小説「被買収」 (佐藤治夫) 本文へジャンプ
第一章



 東京都千代田区大手町一丁目。ビジネス街の代表、あるいは中心地の一つ。都市銀行の本店が隣接し合い、名門企業の本社本店が立ち並ぶ街。1980年代に欧米の金融機関がこぞって東京本部を構えたのがここならば、兜町の証券会社が巨大なトレーディング・ルームを開いたのも大手町だ。

 その大手町一丁目に、ニューヨークのシンボルだったワールド・トレードセンターを模したようなツィンビルがある。皇居の手前にあるせいで高さは制限されているが、それでも最上階・二十三階からは皇居を見下ろすことができる。そのツィンビルの片方の最上階を、人材派遣会社の本社が占めている。

 人材派遣業界トップであるブリッジ・スタッフィングが、大手町に本社を移したのは2001年である。京都で生まれ、大阪で育った業界後発のブリッジが、遠慮しがちに東京に進出してからまだ二十年も経っていない。西新宿の高層ビル、1フロアの四分の一から始まった東京での快進撃は、増床に継ぐ増床をもたらし、それでも足りずに紀尾井町に出来た新しいビルへの進出を促した。営業部門が紀尾井町に集結した今から十年前、ブリッジはテレビ・コマーシャルを打つという賭けに出た。フリーダイヤルの番号を印象付ける目的のこのCMは、投資額という点でも、CM内容という点でも大博打だった。

 これが当たった。

 既に数百億円規模になっていたブリッジは、このCMから三年間で事業を二倍以上の規模に拡大し、遂に二十一世紀初年に業界トップに躍り出た。そのとき本社を、大阪から大手町のシンボルタワー、ツィンビルに移転させたのだ。

 トップに立ったブリッジの勢いはますます盛んであり、一千億円を超えたと思ったら、その三年後に三千億円をクリアした。

 紀尾井町のビルの数フロアを占有していた営業部門は、もはやそのビルでは増床ができないとわかるや移転を計画、大手町を選んだ。本社があるツィンビルの隣に、都市銀行本店の別館といった位置づけのビルがあり、そこの7つのフロアを借りた。

一千人の引越しは壮観だったが、もっとすごかったのは、移転後初日の朝のエレベータホールでのラッシュだった。

 銀行などに比較すると、ブリッジのオフィスは人口密度が違う。その上、フレックス勤務制度などに無縁なブリッジは、新人から重役まで全員が朝九時前に出勤する。

 毎朝、大手町の別館ビルに出社してくるブリッジ社員があまりに多すぎ、あまりに集中するので「エレベータが使えない」と他フロアの会社からクレームが殺到した。六台ある高層階エレベータのうち二台は、朝の時間帯、ブリッジは「使わない」という約束をして、迷惑顔の同居人たちに納得してもらったものだ。

 大手町の風景が変わったと報道されたことがあった。かつて、ダークスーツの銀行員が闊歩した街並みを、いまや人材派遣の若い営業員が走り回っているという。しかし、正確にこの変化を伝達するならば少し違った表現となっただろう。銀行員の多くはもはやスーツとネクタイではない。特に外国人やディーラー、トレーダーが一定数を占める大手町では、昔のような銀行員を見かけることはむしろまれだ。一方、実は、昔の銀行員の格好をしているのが、ブリッジ・スタッフィングの営業員なのである。ダークスーツというよりも葬式スーツとでも呼ぶべき真っ黒なスーツに、地味なタイ。真冬でもコートを着ることはないが、真夏でも上着を脱ぐことがない。銀行カバンと言えば大きな皮革のカバンを連想するかもしれないが、ブリッジで通称「豚カバン」と呼ばれる黒の合成繊維のカバンは、それよりも大きく、さらに中に大量の資料が詰め込まれているせいで、その名のとおり豚のようにふくれあがっている。

 さすがに女性はベージュなど黒以外の色のスーツを着ている者も多いが、それでも同じように豚カバンを持ち、そしてハイヒールであっても男子と同じように街を走っている。

 街でブリッジの社員を発見するのは簡単だ。大きなビルの一階に設置された公衆電話で見張っていれば、一時間以内に必ず彼らはやってくる。豚カバンからノートと端末と携帯電話を取り出し、顧客企業への電話なら公衆電話を使い、営業本部との連絡なら携帯電話を使う。さらに、手のひらサイズの端末機を操作しながら情報を確認し、大きなノートにペンを走らせている。

 別館ビルの中、ブリッジの営業部門を覗いてみるともっと驚くことになる。

 朝九時、黒髪で黒いスーツの若者たちが最大の人口密度で集結する。チームごとの朝礼や打ち合わせは立って行われ、挨拶や指示では大声が響き、混み合ったオフィスの中を、人をよけながら走り回る者がそこかしこにいる。

 この喧騒が、十時前にはピタリと止む。オフィスに誰もいなくなるからだ。

 銀座支店の者は地下鉄丸の内線で銀座へ向かい、日比谷支店は都営三田線で日比谷へ、赤坂支店は千代田線、神田支店はJRというように、東西南北それぞれの路線を使い目的地へと向かう。

 営業はすなわち外交であり、それはすなわち顧客訪問であるゆえ、社内に残っている営業員は「営業していない」ことを意味する。営業しない営業員には「辞めてもらう」というルールが厳粛に守られているブリッジでは、十時を回っても机にへばりついている営業員は怒鳴られることになる。外に出た営業員は、顧客企業を訪問する都度、端末機から訪問記録を入力するので、一日の訪問回数、ブリッジの言葉を使えば「行動量」が計測され、決められた行動量に満たない者は退職を勧告される。

