通じている企業代表者が居て、その変化が始まるや否や、ロシアとのアメリカの膨大な貿易が急に生じるであろう。20

 

ボルシェビキ革命におけるオロフ・アシュベルグ

この帝政ロシア公債の作戦がニューヨークで企てられている間、Nya Bankenとオロフ・アシュベルグは、ドイツ政府からの資金を、事実上"ケレンスキー委員会"を倒し、ボルシェビキ体制を確立しようとしていたロシア革命家達に流し込んでいた。

ボルシェビキ革命への融資にオロフ・アシュベルグが密接していたという証拠は、いくつかの情報源から浮かび上がるが、そのうちのいくつかは他のものよりも重要度が高い。Nya Bankenとオロフ・アシュベルグは、シッソン文献において際立って引用されている(第三章参照)。しかし、ジョージ・ケナンはこれらの論文をシステマチックに分析し、たぶん部分的には信頼できるデータに基づいているけれども、捏造されていることを証明している。他の証拠は、ケレンスキー政府の防諜活動を担当していたB・V・ニキチネ(B. V. Nikitine)大佐に由来し、ストックホルムからペトログラードへ、あるいはその逆に発信された、ボルシェビキの資金調達に関する29件の電文からなる。これらの電文のうちの3件は銀行に宛てられたもので、電文10と11はNya Banken宛て、電文14はペトログラードのRusso-Asiatic Bank宛てである。 電文10には次のように書かれている。

脚注
20 New York Times, August 4, 1916.

p. 58



ギサ・フルステンベルグ・ソルトジョバデン(Gisa Furstenberg Saltsjobaden)殿 資金は余りにも少なすぎて助けにならない。本当に急ぐならば最後の支払いとして5百くれ。巨額な損失は本来絶望的なことを検討せよ。Nya Bankenに指示して更に十万を電信で送らせよ。(Funds very low cannot assist if really urgent give 500 as last payment pencils huge loss original hopeless instruct Nya Banken cable further 100 thousand)  スメンソン(Sumenson)

電文11には

コルズロブスキー・セルギエフスカヤ(Kozlovsky Sergievskaya)殿 81. First letters received Nya Banken telegraphed cable who Soloman offering local telegraphic agency refers to Bronck Savelievich Avilov.

フルステンベルグは、パルヴァス(Parvus)(=アレクサンダー・I・ヘルファンド(Alexander I. Helphand)))とドイツ政府の仲介者である。これらの振込みについて、ミカエル・フトレル(Michael Futrell)は以下のように結論している。

最後の2〜3ヶ月の間に彼女[エベゲニヤ・スメンソン]は、ストックホルムのNya Banken経由でフルステンベルグからほぼ百万ルーブルを受け取ったこと、この資金がドイツに源を発していることが発見された。21

ニキチネの一連の電文のうちの14には、"(To) Furstenberg Saltsjöbaden。 Number 90。これが最後だ。Russo-Asiatic銀行に100,000振り込め。(from) Sumenson."とある。Russo-Asiatic銀行の合衆国の代理人は、ニューヨーク市、ブロードウェイ14番地のMacGregor Grant Companyであり、その銀行は合衆国のGuaranty Trust とスウェーデンのNya Bankenが出資している銀行であった。

ケレンスキー時代に出版された"ボルシェビキに不利な負債"においても、Nya Bankenについて述べられている。その中で特に注目に値するのは、ロシアの第二階級国会の以前のメンバーであるグレゴリー・アレキンスキー(Gregory Alexinsky)が署名している文献で、ボルシェビキへの金銭の振込みに関してのものである。以下は、その文献から一部抜き出したものである。

今受け取ったばかりの情報によれば、ストックホルムにおける信用できる人々は、"ハネスキー(Hanecki)"(=ガネツキー(Ganetskii))の名前の方でより知られているボルシェビキ主義者のヤコブ・フルステンベルグおよびパルヴァス(=ヘルファンド(Helfand)博士)であり、ペトログラードにおいては、ボルシェビキ弁護士のM・U・コズロフスキー(Kozlovsky)、ハネスキーの親戚の女性でハネスキーと同じ思惑で雇われている女性スメンソンらである。コズロフスキーはベルリンから"Disconto-Gesellschaft"を経由してストックホルム"Via Bank"に、そしてそれからペトログラードのSiberian Bankに送金されているドイツ資金の主要な受け取り手で、Siberian Bankにおける彼の口座には、現在2百万ルーブル以上の残高がある。軍の検閲は、ドイツ人エージェントとボルシェビキ指導者の間[ストックホルム-ペトログラード]において、政治的・金銭的性質を帯びた電報が妨害されないで交換されていることを暴いている。22

脚注
21 Michael Futrell, Northern Underground (London: Faber and Faber, 1963), p. 162.

