小説「被買収」 (佐藤治夫) 本文へジャンプ
第三章


 

 十日ほどが経った昼過ぎ、美和子の席に龍司から電話があった。

 「今晩、久しぶりに麹町支店のOB会をやるけど、畑中、おまえ来れるか? 神崎とブンゴも来る。土佐は福岡だから来れないが」

という誘いであり、「一年ぶりかな」と思いながら、美和子は快諾した。

 ブリッジでは「今日の今日」という誘いがよくあった。例えば吉田専務から「今日、空いているか」と聞かれたら、会長との何かが入っていない限り、それは自動的に「空いています」という返事を期待されていた。いや、半ば強制されていた。

 最近入社した新卒組や外様組ならいざしらず、ブリッジと一緒に成長してきた連中、特に営業部門においては、二十四時間すべて仕事が優先だった。さらに仕事の中でも優先順位が決まっており、会長案件が何かあればそれが最優先であり、そうでなければ吉田専務からの命題が優先だった。もし、部署やチームで何かを予定していたとしても、後から優先順位の高いものが発生すれば、業務であれ、夜の会合であれ、予定を変更しなければならない。

 この意味では取締役・首都圏営業本部長である尾崎龍司からの「空いているか」は、営業部門においては会長、専務に続く第三優先案件であり、翻訳すれば「会長あるいは専務からは何も入っていないよな、だったら空いているな」という意味になる。優先順位の高い尾崎本部長主催のコンパであれば、それが麹町支店開設時メンバーのOB会といった仲間内の飲み会だったとしても、都合をやりくりして出席せねばならない。 

場所は、赤坂見附のホテル最上階にある和風ダイニングバーの半個室が選ばれ、主催者である龍司の音頭による乾杯からスタートした。

 「お疲れ様です」

これには即座に出席者が「お疲れ様です」と応えねばならない。今回、神埼と美和子の二人が「お疲れ様です」を返した。それを受けて龍司が続ける。

 「ブンゴが遅れて参加となりますが、始めます。今日のコンパは、当社にとって、ま、前代未聞というか空前絶後のあの件でありまして、デューデリに出席している自分が、みなさんから意見あるいは情報を入手しようという目的であります。もちろん逆にみんなもオレから現在の状況などを聞くことができるわけですが、その情報はいうまでもなく極秘ということになります。オレは敢て麹町のメンバーを呼んだけど、ブリッジの勢いの源泉というか震源地というべきか、麹町のみんなであらためてブリッジの強さを確認したいと思ったし、失ってはならないものも確認したかった。はは、ちょっと長くなるといけないから、とりあえず乾杯しようか、乾杯!」

 首都圏営業本部長の龍司と、本部長補佐の神埼。十三年前の麹町支店においても、支店長と実質的な参謀あるいはブレーンとして絶妙な組み合わせであった二人。麹町支店から神埼が青山支店長として独り立ちし、その後はそれぞれの道を歩んだが、龍司が首都圏本部長に抜擢されたとき、仙台支店長だった神崎を専務に頼んで本部長補佐という新設の役職につけてもらった。弾丸小僧と言われた龍司と比較すると、冷静で口数が少なく、しかし口を開けると誰もが反論できないような意見をいうのが神埼だ。龍司はみんなから意見を聞いた最後に神崎の意見を求めたり、あるいは、いったんメンバーを解散してから神崎と二人だけで話し合ったりすることが多かった。

 麹町支店、三番目の男は土佐だった。背が高く不言実行タイプ。黙々と走る陸上競技に向いている男で、専門は中距離だという。土佐には調子が悪いとか、疲れがたまっているなどといったことがない。いや、少なくとも誰もそんな土佐を見たことがない。龍司のような瞬発力はないとしても、龍司さえ経験するスランプとは無縁に思える男だ。土佐は、福岡事件の後、九州営業本部の建て直しのために、本部長にベテラン役員を配置したとき、同時に副本部長として実質的に若者たちをリードする役割を担ってもらうため、三年近く前から福岡勤務となっていて、今日のこの場には出席できない。

 麹町支店開設時メンバーのその次は、美和子と、美和子の一週間後に入社した山田文吾、ブンゴが来る。

 ブンゴは明るいキャラで周りを笑わせるだけではなく、尾崎支店長の無理な目標に常に先頭を切って果敢に挑戦してきた。龍司が新宿支店長から福岡支店長に異動となったとき、伝説の新宿支店四分割を実現し、西新宿第三支店長に抜擢された。ただししばらくすると福岡に行った龍司が、「福岡を最強支店にしたい」と当時の吉田部長に申し入れ、ブンゴを福岡に呼び込んだ。龍司とブンゴの組み合わせは福岡で信じられないような数字をはじき出し、新たな伝説を作ったと言われた。ブンゴはいま営業企画部にあり、吉田専務の統括のもとで働いている。営業企画部は首都圏や大阪などの営業本部から独立した営業部門全体の参謀本部であり、ブンゴはここで営業員のレベル向上のための教育部隊を任されている。吉田専務の配下であるため、首都圏営業本部長である龍司主催のコンパであっても、残業を切り上げることができない。

その意味では今の美和子も龍司の配下ではない。業務部門の統括は、一年前からケートリ、近藤圭一取締役が兼務している。だからこそ龍司は電話で一応「来れるか」と聞いたわけで、もし配下だったら「行くぞ」だったはずだ。ただし、外様組のケートリは「今日、空いているか」といったブリッジ流とは無縁であり、もし何かあれば数日前から都合を確認してくるはずで、それがない今日は何もないことを意味する。だからこそ美和子は龍司の電話に対して「行きます」と即答することができた。

 

 「さて、デューデリの話だが、デューデリってそもそもなんだ、っていうことを最初に確認したほうがいいと思う。これはオレから話すよりも神崎に説明してもらったほうがいいよな」

と龍司が切り出したので、神崎はグラスを置いて話し始めた。

 「特に企業買収、M&Aの際に使われる言葉で、買収対象企業の株価、つまり企業の値段を調べる目的で行われる調査などを意味するはずです。デューデリと呼びますが、正式には英語のデュー・ディリジェンスの略ですね」