 こんな会社が大手町の一等地に出現したのだから、街の風景が変わったとか、時代錯誤かと言われたのだろう。しかしながら同じような光景は、高度成長期の日本ならばあちこちで見られたものではないだろうか。国全体が急成長を楽しんでいたあの頃の勢いが、現在のブリッジ・スタッフィングには間違いなく息づいている。

 

 「お疲れ様です!」

 十時前に空っぽになったブリッジの営業フロアに、営業員が戻ってくるのは夕方だ。朝、顧客企業への直行を許さないブリッジは、夕刻、顧客企業から自宅への直帰も許していない。

 帰社してくる営業員は、いずれも大きな声で「お疲れ様です」と言いながら自席へ向かうが、その声の大きさと、それに応える周囲の「お疲れ様です」の音量によって、その日の営業成績が推測できる。

 営業員は「標準営業職」と「サポート営業職」に二分されている。標準営業職とは、新規顧客を開拓する役割を担う者であり、後発だったブリッジ・スタッフィングは東京に初めて進出したとき、あらゆる企業が新規顧客であったゆえに、営業員全員が標準営業職であった。だからこそ「標準」という表現を使っている。

 一方、契約を頂戴した企業に対して、派遣しているスタッフのサポートをしつつ、二人目、三人目の契約を頂戴する役割を担う者を「サポート営業職」と呼んでいる。ブリッジの市場シェアが高まるとともに、サポート営業職の数が増えていき、現在では、標準営業職をはるかに上回る数となった。

 標準営業職は一日に三十五社を回る。サポート営業職は二十社だ。標準営業職が一日に回る三十五社のうち、人材派遣のオーダーをもらえるのは多くの場合、ゼロである。良くて一件だ。「もう来るな」「帰れ」といったクレームを頂戴する確率の方が、オーダーをもらえる確率よりもずっと大きい。

 それでも元気に「お疲れ様です」と言いながら帰ってこなければならない。中には、ドアを開ける前に深呼吸している者もいる。

 尾崎龍司(おざきりゅうじ)は、帰社してくる社員が入ってくるドアを見つめている。

 「神崎、日比谷と丸の内は良さそうだな」

 「そうですね本部長、あと、大手町支店も元気に帰社しています」

 「十九階はどうだ?」

 「上野、西新宿、神田あたりが元気です。赤坂はロットが入って、お祭り騒ぎのようです」

 「そうか、今月、九月の数字で今期の売上見通しが立つ。ようやく長いトンネルを抜けたみたいだな」

 「三年近く。ほんとに長かったですね」

 「午後三時の集計値、印刷してあったかな?」

 「はい、ここに」

 「サンキュ。じゃ、専務に報告して、そのあと、会長のところに回る」

 「会長? 夕方に、ですか?」

 「あぁ、五時半に会長室に来いっていうことだ」

 「じゃ、そのまま外へ?」

 「たぶん、そうだと思う」

 「わかりました。それでは今日の集計値は、携帯メールに送りましょうか?」

 「うん、そうしてくれると有難い」

 

 尾崎龍司、三十九歳、昨年、取締役・首都圏営業本部長に抜擢された若手のホープだ。

 ブリッジ・スタッフィングの事業構成は、九十八%が人材派遣事業であり、残りのニ%が多角化を目的とした、人材ビジネスとは無縁の事業である。

 人材派遣事業は、派遣する人材の種類によって四つに分割されている。第一が、事務職を一般のオフィスに派遣する事務派遣と呼ぶ分野であり、この事業が売上、利益、知名度ともに他を圧倒している。第二が工場などに工員を派遣する製造派遣と呼ぶ事業であり、第三がエンジニアなどの技術者を派遣する事業、第四が介護ヘルパーなどを派遣する事業となっている。

 それぞれの事業に営業責任者がいるが、事務派遣だけは規模が大きいので地域ごとに営業本部を設けており、首都圏営業本部はその中でも「本丸」と呼ばれる最重要エリアである。

 本丸を守る尾崎本部長が歩くと、周囲に緊張が走る。

尾崎龍司本部長、略して「龍本」と呼ばれるこの男は、社歴十六年、新人のときから数々の伝説を作ってきた。二十六歳で最年少支店長に抜擢された麹町支店で多くの記録を打ち立て、その後、新宿支店長、福岡支店長、京都支店長として上げた数字は、グラフにするとあたかも垂直に立ち上がっていくような急成長を示したことから、「垂直グラフの男」と呼ばれた。その後、九州営業本部長、関西営業本部長を歴任して、遂に首都圏営業本部長になったとき、月初の幹部会議で高橋会長が嬉しそうに「龍、これからがおまえの正念場だ」と語りかけた。

 龍司が自席を立ち、一つ上のフロアの吉田専務の席へと向かう。龍司が自席からドアまで歩く二十歩の間に、十数名が「お疲れ様です」と挨拶する。階段を上がり、上のフロアのドアを開けると、最初に龍司を発見した男子が咄嗟に起立して「お疲れ様です」と叫ぶような挨拶をする。気づいた周囲が次々に立ち上がり、「お疲れ様です」が合唱となる。

 「専務は?」

 龍司に尋ねられた社員は直立したまま緊張気味に答える。

 「本日は早退されました」

 「え? 早退?」

 「はい」

 この社員にこれ以上訊いても無駄だと思った龍司は回りを見渡した。専務のフロアには、営業部門全体の参謀本部にあたる営業企画部が居を構えており、そこに山田文吾、通称ブンゴがいる。龍司が麹町支店長の時代に、突撃隊長といった役割だったブンゴが、いま、営業企画部で営業員教育を担当する営企五課のマネージャをしている。

