少年サッカー (佐藤治夫) 本文へジャンプ
少年サッカー



指導者として


勝負へのこだわり

「子供は勝負にこだわり、大人はこだわらない」というのが理想なのかもしれません。保護者のページで述べたように、指導者や保護者があまり強く勝負にこだわってしまうと、子供の発育過程を軽視した指導内容に傾いていってしまう恐れがあります。しかし、子供達には勝負にこだわり、戦う気持=ファイティング・スピリットを胸に秘めながらサッカーを続けていって欲しいものと考えています。

勝負にこだわらない子供とはどういう子供なのでしょうか。上達する意志は持つものの、勝負事になると一歩引いてしまって、実力を十分に発揮できないという子供が、実際には結構多いのではないかと思います。例えばボール・リフティングのような一人で行う練習は好きなのだが、1対1のボールの取り合いや、ミニゲームになると遠慮してしまうせいか、相手に好きなようにやらせてしまう。「やさしい」子供に多いのかもしれません。そういった子供達の長所を損なわないようにしながら、同時に、戦う姿勢を身につけさせたいと考えています。

サッカーはルールの上に成り立つスポーツですから、たとえ強い当たりで相手が転んでしまったとしても、足を引っかけたり、後ろから押したりする反則を犯していない限り、正当なプレーということになります。「やさしい」子供は、恐らく、最初はこういったムキになってボールを奪い合う状況が「怖い」と感じているのだと想像します。ここで怖いと感じた子供は、ボールを奪い合う局面などを避けるようになります。ルーズボールと呼ぶどちらのボールかわからないボールを追いかける際には、ついブレーキを踏んでしまう。あるいは「プレスをかける」といいますが、相手のボールを奪うためにプレッシャーを相手にかけるべき局面で、プレスをかけることができなかったり、あるいは、プレスをかけられると簡単にボールを手放してしまったりするプレースタイルが身についてしまう可能性があります。

勝負事を避けて、避けて、避け続けると、練習のとき、仲間がその子供のプレースタイルを前提にして、あたかも「おミソ」のように扱ってしまいます。つまり、厳しい状況では、その子供にパスを出さなくなります。勝負を避ける子供をもし「やさしい」と呼ぶならば、その子供をおミソにする仲間達をも「やさしい」と言わねばなりません。

人生にとってもちろんサッカーがすべてではありません。ですから、誰もがサッカーで必死になって勝利をおいかける必要はありません。しかし、あらゆる勝負を避けて歩めるほど、人生は甘くないですよね、きっと。自分の技術、体力、知力、精神力、そしてファイティング・スピリットのすべてを総動員して勝つ、あるいは、負ける。そのとき子供は、大人の想像をはるかに越える成長をするものだと考えています。

3年生のときに、ボールの取り合いを避けるように、フィールドの端っこで半分泣きそうな顔をしている子供がいました。敢えて勝負をさせると本当に泣いてしまいそうでした。その子供が6年生になって、それこそ自分の持つあらゆる能力を振り絞り、全身全霊でチームの勝利を導くために獅子奮迅の活躍をし、そして試合に負けてしまったときのことです。その子供はシャツで顔を隠しながら、声を出さずに泣いていました。しかし、赤く腫れた目で見上げた空の向こうには、もっともっと大きな勝負がいくつも彼を待ちかまえており、その勝負に挑むステップを1つ踏み出したにすぎないのです。



平等について

我々、少年サッカーの指導者にとって最も悩ましい課題の一つが、平等の実現ではなかろうかと思います。ただし、結論的に申し上げれば、「結果平等」ではなく「機会平等」の実現を心掛け、同時にサッカーの普及のために「微調整をも行う」というものではないでしょうか。

「結果平等」か「機会平等」かという議論は、最近の我が国における流行論争の一つでしょう。日本人はその文化として、結果平等をもって平等と定義する傾向にあります。結果として全員が同じだけの幸福・分け前などを手にすることをもって平等と考える。従って、「出る杭を打つ」際に、みんなでよってたかって打ったとしても、それが何となく正義っぽく受け止められる傾向がある。「金持ちは税金をたくさん払う=累進課税は当たり前」とか「ウチだけ乾燥機が買えないのは政治と世の中が悪いせいだ」というのがもし常識だとすれば、結果平等が基本的人権を担保するという考えでしょう。つまり、結果が平等でなければ、ルールあるいはルール運営がオカシイはずだという考えです。

話がだいぶサッカーからズレてしまいました。しかし、先ほどの累進課税の話と乾燥機の話を少年サッカーに当てはめて表現すれば、「上手な子は叱られて当たり前」とか「ウチの子が試合に出られないのはコーチが悪いせいだ」ということにもなりかねません。ホンマです。