22 See Robert Paul Browder and Alexander F. Kerensky, The Russian Provisional government, 1917 (Stanford, Calif.: Stanford University Perss, 1961), 3: 1365. "Via Bank"は明らかにNya Bankenのことである。

訳者注
十分理解できない箇所でも、大体の意味が分かるように和訳すべく努めたが、電文については降参せざるを得ない箇所もあった。それらについては、赤字で英文のままとしている。

p. 59



更に、国務省ファイルに、1918年2月21日付けでノルウェイの(1925年にオスロと改名された)クリスチアニア駐在の合衆国大使からの"緑の組み字"の描かれた封筒に入れられたメッセージがあり、"Amは、ボルシェビキ資金がストックホルムのNya Bankenに預金されていると知らせた。ストックホルム公使館が知らせてくれた。シシュメデマン(Schmedeman)"23という内容である。

終わりに当たって、死の直前オルフ・アシュベルグにインタビューしたミカエル・フトレルは、ボルシェビキ資金は船で運ばれた品物の代金をよそおってドイツからNya Bankenとヤコブ・フルステンベルグを経由して確かに運ばれていたと結論している。フトレルによると、アシュベルグは彼に対して、フルステンベルグはNya Bankenと商取引をしていたこと、およびフルステンベルグは資金をペトログラードに送ってもいたことを確かなことだと認めた。これらの陳述は、アシュベルグの回想録において真実であることが確認されている(70ページ参照)。要するに、アシュベルグは彼のNya Bankenを通して、ボルシェビキ革命において使われた資金の経路であったことは疑いようがない。また、Guaranty Trustは、アシュベルグおよびニューヨークのMacGregor Grant 社におけるその関係者、別の伝達手段としてのRusso-Asiatic Bankを通して間接的に結び付けられていた。

 

Nya BankenとGuaranty TrustがRuskombankに参入

数年後の1922年秋に、ソビエトは最初の国際銀行を設立した。その銀行は、以前のロシア民間銀行家、およびドイツ、スウェーデン、アメリカ、英国の銀行家からの新しい資本を含む企業家連合に基礎を置いている。Ruskombank(Foreign Commercial Bankまたはthe Bank of Foreign Commerce)として知られているその銀行は、オロフ・アシュベルグによって率いられていて、その役員会は帝政ロシアの民間銀行家、ドイツ、スウェーデン、アメリカの銀行の代表者、および勿論ソビエト連邦の代表者からなっていた。合衆国のストックホルム公使館はこの問題についてワシントンに報告しており、アシュベルグに関して、「彼の評判は悪い。彼については、シッソン文献の書類54およびコペンハーゲンの公使館からの1921年1月4日付けの公文書No.138において言及されている」ということを特筆している。24

脚注
23 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/1130.

24 U.S. State Dept. Decimal File, 861.516/129, August 28, 1922. 1922年10月9日付けストックホルムからの国務省レポート(861.516/137)において、アシュベルグについて次のように書かれている。「私は数週間前にアシュベルグ氏に会った。彼との会話の中で、彼はこのレポートに書かれていること全てについて大いに述べたのである。彼はまた私に、彼が合衆国を訪問できるかどうか調べて欲しいと頼み、推薦者として著名な銀行のいくつかを挙げた。しかしながら、これに関して、シッソン文献の文献54や、この公使館が戦争中のこの男についてに書いた多くの他の公文書に注目して頂く様、国務省に箴言したい。彼の評判・信望は良くない。彼は疑いなくソ連と親密に活動していて、戦争の全期間中においてはドイツ人と緊密な協力関係にあった。」(U.S. State Dept. Decimal File, 861.516/137, Stockholm, October 9, 1922. このレポートにはIra N. Morrisも署名がある。).