 「ブンゴ、ちょっといいか?」

 「はい!」

 嬉しそうにブンゴがやってきた。

 「専務、早退だってな。体調か?」

 ブンゴはさっと周囲を見渡し、低い声で言った。

 「三時に会長アポがあって本社に行ったんですが、そのまま早退でした」

 「会長アポ?」

 「はい」

 龍司も五時半に会長アポがある。今から三十分後だ。何だろうと思ったが、ブンゴに訊いても、自分で想像しても全くわからない。常日頃「悩んでも意味のないことは悩むな」と周囲を叱咤している龍司は、自分でも悩むことをやめた。

 ブンゴは次の龍司の一言を待っている。「会長秘書のところに走り、専務とのアポはどのような件であったか、聞ければ聞いて来い」というのが、恐らくブンゴの予想だったが、龍司は明るくその予想を裏切った。

 「ブンゴ、いまの研修テーマは何だったっけ?」

 ブンゴの表情から緊張が消えた。

 「はい、本部長、新人研修が重要課題でして、特に派遣法の精神というか、二重派遣の禁止といったことの説明に力点を置いています」

 龍司はちょっと考えを巡らせた。

 「そうか。入社三ヶ月以内で辞める人間が多いから、新人研修を強化することは大切だな。何も教えてもらえず単に走らされているだけだと感じたら、誰だってイヤになるってもんだ。ただな、支店長クラスの研修も強化しないとダメだ」

 「はい、そのとおりだと思います。新卒で入ってくる連中は年々優秀になっていて、尊敬できない上司の下では働きたくないって言って辞めていく連中も多いですから」

 龍司は頷きながら、少し考えて、腕時計を見た。

 「ブンゴ、オレいま少し時間があるから、今から油を売る。おまえ、買ってくれ」

 「はい、喜んで」

 「二重派遣の話で、昔、会長から聞いた面白い話がある。手の空いているマネージャがいたら、他にも呼んでいいぞ。所要時間は十五分だ」

 ブンゴが走り、あっという間に、ミニ教室が出来上がった。六名ほどのマネージャが集まっている。会長が龍司に話した内容を龍司から直接聞けるというのは、営業企画部のスタッフとしては逃すことができない機会なのだろう。

 「二重派遣がどういうものかは、ここにいるメンバーには説明の必要はないよな。派遣先とスタッフの間に、派遣会社が二重にも三重にも入ってマージンを取れば、スタッフの給与はその分だけ安くなる。労働者を守るという主旨から二重派遣が禁止となっているのは承知のとおりだ。で、会長の話のポイントは二つ。一つ目は、もし二重派遣が許されていたら、という仮定に基づいた話だ」

 ブンゴを含む全員が神経を集中させている。

 「もし、二重派遣が許されていれば、企業から受注を取ることに専念する派遣会社や、スタッフの募集に特化する派遣会社が出てくるはずだ。例えば、東京二十三区にある著名企業だけを回って受注を取ることに専念する企業や、東京二十三区通勤圏内からスタッフを集めまくる会社が出てきてもおかしくない。それぞれの企業が自分の強みを追及し、個性的な企業が多く生まれ、役割分担や連携、協調も必要となり、産業構造といったものができあがった可能性がある。自動車業界は、トヨタを頂点として、部品会社の中にも国際競争力を持っている会社がずいぶんあるように、日本の人材ビジネスももっと違った方向に発展したかもしれない」

 「本部長、それならどうして?」

 「ブンゴ、オレもそう思ったよ。会長の言葉をできるだけそのまま伝えるとこうなる。人材派遣の監督官庁は厚生労働省だ。産業構造なんて概念は彼らには無縁だろうし、経済が発展することによって労働者を含めた日本全体が豊かになるからといった理屈は、彼らの守備範囲ではない。自由のメリットを享受するよりも、デメリットを放置してはいけないというのが彼らの基本的な姿勢ではないか。実際、労働者に不利益となるような目の前の現象が多すぎ、その管理監督に忙殺されているのだから、偽装請負や実質的な二重派遣をやらかして、お縄を頂戴するんじゃねぇっていうのが、会長の話の第一のポイントだ」

 一息入れて、龍司は続けた。

 「さて、二重派遣が禁止だから、派遣会社はいずれも自分で仕入れて、自分で売らねばならない。すべて自己完結だ。これを派遣先である企業の立場から見るとどうなるか。派遣社員一人が必要である場合、どの派遣会社にいい人がいるかがわからないから、いくつかに声をかける。派遣会社はすべて自分で求人を拾わねばならないから、各社がこの企業を訪問し、それぞれが受注を獲得する。受注っていうけど、単なる引き合いだな。ちょっと脱線するけど、これによって派遣先は各社の候補を見比べるわけで、法の精神である、派遣先が人を選んではいけないというルールが実質的には無意味となっている。さて、一方、スタッフの立場から見ると、どの派遣会社にいい仕事が来ているかがわからないから、いくつもの派遣会社に登録することになる。つまり派遣会社はスタッフを仕入れたつもりになったとしても、実は仕入れていない。派遣会社が、受注を獲得したり、募集を増やしたりしても、それは「ぬか喜び」であって、開始しなければ全く意味がない。同じ受注が他社にも回っているし、同じスタッフが他社にも同時に登録している。だったら、一番早いところでこの案件は開始する。だからスピードが絶対的に重要だ」

