小説「被買収」 (佐藤治夫) 本文へジャンプ
第五章


 

 美和子は心の中で「来た!」と叫んだ。いや、どうやら声になってしまったようだ。

「美和子GM、どうしました?」

「あ、ごめん、なんでもない」

 電子メールが臨時の幹部会議開催を知らせてきた。

 

 毎月の第五営業日、ブリッジ・スタッフィングの幹部会議が開催される。取締役、本部長、各部のGMなど総勢百余名が月に一回集まる会議である。ただし会議とはいうものの、高橋会長の独演会といった方がわかりがよい。一ヶ月の営業成績を題材にして、市場の動向や会社の課題などを会長が一方的に話し、百名は聞くばかりである。会長は終始楽しそうに話すものの、途中で誰かに発言を求めることがあり、その発言内容が「わかっていない」ことを示すものである場合、会長は瞬時に沸騰し、高速回転の大演説が始まる。中途採用で新たに入社した幹部社員などが、何も知らずに会長の過去の戦略を否定するような発言をしたら最後、時間切れとなるまで会長の興奮は収まらない。しかし同時に、時間となればピタッと終わるのである。美和子は、会長は本当はキレたりしているわけではないのだと感じている。

 

 この定例会議が、臨時で開催されるという。

 

 美和子にはその理由がわかる。同時に、百名のうち何名が開催理由を知っているのだろうかと考えてみた。

 

 その週の金曜日の午後一時、大きな会議室に幹部たちが集まってきた。

 美和子のような下っ端は、会議開催時刻の十五分前には着席しているのが普通だ。いや、会長以外の者であれば社長だろうと専務だろうと、十分前には全員が着席しているのがブリッジの不文律であり、全員の着席が確認されるとその数分後に会長が入場され、定刻前であっても独演会はスタートする。

 

 自席にいても落ち着かなかった美和子はいつもより早めに席を立ち、二十分前には会議室に到着、着席したが、やはりみんなもいつもより早いようだ。

 

座席は役職順に固定である。主催者である会長一人が上座のマイクの前に座る。その両サイドを役職の順に幹部が占める。会長の右手には橋本社長が座る。会長の左手には、ブリッジ創業以来の古参幹部、西田副社長が席を占める。会長と同郷の京都出身であり、幼馴染のような存在だと聞いたことがある。昔は営業の最前線で活躍していたということだが、いまや営業は若い吉田専務が筆頭であり、西田副社長の出番は顧客企業への挨拶や、何かあったときの謝罪訪問ぐらいしかないらしい。

会長から見て右手、左手と交互に幹部が並んで座るが、橋本社長、西田副社長に続くのはいずれも古参の幹部で、財務担当だったり、多角化担当だったり、あるいは西田副社長と同じく顧客企業へのパイプ役が並ぶ。

 

 そうして数えていった八人目が営業の筆頭、吉田専務である。専務はいつも分厚いファイルだけを持参してこの会議に臨んでいるが、それは営業成績を収めたものであり、会長から質問されたときに即座に数字で答えることができるための必須アイテムなのだろう。ところが今日はそのファイルを持っておらず、手帳とペンだけを机に載せている。

 美和子の席からは吉田専務に加えて、近藤圭一取締役と龍司の顔が見える。また、根津取締役は背を見せている。いつもは分厚いファイルの吉田専務が今日は手帳だけということと対照的に、いつもは手帳だけの根津常務が今日は大きなカバンを持ち、中に何か重要な書類がたくさん入っているような素振りすら見える。

 

 会長の席から見て右手左手、右手左手と役職順に並んだ列が、かなり遠いところまでいったところで、美和子たちが座る二列目につながる。美和子は左手二列目の中ほどだ。

 気がつくと美和子の隣の川中GMが美和子の方をチラチラと見ていた。スタッフの教育サービスを担当している川中は数少ない女性GMの一人であり、美和子より二年ほど後に入社したベテランだ。

「美和子GM、今日っていったい何の会議なんでしょうか、ね?」

 美和子は「あ、この人は知らないんだ」と思ったが、

 「なんだろうね」

とだけ返した。

 