p. 60



Ruskombank
が関わっている外国銀行業務共同体は、主に英国の資本に相当していた。その共同体はRusso-Asiatic Consolidated Limitedを含んでいて、Russo-Asiatic Consolidated Limitedはロシアの最大の民間債権者の一つであり、国有化に伴うソビエト連合内の資産損失を補償するためにソビエトによって3百万ルーブルを授けられていた。英国政府自身はロシアの民間銀行における相当な株を購入済であって、国務省レポートによれば、"英国政府は問題の共同体において多額を出資していた"。25

その共同体はロシアにおいて広範囲にわたる特権を授けられ、その銀行は1千万の金本位制ルーブルの株式資本を持っていた。デンマークの新聞National Titendeにおけるレポートは、「ソビエト政府と協力するための可能性が創造されたが、これは政治的干渉によって不可能になったであろうものである」と述べている。26 言い換えれば、その新聞が続けて述べているように、政治家達がソビエトとの協力を達成し損ねたが、「ロシアの資本主義的市場開拓がより明確な形を取り始めているということが当たり前のことと思われるかもしれない」。27

1922年10月上旬、オロフ・アシュベルグはベルリンでNationalbank fur Deutschlandの取締役エミール・ウィッテンベルグ(Emil Wittenberg)、およびRussian State Bankの取締役シェイマン(Scheinmann)と会っている。Ruskombankへドイツが参入することについて議論したあと、その三人の銀行家はストックホルムへ行き、Guaranty Trust Companyの副会長マックス・メイと会っている。マックス・メイはその当時、Ruskombankの外国部門の任命された取締役の一人で、他の取締役としてはMoscow Merchant Bankの前取締役シュレジンガー(Schlesinger)、Junker Bank の前取締役カラスチキン(Kalaschkin)、Siberian Bank の前取締役テルノフスキー(Ternoffsky)がいた。そのSiberian Bankは1918年に英国政府によって部分的に買われてしまっていた。スウェーデンのグスタフ・カセル(Gustav Cassell)教授はRuskombankの助言者として行動することに同意していた。カセルの見解はスウェーデンの新聞(1922年10月17日のSvenskadagbladet)において次のように引用されている。

脚注
25Ibid., 861.516/130, September 13, 1922.

26Ibid.

27Ibid.


p. 61



純粋に銀行業務を処理するためにロシアで銀行が今スタートしたということは偉大な前進であり、この銀行はロシアにおける新しい経済生活を創造するための何かをするために創立されたと私には思える。ロシアが必要とするのは、国内および海外との商取引を生み出すための銀行である。もし、ロシアと他国との間に何らかの商取引が発生するならば、それを取り扱うための銀行が不可欠である。この前進はすべての方法で他国によって支援されるべきであり、私がアドバイスを求められたとき、それを与える準備があると述べた。私は、前向きでない政策には賛成しないし、積極的な再建のために役立つすべての機会をとらえるべきだと信じている。重要な問題は、ロシアの為替レートを如何にして正常に戻すかということである。複雑な問題であり、研究が必要であろう。この問題を解決するために、当然のことであるが、その研究に十二分に喜んで参画したい。ロシアをそれ自身の資源や運命に任せることは愚劣である。28

ペトログラードにあり、以前はSiberian Bank のものであった建物は、Ruskombankの本部として使われていた。Ruskombankの使命は、外国における短期公債の値を上げること、ソビエト連邦に外資を導入すること、および普通の業務としてロシアの海外貿易を容易にすることであった。それは1922年12月1日、ロシアにおいてオープンし、約300名の従業員が雇われた。

スウェーデンにおいては、Ruskombankはオロフ・アシュベルグのNya Bankenのことであるが、名前だけ変わったSvenska Ekonomibolagetから代表が送られ、ドイツにおいてはベルリンのGarantie und Creditbank fur Den Osten であった。合衆国においては、ニューヨークのから Guaranty Trust Companyから代表が送られていた。その銀行のオープニングに際して、オロフ・アシュベルグは次のようにコメントしている。

この新しい銀行は、英国および合衆国から機械類と原材料の購入に奉仕するであろう。 また、契約の達成のための保証を与えるであろう。 スウェーデンにおける購入の問題はまだ生じていないが、そのようなことが追って問題になることが望まれる。29