 「神速、神の速度ですよね?」

 「そうだ。そして、それだけじゃない。派遣会社一つ一つがすべて独立した市場を形成することになる。それぞれが買い手である求人企業と、売り手である求職者を集めようとする。どんなに小さな派遣会社であっても、売り手と買い手の両方が集まらねば存在しえない。それでは、売り手や買い手は、数ある市場の中から、どこを選ぶか。もちろん最大市場を選ぶ。売り手は最大市場でこそ、自分に合った買い手が発見できると思い、買い手も一番マッチした売り手に出会えると期待する。だからこそ、我々は最大を目指す必要があったわけだし、たとえ最大であったとしても、二位と僅差の違いであったら最大というメリットを生かしきれない。二○○一年にトップに立ったとき、会長が、ただのトップじゃ意味はないって言った理由がここにある」

 龍司は一息入れて腕時計を見た。

 「おっと悪いな、時間だ」

 みなが一斉に起立し、「ありがとうございます」と合唱した。

 「いいか、みんな、支店長やマネージャなど幹部を賢くしないとダメなんだ。理由や背景を説明してやって、なぜそうしているのか、なぜそれを目指しているのかを理解させない限り、結局、スピードが出ない。支店長レベルが背景を理解すれば、彼らがメンバーたちをもっと教育できるはずでもあるしな」

 龍司はエレベータに向かった。地下一階で降り、地下道を通って隣のツィンビルに向かう。大手町では大きなビルはすべて地下道でつながっており、雨に濡れる心配がない。

 ツィンビル。エレベータに乗っただけで、隣の別館ビルとは、ビルの格、家賃が違うことが一目瞭然だ。その最上階で降り、会長室に向かう。秘書が「お疲れ様です、中へどうぞ」と案内する。会長室に隣接した会長応接室だ。ソファに腰掛けると三十秒も経たずに奥のドアが開き、会長が入ってきた。会長の表情はいつもどおりだ。立って会長を迎え、「お疲れ様です」と龍司が挨拶すると、龍司を座らせて会長は口を開いた。

 「龍、潮時だ、オレは会社を売って身を引く」

 「は?」

 「ブリッジ・スタッフィングの全株式を売却し、経営からも身を引く。ただし多角化事業は誰も買わないだろうから、オレが続けることになるが」

 「え?」

 「これまで二十七年弱やってきて、危機は何回もあった。もちろん福岡事件が最大の危機だったが、資金繰りで倒産寸前まで行ったことだって二度や三度じゃない。長篠作戦のときは、詰め腹を切った上で勝負に出たからこそ勝てたようなもんで、あれで負けていたらオレは生きちゃいなかった、ハハ」

 「え、えぇ」

 「今は危機じゃない。危機を迎えてから会社を売るヤツはバカだし、買う方もアホだ。危機を迎えてからCグループを売った進藤のオッサンは足元を見られて売りたくない相手に会社が渡ってしまい、一方、会社を手にしたGグループの山口はマスコミと官庁に叩かれて青息吐息、破滅は時間の問題だ」

 「しかし彼らはコンプライアンスに問題があったわけで・・・」

 「そのとおり。ただし、この分野のコンプライアンスは今後、法解釈の問題というよりも、日本人の感情の問題となる。ブリッジの今は危機ではないが、一方で、市場には逆風が吹いている。逆風というのは、景気でもなければ少子化でもないし、外国人労働者の増加でもなければ、正社員雇用の復活でもない。こういった市場の変化だったら、むしろますますオレたちが勝ち残るはずだ。逆風というのは日本人の感情だ。結果としての経済格差が必要以上に注目され、勝者が勝った理由と、敗者が負けた理由の両方を政治の力を使って排除しようという風が吹く。オリンピックでアメリカや中国が金メダルをたくさん取ったから、ルールを変えて結果が平等になるようにすべきだといったアホな意見が、ビジネスの世界では通用するわけだ。ただな、オレたちがこんなことを言っちまったら、週刊誌でボロクソに叩かれる。「待ってました」ってなもんだ。政治家も同じだ。自民党も民主党も、国民感情には勝てないから、社民党や共産党みたいになってるわけだ」

「はぁ・・・」

 「この風はあと十年続く。オレは五十五だから、六十五まで待って人生を棒に振るのはゴメンだ。そもそも、ジジイになっても会社にしがみついているのは、みっともなくて見てられない。会社もダメになるし、権力が人間をアホにする。オレがやりたいのは事業経営であって、我慢の人生じゃねぇからな。我慢なら今まで死ぬほどしてきている」

 「それはそうですけど・・・」

 「龍、おまえ、いくつになった」

 「三十九です」

 「オレが会社を百億円にしたのは四十だ。今の首都圏営業本部の年商は一千二百億円を超えるから、おまえの守備範囲は、オレが四十のときよりはるかにデカい。ただな、おまえにも誰にも、オレは経営を教えては来なかった。吉田にも、だ。おまえらに教えてきたのは、営業の仕組み作りだ。資金繰りや危機管理、雇用調整などは忘れていいから数字を作れと言ってきた。そして、吉田とおまえはそれを見事にやり遂げてきた。営業の弱い会社が、キャッシュフロー経営だの、内部統制だのと騒いでも意味がない。弱小チームが挨拶だけを徹底しているようなもんだ。おまえらが身に着けた営業仕組み作りは、どこにいっても通用するし、もちろん、ブリッジが新たな株主、新たな経営陣のもとに組み込まれても、十二分に通用する」