 「なるほど。やっぱり神崎の説明が一番わかりやすいな。で、神崎、登場人物についても説明してくれないか?」

 「はい。売り手と買い手、それに仲介役の証券会社の三者が登場する。当社のケースでは、ブリッジ株式は会長がほとんどを握っており、上場していないし、会長が株式を売るなんて誰も考えませんから、売り手である会長が引き金を引くことで始まったはずです。会長が仲介役の証券会社を呼んだところがスタートだったでしょう。会長と証券会社の間で、売却先の候補とおおよその売値の話などをして、候補先に声をかけたのではないかと想像します。つまり、この売買は限られた登場人物の間だけで行われるものであり、全く無関係の第三者がブリッジを買いたいと思っても、会長が候補先に入れない限り、彼らに買収のチャンスはない。表現を替えれば、会長が売りたくない相手には買うチャンスはないということですね」

 「神崎、サンキュ。さて、ここからは具体名を出しつつ、オレから説明しよう」

 美和子はちょっと驚いた。既に具体名、つまり具体的な候補先が決まっているのだ。

 「候補先は外資のラトゥールとラフロイグ、そして日本代表ってカンジのチャールトンで、合計三社になる」

 「えっ」

という声が美和子だけでなく、神崎からも発せられた。神崎も候補先までは聞いていなかったのだ。

 「チャールトンですか・・・」

美和子は思わずつぶやいた。

 「そうだ、畑中。これにはオレも驚いた。人材派遣に限って言えば、ブリッジに続くのはピンキーとパープル、そしてフランス代表ラトゥールの三社が二位グループを形成し、チャールトンは五位、イギリス代表ラフロイグが六位だ。外資二社はこれまでも中小の買収をしてきたわけで、彼らがブリッジを欲しいだろうというのはよくわかる。しかし、チャールトンだ。チャールトンといえばサービス業全体ではオレたちよりはるかに格が上だが、チャールトン・スタッフに限って言えば人材派遣業界五位だし、まさか彼らがブリッジを欲しいとは予想しなかった」

 龍司の話を静かに聞いていた神埼がゆっくりと口を開いた。龍司も神埼が話し出すときのサインを長いつきあいで知っているかのように、聞き役に回った。

 「本部長、たしかにチャールトンは意外でしたが、考えてみると、ブリッジを最も欲しいと思っているのがチャールトン本部かもしれません」

 「続けてくれ」

 「第一に、たしかチャールトンは一兆円計画を発表したかと思いますが、いまだ成長意欲が盛んで、なおかつ高収益ゆえに資金がある。効果の大きい買収案件であれば、積極的になってもおかしくない」

 「なるほど」

 「第二に、チャールトンと言えば新卒の就職情報の代名詞のような位置づけであり、さらに転職市場でも圧倒的な存在となっている。つまり、人材ビジネスという枠で市場をとらえると、就職と転職をおさえているが、一方で派遣は五位に甘んじている」

 「そうか」

美和子にもチャールトンの登場理由が見えてきた。

 外資のラトゥール、ラフロイグはいずれも世界レベルで人材ビジネスを展開している大資本であり、日本法人をそれぞれ持っている。日本国内の人材派遣市場に限って言えば、日系三社と外資一社が上位四社を占めており、そのトップが龍司と美和子のブリッジ・スタッフィング、あとの日系二社はピンキーとパープルだ。チャールトンは上位四社に続く五位だが、人材紹介や住宅情報など他の事業をあわせたチャールトン・グループとして考えると、ブリッジを含む日系三社のはるか上を行く。

 チャールトンは四十年前に創業者が学生時代に創業したユニークな会社だ。学生向けに就職情報を提供するサービス業として生まれ、その後、常に時代を引っ張るような新事業を次々と生み出してきた。二十年前に政治家を巻き込んだ未公開株の取引問題、チャールトン事件で創業者が逮捕され引退に追い込まれたが、会社は力強く再起し、今ではわが国サービス業の代表的な存在として、就職する学生らに絶大な人気を誇る。

 チャールトン・グループの人材ビジネスは、紹介事業も著名である。転職を仲介する紹介事業は、企業へのパイプと雑誌やインターネットを使った転職希望者の集客力の両方が重要だが、両面で圧倒的な強さを誇りシェアはトップである。

 このチャールトン・グループが多角化あるいは総合化の一環として人材派遣事業を始めたのは、ブリッジ・スタッフィングが生まれた二十数年前とほぼ同時期だった。ブリッジ同様にチャールトン・スタッフサービスも急成長を遂げたが、現在の順位は業界五位。多くの新規事業でトップをとっているチャールトン・グループとしては、人材派遣に関してだけは「負け組」と言ったら言い過ぎだが「問題児」といったところで、グループのお荷物と揶揄されることすらあるようだ。

 そんなチャールトンにとって、ブリッジが売りに出たということは空前の機会だったのかもしれない。

 神埼が再びサインを出した。

 「しかし本部長、チャールトンは買う気満々だとしても、会長がチャールトンに売りたいと思ったということが、ちょっと考えにくい」

 「そうだろ。オレも最初そう思った。しかし、思い出したんだ」

 龍司は箸を置いて話す姿勢をとった。

 「オレがブリッジに入社したのは十五年いや十六年前、バブル崩壊でそれまで順調だったブリッジが倒産寸前まで行ったときだった。ま、倒産寸前は他にも何回かあったと思う。当時のブリッジは死に物狂いで、それまでの営業スタイルを捨てて、生き残れる方法は何かともがいていた。当時はピンキー、パープルははるか雲の上、チャールトン・スタッフだってオレたちよりずっと大きかった。おそらく当時の大手にとってのバブル崩壊は苦境といったレベルだったと思うが、当時のブリッジにとっては小船に乗って台風に出くわしたようなものだったろう。試行錯誤でなりふりかまわず、まさに死に物狂いだったはずだ。ウチの株式を会長が全部もっているわけではないのは、このとき幹部たちに会長が「預金をおろして出資しろ」と迫ったからだという話だ。そんな状況だったから辞めていく人が多く、会社の状況を知っている上の方から辞めていったという」

 龍司は一息入れて、グラスを飲み干した。

 「オレが入ったときは、吉田専務は課長だった。上が辞めていくと同時に専務は仕事を任され、頭角を表し、次第に営業と言えば吉田、というところにまでなっていた。専務が当時の大阪本社から東京事業部に転勤し、東京の営業代表、ま、東京支店長みたいなものだな、そのときにオレがペーペーで入社したわけで、その翌年、一年半後ぐらいだったんじゃないか、神埼と土佐が入ってきた」