脚注

28 Ibid., 861.516/140, Stockholm, October 23, 1922.

29 Ibid., 861.516/147, December 8, 1922.


p. 62



Ruskombankに参入するや否や、Guaranty Trustのマックス・メイは同じような事を述べている。

合衆国は、産業が十分発達した豊かな国であり、外国から何も輸入する必要はないが、生産物を他国に輸出することにおいて大いに関心があり、経済生活のすべての領域におけるロシアの巨大な要求を考慮するならば、ロシアはその目的のために最も適した市場だと考えられる。30

メイは、Russian Commercial Bankは"非常に重要"であり、それは"ロシアの産業のすべての領域に多額の資金を供給する"であろうと述べた。

まさに初めから、Ruskombankの操業はソビエトの外国貿易独占権によって制限されていた。その銀行は海外に届けられたロシアの商品に対する前渡し金を得ることに困難があった。それらはソビエト貿易委員団の名前で運ばれたため、多大なRuskombankの資金はRussian State Bankの預金内に閉じ込められていた。 1924年の初期になってやっと、Russian Commercial Bankはソビエトの外国貿易人民委員会と融和し、オロフ・アシュベルグはその銀行の地位から解任された。なぜならば、モスクワで主張されたことであるが、彼は銀行の資金を悪用したからである。銀行との彼の最初の関係はマキシム・リトヴィノフ(Maxim Litvinov)との親交のためであった。国務省レポートがそう述べていることであるが、このかかわり合いを通して、オロフ・アシュベルグは欧州におけるソビエトからの注文品の支払いに応じることを目的とした多額な金銭に接近していた。

これらの合計金額は外見上、アシュベルグ氏が所有する民間銀行であるEkonomibolagetに置かれていた。これらの資金の大部分は彼の個人口座に入れられ、アシュベルグ氏がそれを投資に流用していて、彼はこの金を保持することを通して銀行での彼の地位を維持しようと現在努めているということが今alledge(原文のまま)されている。私の情報提供者によると、アシュベルグ氏はソビエト資金の操作によって利益を得ている唯一の人物ではなく、Russian Commerce Bankにおける彼の任命に責任ある立場だった人々と利益を分け合っているが、その中にリトヴィノフが含まれている。31

Ruskombankはその後Vneshtorgになり、その名前で今日知られている。

我々は今我々のステップを注意して見直し、第一次世界大戦中における、アシュベルグのニューヨークの提携社であるGuaranty Trust Companyの行動に注目しなければならない。それは、ロシアでの革命時代におけるその役割検討の基礎を築くためである。

脚注
30 Ibid., 861.516/144, November 18, 1922.

31 Ibid., 861.316/197, Stockholm, March 7, 1924.


p. 63



1914〜1917年、アメリカ合衆国におけるGuaranty Trustとドイツ人のスパイ行為
32

第一次大戦中、ドイツは、北米および南米におけるスパイ活動や秘密作戦のために、ニューヨークにおいて多額の資金を集めた。これらの資金の流れを書き留めることは重要である。なぜならば、その資金はボルシェビキ革命とその余波に関わったのと同じ会社−Guaranty TrustおよびAmerican International Corporation−から流れているからである。ドイツ政府がレーニンの革命活動にも資金提供していたという事実(第三章に概説済)は言うまでもない。

第一次大戦においてアメリカの銀行がドイツのために授けた融資の概要は、合衆国陸軍諜報機関によって1919年の上院監督委員会に与えられていた。その概要はカール・ヘイネン(Karl Heynen)の宣誓証言に基づくものであり、彼はドイツ政府の貿易・財政業務に関してアルバート博士を手伝うために1915年4月に合衆国に来ていた。ヘイネンの公式な仕事は、スウェーデン、スイス、およびオランダを経由して、合衆国からドイツへ商品を輸送することであった。しかし、実際は、彼は秘密作戦に没頭していた。

1915年から1918年の間に合衆国でまかなわれた主要なドイツへの融資は、ヘイネンによれば次の通りである。最初の融資は40万ドルで、1914年9月頃、投資銀行家であるLoeb & Co.のクーンによってであった。 2千5百万マルクの担保が、Loeb & Co.のクーンのドイツ人提携者であるハンブルグのマックス・M・ウォーブルグ(Max M. Warburg)によって供託された。合衆国陸軍諜報機関のジョージ・B・レスター(George B. Lester)大尉は上院に対して、「何故、あなたはLoeb & Co.のクーンのところへ行ったのか?」という質問に対するヘイネンの回答は、「我々はLoeb & Co.のクーンをドイツ政府およびReichsbankの道理にかなった銀行家だと考えているからである。」だったと告げている。