 「しかし・・・」

 「まぁ、心配するな。株式を売る相手は個人やファンドじゃない。組織だ。日本で人材ビジネスを展開している企業だ。候補はラトゥール、ラフロイグ、チャールトンあたりだ」

 「えっ、チャールトン!」

 「そうだ。ブリッジを買うことで企業価値が上がるところでないと意味がない。ブリッジにしても、そこに売るならますます可能性が高まるというところじゃなけりゃ、ただの商品販売と同じだ。パープルやピンキーみたいに実質個人経営のところに売れば、ただ単にオレが作った文化や風土を否定するだけで、1+1が2にもなりゃしねぇ」

 「しかし会長、株主が会長からどこかに変わったとしても、経営まで変えることはないんじゃないですか?」

 「アホか、おまえ。そんな条件で誰が買うか」

 「それでは逆に、株主は会長のままで、経営だけを変えるということはできないのですか?」

 「もっとアホだ。ちょっと振り返ってみろや。会長兼社長だったオレが会長に専念し、外部から橋本を社長に招いたじゃないか。人材ビジネスは橋本と吉田に任せて、オレは多角化を進めると言ってるにもかかわらず、根津は橋本に反旗を翻すは、鶏内たちは様子見を決め込むわで、プラスどころかマイナスだったのがこの二年間だ。経営だけを変えるっていうなら、それは既にやっていて、失敗しました、ってことだろ」

 「そうでした。しかし・・・」

 「しかしもカカシもねぇ!」

 「・・・」

 「これはな、おまえらにもいいことになる。間違いない。ラトゥールやラフロイグは世界企業だ。日本での結果が中途半端になっているヤツらに、日本での勝ち方をおまえらが教えてやれ。その一方で、おまえらは世界基準の経営を学べばいい。チャールトンなら、なおさらだ。新卒の就職でも、中途の転職でも圧倒的なヤツらが、なぜ人材派遣だと業界五位なんだ。あのブランドで五位ってことは、実力はもっと下だろう。どこかカッコつけてるんじゃないのか。チャールトン本体は優秀だが、チャールトン・スタッフには二流しか配置していないのかもしれない。もし、チャールトンがブリッジを買うとなれば、本体から優秀なヤツらが来るはずだ。あそこの会社も若いから、龍、おまえには丁度いい。切磋琢磨しろ」

 「いやしかし・・・」

 「なんだ、まだ、しかし、か?」

 「いや、あまりに急だったもので、頭の整理も何もできない状況で・・・」

 「ま、そりゃそうかもな。ゆっくり考えろ。このことはまだ営業の連中には言わずにおけ。動揺するからな。今日、役員には全員、オレから伝えているが、まだ、それだけだ」

 龍司がまだ呆然としているうちに、会長は「じゃ」と言って、会長室に戻ってしまった。ソファに残された龍司は、会長室へのドアとは反対側、龍司が入ってきたドアが開いて初めて夢から覚めたような気がした。

 「本部長、よろしいでしょうか?」

 と秘書が訊く。「何がよろしいのか」と一瞬考えた龍司だったが、「出て行けということか」と察知して、席を立った。

 亡霊のごとき足取りで部屋を出て、エレベータに乗った。さいわい誰にも会わずに済んだ。地下一階で降りる。隣の別館ビルに続く通路にはコンビニがあり、たくさんのブリッジ社員が残業に備えて買い物をしている。何名かが龍司とすれ違うとき「お疲れ様です」と挨拶をしていくが、龍司の表情は動かない。

 別館ビルのエレベータに着いてしまった。これに乗って自席がある二十階に戻るのか。こんな表情をして、営業部隊に戻れるのか。勘が鋭い神崎に見抜かれたりしないのか。エレベータは最上階を突き抜けて、どこか異国にでも龍司を連れて行ってくれないものか。

 十六階でエレベータが止まった。ここは営業部門ではなく業務部門だ。

 

 ブリッジの組織は、四つの事業分野の縦割りだが、管理部門と業務部門は横断型の組織となっている。四つの事業分野にはそれぞれ営業統括を配置しているが、一方の管理部門、業務部門は、四事業のいずれにも共通な基盤組織といった位置づけだ。管理部門には総務や人事、広報、経理、情報システム、危機管理部などがあり、業務部門には契約管理業務、請求業務、給与支払業務を担当する部署がある。

 別館ビル十六階には業務部門のもう一つの部署、テレフォン・センターがある。略称テレセンは、テレビ・コマーシャルで有名になったフリーダイヤルにかかってくる入電を受け付ける部署だ。ここのジェネラルマネージャ、GMには、龍司と麹町支店で同僚だった畑中美和子が配置されている。

 「美和子GM、今月のクレーム数、多いですね」

 「そうでしょ。ちょっと曜日別集計表を見て欲しいんだけど、金曜日、企業からのクレーム電話が多いじゃない?」

 「あ、確かにそうですね」

 「そうでしょ?」

 「あれ、なんだか美和子GM、嬉しそうじゃありません?」

 「ふふ、だってこれ、営業が回復している証拠なのよね」

 「あ、そうか。金曜日は飛び込み営業の日、でしたものね」

 「そう。営業が萎縮しているときは、飛び込み営業に顕著に現れるのよね。クレーム数は行動量に比例するから、数の増加はむしろ歓迎。問題は質。山中マネージャ、金曜日の企業クレームの中身も見て欲しいんだけど?」

 「あ、はい」

 山中がパソコンを操作すると、クレーム内容が個別に表示された。

 「九月十八日、ガリバー旅行社、先週、来るなというのにまた来た。同じ日、丸屋書店本社、今日一日で三人も来たのはどういうことか。同じ日、ヤマダ冷蔵、おたくは出入り禁止にしてあるはずだ」