 会長が入ってきた。美和子の後ろを通っている。気配でわかった。列の最後まで行って、曲がって着席する。

 「えっ!」

 思わず声になりそうな驚きを飲み込んだ。「会長じゃない」「橋本社長だ」。

 橋本社長が会長の席に座った。美和子はその理由を求めて、吉田専務、近藤取締役、そして龍司の表情を読み取ろうとしたが、三人が揃ってやや下を向いているばかりだ。驚いた様子はない。

 となりの川中は声を抑えることができなかった。

 「あれっ!」

 

 橋本社長が話し始めた。

「今日は臨時で集まってもらいました。重要な報告があります」

 美和子の頭はまだ混乱している。

「本日午前、高橋会長が持つ当社の全株式をチャールトン・グループに譲渡することが合意され、当社ブリッジ・スタッフィングはチャールトンの一員として事業を継続することになりました」

 美和子はもう一度、専務、ケートリ、龍司の表情を確認しようとした。

 専務はやや上方、空中を見つめている。ケートリは橋本社長を注視している。龍司は下を向いたままだ。

 となりの川中が「ヒェッ」といったような声を発した。

「高橋会長は全株式を譲渡し、経営からも退かれます。しかし同時に、それ以外はすべて何も変わることがありません。株主がチャールトンとなり、会長が退任されるという二点を除いては何も変わることはありません」

 

 美和子は「何を言っているんだろう」と感じないではいられなかった。会長がいなくなる、チャールトンの一員となる。これ以上の大きな変化はありえない。川中は「あぁ」と声にならない声を漏らした。

 

「週明け月曜日の朝刊に出ます。したがって、本日中に全社員に伝達、徹底するようにお願いします」

 美和子は「なぜ、会長が出てこないのか」「なぜ、会長の言葉で伝えてくれないのか」「会長はどこにいるのか」「何をしているのか」と思い、「どこかから見ているのではないのか」といぶかって周囲を見渡した。美和子の目に涙が溜まってきた。

 

 隣の川中の手元に開いているノートにポタッと滴が落ちた。川中は泣いている。美和子も目に涙を溜めている。「龍司は?」と龍司を探した。

下を向いていた龍司がゆっくりと顔を上げた。そのとき龍司の目が光った。

 橋本社長の話が終わった。ざわついた会議室では「知っていましたか?」という質問と、「驚きましたな」といった感嘆の声が飛び交っている。「ブリッジとチャールトンは真逆じゃないですか」という声もある。

 報告者の橋本社長はもういない。吉田専務も退席している。龍司もいない。圭一取締役が隣の役員と何か話している。

 

「美和子GM、どういうことですか?」

 川中にはまだ事態が飲み込めないのだろうか。いや、事前に知っていた美和子にとってさえ、改めて公式に聞くこの決定のショックは大きい。そして、美和子にとって、会長から説明が聞けなかったということがどうしても納得できない。

 「会長は・・・」

 美和子は意味を持った言葉を発することができなかった。

 

 美和子は午後五時半にテレセン全員を集めた。

 電話が入ってくるので、厳密に全員というわけにはいかないので、契約社員のメンバーに残業をしてもらって電話番をしてもらい、マネージャなど正社員を全員、小さな会議室に集合させた。一人のマネージャをのぞいて全員が女性である。

 「会社からの重要な決定を伝えます」

 こんどは美和子が橋本社長の役割を担わねばならない。みんなだって会長から直接聞きたいはずだ。せめて、会長の言葉を聞いた自分から、間接的ではあっても会長が何と言ったかを聞きたいはずだった。

 

 会長が全株式を譲渡し、経営から退く。つまり会長が会長でなくなる。そしてブリッジがチャールトンの一員となる。当社の社員であれば、昨日入社したばかりの新人でさえ驚きを隠すことはできない。テレセンのみんなは「信じられません」と言い、「どうしてですか」「会長は何とおしゃいましたか」と質問を美和子に投げかける。

 

 美和子は自問した。「どうしてですか」。龍司や圭一取締役から聞いた「潮時」「限界」という言葉が脳裏に浮かんだが、今日の橋本社長の説明にはそういった話は全くなかった。ただ単に「何も変わらない」「動揺するな」「いつもと同じように業務を進めるように」といった表現があっただけだ。

 