第二の融資は120万ドルで、合衆国から直接ではなく、Suedeutsche Disconto-Gesellschaftの代理人であるジョン・サイモン(John Simon)によって、ドイツへの船積み資金の支払いを保証するために処理された。

脚注
32 This section is based on the Overman Committee hearings, U.S., Senate, 「酒造業者、およびドイツとボルシェビキのプロパガンダ(Brewing and Liquor Interests and German and Bolshevik Propaganda)」, Hearings before the Subcommittee on the Judiciary, 65th Cong., 1919, 2:2154-74.


p. 64



第三の融資は(モルガングループの)Chase National Bankからで、その額は300万ドルであった。第四の融資はMechanics and Metals National Bankからで、100万ドルであった。これらの融資金は合衆国とメキシコにおけるドイツのスパイ活動の資金となった。いくつかの資金は、バン・リンテレン(Von Rintelen)(別のドイツ人スパイ)の助言者であり、のちにヒジャルマー・シャチ(Hjalmar Schacht)とエミール・ウイッテンベルグと交際のあったソマーフェルドによって足跡がつけられている。ソマーフェルドはメキシコで使用するための弾薬を購入している。彼は、Guaranty Trust Companyに口座を持っていて、支払いはこの口座からイリノイのWestern Cartridge Co. of Altonに対してされた。弾薬はエルパソまで船で運ばれて、パンチョ・ビラの無法者達によってメキシコで使用された。約40万ドルが弾薬、メキシコでのプロパガンダ、および同様の活動に費やされた。

当時のドイツ大使カウント・バン・ベルンストルフ(Count Von Bernstorff)は、Amsinck & Co.の社長であるアドルフ・バン・パベンステッド(Adolph von Pavenstedt)との交際について詳しく述べている。そのAmsinck & Co.は、American International Corporationの支配下にあり、1917年11月には所有されていた。American Internationalは以下の章において際立ってよく現れる。その取締役会には、ウォール街における重要な名前であるロックフェラー、カーン、スチルマン、ドゥ・ポント(du Pont)、ウィンスロップ(Winthrop)などが含まれている。バン・ベルンストルフによれば、バン・パベンステッドは"大使館のすべてのメンバーと懇意"であった。33 バン・ベルンストルフ自身は、"ニューヨークにおける最も尊敬すべきで威厳のあるドイツ人を除けば"34 、バン・パベンステッドを最も尊敬すべき人々の一人と看做していた。実のところ、バン・パベンステッドは"この国において長年、ドイツのスパイシステムの給料支払い係長"35であった。言い換えれば、American International Corporationに支配されていたArmsinck & Co.が合衆国における戦時中のドイツのスパイ活動資金と密接に関連していたことは疑いの余地が無い。バン・ベルンストルフの最後の陳述に決着をつけるために、Amsinck & Co.を受取人とする1917年12月8日付け小切手の写真が存在するが、その日付はロシアにおけるボルシェビキ革命の開始からちょうど4週間後である。その小切手は、バン・パペン(Von Papen)(別のドイツ人スパイ活動員)によって署名されており、その小切手の半券部には"バン・W[すなわちバン・ウェデル(Von Wedell)]の旅費"という注釈が書き留められている。その写真を公表したフレンチ・ストロザーズ(French Strothers)36は、この小切手はバン・パペンが"アメリカの法律に背いた犯罪に対する事後共犯になった"証拠だと述べている。それはまた、Amsinck & Co.を同様の容疑にさらすものでもある。

脚注
33 Count Von Bernstorff, My Three Years in America (New York: Scribner's, 1920), p. 261.