 「ほうらね」

 「ほんとですね。でも、営業って大変ですよね。出入り禁止にされても訪問しないと支店長に怒鳴られたりするわけでしょ?」

 「ま、出入り禁止は日常茶飯事。そうだ、ちょっと昔話してもいい?」

 「歓迎。美和子GMの昔話って、麹町支店時代のものですよね?」

 「あ、私も聞きたい」

 何名かが美和子の方を向いた。

 「それでは十年以上前、私が花も恥らう乙女だったころ、弾丸支店と呼ばれた麹町支店の金曜日、飛び込み営業のエピソードを二つばかり」

 「パチパチパチ」

 「一つ目は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの取締役首都圏営業本部長、龍本、尾崎龍司本部長が弾丸小僧と呼ばれていた頃のお話」

 「出た!弾丸小僧!」

 「ふふ。 今から十年以上前の話、観音電子で押さえ込みになった伝説」

 「え? 柔道?」

 「まぁ、聞きなさい。十年以上前だから、企業の入り口にセキュリティゲートがあるのは珍しい方だった。でも、そこは世界の観音電子だから、既にそれがあり、カードがなければ中には入れない。無名だったブリッジが観音電子からアポをもらえるはずもなく、飛び込み営業のとある金曜日、尾崎龍司はそこに入ろうと決めた」

 「えー、なんだかドキドキする」

 「もちろんカードはない。しかしそのゲートは、助走をつけてジャンプすれば飛び越すことができると見切った尾崎、ゲートの向こうにいかにも重役然としたオジサマを発見するや、「はじめまして人材派遣のブリッジ・スタッフィングです」と叫びながら、助走をつけ、なんとゲートを飛び越えた」

 「ええっ!」

 「まさに飛び込み営業。着地直後に名刺を出し、なんとかそのオジサマに渡そうとしたが、相手は恐怖で固まっている。そこにガードマンが叫びながら駆けつけた。「不審者進入!」と。尾崎は「私は不審な者ではありません、人材派遣ブリッジ・スタッフィング、麹町支店長の・・・」と言い切らないうちに、左から来たガードマンにタックルされ、右から来たガードマンにのしかかられ、最後は横四方固めで一本負け」

 「日本、惜しくも金メダルを逃したか、ってカンジですか?」

 「会社には警察から連絡が入ったらしい」

 「えーっ」

 「危機管理部に警察OBがいたから事なきを得たけれど、観音電子からは永久出入り禁止という厳しいご沙汰を頂戴してしまったのだった」

 「すごすぎますね」

 「それでは第二のエピソードはかわいいので行きます」

 「お願いします」

 「同じく麹町支店、私と同期入社の山田文吾、現在は営企五課で営業員教育を任されている通称ブンゴの登場です」

 「あ、アタシ、ブンコちゃんネタ、大好き」

 「ある日の金曜日、弾丸・尾崎支店長から千代田区三番町を回れと指示された突撃隊長、山田文吾。一軒も例外なく回るのだと厳命されたブンゴは、ある建物の前で足を止め、固唾を呑んだ。厳かなその建物にはなんと、ローマ法王庁大使館と書いてあるではないか。こんなところで人材派遣の需要があるのだろうかといぶかったブンゴだったが、日ごろの尾崎支店長の言葉を思い出した。派遣のオーダーがあるかどうかは訊いてみなければわからない。先週、もう来るなと言われたところから翌週オーダーが来るなんてことはザラだ。オレは出入り禁止企業から過去三回、オーダーをもらった経験がある、と。尾崎支店長を心の底から尊敬しているブンゴは、ローマ法王だって人材派遣が必要かもしれないと自分に言い聞かせ、その門をくぐった」

 「えーっ、ほんとですか」

 「門番は左右に一名ずつ。何の御用ですかと尋ねられたブンゴは、ちょっと法王に用事があってと言いながら中にズンズンと入ろうとした」

 「キャー」

 「しかしその数秒後、左右からわきの下に腕を入れられ、軽く持ち上げられてしまったブンゴは、足をバタバタさせながら、だって法王だって派遣がいるかもしれないじゃないですかと叫んだが、門番は、法王はここにはいらっしゃいませんし、派遣など無用ですと冷たく言い放ち、ブンゴを表に文字通り放り出した」

 「ブンゴちゃん、かわいそう」

 「放り出されたブンゴはあきらめて去っていくのだが、ただでは帰らないのがブンゴのいいところ。ローマ法王だって、ザビエルを派遣したのにと叫ぶと、門番が恐い顔をしたところでダッシュで逃げた」

 「きゃははは、ブンゴちゃん、面白すぎ!」

 このとき、テレセンのドアが開いた。振り向いてドアを見た者が瞬間、固まった。「龍本!」「龍本が来た!」。声無き叫びがあたりを支配し、突然の緊張が走った。

 その1分前、最上階を突き抜けろと願ったエレベータは十六階で停車し、開いたドアからのぞいた数名のブリッジ社員が、龍司に挨拶をした。瞬間、ここで降りようと考え、社員たちとすれ違った龍司は、「そうか、ここは営業じゃない」と思い出し、フロアの奥にある喫煙室で一人になろうと思って、テレセンのドアを開けた。