保護者のページの「差」についての話で、サッカーが好きかどうかの差には注目すると書きましたが、この差は学年が上がるにつれて極めて大きなギャップとなって表れます。例えば、1週間におけるボールタッチの回数を比較したら愕然となります。ボールタッチとは、ボールに触ることです。サッカー大好きの子供は、毎日、ひとりでも練習をしますので、日々数千回はボールを触ることになります。練習のある日も早く来てボールで遊んでいますし、練習中も積極的、休憩中や練習後さえもボールを離そうとしません。一方、なんとなく関前に来ているだけの子供は、1週間に正味合計6時間の練習としても、その中で100回ボールに触るかどうかでしょう。単位時間あたりの平均ボールタッチ回数を比較すれば、100対1かそれ以上の開きがあるはずです。我々は子供達に同じように機会を与えるようにしていますので、機会平等のもと、かたや毎日のように勝手に練習する子供がいれば、かたや最低限にとどめる子供もいます。実力差という結果が平等でなくなるのは当然の帰結となります。「同じ子供でそんなに差があるわけはない」というのが多くの保護者たちのリアクションですが、子供達自身が大きな差を自覚しています。なお、ここで敢えて「差」という言葉を使いましたが、これは個性による「違い」ではなく、あくまで差ということになります。個性による違いとは、同じく1万回ボールタッチした二人の選手が、自分の長所を生かそう・短所をカバーしようと考えて練習した結果として、プレースタイルに表れるものです。サッカーが好きかどうかに関する大きな差が、結果として実力だけでなく意欲や仲間からの信頼にも大きな差を生むことになるのです。

ただし、何回でも申し上げますが、サッカーが人生のすべてではもちろんありません。サッカーが大好きになるという個性があるかと思えば、サッカーではなく他のことが大好きになる個性もあるはずです。サッカーが好きな程度に大きなバラツキができた高学年の子供達を前にして、誰を試合に出そうか、誰をどう使おうかと思い悩むとき、平等な機会のもとで最大限の努力をしている子供を優先することが、機会平等という考えであろうと思います。もし、全員に同じ時間だけ出場させる、すなわち結果平等となるように采配したとすれば、それこそ平等でないと考えます。

ここまでの「理屈」は恐らく理解&賛同していただけるものと思います。しかし、もし、次のような状況になったらどう感じるでしょうか。5年生のときに、上手な子供数名が6年生チームで戦っており、残った子供達で戦う5年生の試合は負けることが多かった。6年生になって上手な子供達と合流することで、きっと大会でもよい成績を納めることができるに違いない。ああ、楽しみだ。と考えながら6年生としての初の試合を見に行ったら、5年生の中で上手な子供数名が参加していて、彼らがレギュラーとなった。その結果として、自分の子供が試合に出れなかった。せっかく楽しみにしていた6年生としての1年間であったのに。今年が最後だというのに。5年生には来年があるじゃない!

オリンピックは23才以下の選手で戦います。23才の選手が、「最後のチャンスだから」といって19才の選手に「次回があるから我慢しろ」とは言えません。プロだから、大人だからでしょうか?それではU19という19才以下のカテゴリーではどうでしょうか。U17はどうでしょうか、U15はどうでしょうか。何歳までは結果平等をある程度実現させ、何歳からは機会平等だけでよいのでしょうか。大変にむずかしい問題です。

上手な5年生の立場に立って考えてみましょうか。サッカーが大好きでなければ、運動神経だけではふつう6年チームのレギュラーにはなれません。この子は、5年生の中で戦っていれば、群を抜いており、手を抜いてやっていてさえ、ある程度の結果を出すことすらできるでしょう。この子が「ぬるま湯」でサッカーを続けたとして、ある日から年齢の多少の差に関係ない厳しい環境に飛び込んだらどうなるのでしょうか。サッカーでは、いや、サッカーだけでなく何であっても、同じ年齢だけを集めて競い合うというのは人生においてむしろ例外的な競争条件であるはずです。せっかくサッカーが大好きで、人一倍練習をし、人一倍上手になったこの子は、年齢が上の中という厳しい条件のもとでの「機会」は与えられないのでしょうか。

誰にでも等しく機会を与えるように努めています。そして、努力している子供には、それに見合う機会を与えようともしています。その結果として、結果平等が崩れてしまうことはいたしかたないことと考えています。しかし一方で、冒頭に「微調整する」と述べたように、関前で長いことサッカーを続けてきた子供達には、それほどサッカーが好きにならなかった子を含めて、少しの時間であっても試合に出すようにしています。

保護者の方にとっては、理解はできても賛同できない状況があるかと思います。そんなときは子供たちがいない時を見計らって、コーチに一言ぶつけてみてください。