「美和子GM、問い合わせの電話には何と答えますか?」

と聞かれて、美和子はハッとした。新聞に出れば、スタッフからも企業からも電話が殺到するだろう。問い合わせ件数をカウントせねばならない、スタッフ向け、企業向けの説明原稿を用意せねばならない、想定質問を考え、それに対する回答も用意しておかねばならない。美和子は突然、テレセンGMに引き戻された。

「ちょっと待ってください。説明原稿や想定問答集を用意しますから」

 美和子は走っていた。「龍司のところへ行こう」。営業は企業にも、スタッフにも説明せねばならない立場だ。何といって説明するのだろう。

 

 本部長席まで走った美和子を待っていたのは「本部長は外出です」というスタッフの言葉だった。「だって、説明原稿とか」と叫ぶように言った美和子に「それなら犬飼マネージャが作っています」と冷淡な回答が答えた。

 我に返った美和子だったが、新たな疑問が湧き出していた。「龍司は何と説明したのだろうか」「営業幹部たちに何と言ったのだろうか」と。

 

 トボトボと犬飼マネージャのもとへ廊下を向かう美和子に、向こうから声をかけたのは圭一取締役だった。

「電話対応の準備ですよね?」

「はい」

「広報部に行くといい。新聞に出るといっても、日経新聞への単独リークか、あるいは数紙の一般紙だけへのリリースのはずだから、他紙からの問い合わせに答える準備をしているはずだよ。営業は犬飼が準備しているけど、対外的な表現はすべて広報部が取り仕切っているから、広報部で確認するのが一番いい」

「あ、ありがとうございます」

「いやいや、お安い御用」

「あの、ところで・・・」

「はい?」

美和子はためらったが聞いてみた。

「どうして会長は出ていらっしゃらなかったのでしょうか?」

「ふむ」

圭一取締役はちょっと考える間をおいて言った。

「もう、会長はどこにも出てこないかもしれないね」

「えっ、だって」

「会長には最後のメッセージとか似合わないでしょ」

「いや・・・」

 美和子は否定したかった。しかし何を否定したかったのだろうか。会長に最後のメッセージが似合わない、そんなことではない。美和子が否定したかったことはそんなことではない。

「美和子GM、いま一番大切なことは社員やスタッフ、お客様企業を動揺させないことだよね」

そんなことはわかっている。

「橋本社長は何も変わらないと言った。この先ずっと何も変わらないなんてありえないけど、この瞬間は何も変わらないと言い続けることが重要だと思う」

そんなことは百も承知だ。

「会長は・・・」

「会長のことは結構です! 失礼します。ありがとうございました」

 美和子は走っていた。

 

 帝国ホテルのバーカウンターで初めてこのことを龍司から聞いたときから、美和子は会長から直接、説明を聞きたかった。龍司の嘆きには同調できたし、圭一取締役の説明にも理解できた美和子だったが、それでも会長から直接どんな言葉でもいいから聞きたかった。いや、無言で座っていてくれるだけでも良かった。

 もし会長が「いやぁ、オレはもういない方がいいんだ」と笑って話せば、美和子は泣き笑いすることができた。「潮時だ」「限界だ」と言ってくれれば、たとえ疑問が残ったとしても、その疑問に自答し続けることができた。みんなで「何が限界だったのだろう」と話し合うことだってできた。一言も発せず、顔だけ見せてくれたとしても、「会長は何も言わなかった」とみんなに話し、一生の思い出にすることだってできたはずだ。

 

 美和子は会長に直接、怒鳴られたこともなければ、ほめられたこともない。麹町支店の副支店長だったときも、コーディのGM補佐だったときも、テレセンのGMである今も、会長と直接に会話をすることはなかった。毎月の幹部会議で話を聞く百名の一人として同じ部屋に一時間いただけだ。それでも会長は美和子にとって絶対的な存在だった。会長がノーと言うことをやることは絶対にできなかったし、会長がやれということを拒否することもできなかった。実際には美和子の提案が会長まで上がっていくようなことはなかったが、それでも常に会長の存在を意識し続けた十三年間だった。

 龍司やケートリがうらやましい。直接、会長からこのことが聞けたのだから。美和子は気持ちの清算ができないまま、電話対応の準備をせねばならなかった。

 

 週明けの月曜日、一面トップで新聞に載った。ブリッジが一面のトップを飾ることは初めてだった。しかし、その見出しは「チャールトンがブリッジを買収」というものであり、ブリッジはもはや主語ではなかった。