 思いがけず美和子の顔を発見した龍司。

 十年以上前、麹町支店の同士として戦った仲間。弾丸支店、最強支店、伝説支店と言われた麹町支店の同僚。

 当時の主要メンバー五名は今でもブリッジの各所で活躍している。支店長だった龍司は首都圏本部長として、麹町時代から龍司の参謀を務めていた神崎は本部長補佐として、寡黙で屈強な兵士だった土佐は九州営業副本部長として、陽気な突撃隊長ブンゴは営企のマネージャとして、そしてサポート営業職が数字を作る法則の実証例となった美和子はいま、

テレセンのGMとして、いずれも現在のブリッジの要職に就いていると言えるだろう。

 年に一回程度、麹町支店のOB会が開かれるが、そこでこそ毎回顔をあわせている龍司と美和子だが、美和子が本部長に報告に行くならまだしも、本部長がテレセンに来ることは誰もが予想しない行動だった。

 龍司の動きが数秒間、止まった。

 「畑中」

 いつもの本部長の声ではない。つぶやくような声だった。

 「はい」

 背筋を伸ばした美和子は龍司の表情を読み取ろうとしている。しかし読み取れない。

 龍司がフロアの奥の方に視線を動かした。その先に喫煙室がある。龍司がゆっくり奥に向かって歩き出した。しばらく着席しながら「気をつけ」をしていた美和子は、思い出したように急に立ち上がり、急ぎ足で龍司を追いかけた。

 龍司が突然やってきたことで、喫煙室にいた数名の女子社員があわてて出ていき、美和子とすれ違った。龍司はタバコを取り出すことすら忘れているかのようだった。

 「畑中、上がれるか?」

 「え?今ですか? まだ六時すぎですけど?」

と言ってしまって美和子は後悔し、即座に、

 「はい、上がれます。どこに行きましょうか?」

と言い直した。

 「紀伊国屋書店の横のタクシー乗り場から、乗ろう」

 「は、はい。五分ください」

 あわてて自席に戻った美和子は、マネージャたちの視線による質問攻めにあったが、

 「あとはよろしく」

と言い残して、十六階を後にした。

 

 「えっ」

 美和子は危うくカクテルグラスを倒しそうになった。

 龍司は、決して美和子を驚かすつもりからではなく、むしろ自分さえ信じられないといった表情で繰り返した。

 「会長が会社を売る」

 開いた口が塞がらない美和子は、バーカウンターに並んで座っている龍司の横顔を注視したが、正面を向いた龍司はカウンターの向こうの壁を見つめたままだ。

 「どこかの会社を買うっていう話じゃない。会長がブリッジを売る、会長がゼロから立ち上げて、業界トップになったブリッジ・スタッフィングを売る」

 ここ何年か、多角化を目的に、人材ビジネスとは無縁の企業をいくつか買ってきた会長だったが、まさか会社を売るとは。

 「だって、会長と会社は一心同体というか・・・」

 美和子のこの感想はおそらく社員全員を代表している。

 「会長は何て?」

 「第一に、潮時だ、と言った」

 「潮時?」

 潮時?美和子には意味がわからない。いつか必ず終わりが来るものに対して、今がそのタイミングだと言うのだろうか。会社は永遠ではないのか。

 「龍、潮時だ、オレは辞めると会長が言った」

 サラリーマンが会社を辞めるのとは違う。雇われ社長が引責辞任をするとか、引退するという話でもない。自分が作り、自分が所有している会社を放り出すというのか。そんな話は聞いたこともない。

 「第二に、誰かに売るのではない、別の人材会社に売る、と」

 美和子は必死に考えをめぐらせた。競合他社にブリッジを売るということだ。つまり、業界二位以下のどこかが、業界トップのブリッジを買う。そんな話も聞いたことがない。業界トップが下位のどこかを買って、トップの地位を磐石にするというのならわかるが、全くその逆だ。三位だろうが、五位だろうが、ブリッジを買った企業は、買ったその日に大逆転でトップに躍り出る。

 業界三位の銀行と四位の銀行が合併するという話なら聞いたことがある。しかし、この話は全くそれとも違う。合併ではない、売却なのだ。買う方から見れば、買収なのだ。業界五位がトップのブリッジを買ったらどうなるのか。名前は?誰がトップになり、組織はどうなり、幹部はどうなるのか?今のブリッジは解体されるのか?

 美和子の心中の疑問に答えることなく、龍司は続けた。

 「第三に、そのほうが、龍、オマエらにとってもいいはずだと会長は言った」

 美和子は何と応えてよいかわからない。

 「なぁ、潮時ってどういうことだ?」

 自分だって疑問だ。

 「会長はずっと、タイミングを見てきたということなのか?いつかは会社を売ることになると、前から考えていたということなのか?」

 「だって、会長は六十歳、一兆円企業にしてから引退するって言っていたのに・・・」

 

 高橋次郎会長は大学を卒業して就職した会社を数年で辞め、二十歳代後半で起業した。一九八○年代前半、人材派遣が社会に浸透しつつあった頃だ。その頃から「三十歳で十億円企業にし、四十歳で百億円、五十歳で一千億円、六十歳で一兆円企業に育て同時に引退する」と公言してきた会長は、十億円、百億円、一千億円をスケジュールどおりに達成し、三千億円を超えたところで停滞したが、「計画は三年延長」という公式発言とともに、六十三歳・一兆円を目指し、残り七年あまりというところだった。

 創業から十年間は、市場の拡大とともに順調に成長を続けたが、バブル崩壊によって倒産の危機に会う。その後、会長が自ら考案した営業の方法論によって急成長を始め、二十一世紀の初年に遂に業界トップに踊り出、同時に年商一千億円を達成した。