34 Ibid.

35 Ibid.

36 French Strothers, Fighting Germany's Spies (Garden City, N.Y.: Doubleday, Page, 1918), p. 152.


p. 65



ポール・ボロ-パシャ(Paul Bolo-Pasha)は、これまたドイツのスパイであり、エジプト政府に以前勤務していた著名なフランスの金融業者であるが、バン・パベンステッドへの紹介状を持って1916年3月にニューヨークに到着した。バン・パベンステッドを通じて、彼はベルリンのDeutsche Bankの取締役で、合衆国におけるその代表者であるヒューゴ・シュミット(Hugo Schmidt)に会った。ボロ-パシャのプロジェクトの一つは、外国の新聞を購入し、ドイツのためにそれらの社説を歪曲することであった。このプログラムのための資金は、Guaranty Trust Companyの貸金の形で、次にAmsinck & Co.に利用可能な貸金としてベルリンで用意された。Amsinck & Co.のアドルフ・バン・パベンステッドは順ぐりにボロ-パシャが利用できる資金を作った。

換言すれば、Guaranty Trust CompanyとAmerican International Corporationの子会社であるAmsinck & Co.は、合衆国におけるドイツの諜報などの活動の道具として直接関係していた。これらの企業から合衆国における主要なドイツの操作者 ―アルバート博士、カール・ヘイネン、バン・リンテレン、バン・パパン(Von Papan)、カウント・ジャクエス・ミノト(Count Jacques Minotto)(後述を参照)、およびポール・ボロ-パシャ― への数本の繋がりが確証され得る。

1919年に上院監督委員会は、 Guaranty Trust社が"非中立"の立場でドイツの第一次世界大戦の募金活動への融資に積極的な役割を演じたことも立証している。合衆国諜報員ベッカーの審問はこれを明らかにしている。

この使命において、[Deutsche Bank の]ヒューゴ・シュミットはあるアメリカの銀行業機関によって惜しみなく援助されました。それは、我が国が中立であった間であるが、彼らの行為は英国の権益に損害を与えました。私はこの点に関してGuaranty Trust Co.の行為について少なからずのデータを持っておりますが、委員会が私にそれについて詳しく論じることを望むかどうか知りたいです。

ネルソン上院議員:それはCity Bankの支店ですね?
ベッカー氏:いいえ。
上院議長:もし、それが英国の権益に反していたならば、中立ではなかったということであり、あなたはそれについて詳しく述べたほうが良いと思います。

キング上院議員:それは通常の銀行取引でしたか?
ベッカー氏:それは見解の問題でしょう。中立の手形であるかのよう見せかけるために手形を偽装することと関係があります。本当はドイツの手形であったものがロンドンの手形として処理されました。 Guaranty Trust Co.が1914年8月1日とアメリカが参戦した日の間に主に関与した操作の結果、Deutsche Bankeは南アメリカのその支店において戦時中に467万ポンドのロンドンの手形を処理するのに成功しました。
上院議長:それは合法的だと思います。37

脚注
37 U.S., Senate, Overman Committee, 2:2009.


p. 66



本当に重要なことは、財政的な援助がドイツに与えられたという単なる非合法性にあるのではなく、Guaranty Trust社の取締役が同時に連合国も財政的に支援していたということである。換言すれば、Guaranty Trust社は紛争者の両方に出資していた。これはモラルの問題を提起する。

 

Guaranty Trust-ミノト(MINOTTO)-カイラウクス(CAILLAUX)を繋ぐ糸38

カウント・ジャクエス・ミノトは、ロシアでのボルシェビキ革命をドイツ銀行、合衆国におけるドイツの第一次世界大戦諜報員、ニューヨークのGuaranty Trust社、失敗したフランスでのボルシェビキ革命、およびフランスでの関連したカイラウクスとマルヴィ(Malvy)の諜報疑惑公判と結びつけた、最もありそうでないが立証できる永続的な糸である。

ジャクエス・ミノトは、1891年2月17日にベルリンで生まれ、イタリア貴族の子孫であるオーストラリア人の父親とドイツ人の母親の間に生まれた息子である。息子の方のミノトはベルリンで教育を受け、1912年にベルリンのDeutsche Bankに就職した。入社後ほとんど直ぐに、ミノトはDeutsche Bankの副会長でそのニューヨーク代表者であったヒューゴ・シュミットの助手として合衆国に派遣された。ニューヨークに1年居たあと、ミノトはDeutsche Bankの社命でロンドンに送られ、そこで著名な政治および外交関係のサークルを回って歩いた。第一次世界大戦の勃発で、ミノトは合衆国に戻り、直ぐにドイツ大使カウント・バン・ベルンストルフに会ったあと、ニューヨークのGuaranty Trust社に雇用された。Guaranty Trust社において、ミノトはその外国部門の重役であり、スウェーデンの銀行家オロフ・アシュベルグの仲間であるマックス・メイから直接の命令を受けた。ミノトはもはや下っ端の銀行員ではなかった。1919年パリにおけるカイラウクス公判の尋問は、ミノトがマックス・メイの直接の配下として働いたことを立証している。39