 「そう、私が入ったときはまだ東京事業部という名前で、入った直後に東京支店と新宿支店という組織に変わりました」

 「そして、そのころ、当社の「新営業システム」が見えてきたはずだ」

 「そうでした」

 「そうだったんですか」

 「畑中にはこんな話、したことなかったよな」

 「えぇ、はじめて聞きました。だって、最初から新営業システムありきでしたから、それができる以前のこととかは聞いたことがなかった」

 「神崎と土佐が入った翌年、やっぱり一年半後ぐらいじゃないか、畑中とブンゴが入社してくるわけだが、そのときは新営業システムという名前で、営業のやり方がバブル崩壊前とは全く違っていたらしい。「らしい」というのは、オレもバブル崩壊前は知らない。オレが知っているのは新営業システムに行き着くまでのドタバタから、だからな」

 「そのときは吉田専務から直接、細かな指示とかも出ていたんですね?」

 「あぁ、そのとおりだ。行動量を最大にすることで受注の確率が最大になる。受注が入れば、行動スピードを最大にすることで開始の確率が最大になる。専務から、龍、おまえは行動量最大の極限をやってみろと言われた」

 美和子は食べること、飲むことを忘れて聞き入っていた。

 「オレは一日六十五社ぐらいを回ったが、これは企業が当社を相手にしてくれないので所要時間が短いのと、体力ならびに走力のおかげであって、専務にはそのとき四十五社ぐらいが適切じゃないかと進言した」

 「四十五社! というか、六十五社のほうが信じられませんけど。だって私が入ったときは三十六社で、へとへとでしたから」

 「はは、そうだろ。畑中が入る直前に新営業システムのほとんどすべてが出来上がり、専務が、龍、おまえを支店長にしてやる、どこがいいかと聞かれた」

 「それで麹町と答えたんですか?」

 「まぁ、そうだな。当時の東京は、丸の内支店、上野支店、池袋、新宿、渋谷、品川、新橋とあった。これって山手線に沿っているだろ? で、オレはその内側で勢力範囲を広げたいと答えた。たまたま赤坂支店が麹町の直前にできたけど、これは山手線の内側であると同時に外資系企業をねらったもので、英語のできるヤツとかをここに配属した。オレは、足の速いヤツを集めた支店を山手線のど真ん中に作り、東京の真ん中を走り回る支店にしたかった。麹町支店という名前は誰かがつけた」

 一息入れて、龍司は続けた。

 「新営業システムが本当に有効であることを証明するのが麹町支店の役目でもあった。だからオレは走ったし、おまえらにも全力疾走を要求した。その後のことはオレがここで説明するまでもないよな、おまえらもよく知っていることだ」

 美和子は頷いた。龍司は続ける。

 「麹町支店が、というか、新営業システムが成功して、麹町から日比谷と青山という二つの支店を分離独立させたとき、ごほうびってカンジで会長とメシを食うことがあった。そのときオレは会長に、バブル崩壊以前、業界全体が順調に伸びていてブリッジが新営業システムなんかを考える前、ブリッジってどういう会社だったのかを聞いてみた。そしたら会長は笑って、そうだな、チャールトンみたいな会社かもなって答えたんだ」

 「チャールトン・・・」

 「そうだ。会長は、チャールトン・スタッフはいざしらず、チャールトンのことはよく知っていたと思う。創業者の江戸さんがゼロから立ち上げた企業であるチャールトンは、起業家であった会長から見て一つのお手本であったはずだ」

 「なるほど、それは想像できますね」

神崎がつぶやき、続けた。

 「すみません、それで本部長、デューデリはもう始まっているんですよね、というか、インタビューのことですが」

 「あぁ、始まった。三社が順番に我々にインタビューをし、彼らなりにブリッジを値踏みしようということだろう。インタビューは、営業、財務、コンプライアンスといったテーマごとにセッションを持つという方式で、営業セッションで吉田専務とオレが呼ばれて質問に答えた」

「司会は証券会社ですか?」

「あぁ、ペラクレス証券の仲介なので、場所も彼らの会議室だし、部長サンが一人座っている。ただし、当社代表ってカンジで根津取締役が実質的な司会だな」

「あ、根津取締役」

黙って聞いていた美和子だったが、この名を聞いて嘆息がもれてしまった。ネガティヴな意味での「やっぱり」という印象だ。高橋会長の長男が吉田専務なら、次男は龍司、そして根津取締役は「腹違い」と陰で言われている。吉田専務とほぼ同年齢の古参幹部であり、専務がフロントすなわち営業の代表ならば、根津取締役はバックすなわち管理部門の代表格と言える。ただし、吉田専務がカラッと明るい怖さで組織を引っ張ってきたこととは対照的に、根津取締役には何となく陰湿な雰囲気があった。一年前までの長きに渡って業務部門統括も根津取締役の担当であったが、ある事情で突然、ケートリ、近藤圭一取締役に担当が替わっていた。

気がつくと、神埼が複雑な表情をしている。何かを言いたそうにも見えるが、その表情は神崎が話し出すときとは違うものだ。そして龍司は、神埼と美和子の反応を確認しているようにも見えた。龍司が根津取締役のことで何かを言うのかなと思った美和子だったが、龍司は本題であるデューデリの内容を話し出した。

「既に三社とも営業については最初のセッションとしてやった。みんなウチの営業の強さの秘訣を知りたいからだろう。営業組織、指標、評価制度、人事異動などについて専務がひととおり説明する、そうすると質問が出るのだが、ま、その細かいこと、細かいこと。たぶん、大枠ではウチのやり方をみんな知っているのだろうな、だから細かいことを知りたがる。で、質問への回答は大体、オレの出番となるわけだ」

 麹町支店に営業で入った美和子は、当社の営業の特長を熟知している。

 バカでも受注は取れる、と会長が机を叩きながら怒鳴り、専務が、本当にバカでも受注が取れる体制・方法を考え、そして龍司が他人の十倍もの受注を取り続けていた。

 事務職の人材派遣は、欠員や増員などの需要がない限り、どんなに高尚な営業トークを振りまいても、どんな高級店で顧客を接待しても受注は取れない。一方、ひとたび欠員や増員のタイミングに企業を訪問すれば、派遣会社は大手だろうが中小だろうが、受注は取れる。しかし受注とは名ばかりで、実態は単なる引き合いに過ぎず、実際に候補者を連れて行かない限り、勝負の土俵に上がってさえいない。

 他社の十倍の頻度で訪問すれば、受注獲得の可能性は十倍である。他社の十倍のスピードで候補者を連れて行けば、勝つ確率は十倍でなくとも五倍ぐらいにはなる。契約を頂戴できれば収入増につながるので、営業員を増やすことができ、他社の二十倍の頻度で訪問することができる。これが会長の理論であり、それをチームプレーで実現する方法を考えたのが吉田専務であり、その理論や方法から推定される以上の結果を出し続けたのが龍司であった。龍司は話を続けた。