 国内の人材派遣市場は一九六○年代に実質的にスタートした。既に欧米で一般的となっていた契約スキームであり、派遣元が人材を募集し、派遣先からのオーダーに従って一定期間、人材を派遣する。いくつかの外資が日本でも事業を始め、設備や資本がいらないことから、一九七○年代に日系企業が多数生まれた。ブリッジ・スタフィングは八○年代の創業なので、やや遅れたスタートではあった。

 人材派遣市場の最大マーケットは、事務職を企業のオフィスに派遣する事務派遣と呼ばれる分野である。ブリッジは倒産危機を乗り越えた一九九○年代後半、この分野で印象的なテレビ・コマーシャルで話題を集め、急成長を加速させた。

 九一年に入社した龍司と、九四年に入社した美和子。

 バブル崩壊で生き残りをかけ、無我夢中でもがいていた頃の小船ブリッジ丸に飛び乗った龍司と、試行錯誤の結果「これでやる」と高橋会長が決めた直後に乗船した美和子。そのやり方を吉田専務の指導の下で誰よりも素早く着手し、誰よりも強烈にやり遂げ、誰の予想をも上回る成果を上げてきたのが龍司だった。そんな龍司のもとで最初の三年間、鍛えに鍛え抜かれた美和子は、営業、コーディネート、テレセンと、次々に重要性を増す部署を移ってきた。二人が見てきたものは、急成長に継ぐ急成長であり、日本版サクセスストーリーだったはずだ。

 美和子は自問した。いったい何をどう考えればよいのだろう。何が原因なのだろう。これからどうなるのだろう。今日、龍司は何をどこまで知ったのだろうか。会長は何を考えているのか、龍司の絶望はどれほどのものなのか、美和子自身も絶望すべきなのか、あるいは龍司に同情すべきなのか。

 頭の中が真っ白になる、空白になるということを初めて経験した美和子ではあったが、隣に座る龍司は、今日の夕方からずっと思考停止なのかもしれない。

美和子はただ次の龍司の言葉を待つことにした。

 ウィスキーグラスの中の氷塊が、カチリという音をたてて姿勢を直す。

 「吉田専務が三時の会長アポの後で早退したと聞いていたので、ちょっとイヤな予感はしていたんだが、入ってきた会長は、いつもの会長だった。決して別人じゃない。龍、潮時だ、オレは身を引くと言った会長は冷静だった。たぶん冷静だった。それを聞いた瞬間、オレの方が真っ白になっちまったのでよくわからないけど、あれは会長が十分に考え抜いた後のことだっていうことだけはわかった」

 龍司はウィスキーを飲み干した。

 「会長が保有株式を全部売って、経営からも退く。六十歳になったら誰かに経営を任せて自分は引退し、株主として会社を見守るって常々言ってきたけど、そうじゃない。所有と経営を分離するっていう話じゃない。所有も経営もやめちまうっていう話だ」

 「そんなことって・・・」

 龍司は美和子の方を向いた。美和子は、そうしなければカクテルグラスが倒れてしまうかのように祈る両手で柄の部分を握り締めている。

 「あぁ、夢にも考えたことはない。想定外とかいう生易しいものじゃないな。なんかこう、地面が一瞬にして消えてなくなったみたいだ。会長室を出た後のことがよく思い出せないし」

 「幽霊みたいな顔してテレセンに入ってきた」

 「自分の席には戻れないと思っていたが、たまたまエレベータが止まった十六階でフラフラと歩き出したんだと思う」

 「じゃ、神崎さんにもまだ言ってない?」

 「あぁ、誰にも言うなって言われたし。あ、そうか。おまえ、言うなよ」

 「はい、そうだろうと思いました。でも神崎さんたち営業の幹部たちにもいつかは知らせないといけないでしょ?」

 「もちろんそうだけど、今の時点では会長が身を引くことしか決まっていなくて、どこに会社を売るかが決まらないと、何もできない。だから営業組織に知らせるのはもっと後だ。ただ、神崎だけには伝えておこうと思う」

 

 営業は飲むなら居酒屋、という暗黙のルールを作ったのは龍司だった。

 龍司自身、出世とともに居酒屋のグレードは上がっていったが、居酒屋、すなわち和風であり、座敷があり、喫煙可能、説教可能という条件をゆるめたことはない。そんな龍司だったが、「ここには誰も来ないから」と言って帝国ホテルのバーカウンターを選んだ。

 美和子は十年以上前の麹町支店時代、毎日のように龍司と飲んでいた。いや、正確には支店長だった龍司が毎晩のように「反省会だ」といって支店メンバーを連れ歩いており、そこに美和子もいたに過ぎない。男女交際には極端なまでに厳しいブリッジ・スタッフィングでは、結婚している上司が部下の独身女子と二人で飲むなどということはあってはならないことだった。

麹町支店の黄金時代は三年間続き、その後、主要メンバーは全員が人事異動や組織改正で散り散りになった。しかしその後も、OB会と称して年に一回程度は集まった。十年の月日に、支店のメンバーたちは結婚し、龍司は離婚した。そのメンバーで唯一の女子であった美和子だけが独身であり続けたが、OB会の雰囲気は変わらなかった。

 帝国ホテルのバーカウンター。これは龍司と美和子の初デートと言ってもよかった。ただし、デートという雰囲気でないことを、周囲以上に本人たちが感じていただろうが。

 会長が株式を売却する。

 それはとりもなおさず、会社を売ることであったし、龍司や美和子たちを誰かに売り渡すことでもあった。

 会長に所有されている、こんな風に意識したことはなかったが、家長が家族を捨てて遠くへ行ってしまうような印象は否めなかった。