脚注
38 本節は、次の文献に基づいている (他で引用されている文献と同様に):Jean Bardanne, Le Colonel Nicolai: espion de genie (Paris: Editions Siboney, n.d.); Cours de Justice, Affaire Caillaux, Loustalot et Comby: Procedure Generale Interrogatoires (Paris, 1919), pp. 349-50, 937-46; Paul Vergnet, L'Affaire Caillaux (Paris 1918), especially the chapter titled "Marx de Mannheim"; Henri Guernut, Emile Kahn, and Camille M. Lemercier, Etudes documentaires sur L'Affaire Caillaux (Paris, n.d.), pp. 1012-15; and George Adam, Treason and Tragedy: An Account of French War Trials (London: Jonathan Cape, 1929).

39See p. 70.


p. 67



1914年10月25日、Guaranty Trust社ジャクエス・ミノトを南米に送り、そこの政治・財政・貿易状況についてのレポートを作成させた。彼はロンドン、ワシントン、およびニューヨークでした様に、最上層の外交・政治サークルに近付いた。ラテンアメリカにおけるミノトの任務の一つの目的は、Guaranty Trust社が上述のドイツ公債をロンドン通貨市場で調達するための仲介者として使用できるようなメカニズムを確立することであったが、そのドイツ公債は第一次世界大戦のためその後ドイツによって償還を拒否された。ミノトは合衆国に戻り、カウント・バン・ベルンストルフとカウント・ルクスベルグ(Count Luxberg)との親交を回復し、続いて1916年に合衆国海軍諜報部に地位を得ようと試みた。このあと、彼は親ドイツ活動の罪で逮捕された。逮捕されたとき、ミノトは義理の父親で精肉業者であるSwift & Co.のシカゴ工場で働いていた。スウィフトはミノトを自由にするために5万ドルの保釈金を供出したが、Swift & Co.の弁護士ヘンリー・ビーダー(Henry Veeder)によって代行された。後日、ルイス・スウィフト自身も親ドイツ活動のために逮捕された。興味深く、重要でなくない偶然の一致として、ルイス・スウィフトの兄弟である"年長の方の"ハロルド・H・スウィフトは、ペトログラードへのウィリアム・ボイス・トンプソン1917年赤十字使節団のメンバーであった。この使節団は、彼らのロシア革命との密接な関係が後述されるところのウォール街弁護士やビジネスマンからなるグループの一つであった。ルイスおよびハロルド・スウィフトの姉妹であるヘレン・スウィフト・ネイルソンは、親共産主義者であるアブラハム・リンカーンCenter "Unity"と後に繋がりを持った。これは、ドイツ銀行、アメリカ銀行、ドイツ諜報、および後で分かるようにボルシェキビ革命の間のマイナーな繋がりを立証した。40

ジョセフ・カイラウクスは有名な(時には悪名高いと言われた)フランスの政治家である。彼は、Guaranty Trust社のためにラテンアメリカで工作活動をしたカウント・ミノトとも交友関係があり、ボルシェビキとの関係があった1919年の有名なフランスのスパイ事件に後に関与した。1911年にカイラウクスは財務相になり、その年のうちにフランスの首相になった。ジョン・ルイス・マルヴィはカイラウクス政権における国務次官になった。数年後、カイラウクス夫人は著名なパリの新聞Figaroの編集者であるガストン・カルメット(Gaston Calmette)を殺した。検察側は、カイラウクス夫人はある信用を傷つけるような書物の出版を阻止するためにカルメットを殺したと説示した。この事件の結果、カイラウクスと夫人はフランスを離れた。