 「受注や開始は他社とは定義が違っても、説明すれば即座に理解してもらえる。訪問数とかコール数もそうだよな。ところがウチって、企断数(きだんすう)やス断数(すだんすう)もカウントしているし、開待ち(かいまち)ス断数とかも取ってるだろ?あれ、説明するの、結構大変だったぜ」

 美和子が合いの手を入れた。

 「開待ちス断まで説明したんですか? なんか想像すると笑えますね」

 「な? 今でこそほとんどなくなったけど、昔は多かったよな、開待ちス断」

 「泣かされました」

 「特に最初のヤツだろ?」

 「あれは特別でした」

 

 美和子は新人のときに初めて経験した、開待ちス断を思い出していた。

 美和子が麹町支店に入社したばかりでまもなく一ヶ月が経とうとしていたとき、彼女にとっての初めての開始のチャンスが訪れた。受注はそれまでにも二本ほど取れていたのだが、いずれもピンキーやパープルなどの競合他社に負けており、契約締結すなわち開始に至っていなかった。三本目の受注が、当時のブリッジとしては未取(みとり)、すなわち未だお取引いただいていない顧客企業からのものであり、著名なラジオ局であるFM東都からのものだった。美和子が短大受験生だった高校三年のとき、東京都の西の端にある青梅市の自宅ならギリギリ電波が入ったのがFM東都であり、そのシャレたDJのトークと音楽が好きで、受験勉強をしながら毎晩聞いていたものだ。

 短大卒業後、神田の食品会社に新卒で入社し、そこを三年で辞めブリッジ・スタッフィングへ入社、麹町支店の営業職に配属された美和子は、半蔵門に本社のあるFM東都が未取と知ると、是非とも自分が初受注、初開始をものにして、未取を現取(げんとり)にしたいと考えた。現在お取引いただているという意味の現取企業は、当時のブリッジでは数は急拡大していたものの、聞いたことのない企業が大半を占めていて、東証一部上場企業や著名企業は数えるほどしかなかった。FM東都は美和子にとっても当時のブリッジにとっても、重点ターゲットの一社であった。美和子はここに週に三回顔を出し続け、ついに事務職の派遣1ポストの受注をもらったのだった。

 有頂天になった美和子は支店長だった龍司に電話した。

 「FM東都、初受注1ポスト、頂戴しました!」

 「よくやった、何時何分だ」

 「はい、三時ジャストです」

 「競合は?」

 「ありません、単独受注です!」

 「ホントか?」

 「はい。総務課長さんが、キミの熱意に負けたとおっしゃってくれました」

 「でかした!絶対に開始させるぞ!期間は?」

 「エンドレスと思われますが、まずはお試しで一ヶ月です」

 「開始時期は?」

 「即を希望されています。来週月曜日に開始できれば完璧だと思います」

 「今日は水曜日だ、楽勝だな」

 「はい!」

 「この電話、コーディに回すから、職種やその他条件を伝えて、目標四時間で人選させろ。いや、二時間に挑戦してみるか。午後五時までに人選し、総務課長さんを驚かしてやろう。条件面で特に何かあったか?」

 「いえ、ありません。パソコン初心者で大丈夫です」

 「よし、電話を回すぞ。オレからもコーディに伝えるから」

 「はい!」

 こうして水曜日の三時から五時までの二時間で人選し、候補者の職歴書をもってその日のうちに再びFM東都を訪問した美和子は、総務課長を驚かすことができた。

 翌日の木曜日に業確(ぎょうかく)、すなわち業務確認を設定した。業確は実態としては企業による候補者の事前面接であり、当時も今も法律で禁止されている。しかし、制限速度四十キロの道路を誰もが五十キロで走るように、法律どおりに事前面接ナシで開始を決めてくれる企業など存在しない。もちろん業務確認は、スタッフの立場で事前に業務内容を確認し、スタッフが「受けるか受けないか」を決めるための位置づけというのが公式見解ではあるが、スタッフの方から断るス断よりも、企業の方から断る企断(きだん)の方が圧倒的に多い。

 弾丸支店長だった龍司の迫力で人選は当時記録的だった二時間で完了し、職歴書を見た総務課長さんからのOKをもらい、翌朝の業確アポイントまでもらった。

 木曜朝の業確も一発OKが出て、後は翌週月曜朝の初出勤、すなわち開始を待つばかりとなった。これが「開始待ち」である。

 翌日の金曜日、週明け早々には美和子にとって初めての開始が近づいていた午後三時、悪夢のような電話があった。開始待ちをしているスタッフからの入電であり、

 「あのー、やっぱりやめようかと思って」

 「えっ!」

 美和子は絶句した。

 「いま友達と話しているんですけど、なんか時給が安いんじゃありませんか? もう少しお給料のよい仕事をみつけてもらえませんか?」

 美和子は呆れてものが言えなかった。いや、怒りで震えていた。「合コンのドタキャンじゃないのよ!」と怒鳴りたかったが、震えて声にならなかった。

 企業からのOKと、スタッフからのOKの両方があってはじめて開待ち、すなわち開始待ちになったというのに、ここで突然ス断が入る。FM東都からの初受注であり、お試しということもあって時給が安いのはある意味でしょうがないし、そのことは十分スタッフ本人にも説明した。お試しで結果が良かったら、契約期間も延長してもらうし、時給も上げてもらう。それを納得したからこそ開待ちになったというのに、週明けを待つばかりの金曜日のこの時間に、友達とお茶して気が変わったというのだろうか。美和子は「ふざけるな!」と叫びたかった。

 美和子の異変を察知した龍司、支店長は大きな声で言った。

 「畑中、ス断なら電話を切れ!話しても意味がない!」

 我に返った美和子は電話に向かって「わかりました、よいお仕事がございましたらこちらからご連絡いたします」とマニュアルどおりのセリフを棒読みして、電話を切った。

 受話器を置いた瞬間、いや、寸前に龍司からの声がかかった。支店長は立っていた。

 「開待ちス断か? どこだ?」

 「はい、FM東都です」

 美和子には呆然としている時間も、悪態をつく時間も許されない。

 「FM東都か、初受注だったよな、開始は週明け月曜だな?」

 「はい、そうです」

 龍司が周りを見渡しながら話し出した。

 「みんな、聞いてくれ。いま、初受注FM東都、月曜開始待ちにス断が入った。これを今日中にフォローする。神崎!外を回っているヤツらに電話しろ。十五分以内に戻れるヤツだけ戻せ。戻れないヤツは、今日の訪問数をそれぞれプラス十だけ余分に回れと言え。万が一、受注が取れたら、月末金曜なので人選は今日の深夜零時までお待ちいただくか、あるいは来週月曜午前十時までですがと言わせて、時間を稼がせろ。神崎、すぐ始めてくれ」