脚注
40 この繋がりは、1919年の3巻からなる監督委員会レポートに詳しく述べられている。参考文献一覧を参照のこと。


p. 68



そのカップルはラテンアメリカへ行って、そこでGuaranty Trust Companyの工作員で、ドイツの融資のための仲介者を確立しようとしてラテンアメリカに居たカウント・ミノトと会った。カウント・ミノトは、ブラジルのリオデジャネイロやサンパウロ、ウルグアイのモンテビデオ、およびアルゼンチンのブエノスアイレスにおいて、カイラウクス夫妻と社会的に関係を持っていた。換言すれば、カウント・ミノトは、カイラウクス夫妻がラテンアメリカにいる間、彼らの不断の仲間であった。41 フランスに戻るや否や、カイラウクスと夫人はポール・ボロ-パシャの客人として、ビアリッツに滞在したが、そのポール・ボロ-パシャもまた、既に述べたように合衆国とフランスにおけるドイツの諜報工作員であった。42 その後1915年7月に、カウント・ミノトはイタリアからフランスに到着し、カイラウクス夫妻と会っていて、同じ年にカイラウクス夫妻は再びブラジルのボロ-パシャを訪問している。換言すれば、1915年と1916年において、カイラウクスは合衆国におけるドイツのスパイであったカウント・ミノトおよびボロ-パシャと連続した社会的な関係を確立していた。

ボロ-パシャのフランスでの仕事は、パリの新聞Le TempsおよびFigaroにおいて、ドイツのために影響力を獲得することであった。ボロ-パシャはそれからニューヨークに行き、1916年2月24日に到着している。そこで、彼は2百万ドルの融資について交渉したが、著名なドイツ人スパイであるバン・パベンステッドおよびAmsinck & Co.と提携していた。43 著作「内部の敵」におけるセベランス・ジョンソン(Severance Johnson)は、カイラウクスとマルヴィを1918年の失敗したフランスボルシェビキ革命に関係させていて、もしその革命が成功していたならば、「マルヴィはフランスのトロツキー、カイラウクスはフランスのレーニンになっていたであろう」と述べている。44 カイラウクスとマルヴィは、ドイツの資金を使って、フランスに急進的な社会主義政党を作り、これらの破壊的な奮闘のために裁判にかけられた。1919年フランスにおけるスパイ裁判の法廷尋問は、ニューヨークの銀行家およびこれらのドイツ諜報工作員との彼らの関係について宣誓供述書をもたらしている。法廷尋問はまた、Guaranty Trust CompanyのDeutsche Bankとの関係、およびDeutsche Bankのヒューゴ・シュミットとGuaranty Trust Companyのマックス・メイの間の協力と同様に、カウント・ミノトとカイラウクスの繋がりを明らかにしている。そのフランスの法廷尋問(940ページ)は、カウント・ミノトのニューヨーク宣誓供述書からの次の抜粋(10ページ、フランス語からの再翻訳)を含んでいる。

脚注
41 See Rudolph Binion, Defeated Leaders (New York: Columbia University Press, 1960).

42 George Adam, Treason and Tragedy: An Account of French War Trials (London: Jonathan Cape, 1929).

43 Ibid.

44 内部の敵(The Enemy Within)」 (London: George Allen & Unwin, 1920).


p. 69



質問Guaranty Trust社では誰の指揮下にあったのか?

返答:マックス・メイ氏の指揮下でした。

質問:彼は副会長だったのか?

返答:彼は副会長であり、かつ外国部門の部長でした。

その後1922年に、マックス・メイはSoviet Ruskom-bankの重役となり、その銀行におけるGuaranty Trust社の利権の代表者となった。フランスの法廷尋問は、ドイツの諜報工作員であるカウント・ミノトがGuaranty Trust Companyに雇われていたこと、マックス・メイが彼の上司であったこと、およびマックス・メイがボルシェビキ銀行家であるオロフ・アシュベルグとも親密な関係であったことを立証している。要約すれば、Guaranty Trust社のマックス・メイは、第一次世界大戦中の合衆国における非合法な資金調達とドイツの諜報活動に関係していた。彼はボルシェビキ革命に間接的に、またソビエト連邦の最初の国際銀行であるRuskombankの創設に直接的に関係していた。

この見るからに矛盾していて、非合法にして時には倫理に反する国際的な活動についての解明を試みるのは時期尚早である。一般的には、二つの説明が可能である。一番目は利益の容赦なき追求であり、二番目は、この章の題辞に示されたKuhn, Loeb & Co.American International Corporationのオットー・カーンの言葉と一致するが、社会主義者の目的であって、かつ非社会主義的手段によって成し遂げられるべき、成し遂げられえる目的の実現である。


p. 70


 

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