 「はい!支店長」

 「畑中、おまえは携帯と充電器を持って、FM東都に貼り付け! アポを取らずに走れ。いいか、急げじゃない、走れ、だ。おまえの携帯からはオレだけに電話をしろ、オレ以外からの受電は出るな。おまえの初開始だ、絶対にやってみせろ」

 「はい、ありがとうございます」

 「ばか野郎、礼は開始してからだ。それから、ブンゴ!」

 「はい!」

 「ブンゴは、まず本部長のところにいって、麹町支店恒例のパーティが始まりましたので、お騒がせしますと一言入れて、それから受注票を十部コピーしろ。コピーしたら赤字でヤバヤバと大書し、そこにオレのハンコを押せ。三部をオレによこして、残りはコーディとおまえらで営業人選だ」

 「了解しました!」

 「畑中、おまえ何分でFM東都に到着できるか?」

 「は、はい、二五分ください」

 「よしわかった。おい、みんな。今から二五分で本人OK五名出すぞ。これができれば記録だ、間違いない。そしてそのうち二名、本日五時半に業確でFM東都に入ってもらう。これは調べなくても記録に決まっている。そして七時には開待ち状態に戻す。やるぞ!」

 周囲は固唾を呑んだ。緊張で空気が凍りついたようだ。それを察知した龍司が続けた。

 「いいか、みんな。今日は月末の金曜だ。FM東都の総務課長さんに、ブリッジ・スタッフィングの神のようなスピードを酒のサカナにして半蔵門で飲んでもらう。大いに話題にしてもらって、たまたま同じ場所で飲んでいる未取企業から来週、受注をもらいまくるんだ。これこそ会長の言う、神速(しんそく)、神のスピードだ!」

 みんなの顔が緊張しながらも輝きだした。龍司は美和子を見つけてこういった。

 「畑中、まだいたのか。走れ。いいか、雨降って地固まるとかいうけどな、そうじゃない。雨が降ったら地面を固めるんだ。固めることができるヤツだけが勝ち残る。おれたちはブリッジだ。今日、史上最低の雨が降った。今から史上最高の地固めを見せてやろうじゃないか。さぁ、走れ」

 美和子は本当に走った。男子社員はほとんど全員が体育会系だったが、美和子も高校まではバスケット・ボールに夢中になっていたし、足は決して遅くはない。夢中で走った。中学生のときに読んだ「走れメロス」が頭を一瞬だけよぎったが、美和子が向かう目的地には美和子を信じる友人ではなく、何も知らないFM東都の総務課長がいて、美和子からの報告を聞いて激怒するはずだった。しかし美和子は走らねばならなかった。

 FM東都の正面玄関の前で止まり、携帯から支店長へ電話をかけた。支店長は即座に出た。

 「おう、畑中、早いな、二十一分で着いたぞ。現時点で本人OKが五名出ている。記録だ。今から土佐を走らせる。あいつは陸上中距離だ、たぶん十五分はかからないだろう。五名の職歴書を持って走る。畑中おまえは、汗が乾かないうちに総務課長に電話せずに会いに行け。会議中とか不在だったら待たせてもらえ。土佐が到着するまで、とにかく謝りまくれ。しかし同時に、必ず今日中に別な候補者を見ていただきますと約束しろ。いいか、相手は激怒ってそんなことを信じるわけはないと思うが、言い続けろ。そうしている間に土佐が到着するはずだ。さぁ、行け」

 美和子はこれほど重たい気分で顧客を訪問したことがない。

 「大変申し訳ありません!」

と頭を下げた美和子の目は潤んでいたはずだ。FM東都の総務課長は、

 「なにそれ? どういうこと?」

と呆れてしまった。

 「信じられないなぁ、だって本人の目で確認したじゃない。仕事を何だと思ってるんだよ! おたくのスタッフってそういうのばっかりじゃないの、もしかして?」

 「いえ、そんなことはありません。ただ・・・」

 「ただ、何!」

 このとき、土佐が飛び込んできた。

 「本当に申し訳ございません。現時点でこの五名の候補者が出ており、そのうち二名がここに向かっております。お忙しい中、まことに申し訳ございませんが、是非、業務確認にお付き合いいただきたいのですが。よろしくお願いします」

 「なんだいあんた、何バカなこと言ってるの、茶番劇じゃあるまいし。その五人がやる気があるとは思えないし、二人が来るなんて信じられないね」

 「いや、来ます。本当です。もし来なかったら、私とこの畑中が月曜朝から派遣社員として雑務をやらせていただきます。このことは支店長から約束してこいと命令されました」

 「なんだって? ほう、面白い。わかった、じゃあ、五時半までは待つことにするよ。もし五時半になっても来なかったら、月曜から二人して働いてもらう。もちろん給料は一人分だ」

 「はい、もちろんです。それも支店長から命令されています」

 美和子は土佐の横で気絶しそうな気分だった。土佐に促されていったんその場を辞し、ビルの表へ出た。土佐は美和子が入社する一年前に入社した先輩だった。

 「畑中、とりあえず、自販機で何か買って飲もう」

 冷たいお茶を飲んで一息入れたところで支店長から電話が入った。

 「土佐は着いたな。どうだった?総務課長は激怒百%か?」

 「はい」

美和子は思い出すだけで涙が出そうだった。

 「でも、業確はやってくれるよな?」

 「はい。もし来なければ土佐さんと私が月曜から働く条件つきで」

 「はは、結構、結構。五時半に二人着く。間違いない。来なかったらオレは坊主頭だ。実はドタキャンや迷子があるといけないから、四人向かわせている。四人とも来ちまったときの心配をしたほうがよさそうだ。土佐は汗ビショだろうから戻す。畑中はそこに張り付いたままだ。後で何か指示を出すかもしれないからな。業確には神崎をそこに行かせる。神崎と畑中でやるんだ。そのときになって総務課長さんが拒否ったら困るが、神崎なら何とかしてくれるだろう。そしてOKが出たらオレが走る。土佐は何分で着いたかな、ちょっと土佐に聞いてみて」

 土佐は大きな声で「十三分です」と言った。支店長はそれを聞くと、

 「よし、それならオレは十三分を切る。陸上部とサッカー部の競争だ」

と笑って電話を切った。

 そのあと、本当に笑ってしまうような展開だった。スタッフは三名来た。かちあわないようにするのが大変で、神崎と美和子の二人はてんてこ舞いだった。そこにさらに遅れて四人目までが来た。総務課長はびっくりしながらも四人に会ってくれて、全員の業確が終わったときは、本当に笑っていた。

 「いやぁ、驚いた。おたくは信じられない会社だね。なんていう名前だっけ?」

 「はい、ブリッジ・スタッフィングです」

 神崎と美和子は合唱するように答えていた。

 「二人目のコ、あの人に働いてもらえたらいいな。このまえのコより、いいね」

 美和子は信じられなかった。しかし、反射的に立ち上がり「ありがとございます!」と頭を下げていた。

 そこを再び辞してすぐ、支店長に電話をした。支店長は本当に走ってきた。黒いスーツと黒く大きなカバン、靴もネクタイもみんな黒だ。

 「どうだ!」

と叫ぶように言うと、デジタル時計を見て、

 「十二分五十六秒!土佐のタイム、秒まで聞いておくべきだったな。畑中、さぁ、行こう」

といって、FM東都ビルの裏口から一緒に入っていった。七時になっていたので、正面はもう閉まっていたからだ。

 さきほど総務課長は、美和子が「支店長がお礼に来ますから」というと、時計を見て、「いや、もうこんな時間だから」と言ったが、美和子が「十三分以内に来ますから」と言うと、冗談を楽しむような顔をして「あんたらの支店長、ちょっと見てみるか」と言ってくれたのだ。

 龍司と美和子が入っていく。

 「お邪魔します!ブリッジ・スタッフィングです!」

という龍司の声は、挨拶というレベルの音量をはるかに超えていた。総務課長は、

 「あんたが支店長?」

と驚いた顔をした。

 「失礼だけど、いくつかな?」

 「はい、二十六です。もうすぐ七ですが」

 「はぁー、驚いた。おたくの会社には本当に驚かされる。てっきり鬼のような顔したオッサンが来るかと思ったら、スーツ着てスポーツやっているような若者が来たね」

 「はい、ウチはユニフォームがスーツなだけで、中身はスポーツ・チームですから」

 「はっはは、そりゃいいや!」

 金曜の午後三時に突然、開待ちス断になった著名企業からの初受注が、午後七時に再び開始待ちに戻った。二人が帰社したオフィスはまさにパーティ会場のような明るさだった。

 美和子は、支店長ほかみんなを前にして深々と頭を下げた。

 「本当にありがとうございました!」

 頭を上げると、龍司や神崎、土佐、ブンゴたち仲間が笑って拍手をしていた。美和子の目には涙がたまっていた。そして向こうの方に、吉田次長が会長と並んで立ち話をしている姿が見えた。二人とも笑っている。もしかすると麹町支店恒例のパーティの見物を楽しんでいるのかもしれなかった。

 

 あれからもう十三年になる。

 最年少支店長だった龍司は取締役首都圏営業本部長という要職につき、新人だった美和子はジェネラル・マネージャに出世した。龍司の片腕、神崎は首都圏営業本部の本部長補佐、土佐は九州営業副本部長、ブンゴは営業企画部の幹部となっている。

 あれから数え切れないぐらいのパーティを開き、多くの敗北も経験し、しかしそれ以上の勝利を味わいながら、龍司たちも、ブリッジもここまで来た。

 昔を懐かしんだ三人だったが、龍司がデューデリに話を戻した。

「外資のラトゥール社の質問だけどな、笑っちまったんだが、どうして全員が追われているかのごとく全力疾走をするのか、できるのか、って聞くんだよ」

「たしかにそうだわ」

「専務とオレ、ちょっと顔を見合したよ、どうしてなんだろうな、って」

「ふふ」

美和子から笑い声が漏れたが、神埼もちょっと表情を崩している。

「でも専務は論理的に説明した、契約本数とかの最終結果だけで評価するならば、人それぞれやり方を考えてやるだろう、結果さえ出せればいいわけだから。しかしウチの場合、訪問数、コール本数、情報獲得数、受注数、開始数、開始率、企断数、ス断数と何から何まで結果指標というか行動指標をとり、それがあらゆる営業員のあらゆる工程をチェックする。最終結果だけ出せても、途中のプロセスが悪ければダメなんだ。だって、たまたまいいお客さんと強いつながりができれば最終結果は良くなるからな。それは運と歴史によるものであって、誰をも平等に評価するためには全プロセスを細かくチェックし、全員が常に全力疾走し続けなければならないようにしている」

「それこそが新営業システムの本質ですから」

神崎が口を開いた。美和子がそれに続く。

「だから私たちは走り続けた。あれ、何年前でしたっけ、名古屋支店が最高成績にもかかわらず会長に怒鳴られたの。ロット受注に頼って、新規訪問数が全然足りないって」

「あれな、新島が怒鳴られたときのことだろ、あれはオレが福岡のときだから十年ぐらい前になるのかも」

「早いですね」

「あぁ、早いよ」

 ここからの夜景は大したことがない。左に伸びる道路はこのダイニングバーからは見えず、一方、正面はオフィスビルが大きく視野を遮ってしまっている。しかし夜景が見えればなんだか心が浮いてくるという年齢を美和子はとっくに過ぎてもいた。龍司は手に持ったグラスを回している。氷を回すのがクセなんだ、何十回もの達成会や反省会で同席したにもかかわらず、いまはじめて龍司のこのクセを知った。それとも、最近のクセなんだろうか。

 「お、うるさいのが来たぞ」

目を上げた龍司が笑顔で言った。神崎と美和子が視線を向けた。山田文吾、通称ブンゴがそれこそ走ってやってくる。

 「お疲れ様です、本部長、すみません、遅くなりました!」

 「おまえ、声がでかいよ、個室にした意味ねぇじゃん」

 「すみません、声がでかいのは生まれつきじゃなくて、支店長に無理矢理鍛えられたおかげです」

 龍司も神埼もブンゴも支店長経験者であり、「支店長」と呼ばれてきた過去を持つ。しかしこのメンバーが集まったときの「支店長」は龍司を指す。さすがに神崎は「本部長」としか呼ばないが、ブンゴは嬉しそうに昔の呼び名を使うのだ。

 「まぁ、まずは飲めや、駆けつけ何杯とかいうし」

 「ありがとうございます。すみません!おねぇさん、ビール、大ナマ!」

 ブンゴにビールが到着し、みなが少し落ち着いた。

 「ブンゴは営企だからもちろん知っているよな、デューデリの件」

 「はい、営業の説明資料は全部、営企のマネージャで作っていますから。吉田専務の指示で動いていますけど、根津取締役からも細かい指示が降りてきて、結構大変なんですよね。営企のマネージャって言っても、おいらと田崎、松健、宮下さんの四名で、もっと若い連中はまだ何も聞かされていませんから」

 「そうだろうな。でも、それにしては資料、なかなかよく出来ていると思ったよ。普段使っているものが中心ではあるけど、今回のために作ったものも結構あったよな。特にあれ、営業情報の流れだったっけ?人間系とコンピュータ系の両方が一つの図に入っているのがあったじゃないか、あれはなかなか面白い図だった」

 「ありがとうございます。あの図なんですけど、根津取締役からそういう図を作れと指示があって困っていたところ、ケートリにだいぶ助けてもらっちゃって」

 「へぇ、そうだったのか」

 「おいら今回初めてイロイロ話しましたけど、もっと学者みたいな人かと思っていました」

 「そうか。実はオレもあんまり直接話したことはなかったけど、専務から何回か話は聞いたことがある。最初が人選システムで、そのとき北見総研にいたケートリに依頼した話。あの頃はオレは京都だったかな、その後も二年前まで九州、関西だったから東京の話はたまに会長や専務から聞くだけだった。畑中はずっと東京だから、その頃の話も知っているんじゃないか?」

 「はい。人選システムを作るときに最初に打ち合わせに出ていた吉田絵美から聞きました。なんだか打ち合わせが面白いということを聞きました。二時間人選の打ち合わせだから、毎回二時間以内に必ず終える、延長はナシだ、とか。あと、なぜだか打ち合わせのときにハリー・ポッターが出てきたり」

 ブンゴが続いた。

 「いや、今回なんですけどね,NSP営業端末のことで、ケートリから面白い話を聞きました」

 「ほう、聞こう」

 「ケートリは、NSPはコンビニのPOSシステムだって言うんです。小売店は昔、何がどれだけ売れたかは、良くてその日の夕方、悪けりゃ週に一回か二回ぐらいしか把握していなかった。何がいつどれだけ売れたかを正確に知りたいと本気で思ったのはセブンが最初であり、さらに、そのデータを集計、分析して仮説を検証しているからこそ、セブンの利益は他を圧倒している、と。ブリッジから営業情報システムを作って欲しいと言われた当時北見総研のケートリは、コンビニのレジに相当するものは人材派遣ブリッジでは何だろうかと考えたそうなんです。小売店の販売に相当するのは、派遣なら開始なんですけど、それではトランザクションが少なすぎるって言っていました。要は件数が少ないってことですよね?受注でも少ない。そこで訪問一件をブリッジ版POSの素データにしようと決めた、っていうことです。人材派遣の営業訪問なんて、記録するような内容がある方が珍しいぐらいで、門前払いされたりつまみ出されたりするじゃないですか、それでもその事実を記録し、分析対象にし、行動管理だけでなく、訪問密度の見直しや面談効果の分析に使っているっていうからスゴイですよね。スゴイって、おいらたちブリッジがスゴイってわけだから、本当にスゴイです」

 暫く黙って聞いていた神埼が口を開いた。

 「私も岡山や新潟、仙台を回っていましたから東京の動きはしばらくつかんでいなかったし、ケートリと話したこともほとんどありません。ただ、二時間人選システムを最初に見たとき、これはスゴイなと感じたことを覚えています。マッチングって言いますけど、求人と求職者が厳密にマッチングすることなんて皆無なわけで、しかし同時に、双方が我慢すればほとんどのケースはある意味でマッチする。スタッフに次々に仕事を紹介していって、それに対するスタッフのリアクションを記録していくと、スタッフの意欲の変化や、条件面でどうしても譲れない点などが見えてくる。コーディネータはそれを読みながら次の仕事を紹介するという思想でシステムが作られている」

 「オレはこう思うんだ」

 龍司が話し出した。

 「ブリッジが新営業システムを始めて一千億円に至るまでは、とにかく無我夢中で走り続けた。ところがそこでもし何も手を打たずに、それまでの延長線上でやっていたら、あんなに早く三千億円には届かなかった。二千億円なんて通過しただけで、全く記憶に残っていないもんな。首都圏の人選に限界が来ることを見込んだ専務が、コンピュータを使わねば勢いが止まると考え、そこで北見総研の近藤圭一という人に出会った。何かの必然じゃないかとも思えるだろ。そして近藤さんに惚れ込んだ専務が、会長に報告すると、会長が「会う」と言って、社外の人でありながら異例の会長面接を実施した」

 「そうなんですか?」

 「あぁ。さすがに面接はマズイから、ニューオータニで昼食に招いたらしいけど。そしたらその後で会長から、情報システムはすべて北見の近藤さんにやってもらえという指示が降りたというわけだ。ところで畑中、最近のケートリはどうなんだ?おまえの直属の上司にもなったわけだよな」

 「はい、業務部門の直属の上司です。根津取締役から一年前に替わったら、真逆で、みんな最初は落ち着きませんでした。業務一部の杉岡GMなんて、オレは暫く様子を見るとか公言していましたし。ケートリは命令しない、飲みに行かない、タクシーに乗らない、そのうえサスペンダーして英語のビジネス雑誌とか読んでいるし、みんな最初は別世界の人間だとか言っていましたね。ちょっと笑えたのは、初めて福岡の事務センターに出張したとき、夕方の挨拶をみんなにしたと思ったら、五時半で即座にホテルに戻って仕事するって言ったので、みんな信じなくて、ケートリには福岡に女がいるんじゃないかっていう噂が出たことですね」

 「ホントか?」

 「まさか。福岡に出張に行って、ホテルの部屋にこもってパソコン打ってるエライさんって、業務の女の子たちには想像できなかったんじゃありませんか?」

 「そうだよな」

 「あと、根津取締役が始めた外部向けの新規事業を終了させたときの話は印象的でした。あれはもともと辞めた本庄さんが始めたもので、根津取締役も利益が出ないと見て、修正しようとしていたんですけど、やっぱり上手くいかなかった。外部の企業の給与計算を請け負うという事業でしたが、実態は、その企業に社員を派遣して、人海戦術で給与計算業務をしていたものでした。ケートリは、顧客企業が自分でやるよりもウチの方が安く上がる理由は何かとみんなに訊いたんですけど、誰も答えられなかった。給与計算業務は間違いさえなければ安い方がよいわけで、それを安く実現する方法論を持っていないならば、我々の人件費すなわち給与を下げるしか方法がないわけで、みんなが給与を下げたいなら事業を続けるが、そうでなければ辞めようとおっしゃいました」

 神埼が口を開いた。

 「つくづく思うんですが、会長には大きなツキがあると感じます。いや、それはツキではなく会長の実力であり、魅力なのだろうとも思うのですが、実に、ズバリのタイミングで人を得る」

 「ふむ、それは面白い見方かもしれない」

 「バブルまでは言わばどこの派遣会社でもそれなりに成長できたわけで、実はここまでは人材はそれほど必要ではなかった。ところがバブル崩壊で最初の大きな危機が来たとき、全国のあらゆる地銀を回って頭を下げてくれる鈴木専務のような人がいた。無我夢中で目をつぶって受注を取っていたころ、ヤクザみたいな企業にスタッフを派遣してしまって指でも詰めるかっていう事態に、ヤクザと話ができる渡辺専務みたいな人がいたし、渡辺専務がさらに警察OBの若林顧問を連れてきた。営業のやり方を変えねば生き残れないというとき、会長の発想を次々に実現していく吉田学という男がいた。そしてもし吉田専務ひとりであったなら、専務が自ら数字を作らねばならなかったから、最強軍団は小さくまとまった恐れがあったが、そこに尾崎龍司という男が現れる」

 「よせやい」

 「まぁ、最後まで聞いてください。吉田、尾崎が信じられないスピードで事業を拡大すると、人の採用で鶏内が、業務で根津が基盤を作る。それでも成長が止まらない、もはやコンピュータを駆使せねばというタイミングで近藤圭一が現れた」

 「なるほど」

 「そして、いま、会長が潮時だと感じ、会社を売ろうとしている。会長はチャールトンに売りたいと考えている。これは私の推測ですが。そうすると、実は、チャールトンもブリッジを買いたいと思っていて、デューデリにむしろ主人公として登場してきている」

 神崎の話は時折、聞き手を黙らせる。龍司はタバコに火をつけ、ブンゴは酒を胃に流し込み、美和子は見えない夜景を求めて窓を見た。

 「いや、失礼しました」

 「いいんだ。ま、神崎の言うことはかなりの確率で常に正しいからな」

 「おいらもそう思います」

 「ま、仕事の話はこのあたりでやめて、ブンゴ、何か面白い話、してくれ」

 「あ、いいっすか?」

 「あぁ、頼む」

 「おいら、何とか支店長の再婚を実現したいと常々思っているんですけど」

 「それかよ」

 「いや、ほんと。支店長、いまや重役で、その上、四十前で、さらに足が速いというか、スポーツマンと来ている。バツイチぐらいどうってことないわけですよ。もし、結婚相談所とかに登録したら、もう大変なことになりますよ、絶対」

 「やれやれ」

 「でね、支店長、好みのタイプとかないんですか?」

 「オレは基本的に女優は全員、好きだな」

 「これだ! こっちがやれやれですよ。じゃ、せめて嫌いなタイプとかないんですか?」

 「嫌いなタイプならあるぞ。例えばな、アタシは好き嫌いありませんとか言うくせに、レバーは駄目だし、ピーマンは避けたいし、シイタケはよけちゃうとかいるじゃんか、あれ、絶対に許せないね。だったら、好き嫌いありますって言え、ってことだ」

 「支店長、あんた本当に恋愛の方角に話が行きませんね。じゃ、美和ちゃん!」

 「え!」

 美和子とブンゴは一週間違いの入社であり、言わば同期入社のような関係だ。公式には畑中GMと呼ぶブンゴだが、非公式ならこのような呼び方をする。

 「美和ちゃんの初婚のお手伝いを是非、させて欲しいと思っているんだけど、美和ちゃんはたぶん理想が高すぎるか、あるいは、相手から来るのを待ちすぎているんじゃないかとおいらは思います」

 「ブンゴちゃん、私のことはやめない?」

 「えーっ、だって神崎の旦那をダシにしても面白い展開が望めないし、美和ちゃんにダシになってもらうしか、ないんだよね」

 「そうだ、畑中、どんなヤツがいいんだ、おまえ?」

 龍司が口をはさんだ。

 「本部長まで、やめてください。しいて言えば、鈍感じゃない人ですけど」

 「あは、美和ちゃん、いい切り返しだね!鈍感男とかってサイテーでしょ? この件について、支店長に是非、コメントをお願いしたいんですが、支店長、鈍感男って意味わかりますか?」

 「ばか野郎、わかるよ。今だったら、女性の飲み物が空になっていたり、食べるものがなくなっていても気づかない男のことだろ」

 「支店長・・・何か違うんですけど、ねー」

 「例えばの例だよ。なぁ、畑中。そうだ畑中、何か食うか?」

 「はい、じゃ、レバ刺し一つで」

 

 四人は大いに笑い、大いに飲み、食べた。

 帰り道、美和子はひとりつぶやいた、「チャールトンか」と。

 美和子は二十歳代後半、友人主催の「合コン」で知り合った男性と、一年少しつきあっていた。チャールトンに勤める三歳年上の男性だった。チャールトン・スタッフだったら同業の人材派遣だったので、つきあう前にブレーキがかかっただろうが、彼はチャールトンで学生向けの就職情報に関する事業を担当していた。背が高く、高学歴、ソツのないタイプで、合コンの翌日に連絡が来て、会って、つきあってくれと言われた。龍司が福岡支店長だったころ、今から七年前ぐらいのことだ。

 今から考えると、美和子は決して燃えたわけではなかったように思う。それでも、もしプロポーズされていたら、受諾していたかもしれない。しかし彼の提案は「同棲しないか」だった。美和子はその申し出を断った。京都支店長に異動した龍司の離婚が聞こえてきたころのことだ。

 その彼を、先日、偶然、ケートリと一緒にいた帝国ホテルのバーで見かけた。

 そして、その日のうちに電話がかかってきた。美和子は出なかったが。

 今日また、チャールトンという名前で、彼を思い出すことになった。こんなことがなくても驚くべき話だったが、美和子にとっての驚きは一層だった。「チャールトンには縁がない」と思っていた美和子だったが、資本の論理が不思議な縁をつないでいるかのようだった。